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少女はひょこひょこと決して早くは無いスピードで小道を進んでいた。 その腕に持った手綱は緑がかった黒い毛並みと蒼の眼をしたラバの轡へと繋がれている。背丈は大人の半分とも満たない少女がラバを引いている光景。それが月に一度の名物となったのはつい最近の事である。 その少女、年の頃は五歳ぐらいであろうか。顎の辺りで切りそろえられた髪は光を飲み込む闇色、そしてその瞳は子供らしからぬ知性で輝いていた。闇を纏ったような容姿はこの辺りでは見られない奇異なものであったが、村人は少女を厭うわけでもなく、それどころか対する振る舞いはいささか丁寧すぎるほどだ。 なぜなら少女の身を包むのはその髪と瞳と同じ色をしたローブ。それは風の噂で聞く黒魔術師の縁のものであることを証明していた。だから村人達はどこかおっかなびっくりで少女に接し、その去っていく背中を畏怖と共に見送るのである。 「リンちゃん、重うてたまらんわ。それになんや臭いし」 ラバは背中にのせた鶏の籠を揺すりながらぼやいた。それに反応してか鶏達もしっかりあるけ! と言いたげに挑発的な声で鳴く。 ったく喰ったろかい、とラバはぶつぶつとこぼした。それにリンは切りそろえた髪を揺らしながら口を開く。 「ラフィちゃん。しっかりがんばらないと。師匠に殺されちゃったら骨は拾ってあげるけど――あれ、悪魔って骨あった?」 妙に滑舌がいい口から出てくる言葉は物騒である。情操教育がなってないとラフィは大いに嘆いたが、あの根性悪の元でなら、よくこんなに素直に育ったものだと考える事もできる。ラフィは悪魔の癖に密かに神に感謝した。 まぁ、ドラゴンの臓物をおままごとに使ったり、呪術の紙にお絵かきしたりなんて、多少の事には目を瞑ることにするとしても。 滑らかな黒い毛並みに深海を凍らせて作ったような蒼い瞳。ラフィは喋るラバ、では無く悪魔であった。魔力はギリギリ、上級魔族に引っ掛かっているぐらいだったが、要領だけはよかったから、ゆくゆくはそこそこの地位になってお気楽に過ごそうというのがラフィの人生計画だったのだ。それが何を間違ってか現在は、いけ好かない男の使い魔(という名のつかいっぱしり)兼、リンのお目付け役である。それもこれもあの男――セルゲイの所為であった。セルゲイは自分が仲良くできる人物の対極に位置するような男だった。敵だと判断したものに容赦なく振舞うさまは、義理と情を大切にするラフィよりも随分と悪魔らしい。それは、逆に言えばラフィがあまり悪魔らしくないというのもあったが。 しかし、いくらセルゲイが嫌いだとしても、隣を歩く少女は別だ。思えば、自分がおしめを取り替えたりもしたのだ。もともと情が厚いラフィがめろめろになるのも時間の問題であった。 感慨深げに自分を見つめているラフィに気付いたリンは、少し気味悪そうな表情になった。 「ラフィちゃん。顔きもち悪いよ。大丈夫?」 くりっとした黒目でこちらを見上げるリンに「俺の心配してるでこの子……! うわ。たまらん可愛いわぁ!」とラフィの表情はその心を反映してだらしなく氷解した。”きもち悪い”という言葉は都合よくデリートされたようである。 ラフィは四本足という状態で器用に胸を張った。その拍子にバランスが崩れた背中の籠からギャーギャーと抗議の声が上がった。 「”ラフィちゃん”にまかしとき! こんなんで音ぇ上げる”ラフィちゃん”ちゃうで!」 「あ、うん」 ここにもしセルゲイがいたならばその秀麗な顔を歪めながら「自分を名前呼び、その上”ちゃん”付けか――気持ち悪い」と問答無用で呪文を唱えていた所だが、幸運な事にそれを聞いていたのはリンだけで、その反応もあっさり頷くという月並みなものだった。 ”らふぃちゃん”もとい悪魔・ラフィレアード。 いい感じに父性本能芽生えちゃってるご様子である。 ラフィをひきつれて歩いていたリンは、聞えてくる嬌声に顔を上げた。村の近くには野原が広がっており、そこは村の子供たちのいい遊び場であった。草花の上を元気よく駆け回る子供たちを見ながらリンはふと、首をかしげた。 「あの子たち、何やってるの?」 「ああ、鬼ごっこやな――ってリンちゃん、鬼ごっこも知らへんの?」 「師匠は、教えてくれてないけど」 隣に立つ少女がたわいの無い遊びさえも知らないのだと思うと、ラフィは不憫すぎてつい熱くなる目頭を押さえた。ふと、この子は同世代の子と話したことないのではないか、ということに思い当たると、ラフィは暫し愕然とし、そのショックが通り過ぎると、ある事を即断した。 リンがひとつ瞬きをする間に、ラフィは黒いラバから人間へとその身を変える。見上げるような長身と、長めでつるつるしている漆黒の髪は濃紺のリボンでまとめられていた。垂れ気味の目は、冷たい美貌をわずかに崩し、人懐っこいような印象を与えることに成功していた。そして小さいもみじのようなリンの手を取ると、ラフィはずんずんと長い足で子供たちに近づいていった。 「ラフィちゃん?」 「ええねん、ええねん。何も言わんと。仲間に入れてもらったるし」 不思議そうに名前を呼んだリンをラフィは自己完結で黙らせると、ずるずるとひきずっていった。段々と近づいていく二人組みに気付いた子供たちの表情は、見事なくらい恐怖でひきつった。――親に脅しをかけられていた黒魔術師の子供が近づいてくる! 子供たちは、少女を引き連れているラフィの鬼気迫った表情に逃げる事もできない。羊の群れのようにかたまった子供たちの前で立ち止まると、ラフィはひとつもったいぶったような咳払いをしてからにっこりと人当たりのいい笑みを浮かべた。そして目線を下げて、生意気そうな面をした男の子に話しかける。 「あんなぁ、この子も鬼ごっこいれてくれへん?」 手を握っていたリンをずずいと前に押し出す。リンはやっとラフィの意図が飲み込めたらしく、だるそうに息を吐いた。自分は何をやっているのか、と聞いただけなのに。めんどくさいなぁ。帰るのも遅くなりそうだし。 正直なところ、彼女の感想はそんなところである。 しかしラフィの突っ走りぶりは師匠の意地悪と共にもはや慣れつつもあったから、抵抗するのも無駄なことだと考えて、リンはラフィのしたいようにさせることにした。若干、五歳にして、素晴らしい開き直りっぷりである。 とりあえず喰われるわけじゃなさそうだと安心した子供たちは今度は好奇心を隠すことなくリンを品定めしはじめた。そしてラフィが話しかけた少年は少しためらいながらもしっかりと首を縦に振ったのであった。 「ほう。それで帰りが遅れたというのだな」 「……ひひょう、ほっぺが痛ひんですが、とっても」 相槌を打つセルゲイの声は無感動で寒々しい。 セルゲイはリンの頬をそのほっそりとした指で捻りあげていた。いつもならリンの不細工に伸びた顔が可愛らしすぎて、歪んだ笑みを浮かべているのが常なのに、セルゲイはまだまだ不機嫌そうに眉をひっそりとひそめている。寄り道して遅れたのがよほど気に食わなかったらしい。ラフィは己の身の危険を敏感に察知し気付かれないように、抜き足差し足で小屋を抜け出そうとした。そして大空に飛び――立つ前に緊縛呪文にとっつかまる。セルゲイが背を向けたままで手を軽く振るたびに、巻きついた茨の棘のようなものがぎりぎりと身体を締め上げていった。 「いだいっ! いだだだだ! こらこんのアホ! 痛いってゆうとるやんかっ!」 芋虫のように這い蹲りながらラフィは非難の声をあげた。くるりと振り向きこちらを見下したセルゲイの表情は冷たい怒りで縁取られている。かなりご機嫌斜めのようだ。リンはラフィが少し気の毒になったのか、頬をつねられたままセルゲイの黒いローブの裾を引っ張った。 「ひひょう。ラフィちゃん、とっても痛ほうでふけど」 「心配するな。こいつは痛いのが大好きで、泣いて喜ぶくらいだから問題ない。変態のマゾヒストだからな」 「”へんたいのまぞひすと”ってなんでふか?」 「コラァ!! お前、教育に悪い言葉教えんなや! 自分こそドサドの癖してえっらそうに!」 「――あえて否定しないが、覚悟は出来ているんだろう」 ひやりと浮かべた笑みは絶対零度である。ラフィの背筋はぞっと凍りついた。それでも空気を読まないリンはくぅと鳴り出したお腹を押さえながら、セルゲイに訴えた。 「ひひょ、おなかすきまひた」 「あぁ、待っていなさい。今、悪魔のひき肉ができる所だから」 「グロいこといいなやっ!」 「冗談だ。お前みたいなの煮ても焼いても食えないだろう。不味そうだからな。いくらリンでも腹を壊す」 セルゲイが面白くもなさそうに手を下ろすと、ラフィを縛っていた茨は掻き消える。ラフィは傷口にフーフー息をかけながらセルゲイを睨み付けたが、それは鼻で一笑される。飯にするぞ。というセルゲイの言葉にリンは嬉しそうに瞳を輝かせ、ぴょんと飛び跳ねた。頬には真っ赤な爪のあとが付いているというのに素晴らしく逞しい。……ラフィは少しだけリンを末恐ろしく思った。 悪魔であるラフィは食べる事を必要としないが、それでも人間界の食事は嗜好品として好きだったから、毎日の食事はラフィが作るのが普通だった――が、今日はセルゲイが自ら用意したものである。 こんもりと盛り付けられたのは聖なる月海草。深海で育つその草は満月の夜にだけしか取れない希少なものだ。しかし、それが食卓にのぼったからといって、喜ぶようなものでもない。泥がついている状態で皿に盛られたその様はサラダというのもおこがましいし、その草は悪魔であるラフィにはとうてい美味しく食べられるものではないのだ。食べたが最後、口の中を派手に火傷してしまうだろう。 ざっと青ざめながらラフィはセルゲイを見た。セルゲイの蒼色の双眸は綺麗に弧を描いていた。しかし微かにぎらついているそれは「食べないとどうなるか、わかっているだろう」と明らかにラフィを脅している。ラフィの横でもそもそと口を動かしていたリンは涙目でセルゲイを見上げた。 「……師匠、とってもとっても、まずいです」 「それは良かった。沢山、食べるといい」 その小さな唇から見えるのは黒焦げにされたヤモリの足であろうか。確かに魔法薬などにも使われているから栄養は無いとも言い切れないが、それでも美味しいものではない。あからさまな嫌がらせだ。ラフィが腹をくくって月海草に手をつけようとした所で、やっとのことでヤモリを飲み込んだリンが口を開いた。 「師匠」 「なんだ」 「師匠も鬼ごっこしたことありますか?」 「あると思うか?」 「わからないから聞いたんです」 子供って勇気あるんやな。とラフィは震え上がった。ラフィがそんな口を叩こうものなら、その口は三秒で縫いつけられているだろう。セルゲイは不機嫌な表情を隠そうともせず、リンをどう泣かせてやろうかと思案していたみたいだったが、その表情は唐突にふわりと綻んだ。セルゲイの顔は整っているぶんだけ、微笑んだ時の破壊力は大きい。傾国のと形容詞がついてしまうぐらいの美しさである。しかし、いつもセルゲイの被害をこうむっているラフィからしたら、それは死刑宣告と同じ意味を持つのだ。リンはそれを被害とまだ認識していないので「師匠、楽しいのです?」と素晴らしく呑気な事を言っていたが。 セルゲイはその薄い唇から歌うように上機嫌な声を出した。 「リン、外に出なさい――ついでにラフィレアード。お前もだ」 日の落ちきった森では闇が蠢き、きしきしと金属が擦れあったような人ならざるものの笑い声が聞えてくる。悪魔であるラフィには、その森が奏でる不吉なハーモニーも慣れきったものだが、人間ならば震え上がっている所だ。……この際、涼しげな様子のセルゲイと、まだ食べたりないと不満顔で口を尖らしているリンは除くにしても。 「リン、”鬼”とは何だ」 短く投げつけるような言葉で、セルゲイはリンに問いかけた。リンはくるりと目を一度回すと、淀みの無い口ぶりで語りだす。 「はい、師匠。”オニ”――とはここから遙か東に位置する島国の”ヨウカイ”で、頭には牛の角、口には鋭い牙をはやしており、巨大で力が強く、金属でできた武器を振り回し、性格は凶暴で、人を食べるとされる怪物です」 「宜しい」 セルゲイはさも当たり前だという顔をしていたが、心の中では弟子の答えに満足しているようだった。そして彼はどこから取り出したのか、きらきらと光を反射する白い砂をつかって、土の上に絵を描き始めた。 「”鬼ごっこ”の起源は脅迫観念から来る逃避に始まる」 すっかりと魔方陣が出来上がると、セルゲイはほっそりとした人差し指の先を噛み切り、出来上がった陣の上にかざした。そして紅い血が一滴、落ちた瞬間、それは目を刺す強烈な光を発し始める。セルゲイは涼しい顔をしながら、説明を続けた。 「その要素となり本質となっているものは追跡と逃避だな、要するに遊びに置き換えれば鬼と逃げる奴というわけだ」 ずるり、と光る魔方陣から生えたのは、毛の生えた逞しい腕である。毒々しいほどのオレンジ色の肌をしたそれは、だんだんとその姿を現し始める。ラフィはセルゲイが何を召還しているのかに思い当たり、からからに渇いた喉から言葉を漏らした。 「……まさか。冗談、やろ」 見えてきた頭にはにょっきりと人の命をも一突きで奪えるような立派な牛の角が生えている。そしてその金色の目は獰猛さを隠そうともせず、リンたちをぎょろりと捕らえた。ウォーウルフのような鋭い牙に、大人の胴体ほどあるかと思われる太い首。その巨体は天まで届くかと思われるほどだ。腰につけるのはなにかの毛皮である。足と指の爪は、鋭く尖り、その黒ずんだ様子から、獲物の肉を引き裂き、血を滴らせるには充分な殺傷能力を持っている事は知れる。堂々とした体躯を持つ怪物は、ついさっきリンが記述した”オニ”そのものであった。 しばしの間、辺りを見回していた鬼の目が怪しく光った。柔らかい肉――つまりリンに目をつけたのだ。「さぁ」 セルゲイはにっこりと、美しい笑顔を貼り付けた。至極満足そうである。 「本当の鬼との”鬼ごっこ”を楽しむがいい。逃げろ――死にたくなければな」 ラフィは「これも修行の一環だ」というセルゲイの言葉をついぞ聞く暇もなかった。初めて目にした鬼という怪物を好奇の目で見つめていたリンの腕を引っつかみ逃げ出す必要があったからである。 それから四時間後、危うく喰われかけた所で、鼻歌交じりのセルゲイに助けられることになるのだが。恐怖のあまり涙とか鼻水でぐしゃぐしゃになった泣き顔のリンと、抵抗したもののずたぼろの雑巾に成り果てたラフィ。 この二人のトラウマリストにはしっかりと「鬼ごっこ」の項目が追加されたのだった。