「君は私の唯一の女性だ、愛しているよテレーズ」
男は上品ながらも誘惑するような危険な煌きを瞳にたたえていた。
彼女は控えめながらも色気を感じさせる笑みを唇の端にのせる。
白く透き通るような肌をした腕は、肘の手前まである純白の長手袋に覆い隠されていた。
彼女は花が綻んだような艶やかな微笑を浮かべながら、ゆっくりと五本の指を握り締める。
「どの面下げて言うのかしら? この浮気男っ!」
そして、容赦なく紳士をぶん殴った。勿論、拳骨で。

「なにが『君は私の唯一の女性だ』よ! 厚顔無恥にも程があるわ!」
彼女は華美な装飾が施された部屋の中をまるで熊のようにうろうろと歩き回りながら、烈火のごとく怒りを吐き散らかしていた。
彼女の名前はテレージア・ド・ティムバーレイク。通称、テレーズお嬢様。
鼻も恥じらう……おっと失礼、花も恥じらう美貌に、社交場の殿方とも対等に語り合う知性を兼ね備え、そしてティムバーレイク家といえば、王家縁続きの由緒正しい伯爵の家系である。そんな恵まれたテレーズお嬢様は、ここだけの話、性格がキツ過ぎて、嫁の貰い手が――。
「なにか言った?」
いえいえ、なにも。ゴホン。
テレーズお嬢様は少ぉしだけ、激しい性格であそばしたので、先ほどの貴族然とした元恋人も浮気がばれて、拳で一発ガツンとやられ――。
「ヴィクター!」
はいはい、解りましたよ。お嬢様。
あ、申し遅れました。私、テレーズお嬢様のお付きの道化師、ヴィクトール・ド・ジャッカスと申します。どうか気軽にヴィクターと呼んでくださいませ。
え? 伯爵令嬢と道化師の組み合わせに驚いてらっしゃる?
まぁ、私とお嬢様の馴れ初めは聞くも涙、語るも涙の話でございますが――。
「ヴィクター! 何をぶつぶつ言ってるの? お父様に呼ばれているの。置いていくわよ!」
ああ、ハイ、ただ今。
赤くすべらかなシルクのドレスをひるがえし、テレーズは重厚な扉を押し開け、部屋を出て行く。いつもより僅かに優雅さを欠いた足音は、まだ彼女の腹の癇癪の虫が収まらないことを証明していた。
テレーズお嬢様のお腹の中に住めるような、根性のある虫も居るんですかね。
不遜なことを考えていたヴィクターは、空気を裂くような主人の声を聞いたような気がしたが、首を竦めてから見渡してみた部屋の中にはもちろんテレーズの姿は無い。主人は読心術を使えるかの如く、いつも鋭い声でタイミング良くヴィクターを呼ぶのだから、悲しきかなそれは体に染み付いた条件反射なのだ。
テレーズの化粧机上の鏡の世界から、もう一人のヴィクターがこちらを覗きこんでいる。白く塗られた道化の顔は、右半分は不誠実で軽薄な笑みを浮かべ、左半分は情けなく卑屈な泣き顔だ。
ヴィクターはそんな分身に少しだけ肩をすくめてから、長く先が尖がった玉虫色の靴下を引きずりながら、厚い絨毯が敷き詰められた廊下へと体を滑り込ませた。
「――テレーズ、言いたい事は解っているね」
「お父様。女から女の間を飛び回っていた浮気男に弄ばれていた傷心の一人娘を慰める前にお説教ですか?」
「傷心の娘は普通、その相手を握り拳で殴りはしないと思うのだが」
「あら。ピノッキオみたいに伸びきった鼻を治して差し上げたのよ」
それにしても力いっぱい治しすぎて、逆にへっこんでませんでした? お嬢様。
そう思った瞬間、道化師はぱちんと自分の手で自分の口を閉じた。
その仕草は非常にコミカルで、だれも笑わせられない役立たずの道化師として日頃テレーズにこき下ろされているヴィクターにしたら、図らずも役割を全うできた瞬間だったが、笑ってくれる観客なぞいなかったし、それどころかその翡翠色の瞳で刺し殺されそうになる始末だ。くわばらくわばら。
「テレーズ、頼むから、これ以上は人々の口さがない噂になるような真似は――」
眉間に深い皺を寄せたテレーズの父――ティムバーレイク伯爵は、懇願するような声で天を仰いだ。
見事な白髭を蓄えた伯爵は、威厳のある容姿と釣りあった素晴らしい徳をもつ領主である。そして晩年に願いが叶い、愛妻の命と引き換えに授かった一人娘のテレーズを目の中に入れても痛くないほど――いえいえ、実際は痛いんでしょうけど、それを我慢できてしまうほどに――溺愛していた。その愛に溺れあそばした、テレーズお嬢様はそこに「おしとやかさ、たおやかさ」などといったものをことごとく忘れてこられたのだろう。むしろ日頃の仕打ちに、ヴィクターがそう思いこんで自分を慰めたかっただけだが。
テレーズは父親の台詞に、形のいい柳眉をきゅっと吊り上げた。それはテレーズの心理状態を顕著に表している。テレーズがもっと幼かった頃ならば、桜色の唇を噛み締めながら、翡翠色の瞳から無色透明な宝石を零していただろうが、心身ともに誇り高く成長した一人娘は、くっと胸を張ると「家名を汚して申し訳ありませんでした。お父様」とつんけんした声色で吐き捨てると、部屋から出て行った。
残されたのは愛娘に冷たくされて沈み込んでいる伯爵と、何のためにここに呼ばれたのか、その存在も容姿も場違いで滑稽な道化師のみである。
伯爵は深いため息と共に、道化師に声をかけた。
「ヴィクトール。テレーズの傍にいてくれないか」
「――仰せのままに。お嬢様のご機嫌をとりますのは、私の役目にございますから」
ひょっこりと、おどけた仕草でヴィクターがお辞儀をすると、伯はようやく安堵の息を漏らした。
どこか酔っ払ったような足取りで、道化師は拗ねたお嬢様を追いかけた。
少しの理不尽さと、それを上回る諦念を抱きながら。
ティムバーレイク家の中庭は美しい花々に彩られ、まさに楽園と呼ぶに相応しい様相を見せていた。ここは生前のティムバーレイク伯爵夫人が好んですごした場所らしく、彼女の残した欠片を少しでも感じたいのだろうか、よくテレーズが訪れる場所でもあった。
テレーズは凝った細工で飾られた白い椅子に腰掛けて、ぼんやりと地面に視線を落っことしていたが、ヴィクターが近づくのに気付くと、はっと顔を上げ、表情を引き締めた。そして険のある視線と言葉でヴィクターを牽制する。
「――ヴィクター、何の用?」
「お嬢様のご機嫌取りに送りこまれました」
そう率直に言うと、テレーズは怒りを挫かれたようで、どこか決まり悪そうに視線を逸らす。ほつれた亜麻色の髪がふありと流れた。
「お父様、怒って――らっしゃるわけがないわね。悲しんでらした?」
ヴィクターは深々と頷くと、それはもう悲しみの海に沈んでらっしゃいましたと、付け加える。
「嫌味はやめて――解ってるわ。家名じゃなくてお父様が私のために言って下さってるなんてこと」
ちょっと拗ねて意地悪言ってみただけよ。とテレーズは言う。
いい大人をどん底に突き落とす事を知りながら口にしているところが残酷だと、ヴィクターは正直思ったが黙っていた。余計にご機嫌を損ねるのは解っていたし、それは自分の望む結果ではない。
道化師はおもむろに、ご機嫌斜めの姫君に自分の左手を差し出した。
やけに長い裾から現れたのは、ほっそりとした長い指だ。そして怪訝そうにこちらを見つめているテレーズの目の前で、道化師は一瞬で空中から花を取り出して見せた。
鮮やかな青色をしたそれは大輪に咲き誇る前の薔薇の蕾である。
ヴィクターは跪き恭しげに花を捧げてみたが、テレーズの感心を得ることには失敗したらしい。うんざりとした口調でそっぽを向かれた。
「ヴィクター、下らない奇術はやめて頂戴」
「――お嬢様、人が何故、花を贈るのか知っておられますか?」
ヴィクターは主人の言葉はあえて流し、軽い調子で、そう問いかけた。
テレーズは興味がなさそうに肩をすくめたが、そんな素っ気の無い態度にもヴィクターは調子を崩す事無く続ける。
「テレーズお嬢様、人が人に花を贈るのは、その人を喜ばせたいと思うのと同時に、贈った相手に自分の気持ちを理解して欲しいという秘めたる言葉が隠されてもいるのです――そうですねぇ、時にお嬢様、花言葉というものをご存知ですか? ああ、馬鹿にしているわけではありませんよ。お嬢様の聡明さは、このヴィクター、骨の髄まで理解しておりますので――」
「ヴィクター」
言葉を遮って自分の名前を呼んだ主人の翡翠色の瞳は傷ついていたが、道化師はあくまでも飄々としていた。
「愚か者は嫌いだけれど――聡い道化師も性質が悪くて嫌いよ」
それにもヴィクターは無言で頭を下げ、静かに口を開く。
いつものふざけた色を取っ払った声は、ヴィクターが存外に若いことをテレーズに思い出させる。
「恋は――花に似ています」
そしてヴィクターは、手にしていた薔薇の蕾に掌をかざした。撫ぜる様にゆっくりと触れれば、茎を切られ、命を止められたはずの花は、まるで息を吹き返したかのように蕾をほころばせはじめた。
「美しく咲き誇り――」
道化師の手の中で満開に咲いた青い薔薇は、限界まで生を謳歌すると、ひとひらふたひらと花弁を落とし始め、茎は徐々に萎れ、一心に太陽を見つめていた顔を落とす。
「――そして、いつしか枯れるものです」
テレーズはヴィクターが差し出したままの枯れた花を両手で受け取った。
微かに震えた唇からは声にならない音が漏れた。それは花を殺した道化師を詰る言葉だったのか、それとも恋が永遠でないと断言した道化師に反論したかったのか。
ヴィクターは、それでも、とおどけた口調で続けた。
「花が咲き、存在した事は真実ですし、それを無理に忘れようとすることは、ナンセンスでしょう? ――花は枯れた後でも、その種から芽吹き、育ち、再び花開くのですよ」
ヴィクターはテレーズの手から種を一粒 摘み上げると、柔らかな土にそっと落とし、上から優しく土を被せる。長い裾が土に汚れたが気にする事はない。
ヴィクターは顔を不器用に歪めて道化ではない笑みを作った。
「恋も――同じだと私は思うんですが。ねぇ、テレーズお嬢様?」
沈黙が二人を包み、そよぐ風の音がその間を二、三度通り過ぎていった。
ほのかに香る薔薇の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。甘くて苦い記憶を思い出させるそれにテレーズはそっと眉を顰めた。
「ヴィクター、――本当に、心の底から、そう思ってる?」
「道化師は冗談は言いますが、嘘は言いませんよ」
「貴方、冗談も言えないじゃない」
その台詞にヴィクターは初めて言葉に詰まる。自分が出来損ないの道化師だった事をようやく思い出したらしい。
やり込めたテレーズは、ひとしきり喉を震わせると、ぽつりと呟いた。
「――好きだった。本当は、とっても」
主語は抜けていたが、承知しておりますよと、ヴィクターは静かに相槌を打つ。
テレーズの瞳は涙に濡れはしないが、その代わりに熟れきった唇からは、ぽろぽろと心の破片が零れだす。それがヴィクターにはきらきらと光に反射しているように見えた。
「薔薇はよく彼がくれたの――ヴィクター、もしかして貴方、私が裏切られているって最初から知っていたの?」
ヴィクターは答えない。
しかし道化の化粧では隠せない青い瞳が、罪悪感で曇っているのをテレーズは確りと目にした。そんな情けない道化師を見た瞬間、テレーズは噴出しそうになる衝動に襲われる。
そして唐突に、テレーズは手にしていた薔薇の残骸を、土の上にぽいっと捨てる。
「もう彼から花を貰う事はないけれど、好きだったわ――」
テレーズはそこで一呼吸置き、ヴィクターを見つめると、したたかで妖艶な笑みを浮かべた。
「薔薇が、ね」
某令嬢も某道化師にしたら何にも代える事の出来ない美しい花だ。
――という事実は黙っておいたほうが賢明だろう。
それは喩えるならば血のように真っ赤な薔薇で、棘が付いている所もそっくり。
「ヴィクター!!」
ああ、解りましたよ。今、参ります!
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