その世界は峰藤で満ちていた。
 見渡す限りの峰藤浩輝、ほらあっちにも峰藤、こっちにも峰藤。
 爽やかなスポーツ少年風を気取ってかバットを持った峰藤に、紫色のぴっちりとしたスーツを着こなした伊達男峰藤(もちろん手にはマティーニのグラス装備)、果てにはアフロまで居る。
 これは何の呪いですか。
 私の存在に気付いた伊達男峰藤が、かつかつと白のエナメル(ヒィ!)の靴をならしながらモデルウォークで近づいてくる。逃げ腰だった私を腕の中に閉じ込めて、峰藤は耳に生暖かい息をふぅっと吹きかけた。そして全身に鳥肌がぞわぞわぞわっとたった私に低いテノールで囁く。

「子猫ちゃん、愛してる」

 いっそひと思いに殺せぇぇぇ! 
 私は本気だった。顎にコークスクリューをぶちかますと、命からがらその腕の中から逃げ出す。走っても走っても、どこまでも周りは峰藤ばかりだ。
 そのうち、必死で爆走する私のうしろからしゃきしゃきという不穏な音が聞こえてきた。いやぁな予感がして振り向いてみれば――。

「好きです! 愛してます! 絶対幸せにするから付き合ってください!」

 頭を地面に擦りつけ、一般には土下座と呼ばれる格好で腕と足を動かし峰藤が走っていた。
 て、て、テケテケーーっ!!


「おおお、おんぎゃー!」
 私はあまりの恐怖に生まれたばかりの赤子のような叫び声で飛び起きた。びっしょりとかいた汗でパジャマは身体に張り付き気持ちが悪い。ばくばくと嫌な感じに跳ねる心臓を押さえながら、私は額の汗を拭った。日曜にしては早い時間帯に起きてしまったが、二度寝なんてできやしない。寝たら最後、這いつくばったままの峰藤が地の果てまで私を追っかけてくるのだ。怖っ! 学校の怪談なんてめじゃないし!
 そうして私は惰眠を貪る代わりに可愛いブラウスを身につけ出かけることにした。癒しを求めて向かう先は某喫茶店である。


「夢は抑制された欲求、って言うよね」
 結城さんのとんでもない言葉にがしゃんとかき混ぜていたスプーンを落としてしまった。顔色はばっちりと青褪めているだろう。
 じゃあ何か。結城さんを信じるとすれば私は、峰藤に愛を囁かせて、その上に奇怪な格好で地の果てまで追いかけられたいと心の底では望んでいるってわけか――そんなバナナ。
 つい凍死ギャグを呟いてしまったのは、絶望に打ちひしがれていたからである。偏執的な欲望を持っていると、結城さんにそんなつもりは無くても言われてしまったようで余計に落ち込む。いやいや、ありえないから。
 からん。
 軽やかな音で扉の上の鐘が泣いた。嫌な予感がして振り返ってみれば妖怪――いや峰藤がいた。今朝の夢を思い出し、私が恐怖に表情をゆがめると、それに反応するように峰藤も不快そうな顔をする。うわぁ、以心伝心、相思相愛だねっ! ――なんて思ってたまるかこんちきしょう。
 ふふんという音が聞こえてきそうなくらい見事に峰藤は片頬を吊り上げた。
「酷い顔ですね」
「誰のせいだと……」
「あれ、峰藤君のせいだったの、君の寝不足」
 にこにこ笑いながら、結城さんが腑に落ちたといった様子で呟いた。
「結城さん! 人聞きの悪い事を言わないでください!」
「何の話ですか一体」
「いえ、別に」
 ぷいっとそっぽをむくと、峰藤の纏う空気が二、三度下がった気がした。うん、涼しくていいじゃないか。と、私も随分逞しくなったものである。
「彼女の夢の話をしていたんだよ」
「そうですか」
 峰藤は興味なさそうだったが、結城さんに失礼じゃないように相槌を打つ。そしてわざとらしくひとつ席を空けて座られるのには少し腹がたった。別に隣に座ってほしいわけではないけどなんとなくむかつくのである。
「浩輝君はグリーンティのアイス?」
「はい、頂きます」
 結城さんはしょうがないなぁと苦笑する。そして涼しげな冷たい緑茶のグラスを峰藤の目の前にどうぞとおいた。
「暑いねぇ。ほら、蝉もあんなに鳴いて」
「今日は午後から暑くなるとニュースで言っていました」
 穏やかに天気について歓談する二人を見つめながら、私はアイスティーをずずりと吸った。私が知っている限りで、峰藤が愛想をよくしているのは結城さんにのみである。まぁ、いまさら愛想をよくされても気持ち悪いだけだけれど。昨日のホスト峰藤がぼわんと浮かんできそうになり、私はぷるぷると頭を振った。アレは愛想がいいというレベルではない。粘着質だ!
「あ、そうだ。浩輝君は昨日、なんの夢見た?」
「夢、ですか」
「そう」
 唐突な結城さんの質問を峰藤はオウム返しに繰り返す。そして何かを思い出したのかすぐに不快そうに顔を歪めた。
「――猫、になる夢でした」
「猫っ!? み、峰藤副会長がっ!?」
 それにいち早く反応したのは、自称猫好きの私である。猫耳のついた峰藤を想像すると、お腹と頬の筋肉が危険な動きをみせる。……どうしよう、すっごく笑いたい。
「へぇ、それは可愛いだろうなぁ」
「がふっ!」
 結城さんがぽろりと漏らした言葉に、私の努力は無に帰した。じろりとこちらを睨む峰藤の視線を無視しながら、がぶがぶとアイスティーを流し込む。結城さんは本気で言ってるから、怖い人なのである。
「……冗談はやめて下さい」
「えぇ、冗談じゃないんだけどなぁ。もし浩輝君が猫になっちゃったら、僕が飼ってあげるから」
 にこにこと邪気のない表情の結城さんに峰藤は疲れたようにため息をついた。
「あぁ、ごめん。脱線しちゃったな。で、それはどんな夢だったの?」
「どう、というと」
「ほら、猫になって大冒険! とか、犬と対決! とかさ。すっごく楽しそうじゃない?」
「楽しいとは無縁の夢でしたが。猫になって――人に、拾われただけです」
 そう言いながらも峰藤は少し顔をそらした。
「へぇ、あ、その人がまさか浩輝君の好きな人だったとか」
「ごふっ!」
 私がアイスティーをのどに詰まらせている傍らで、峰藤まで結城さんの言葉に絶句している。峰藤に好きな人がいるとは初耳だった私はアイスティーまみれになった口元を拭いながらも耳ダンボ。もしかしたら新たな弱点発見の予感に胸を躍らせた。正気に戻った峰藤は地を這うような声を出す。
「……なぜそんな話になるのですか」
「だって、夢にでてくるような人なんだから、無関心ではないだろうし。なんらかの感情は持っているはずだと思うけどなぁ。だってさっきも……」
 私の方を向き直って結城さんはにこりと笑った。
「彼女の夢に浩輝君が……」
「ぎゃーーーー! 結城さんっっ! なに言うつもりですかー!」
「突然、奇行にはしったり、奇声を発するのはみっともないのでやめていただけますか」
 眉を潜めながら言った峰藤をじろりと私はねめつける。くそぅ! 私の夢の中でこれ以上ないってぐらいの奇行にはしっていたのはどこのどいつだ! と心の中で呟く。口に出しても一蹴されるであろうことは間違いない。結城さんはにこにこと私と峰藤のやりとりを見ている。どうせ彼のことだから、仲良くていいなぁとでも思っているのかもしれない。どこをどうみればそう勘違いする事ができるのかわからないが、もしかしたら、故意にやっているのかも、と最近、感づき始めてしまった所が悲しい。峰藤はため息を付いた。
「先ほど結城さんも仰ってましたが、何らかの感情、それが好意的なものであるとは限らないのではないですか」
「と、いいますと?」
「負の感情を持っている相手も、意識しているという事です」
「……な、なるほど!」
 そっかー、だから副会長が夢の中に出てきたんだー。あれはキョウハクカンネンってやつなんだー。
 ぽん、と手を叩き、目に見えてほっとした顔をしている私には、峰藤の苦々しげな顔は見えなかった。結城さんがあーあーと苦笑しているのも。


「だいぶ日も落ちてきたね」
「あー、そろそろお暇します」
「浩輝君、送ってあげたら?」
「ええええ、いいですよっ! これぐらい一人で帰れます」
「駄目だよ! 夜道を女の子一人で歩かせるなんて!」
 めっ! と人差し指を立てた結城さんに実は本気で遠慮していた私は腰砕け状態になった。峰藤といえば、当事者を無視して薦められた話に抗うことなく無表情で立ち上がる。
「――帰ります」
「ほら、浩輝君もこう言ってくれてることだし。僕も安心だから、ね?」
「は、はぁ」
 結局押し切られる形で、お会計を済ませると、私は扉を押し開けた。



「あ、浩輝君」
 結城に呼び止められ、浩輝は歩みを止める。なんとなく含みのある声に躊躇したが、結局は振り返ることにした。やはり、案の定、どこか面白そうな表情をした結城がカウンターにのせた肘に頬杖をつきながらこちらをにこにこと見つめている。
「あのさ、浩輝君は強い負の感情を持っている相手だって、夢に出てくるって言ってたけど……浩輝君の夢に出てきたのは嫌いな人だったの?」
 心の中を探るような目に、浩輝はそっと眉を顰める。昔から結城は浩輝の心の中を見透かしているような所があった。今回だって浩輝の夢を覗く事が出来るはずないのに、浩輝はなぜか嘘をつけないような気持ちになってしまうのだ。そういうところが苦手でもあり、同時に敬愛の念を抱いてしまうところでもあった。浩輝はため息と共に吐き出す。
「好きか嫌いかといったら――好きです」
「そう。それは、よかった」
 曖昧な言葉で濁した浩輝に、結城はにっこりと頷いた。頭を下げながら出て行く浩輝を見送りながらも結城は笑う。
 ――浩輝君もまだまだだなぁ。

 扉を開けた向こうの世界では、空が茜色の美しいグラデーションを描いていた。そんな空を仰ぎ見ていた彼女は扉が開く音にこちらを振り向く。
「あ、副会長。遅かったですね」
 それを一瞥すると、浩輝は彼女を追い越して歩き始めた。それに慌てるような足音がひっついてくる。大きなコンパスとそれよりはちっさめなコンパス。二人の距離は三歩の差をつけていっこうに縮まらない。
「あのー」
 大きなコンパスは無言で進む。
「あのー、副会長?」
「何ですか」
 浩輝はようやく言葉を返す。
「もしかして、副会長も昨日嫌な夢を見たんじゃないですか?」
「そうだとしたら、何か貴方に関係あるとでも言うのですか」
 冷たい言葉に、ぐっと彼女は言葉に詰まったようだ。彼女が怨めしそうな顔でこちらを見ていることは振り向かなくても目に浮かぶ。背中にチクチクした視線を感じながらも、浩輝はそれを無視することにした。
「……いい夢をみるおまじない。教えてあげようと思ったのに。ほんっとうに無愛想」
 暫しの沈黙の後に、ぶちぶちと文句を言う彼女の声はしっかりと浩輝の耳に届いていた。
「――貴方、今何歳です」
 振り返りながら、呆れてます、と意思表示をすれば、彼女は頬を小学生のように膨らませて抗議する。
「あー、馬鹿にしましたね! 鰯の頭も信心からって言葉知らないんですかっ! 昔の人の知恵を馬鹿にすると罰当たりますから!」
 それは迷信という気休めで古人の知恵でもなんでもないと思いますが。という言葉は飲み込んで(もっとぶすくれるのは目に見えていたから)浩輝は大人になることにして先を促した。
「それでは――どのようなものなのですか」
「ふんっ! 馬鹿にするような人には教えません!」
 その小生意気な態度に浩輝のこめかみが不吉な音を立て引き攣った。
「あっ! 嘘! 嘘ですってば! しょしょしょうがないなー! ここは特別に教えてあげましょう!」
 急に態度を豹変させると、彼女は浩輝の目の前に手を上げた。そして怪訝そうにする浩輝に言いにくそうに口篭る。
「あの、ちょっとだけ、しゃがんでくれませんか」
「何故ですか」
「副会長のおでこが必要なんです」
 浩輝はこれ以上ないほど嫌な顔をしながらも、少し膝を折った。彼女はびくつきながらも浩輝の額に触れる。指の感触がくるくるくるとみっつの丸を描き、その温かく柔らかい感触に浩輝はわからない程度に身じろいだ。
「いい夢、いい夢、いい夢――はい、いいですよ」
 彼女は頷くと、どうだと言わんばかりの満足そうな表情で浩輝を見返した。
「まさか」
「寝る前にこれだけです」
「……」
 ――はぁ。
 深い深いため息。
「なんですかその反応! 私はよかれと思って……」
「帰りますよ」
 また大きいコンパスは歩き出す。三歩離れた距離で小さいコンパスが後を追う。
「なにさ。副会長のばぁか……」
「何か」
「いえっ! なんでも!」
 背中のほうから聞こえてくる悪態に浩輝は故意に冷たい声を返す。それに飛び跳ねる彼女の姿に浩輝は少しだけ唇の端を吊り上げた。



「ここら辺で大丈夫ですから!」
 彼女が住んでいる住宅街へとさしかかるところで、彼女は立ち止まり怒気を滲ませた声で言う。まだまだご機嫌斜めのようである。
「それじゃ! ありがとうございましたっ!」
「はい、それでは――また後で」
 後で。
 自分で意識した時には遅かった。自然に口から零れてたその言葉に彼女は妙な顔をする。しかしそれ以上は尋ねる事もせずに彼女は茜色の世界へと消えていった。取り残された浩輝は、自分の失言に自嘲の笑みを漏らすが。彼女がその言葉を理解する事は一生、ないだろう。

「――いい加減に気づいたらどうですか?」

 茜色の空が翳りをおび、気の早い一番星が存在を主張する。――夜が、来るのだ。


それでは夢で会いましょう


ワタカレトップ / 企画トップ