目が覚めたら人間ではなくなっていた。
 爪の先まで現実主義者であったはずの峰藤の爪は、鋭く尖った猫のものへと変化し、掌の上にはピンク色の物体が鎮座している。体中をふわふわとした黒い毛が覆っているというのは鏡を見なくても解った。
『……勘弁してください』
 そう声を出したのに、耳に聞こえたのはにゃーと情けない猫の鳴き声である。夢だと思いたかった。しかし、妙に冴えた頭の片隅ではこれは現実なのだと薄々感づき始めている。
 自分は一人暮らしであるから、この状態の自分の世話をし、助けてくれるような人物はいない。この身体では自力で冷蔵庫を開けることも叶わないし、それどころか水を飲むことさえままならないだろう。
 しばし逡巡した後、峰藤は結城に助けを求めることにした。人間の言葉は喋れないし、意思疎通ができるかどうかさえも怪しいが、紙に書いたりすることでなんとかなるだろう。ここで飢え死にするよりはいくらかましな選択肢である――大喜びで構い倒されるという心配はあったが。
 しなやかな身体で跳躍した”黒猫”は換気のためにあけていた窓からするりと外へと抜け出した。


 峰藤のマンションから結城の喫茶店までは歩いて二十分ほどの所にある。しかし、随分と短くなってしまった手足では、いつになったらたどり着けるのか見当もつかない。ただ単に視点が低くなっただけなのに、目に映るものすべてが新鮮に見えた。もっとも今の峰藤はそんな物を楽しむような気分ではなかったし、人よりも研ぎ澄まされた感覚になれず、峰藤の神経は張り詰めていたわけだが。
 今日は休日の朝ということで、散歩に来ていた犬にたびたび喧嘩を吹っかけられた。ちっちゃな小型犬などはひと睨みすればきゃんきゃんと喚いていた口をぴたりと噤み、きゅーんと尾っぽをたらしていたが、身体が大きめの犬はそれでも喧嘩を無謀にも挑んできた。そのたびに峰藤は牙をかわしながら柔らかい鼻面を二、三度引っ掻いてやる。そんな修羅場を潜り抜けた峰藤の毛はぴりぴりと逆立ち、尾っぽは威嚇するようにぴんと立てられていた。
 そうするうちに、やっと喫茶店が見えてくる。そして喫茶店のドアの前にかかっていた「臨時休業」のお知らせに峰藤は絶望した。運が無いにも程がある。
 ほかの事に気をとられていた所為だろうか、峰藤は自分の身体が持ち上げられるまで誰かが自分の傍に立っていた事に気付いていなかった。反射的に爪を出し、引っ掻いたならば、イタッという聞きなれた声が聞こえてくる。しかしその手は峰藤の身体をしっかりと抱き込んだままだ。

「うわ、驚かせちゃったか。ごめんね?」

 素直に謝った人物を認識して峰藤は凍った。彼女だ。
 目を上げてみれば、なるほど臨時休業の事を知らず結城の喫茶店に来たのだろう、小奇麗な格好をした彼女がこちらを見下ろしていた。自分が彼女に見下ろされているような状態なんて初めてであるし、こんなに近くで見詰め合う――というと聞こえが悪いが――のも初めてだ。そう思うと峰藤はなんともいえない居心地の悪さを感じた。
 そう。意識すれば自分は彼女に抱きこまれているのである。
 ……当たっている。”どこが”とは口にも出せないが。
 そう思った瞬間、峰藤は思いっきり爪を立てて彼女の腕から何が何でも逃れようとした。
「いたっ! 痛い! なんでそんなに暴れるの。酷いことなんてしないってば!」
 それでも離そうとしない彼女の手はあっというまに傷だらけになった。血まで滲んでいる彼女の手に峰藤ははっとして爪を引っ込める。ようやく大人しくなった峰藤を彼女は抱きなおした。そこが心穏やかでいられる場所だった事に峰藤は心底ほっとする。
 彼女は引っ掛かれた傷をふうふうと吹きながら、涙目で峰藤を睨んでいた。
「すっごい攻撃的だなぁ……毛並みは良いのに野良みたい」
「ニャー」
 貴方に言われなくないです。と言うつもりだったのに、台詞は猫の鳴き声に変換される。その表情と不満そうな鳴き声に峰藤の意図を読み取ったのか、彼女は少し吃驚したみたいだった。
「もしかして怒ってる? うわ、眉間に皺寄ってるのがまるで……」
 峰藤副会長だ、と彼女の唇が動いた。
 心臓がひとつ鳴った。まさかこの状態でこんな短時間に自分に繋がるとは思わなかったのだ。
 ああ、非常に癪だが彼女にこうなってしまった事情を説明して、一時的に保護してもらうのも仕方ないかもしれない。峰藤は不本意だったが、背に腹はかえられない。
 彼女はまじまじと峰藤を観察していたが、唐突にぶっと噴出した。
「やだ、その陰気臭そうな顔、そっくり! この子ってば峰藤の人面猫とか? やばい面白すぎる……! 紀子に報告したら嬉々として特集組みそうっ!」
 ――前言撤回。自分が猫になったことなど死んでも言ってたまるものか。
 彼女が文字通り笑い転げているのが目に浮かび、飛び出した爪で峰藤は彼女の手を荒々しく引っ掻いた。顔じゃなかったのは武士の情けだ。

「……ほんっとうに副会長みたい。この子」
 真っ赤になった手に視線を落としながら、相当痛かったらしく彼女は涙声で呟く。
「明日、また結城さんに聞くしかないっか。でも、性格が可愛くないと貰い手いないかなぁ」
『余計なお世話です』
「副会長に頼むのもなぁ、こんなに可愛くなかったら苛められちゃうかも」
『――私を一体なんだと思っているのですか?』
 別に可愛いなんていわれたくもなかったが、自分を貶す言葉を何回も聞くのは気分のよいものではない。むっとしていた峰藤の目を覗き込んで、彼女は言った。

「しょうがないから、しばらくうちの子になる?」

 まさか、あれだけ可愛くないと連発していた彼女がそんな事を言い出すとは思いも寄らなかった。意図を計りかねてじっと見ていれば、それが伝わったかのように彼女は少し照れくさそうに笑った。
「お母さんに、頼みまくってあげるから。ね?」
 峰藤はその笑顔に人間の言葉を忘れてしまったかのようにひとつ「ニャー」と鳴いた。そして我に返り、屈辱に顔をゆがめたのだった。

 初めて入った彼女の部屋は、思ったよりも片付いていた。
 彼女の母親はやはり峰藤を拾ってきた事にいい顔はしなかったが、もともと猫は嫌いでないから邪険にはできなかったらしい。貰い手が見つかるまでのしばらくの間、という彼女の必死の説得に渋々と承知した。食卓に焼き魚が出たのは幸運だった。キャットフードを口にするほど峰藤は開き直れてなかったから。
 彼女はベッドの上で転がりながら雑誌を読んでいる。一日中気を張っていた上に腹が満たされていたので、峰藤はフローリングの床に寝そべりまどろんでした。
 どれぐらいの時間がたったのであろう。はっと気付くと峰藤は彼女に持ち上げられていた。どこに連れて行くつもりだ、と驚き、問うつもりで鳴き声をあげると、彼女はあっさりこう言った。

「身体、汚れてるから、お風呂ね」
『……!?』
 死ぬ気で抵抗した。人間の尊厳の問題だった。いくら猫の身とはいえ洗われるのは嫌だし、まず彼女と一緒に入浴なんて問題外である。馬鹿ですか貴方は! シャーッと威嚇しながら、手を思いっきり引っ掻いた。
「イダッ!」
 彼女が叫び声を上げていたが、そんなもの気にしている暇は無い。
 逃げ出そうと走り出した瞬間、峰藤は首根っこをがっと音が出るほど強く捕まえられた。そしてぶらんとぶら下げられた峰藤の背後から、怒りを押し殺した低い声が聞こえてくる。

「さぁ、素直に言うことを聞きましょうね」

 峰藤、本日二度目の絶望。


 結果、峰藤は風呂に入れられた――それは湯を張ったたらいで、彼女は服を着たままだったが。変な邪推をした事を自覚し、峰藤は憤死しそうになった。死にたくなるほどの羞恥心とはまさにこのことだろう。
 フローリングに寝そべっていると、身体の火照りはいい具合に冷めていった。ベッドの上に寝ていた彼女が、あっと何かを思い出したかのように声を上げた。
「名前、つけるの忘れてた」
 なんとなく嫌な予感がして、峰藤は顔を歪める。彼女はそんな峰藤の顔を覗き込んでくすりとわらった。
「やっぱり似てるしミネフジとか? でもこれ以上、この子の性格悪くなったら嫌だなぁ」
『ブチノメス……』
 しゃきーんと爪が自動的に尖る。
「でも、捻りもないしなぁ。あれ、副会長の名前って何だったっけ? えっと、こ、こ……浩司?」
『……』
「違うな。こう……こういちじゃないし、こうざぶろうじゃないし」
 故意にやってるんじゃないかと、峰藤は勘ぐった。やっと彼女は思い出したように掌をぽんと叩く。
「こう……き。そうだ、浩輝だ!」
 そして固まっている峰藤を見つめてなにげなしに名前を呼んだ。

「浩輝」

 自分の名前なんて彼女に呼ばれる日が来るなんて思いもしなかったし、それは素晴らしいほどの破壊力を持って峰藤の心臓をならした。峰藤の動揺なんて知るはずも無い彼女は、首をひとつかしげてからあっさりと言い放つ。
「やっぱ、そんな名前付けたら化け猫になりそうだからやめとこっと」
『ブチノメス……』
 峰藤は力なく毒づいた。それは多分、煩いほどに騒ぐ心臓を誤魔化したかったのかもしれない。 


 夜に浮かび上がる月の優しげな光に峰藤は目を覚ました。立て掛けてあった姿見の鏡に写る峰藤の目は暗闇に浮き上がり爛々と光っている。峰藤はフローリングの上にしかれた毛布の上に身体を横たえていた。ふと彼女の手がベッドの上から垂れ下がっているのが目に入る。手の甲には痛々しいほどに無数の引っ掻き傷があり、それはピンク色の蚯蚓腫れになっていた。
 そっと身体を起こすと、峰藤は彼女の手に近づく。自分がやった事がはっきりしているだけに、かすかに罪悪感まで湧いてくる。
 峰藤は彼女が規則正しい寝息をたてていることを確認すると、そっとその傷跡を舐めた。ざらりとした舌で、ゆっくりと傷跡をなぞる。湿っていく傷跡に、唾液が染みたのか彼女が呻いた。はっと峰藤は顔を上げたが、彼女はむにゃむにゃと意味の無いくぐもった言葉を吐き出している。
 峰藤は少しだけ笑った。

「ごめんなさい」

 月の光に照らされたその手はどこか作り物めいていて、峰藤は本当に聞こえないかぐらいの声で言葉を紡ぐ。峰藤が与えた傷を自身で癒そうとする行為はどこか倒錯的だったが、
 峰藤の真意を知るものは、居ない。


猫になった男


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