「私はこんなにも君一途なのに! どうして信じてくれないんだっ!」

 後悔先に立たずとも言うように、いつもそれは遅れてやってくるものである。薔薇の花を握り締めて男は茜色の空に向かって叫んだ。それに答えるのは愛しの”君”ではなく、空を悠々と飛び回るカラスである。アホウ。





 悲しみと絶望の海に沈み切っているこの男、名前をルイ・ド・ボルマシェーという。ルイは上流貴族の中でも力を持つボルマシェー伯爵家の長男であった。彫りの深い顔立ちに、少しだけ垂れ下がった二重のまぶたの下からのぞく瞳は真夏の海を思わせる晴れやかなブルーで、薄い唇から零れだすのは世にもロマンティックな言葉の羅列だ。その砂糖をまぶしたような美辞麗句はすべて女性を口説くためだけに使われていた。
 大多数の貴族の若者と同じように、ルイは俗に言う”女たらし”である事を自覚していたし、浮気されたといって騒ぐような面倒臭い女とは付き合わないようにしていた――がしかし、今、ルイを後悔の大海原に引きずり込んだ原因、テレージア・ド・ティムバーレイクの場合はすこしだけ勝手が違う。

 出会いは――そう、国王主催の舞踏会だった。
 当時、ルイには色っぽい仲の恋人が何人もいた。しかし最近の彼は、それにもいささか食傷気味だった。
 煌びやかな衣装を身に着け、まるで蝶々のように華麗に舞う貴婦人達はいつもならばルイの目を大いに楽しませるものだったが、その時のルイは、媚びるようなくすくす笑いと熱っぽい視線にも少々、うんざりしていたのだ。
 女なんて結局は馬鹿で単純でつまらぬものさ、と一緒に来ていた悪友のフィルマンに囁くと、それは自分で思っていたよりも皮肉げに響いていたらしい。
「なんだよルイ。女性不信か? 明日は雨が降るな。やめてくれ」
 そう言ってフィルマンは嫌そうに顔を歪めた――友達甲斐が無いやつだ。
 もとより、たいしてなかった興がそがれ、帰ろうかと思い始めた頃、ある一人の若い貴婦人がルイの目に飛び込んできた。
 柔らかそうな亜麻色の髪は細かい細工を施された金のティアラで飾られ、目の覚めるような真紅のドレスは生地の艶やかさから一目で上等なものだとわかる。小作りで整った顔のパーツと今にも綻びそうな薔薇を思わせる赤く熟れた唇。そして、なによりもルイが惹きつけられたのは、一目で見る者を虜にする翡翠色の瞳だった。
 その娘は登場するやいなや周りの視線を一身に受け、客の間にはざわざわと興奮のさざめきが広がる。あれは誰だ? とルイが訊くまでもなく、彼女に食い入るように見入っていたフィルマンが興奮を押さえきれないように言った。
「あれが、ティムバーレイク卿の一人娘のテレージア嬢か。評判通り、いや、評判以上の美人だな。今日が社交界デビューらしいが、いやはや。恐れ入ったね。堂々としてるじゃないか。なぁルイ」
 ルイは返事らしい返事をすることができなかった。
 美しい女は腐るほど見てきたが、その時のテレーズは何故か格別に輝きを放っているようにも見えた。――最初はその類まれなる美貌に惹かれたのだろう。
 ティムバーレイク伯はまず、テレーズを国王に紹介した。国王がテレーズに話しかけ、一言二言、言葉を交わしていると、なんと国王は声を上げながら笑い出したではないか。ティムバーレイク伯はぎょっとした表情で娘を凝視し、額に浮き出る汗をしきりにハンカチで拭っている。しかし焦っている父親に反して、テレーズは落ち着き払い、見本そのままの、完璧で優雅なお辞儀をした。その様子を見ていたフィルマンがヒューっと下品に口笛を吹きテレーズを賞賛する。晩年で気難くなってきたと言われている国王が声を上げて笑った事に驚いたのだ。
「さて、俺達もお近づきになっておきますかね――って、おいルイ?」
 全く。相変わらず素早い奴だな。とフィルマンの呆れたような声が聞こえてきていたが、ルイの足は勝手にテレーズのもとへと進んでいた。国王への挨拶を終えたテレーズは早速、若い貴族達に囲まれ談笑しているようだ。
「失礼」
 自分の権力と魅力を過小評価していなかったルイは周りにいた男達を押しのけ、臆することなくテレーズに近づき自己紹介をした。そしてテレーズの手をとり口付けをしてから美貌を讃えると、テレーズは唐突な闖入者に少しも驚いた様子を見せず、にこりと美しい笑みを浮かべた。
「ボルマシェー卿、そのような勿体無い言葉を頂けるのは光栄ですけれど――わたくしよりもどこかの花かなにかに囁かれたほうがよっぽど有意義かと思われますわ」
 ぴしゃりと鼻っ面に一発やるような言葉がその唇から零れてきたことに驚きを隠しながらも、ルイはテレーズを見返した。
「ほう、何故かな? 花は確かに美しいが、それも君の前では翳ってしまう程度のものだ」
 ルイの甘い囁きにもテレーズは心を動かされたどころか、ますます挑発的に眉を吊り上げる。テレーズの瞳には炎が灯り、少し濃くなった翡翠は輝いた。
「あら、そうかしら。花はわたくしとは違って、貴方の薄っぺらい美辞麗句にこれほど生意気な口を叩くこともないのですよ?」


 女の癖に生意気なと征服欲が刺激されたのは隠しようもない。しかし、悔しい事に政治の話や遠国の文化などと、女でありながらテレーズは幅広い教養をもち、彼女と交わす会話はとても刺激的だった。それまでの彼にとっての”女”とは、毎日飽きずもせずに新作のドレスか宝石のことだけ繰り返すものを指していた。そしてテレーズは毎日親の金で遊び歩き、放蕩の限りを尽くしているルイを痛烈な皮肉とともに批判した。
「ボルマシェー卿(彼女はルイを馬鹿にしたい時、殊更に敬称を強調したものだ)ご自分が将来、伯爵に成られる事を誇りに思われているのは結構ですけれど、それは貴方の力で勝ち取ったものでなく与えられるものでしょう? 貰った物を自慢するくらいなら三歳の子供にもできることですわ。――爵位に見合う品位はお金では買えないことをご存知なのかしら」

 侮辱され烈火のごとく腹を立てたルイはあの鼻持ちならない女にどうやって復讐するかを考えた。
 惚れさせて、それからこっぴどく捨ててやろうか。そう思ったこともあった。
 そうした企みと共に送った大輪の花束も甘い言葉も、テレーズの心を動かす所かかすりもしなかった。彼女の蔑むような視線と言葉はルイのプライドをことごとく粉砕したのである。
 あんな女の言った事なんて忘れてしまえ、とも思った。
 しかしあの人を見下したような瞳が、言葉がルイの脳の裏側にこびり付いて、いらいらとルイを落ち着かない気分にさせる。それは怒りにも似た激しいものだ。
 そして、いつしかルイは人が変わったように領地を治めている父の仕事を手伝うようになった。もともと頭の回転も悪くなかったルイはめきめきとその頭角を現した。その変わりようを最初はいぶかしく思っていたボルマシェー伯爵も、ついにはルイに家令を任せるまでになっていた。ルイを突き動かしていたのはテレーズを見返してやるという執念だったのだ。
 ルイがテレーズに恋をしていると自覚するにはもうしばらく時間がかかる。なんとかして生意気な女にこちらを向かせて見せるとルイは半ば意地になっていたから、これが本当の恋なのだと、気づく事ができなかったのだ。


 季節は冬、ルイの自宅ではパーティが開かれていた。
 ルイがふと一息つきながら見たガラス越しの世界では初雪が気まぐれなワルツを踊っている。
 明日は冷えそうだと、頭の隅っこでそんな事を思ったとき、見覚えのあるドレスが窓の外を過ぎった気がした。窓に近づき暗闇に目を凝らしてみると、やはり見間違えでは無い。テレーズがひとり庭園へと消えていくではないか。肩が剥き出しになっているドレスでは防寒も何もあったものではないし、女一人で暗がりに行くなど正気の沙汰とは思えない。
 舌打ちをしながらルイはマントを引っつかむと、テレーズを追いかけた。
 ボルマシェー家の庭園は庭師が渾身の力で作り上げた芸術品だ。
 白雪の化粧を施された人口の迷路をルイは迷いのない足取りで進む。そして噴水があるひらけた場所で佇むテレーズを見つけた。彼女はじっと咲き誇った冬薔薇を見つめていた。
 その光景はまるで一枚の絵であるかのように完成され、この世のものとは思えない美しさにルイは息を呑む。テレーズがふと顔を上げ、ルイに目を留めると、その神々しいまでの美しさは消えてなくなった。それになぜか安堵と失望を抱きながら、ルイはゆっくりとした足取りでテレーズに近づいた。
「テレージア嬢、お一人での夜歩きは危険だと思うが? それにそんな恰好だと風邪を引いてしまう」
 テレーズはルイが差し出したマントを一瞥したが、すぐに視線を外すと、ルイがそこにいるのを忘れたかのように薔薇を見つめ続けた。ルイは手持ち無沙汰になったマントを引っ込めた。少し気分は害されたが、彼女を一人きりで置いて行ってしまうことはできなかった。
「その薔薇がお気に召されたのか?」
 二人の間に漂う沈黙を破り、ルイは白い息と共に言葉を吐き出す。テレーズは緩慢な動作で頷くと寒さで赤くなっている唇を開いた。
「ええ。凄く綺麗」
 薔薇に縫いとめられている視線をどうしてもこちらに向かせたくて、ルイはテレーズの手をとり、そしてテレーズが驚き身を引く前に手の甲に素早く唇を寄せた。唇に感じた氷のような冷たさに少しだけ眉を寄せると、冗談めかしてルイは言った。
「貴方の美しさに比べれば、この薔薇など取るに足りないつまらぬものだろう。先ほども薔薇の前で佇む貴方をアフロディーテかと見間違ったばかりだ」
「――貴方のその軽口が、寒さで凍りついてしまわないのが、本当に残念だわ」
 いつもの皮肉をはらんだ口調でテレーズはルイをはねつけた。
 そしてふいにくすりと思い出し笑いをこぼす。その柔らかさに違和感を感じながらもルイが首をかしげると、テレーズは首を振りながら言った。
「いえ、ただ、出会った時にも貴方が同じような事を仰ってたなって」
「覚えてくださっていたとは光栄だな。貴方のそのつれない態度も出会った時から変わらない」
 ニヤリとルイが笑えば、テレーズはそれに反応したように一瞬きゅっと眉を吊り上げた。
「貴方もその軽薄さはまったく変わりませんけど――いえ、あの頃からは変わられましたね。ほんの少しだけ」
「そうだろうか? あの頃とは違い、私にも爵位に見合う品位が身についていればよいのだが」
「それはっ!」
 彼女らしくないしおらしい態度を面白がって、ルイはわざと軽薄な動作で手を広げた。皮肉られた事にテレーズは今度ははっきりと怒りを覚えたようだった。白い透き通るような肌を上気させながら、苛烈な視線でこちらを射抜く。その視線を受け流して、ルイは喉の奥で笑った。その視線までもが心地よく感じられたのは、あの頃とは違った種類の自信が身についていたからだ。テレーズは悔しそうに唇を噛み、上目遣いでルイを睨んだ。噛み締められた唇の間から漏れる声は悔しさを押し殺しているようにもみえる。
「……します」
「失礼。今、なんと仰ったのかな?」
 本当に聞こえなかったのが半分と、テレーズをからかいたかったのが半分と。
 ルイは頭一つ分低い位置にあるテレーズの表情を覗き込んだ。
「あの時の言葉は撤回します、と申し上げました!」
 顔を上げ悔しそうにテレーズは叫んだ。ルイは驚いたような表情を作った。
「へぇ、なぜそのような事を? 貴方にとっての私は軽薄で自信過剰で鼻持ちならない道楽貴族だったと記憶してるのだが」
 これまでテレーズに婉曲に言われたことを羅列すると、彼女はバツが悪そうに言いよどんだが、ルイの目を見返しながらはっきりと言った。
「私は自分が言ったことを矜持ゆえに訂正できないほど愚かではありませんわ。軽薄で自信過剰で鼻持ちならないと言う部分は――それに皮肉屋だということも追加しておきます――変わりませんけれど、苦労なく与えられるものを自慢している三歳児だという部分は撤回しますわ、ボルマシェー卿」
 突っぱねたようにはかれた言葉だったが、卿という言葉には初めて皮肉な響きがなかった。
 たったそれだけの言葉だったのに、ルイは胸にこみ上げたきた感情に戸惑った。それは、強い歓喜だった。それとともに、テレーズに復讐をしようととぐろを巻いていた怒りは、なんの予兆もなしに消え去っていたのだ。
「お仕事のほう、熱心にやってらっしゃるみたいね。以前の貴方からでは想像できませんけど、すごく優秀だってお父様が――どんな心境の変化かしら?」
 照れからかそっけなさを装ってテレーズが言う。そんな仕草までがルイの胸を熱く焼いた。喉を競りあがってくる独白のような言葉を止める術は知らなかった。
「もしかしたら私は――」
 硬い声で遮ったルイにテレーズはこちらを向く。そしてルイの真剣な表情に、小さく息を呑んだ。
「貴方から蔑み以外の視線を向けて欲しかった。ただ、それだけだったのかもしれない」
「なにを仰っているのか、よく解らないわ」
 テレーズは困惑していた。そして、それを隠すように顔を俯かせる。
「解らなくてもいい。私が勝手に思っていただけだから」
 胸を満たす温かな感情に名はつけられなかった。ルイは目に留まった冬薔薇を手折って、テレーズへとささげる。それはまるで騎士が姫に忠誠を誓うかのようでいささか儀式じみていた。
「せめてもの感謝の代わりに、この薔薇を貴方に贈ることを許してくれるか?」
「……感謝されるような事をやったつもりはありませんけど」
「お願いだから受け取って欲しい。それに薔薇も私よりも美しい令嬢の手にされるほうが、有意義だと感じるだろう」
 出会った時に交わした言葉を思わせるように、ルイは片目をつぶった。
 テレーズは一瞬、驚いたような顔をする。しかし、すぐにすました表情で薔薇を受け取った。
「そうでしょうとも。いくら貴方からとはいえ綺麗な花には罪はございませんし? ――それに薔薇は大好きなの。残念な事に」


 それから、テレーズに毎日一本づつ薔薇を贈ることがルイの習慣となった。贈られてくる薔薇がテレーズの部屋の片隅に飾られるようになったのも、彼女の些細な心境の変化を表していたのかもしれない。段々と二人で過ごす時間が増えたが、皮肉の飛び交うそれは到底、穏やかとは言えなかった。しかし、その時間は刺激に富み、ルイの心を躍らせるには十分なものだ。


「最近、なにやら楽しそうじゃないか。女か?」
 久しぶりにフィルマンと飲む機会があり、彼は開口一番、探りを入れてきた。ルイは妙に鼻の聞く悪友を横目で見て、赤いワインをちびりと飲む。先ほどから消費したワインは一瓶にも満たない。以前から考えられないほど、ルイの酒の量は減っていた。酒に溺れている暇があったら、知識を仕入れ、それによってテレーズを感心させる事のほうが今のルイには優先事項だった。
「あまりにもお前さんがそっけないんでな、いい仲だった女達が泣いてるって話だ。」
「まったくもって余計なお世話だなフィルマン。それをいいことに、お前がたっぷり慰めてやってるのだろう。白々しい」
 ばれたか、と舌を出しながら、フィルマンは悪びれずに笑う。
「しっかしお前さんをそこまで更生させたのはどこの姫君だ? お前がそこまで色恋沙汰にのめりこむタイプだとは予想外だったよ」
 グラスを傾け、冷やかすフィルマンにルイは眉を跳ね上げた。
「色恋? 馬鹿なことを言うな。相手はあのテレージア嬢だぞ?」
 その名前を出したとたん、ルイはワインを噴出し目をぐるりと回した。
「なにっ!? テレージア嬢だって? お前、あの氷の薔薇姫を落としたってのかっ? そういや、前に復讐するとか言ってたな? ――流石はルイ・ド・ボルマシェー卿。今日という今日はこのフィルマン様も恐れ入ったね。さぁ、色男に乾杯だ。飲もうっ!」
「いや、待てフィルマン。お前は誤解をしている」
「誤解? 何が誤解なものか。男と女が頻繁に逢瀬してすることといったら一つだろう? まさか楽しくお喋りしているだけなんて、つまらない冗談は言うなよ」
 ぐっと言葉に詰まったルイに、今度こそフィルマンは目を丸くした。
「まさか……そうなのか?」
 沈黙を肯定ととったフィルマンは神妙な顔でまじまじとルイの顔を眺め回す。そしてはぁと深いため息を持っていたワイングラスの中に零した。
「――友よ。それは重症だな」
「なんのことだ」
 憮然として訊くルイに、グラスを手の中で弄びながらフィルマンは救いようがないなと首を振った。
「おまけに無自覚ときた」
「フィルマン、俺を馬鹿にする気なら……」
 ルイが低い声で脅しをかけると、フィルマンは芝居がかった仕草で肩を組み美声を披露しはじめた。
「”嗚呼、それは高潔にして高尚なるもの! 貴方の髪ひとすじでさえ、私にとっては両手いっぱいの宝石より価値がある! 貴方の視線に焼かれて死んでしまえるのならば、それはどんなに幸せだろう! 嗚呼、胸を焦がすこの気持ちになんと名前をつけたらよいのか!”」
 完全に悪乗りしている悪友にルイはうんざりした。すると、歌い終わったフィルマンが拍手喝采を受けながらワインで喉を湿らせた。
「――で、一体何がしたいんだ、フィルマン」
「おいおいルイ、そう不機嫌になるなよ。折角、俺が恋をした友に歌を贈ってやったっていうのに」
「何だと?」
 聞き捨てならない言葉にルイはフィルマンに聞き返す。フィルマンはその剣呑とした視線をものともせず、いまだに歌うような口調で言った。
「いい加減腹くくったらどうなんだ――ルイ、お前は恋をしているのさ」

 恋? 恋だと? 俺がテレージア嬢に?

「……馬鹿らしい」
「独り言は置物相手にでもやってくださいます? ボルマシェー卿」
 ひやりとするような声にルイは我に返る。目の前には声色と同じように冷えた表情で笑っているテレーズ。これ以上、ご機嫌を損ねては酷い目に遭いそうだと、ルイは自分の非を認めた。
「私が悪かった……続けてくれるか?」
 ルイとテレーズはティムバーレイク家の庭園にいた。その場所の美しさはボルマシェー家に引けをとらない。そして、いつも二人が語らう場所でもあった。
 やけに素直なルイを訝しげに思ったのか、テレーズは挑戦的な笑いを消す。
「お加減でも悪いとか? あまり顔色も優れないように見えますけど」
「おや、心配してくれるのか? それは光栄だな」
「……なんとかは風邪を引かないと申しますし、別に心配なんかしてませんわ」
 そっぽを向きながら、テレーズは素っ気無く言い放った。辛辣な物言いも慣れたもので、それはルイに心地よい笑いを運ぶだけだ。余裕の表情で喉を振るわせるルイに、テレーズは悔しそうな表情をしている。どうやってやり込めてやろうかと画策しているのだろう。
「……残念な事に、私はそのなんとかには当てはまらないみたいだよ。今日になって少し熱っぽくってね」
 それは本当だった。
 あの晩、浴びるように酒を飲んだのに、フィルマンの言葉とテレーズの顔がぐるぐると頭の中を駆け巡り、一睡も出来なかったのだ。翌日、ルイは酷い二日酔いに襲われたが、体に鞭をうって一週間、働き詰めだったから、たまりにたまっていたツケがきたのだろう。それでもテレーズとの逢瀬をやめなかったのは、フィルマンの言葉がひっかかっていたからだ。おそらく。
 今日もテレーズは美しかった。すっと筋の通った鼻梁。それがなだらかな線を描いて広い額につながる。ぬけるような白い肌はまぶしかったが、熟れた唇と頬だけが寒さのせいかほのかに赤くなっていた。
 彼女はルイの言葉に美しい眉をひそめる。
「――やはり貴方は馬鹿ですわ。それならベッドの中で安静にしているべきでしょう?」
 普通なら、大丈夫か? とでも優しい言葉をかけるものではないだろうか。これ以上もなく彼女らしい言葉に、ルイは思わず笑ってしまう。するとひやりとした冷たさを額に感じた。それが彼女の白い手だと気づくと、ルイは柄にもなく動揺した。それが伝わったのか、彼女はまるで熱すぎるものに触ったときのようにぱっと手を離す。
「やっぱり熱があるようですから帰られたら? 私もうつされたらたまりませんから」
 ルイのほうを見ないようにしながら、テレーズは言った。単調な声からは感情は読み取れない。しかし唯一、正直な耳が薔薇の花のように真っ赤になっていた。
 それを目にした瞬間、ルイの胸はあの時と同じ、不可解なものに満たされ温かくなる。彼女を抱きしめ、こちらを向かせたい。その憎まれ口を笑いながらこの唇でふさいでしまいたい。そんな欲求を自覚したとき、ルイはようやくフィルマンの言葉を認めざるをえなかった。
「私は貴方が言うとおりの馬鹿だったみたいだ。自覚はなかったが、私は貴方に逢いたかったからここに来たらしい」
 するすると口をついて出てきた告白に彼女は反射的に振り返った。
「――私は貴方に恋をしていたんだ」
 見つめて紡いだ言葉に、テレーズは目を見張った。
 絶句。そんな言葉がお似合いな表情だ。
 そして、固まっている彼女の唇をルイは掠めるように奪った。そして一つ付け加える。
「すまない――風邪をうつしてしまったかもしれない」
 沈黙していた彼女は、真っ赤になりながら震えている。一瞬、彼女が泣き出してしまうかと、予想外の反応にルイは慌てた。
 しかし、次の瞬間、ルイにお見舞いされたのは、見事な右ストレートで。仁王立ちになりながら彼女は叫んだ。

「謝るところがっ! 違うでしょうっ!?」

 まさか好きな女に殴り倒されるとは思ってなかったルイが、その言葉を聴くことは出来なかったのだが。

 少しづつ、そして執念深く距離を縮めていったルイは結果、テレーズの心を溶かすことができた。
 そして二人は蜜月のような(ルイの主観的なものだ)時間を過ごしたのだった。
 めでたし、めでたし。
 ――となっては、今現在、彼が嘆く理由がない。彼がテレーズの愛を失ってしまったのは端的に言えば、身から出た錆、自業自得ともいえるのだが。とりあえず。

 物語は、冒頭に戻る。


 ルイはティムバーレイク家の門の前に立ちすくんでいた。日はもう落ちかけていたし人通りは極端に少ないが、恥も外聞もあったものではない。しかし、今のルイにはそれがとりだてて重要なものとは思えなかった。
 彼の頭を占めるものは、愛。つまり吟遊詩人が擦り切れるまで歌い上げるものしかない。萎えそうな心を奮い立たせて、ルイは再び彼女の部屋の窓に向かって叫んだ。
「テレーズ! どうか私の話を聞いて欲しいんだ!」
 喉ががらがらに枯れている。しかし、カーテンのひかれた部屋から、彼女が姿を見せることはなかった。舌打ちをしながらも、ルイは実力行使に出ることにする。人の姿がないのを確認してから、塀を乗り越えようと腕をかけた。ぐっと力を入れた瞬間、抑揚のない声がルイにかけられた。
「私でしたら、それはやめておきますけど」
「誰だっ!」
 ぎくりとしながら、ルイは叫ぶ。
 声をかけた人物には二つの相反する表情が仮面のように張り付いていた。毒々しい赤色の唇がにゅっと笑みをかたどったものと。情けなくたれた目と頬には涙がペイントされているものと。植物のような形の帽子の先には鈴がついていて、ちりちりと軽やかな音を立てる。そして玉虫色の悪趣味な靴下。
 道化師。すぐにその狂った恰好から、そう判断した。
 ルイの鋭い目を受けて、道化師は右腕を胸の前に持ってくる。そして膝を軽く折り、お辞儀をした。その動作はいささか大げさすぎて芝居がかっていた。
「お初に目にかかります。ボルマシェー様。私はテレージア・ド・ティムバレーイク嬢付きの道化師にして下僕、ヴィクトール・ド・ジャッカスと申します。お見知りおきを」
「お前が……ヴィクターか」
 テレーズから何度もその名前は聞いたことがあった。役に立たない使用人がいるのだと言っていたが、その時の彼女の表情が言葉とは裏腹に柔らかだったのを覚えている。
「ヴィクター、今、テレーズはどうしている? 彼女に会いたいんだ! 私は彼女に会って誤解を解かなければならない! 頼む!」
 詰めよるルイにヴィクターは無感動な目を向ける。
「おや、なにを焦っておいででしょう? 貴方らしくもない。貴方にとって恋はいわば劇場なるもののはず。それは喜劇にも悲劇になりうるもの。そして幕が降りたら、役者は大人しく退場するものではないでしょうか。そんなこと道化師でなくても誰でも知ってますよ」
「何をわけの解らぬ事を言っている! 私は、ただ彼女を。テレーズを愛しているんだ!」
 それはルイの心からの叫びだった。
 浮気をしていたわけではない。それまでの複雑な女性関係を長い間、放ったままでしっかりと終わらせていなかったのが原因だった。悋気を起こした恋人が、皮肉交じりにそれをテレーズの耳に入れたことから訪れた突然の別れ。テレーズとの幸せな時間に浮かれて、意識が回っていなかったというのは言い訳になってしまうだろう。しかし、それでもあの時囁いた「唯一の女性」という言葉はまごうことなき真実だったのだ。
 しかしそんな言葉にも、ヴィクターは心を動かした様子もなかった。
「貴方にどんな理由があったのかは、私にとってはどうでもいいんですよ」
 うっすらと笑みをたたえながら、ヴィクターは言う。それは血の通わぬ人形のようだ。
「ただ私が言えるのは――貴方の出る幕はもうないという事ですかね。お帰りになられたらいかがでしょう。ボルマシェー様」
 一介の使用人にしては不遜な物言いだった。ルイは自分に対する悪意をはっきりと感じた。薄笑いをしているヴィクターをにらみつけながら、ルイは問うた。
「お前も、彼女を愛しているのか?」
 その台詞に仮面のようなヴィクターの表情に少しだけひびが入る。しかし、それは幻想のように消えうせ、変わらぬ滑稽な白い顔をヴィクターはルイに向けた。
「まさか! 私のような愚かな道化師をからかおうなんて、ボルマシェー様もお人が悪い! 私はテレーズお嬢様の道化師ですよ?」
 ヴィクターはおどけた動作で、わざとらしく驚いてみせた。しかし、ルイの追求するような視線から逃れる術がないと悟ると、小さいがはっきりと言葉を発する。

「道化師は、主人を笑わせることだけが仕事ですから」

 だから、悲しませるような人はご遠慮願いたいんですと、ヴィクターはそう続けた。
「彼女は――泣いたのか?」
 痛ましい思いにルイが表情を曇らせると、ヴィクターは鼻で笑い飛ばした。
「泣くとお思いに? ご自分を買いかぶるのもほどほどに。お嬢様はお強いですから。誰よりも」
 そういって窓を見上げる道化師の表情は、今まで見た中で一番、人間味を帯びていた。ルイはそんな道化師に握り締めていた薔薇を差し出した。
「――今日は帰ることにしよう。その代わり、これを彼女に渡してくれないか? テレーズが好きだといっていた薔薇だ。これが彼女の心を少しでも慰めるのことができればいいのだが」
「貴方から貰ったと知ったら、絶対に受け取りませんよ」
 そっけなく言ったヴィクターに、ルイはニヤリとした。
「彼女がそんな子供っぽい反応をするということは、どんな感情であれ彼女の心を動かすような影響力が私にもあるということだ。違うか?」
 初めてヴィクターが言葉に詰まる。図星をつかれたからだろう。それにルイの溜飲も下がった。
 自分はしつこいのだ。諦めて溜まるか。
 艶っぽい笑みを浮かべながら、ルイは慇懃無礼すぎるほどに丁寧な別れの挨拶をヴィクターに述べる。明日も来るよ、と捨て台詞を残してルイは背を向けた。その背中を見送りながら、ヴィクターは道化師らしくない言葉で毒づいた。そして苦々しくも思う。

 流石はテレーズお嬢様の恋人になるような男。
 一癖も二癖もある。

 奇しくも向こうがまったく同じ事を考えていたのを、ヴィクターは知らない。
 テレーズを挟んだこの二人の奇妙な関係も、実は結構長く続いてしまうのだが、それはお空のカラスもあずかり知らぬ事だろう。



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