「ま、負けた……」
 ぽとりとバラ色の唇から零れてしまったその言葉。大きい翠色の瞳が驚愕で見開かれている。
 金色の柔らかい巻き毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜながら、拓巳はたまらず立ち上がった。
 ヨナオシマンは一日一善を実行して世界に平和をもたらす、今、巷のちびっ子達憧れのヒーローである。拓巳も例には漏れず、金曜日の午後はテレビに噛り付いていた。そのヨナオシマンが蟹のような足を背中から生やした悪役に足蹴にされ、画面には「次週に続く!」との文字が躍っている。それは展開を盛り上げるためのお約束のピンチだったのだが、そんなものが拓巳にわかろうはずも無い。
 半ズボンから伸びた膝小僧の上でぎゅっと拳を握り締め、拓巳は唇を強く噛んだ。
 ヨナオシマンは負けてはならなかった! ヒーローたるもの一番強くなくてはいけないのだ! 弱いヒーローはもはやヒーローにあらず!
 子供独特の(そして拓巳独特の)思考回路はある一つの結論を導き出した。
 そうだ、自分がその最強のヒーローらしいヒーローになればよいのだと。


 ふははははは!
 神社の境内に、声変わりを終えていない少年の高笑いが響き渡る。腰に手を当てながら仁王立ちする拓巳の足元には、泣きべそをかいた少年二人が正座していた。
「がちゃがちゃを揺すって、自分の欲しいガシャポンを手に入れようなんて悪事を、この俺が見逃すとでも思ったのかっ!」
 びしりと指を突きつけられた少年は、たんこぶの出来た頭を撫でながら涙目で文句を言った。
「……やり方教えてくれたの拓巳君じゃん」
「しっ、馬鹿!」
 隣に正座していた少年が肘でつつくが、時、既に遅し。
 立っていた拓巳は手を大きく広げて、わきわきと不吉な動きをする指を少年の脇へと這わせた。そしてにっこりと老若男女を魅了する素敵な笑顔で微笑む。薔薇色の唇からは、歌うような無邪気な声が零れ落ちた――台詞はこの上なく不吉かつ物騒だったが。
「悶え死ね」
 少年達が「理不尽」という言葉を身をもって学ぶのはこのすぐ後。


 一方的にガキ大将だと恐れられていた拓巳がヒーローごっこ(本人はごっこのつもりはなかった)を始めたとの情報が広がると、周りの子供達は恐れおののいた。突然、背後から飛び蹴りされてはたまらない。そんな理不尽な事が起こりうると思われていたのだから末恐ろしい。
 流石にそこまで酷くはなかったが、まるで難癖をつける機会を狙っている姑のごとく、拓巳は悪を貪欲に探しまくった。
 苛められている子を助けたりするのは、ヒーローらしい行動にカウントされるだろうが、その後に苛めていた上級生に飴玉をもってこいと要求していては、それも台無しである。
 このように拓巳は、自分の価値観でヒーロー生活を大いに満喫していた。


 神社を飛び出した拓巳は腕を頭の後ろに組み、行くあてもなしにぶらぶらと歩いていた。拓巳曰く、正義のヒーロー巡察である。最近のヒーロー活動に拓巳はおおむね満足していたが、何かを忘れているような、物足りないような気もしていた。それがなんだか一向に解らなくてもやもやする。
 チュッパチャプスを口に放り込みながら、拓巳は流れ行く雲を見つめていた。飛行機雲が水色の空に白い線を描いていて、それがどこまで続いていくのか知りたくなり、拓巳は誘われるように追いかけた。それに熱中しすぎて、電信柱にぶつかりそうになったところで、ふと拓巳は誰かが喧嘩するような声を耳にする。
 悪の気配かっ!
 俄然、生き生きとしだした拓巳は、弾かれるように駆け出すと、声が聞こえたほうへと通りを曲がる。
 そこには中学生ぐらいの少年が拓巳より小さい少女の腕を捕まえていた。少女は少年から逃れようと必死だが、到底、中学生で男の力には敵わない。体を張って地面に張り付こうとしているが、ずるずると次第に引き摺られていた。
「イヤっ! 放してってば!」
「ったく諦めが悪いぞ。少しくらいは痛い思いするだろうけど我慢しろよ」
 すわ誘拐かといきりたった拓巳はふとヒーローである自分に足りなかった要素に思い当たった。そう、悪役にさらわれるヒロインの存在である。拓巳の目の前で、おあつらえむきに助けを求めている少女は、いささか凡庸すぎる容姿をしているが、拓巳には救うヒロインの美醜に対するこだわりは無かった。ヒロインを救ったという結果さえ得ることが出来ればいいのだ。
 拓巳は全速力で助走をつけると、背後から誘拐犯に見事なとび蹴りをかました。小学生にしては恵まれた体格をしている拓巳の蹴りを不意打ちで受けた少年は前のめりに吹っ飛ぶ。自分を拘束していた人物が吹っ飛ばされるのを少女は呆然として見ていた。拓巳は、腕は解放されているにも関わらず動こうともしない少女に向かって叫ぶ。
「何をしているっ! ここは俺に任せろっ! さっさと逃げるんだっ!」
 しかし、少女は目の前で何が起こったのか、まったく理解できていないらしい。拓巳と吹っ飛ばされた少年をおろおろと見比べている。
「痛ってぇ……何だ?」
 背中を押さえながら少年が立ち上がろうとした。小学校では昇天キックだと恐れられている拓巳の十八番も中学生相手だとイマイチ威力が足りなかったらしい。
 ヒーローの心得その一。ヒーローは即決即断。
 拓巳は混乱している少女の手をとると全速力で走り出した。敵前逃亡はヒーローの恥であるが、ヒロインの安全を優先するのもヒーローなのである。
「ええええ、ちょっとまってぇぇぇぇぇ!」
 少女は引き摺られながら叫び声をあげていたが、拓巳は足を休めることなく神社の階段を駆け上り境内に戻ってきた。そして後ろを確認し、安全だと判断すると、ぜいぜいと肩で息をしている少女に声を掛けた。
「もう大丈夫だ。誘拐犯はまいたからな!」
 少女は誘拐犯と言う言葉にぱっと顔を上げたが、そこでにこやかに立っている拓巳の容姿にも驚いたらしい。おずおずと、遠慮がちに口を開く。
「えと、なんだったっけ……ハ、ハロー?」
「お前は馬鹿かっ! さっきから俺はずっと日本語を喋ってるだろうっ!」
「わっ! ごめんなさい!」
 拓巳が耳元で大きな声を出すと、少女は飛び上がって謝る。どんぐりのような眼がきょろきょろと落ち着かない様子で拓巳の周りを彷徨い、きちんと肩の辺りで切りそろえられていただろう髪は走ったからかくしゃくしゃに乱れていた。小さな肩掛けポーチを弄りながら少女は勇気を振り絞ったように拓巳に話しかける。
「あのぉ、あなただれ?」
「名乗るほどの名前は無いっ! 通りすがりのヒーローだ!」
 ヒーローの心得、その二、ヒーローはむやみやたらに名前を教えたりはしない。
 少女は拓巳が期待したほどの感銘を受けた様子はなく、びくりと体を引くと、えぇっと、と言い難そうに言葉を濁す。
「あの、さっきのひとは誘拐犯なんかじゃなくってわたしのお兄……」
「なんだっ! やはり奴は人間の皮を被った怪人だったのかっ!? それならば話は別だ! 徹底的にやっつけてやるべきだったっ!」
 拳を固め、悔しそうに地団太を踏む拓巳に、少女はぴたりと口をつぐみ、じりじりと後退し始めた。本能的に関わりに会うべきでないタイプだと気づき始めたのだろう。それは、「反応が面白い」と周りから、なにかとからかいの対象にされやすい少女の悲しき処世術であったというのは余談である。
「おい」
「はいぃぃぃ!」
 拓巳が声を掛けると、少女はびしっと直立不動で返事をする。そんな少女の反応を面白がりながらも、拓巳は人懐っこい笑みを浮かべた。
「お前、怪我はしてないだろうな?」
 まさか自分を気遣うような台詞が飛び出すとは予想していなかったのか、少女は一瞬、バツの悪そうな表情をしてから拓巳へと近づいてきた。
「あの、きみ」
 どうやって呼べばいいのか逡巡しているのだろう。拓巳の表情を伺うような少女に拓巳は鷹揚に頷く。
「ヒーローと呼ぶがいい」
「ヒ、ヒーローのほうこそ。その、手」
 裏返った声と共に彼女が指差すまで気づかなかった。さっきとび蹴りをして着地をしたとき、擦りむいていたのだろう。掌には少しだけ血が滲んでいたが、毎日、生傷が絶えない拓巳にとってはこの程度、傷のうちにも入らない。
「この程度のもの、ヒーローの俺には無傷と同じだっ! それに俺はまだ怪人も倒してないからなっ! こんなのでいちいち泣き言を言ってられるかっ!」
 拓巳はそう言って胸を張ったが、少女はまるで自分が怪我を負ったかの様に顔を歪めた。しかし、次の瞬間には何かを思いついたのか、急いで自分が下げていたポーチをごそごそとあさり出す。そして少女は拓巳に向けてぐーにした手を突きだした。開かれた小さな紅葉の上に乗っかっていたのはキャラクター物の絆創膏である。首を傾げる拓巳を前に、少女はしどろもどろで言葉を紡いだ。
「あの、ヒーロー、これ、あげる。えっと、助けてくれてありがとう。でも、お兄ちゃ――怪人も、もう悪いことしないと思うからやっつけなくていいよ? ……歯医者さん嫌がった、わたしが悪かったんだし」
 ヒーローの心得、その三。罪を憎んで怪人を憎まず。
 拓巳は、お前がそういうのなら許してやろう、と寛大な心で怪人を見逃してやる事にした。ほっとした表情で、少女はようやく笑みを見せる。ふわふわと柔らかそうなりんごほっぺには子供らしいえくぼができて、唇からは八重歯がちらりと覘く。そうすると少しだけヒロインらしく見えなくも無いな、と拓巳はふとそう思った。
「ありがたく受け取る事にする。ヒーローだからな」
 拓巳は少女の手から絆創膏を受け取ると、にこりと綺麗な笑みを浮かべた。それは巷では天使の笑みと称される邪気の無い微笑み。そして、少女がそれに見とれている間に、拓巳は小学生とは思えぬスマートさで両頬を掠めるようにふたつ。感謝のキスを落とした。
 ヒーローの心得、その四。ヒロインから感謝はクールに受け取るべし。
 が、それ以上に、臨機応変さもヒーローには必要不可欠なのである。
 両頬を押さえ凍りついた少女を前に、その時、夕方五時を知らせる鐘が鳴り響いた。拓巳は片手を上げて駆け出したが、ちゃんと最後にかける言葉も忘れない。
「3分経ったので帰る! あの星に!!」
 ヒーローの心得、その五。ヒーローは謎めいたところがあった方が望ましい。
 ヒーローとして理想的な振る舞いをしたのだと満足した拓巳は軽い足取りで、神社の階段を駆け下りた。残された少女は呆然と「"うちゅうじん"?」と呟く。
 まさか未来にお互いの人生が再び交錯するだろう何てことは、お天道様でも思うまい。


 小高くなっている坂を上り家路を急ぐ。拓巳は自分の家が見えてきたところで、おや、と首をかしげた。門の前で仁王立ちしている人影を確認すると、拓巳はその人物に駆け寄る。
「ムッティ。今、帰ったぞ! 何をしているんだ。そんな所で」
 立っていたのは母親である。
 拓巳を産んだとは思えないほど、スマートで若々しい肢体をもつ彼女は腰に手を当てながら拓巳を見下ろした。その拓巳そっくりで(というか拓巳が母親に似ているのだが)端正な顔は、慈愛の笑みで彩られている。
「ヨハネス。随分と遅かった――なぁっ!」
 最後の言葉と共に、長くて締まった足が回し蹴りを繰り出した。しかし、拓巳はそれをしっかりと予測し後ろに飛びのく。不気味な様子の母親が怒っていることは一目瞭然だったからだ。
 ちっ、と下品な舌打ちをした母親は、流れるような動作でを掌底を繰り出したが、拓巳はそれさえも慣れたものと余裕でかわす。
「なぁ、ムッティ。何を怒ってるんだ?」
「喧しいわこのクソガキ! 私が怒ってるってわかるのなら、大人しく殴られろ!」
「ムッティのは痛いから、イヤだ」
 ひょいと屈んだ拓巳の頭の上を、凄いスピードで拳が空を切る。
「ヨハネス、貴っ様、学校でカツアゲしたらしいな! しかも上級生から!」
「待てムッティ。あれはヒーローの"戦利品"だぞ! 悪者から奪って何が悪い!」
「そのガキの親に『どんな躾をされてらっしゃるのかしらねぇ。外国では子供の育て方って違うのかもしれませんけど、ここは日本ですから。ねぇ?』ってあのババア、あの厚塗りの化粧、裏拳で叩き割られたいらしいな!」
「なんだ、ただの八つ当たりか。ムッティもまだまだミジュクモノだな。それで黙って帰ってきたのか?」
 ふん、と母親は鼻を鳴らしせせら笑った。折角の美人が台無しである。
「まさかだろ! 私に歯向かうようなバカには身の程を嫌ってくらい思い知らせといた。手は出さなかったから安心しろ。あのババアのせいで、転校なんて事になると面倒くさいからな!」
 母親が嫌な思いをしたのは自分が原因だったらしい。
 ヒーローらしい振る舞いをするのも大変だなやれやれ、と拓巳は少しだけずれたことを思う。
 ふうと息をつくと、拓巳は腹の虫が収まらないといった様子の母親のほうに向き直った。そして、ぺこりと頭を下げる。
「ムッティ、嫌な思いをさせてわるかった――ごめんなさい。許してください」
 ヒーローの心得、その六、潔さ。
 母親は拓巳の頭をぺちぺちと叩くと、容赦の無い言葉を浴びせかけた。
「そうだ。解ったか。お前が全部悪いんだ。バカバカこのバァカ。今度からはばれない様にやりやがれってんだ」
 それでもばっちりストレスを発散できたようで、母親は晴れやかな顔をしている。母親が怒っているときは、ひたすら言う事を聞いて暴れさせておけばいいと拓巳も扱いを心得たものである。彼女は、見慣れぬ絆創膏の張り付いた拓巳の掌に目をやり、唇の端ににやりと不敵な笑みを貼り付けた。
「さてと、今日はどんな活躍をしてきたんだ? ヒーロー?」
 母親に肩を抱かれながら、拓巳は二人で玄関のドアをくぐる。
「ああ、今日は怪人をやっつけ損ねたんだ」
「なにそれ。だっせぇな。そんな情けないこと言ってっとしばくよ」
「ヒロインを救うためだったからしょうがないんだ」
「ああ、それで絆創膏をヒロインから賜ったってわけか。可愛かったか?」
「ムッティほどじゃないけどな」
「ガキがナマ言ってんじゃないよ」
 母親は喉を鳴らしながら拓巳を小突いたが、拓巳の頬に口付けると、優しい眼差しを向ける。そして、その唇はいつも拓巳の大好きな異国の言葉を紡ぐのだ――おかえり私の愛しい息子、と。



愛しのマイリトルヒーロー


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