それは、至高のアイテム




 放課後の校舎裏。呼び出しは靴箱の手紙。
 そんなお決まりのシチュエーションの中、これまたお決まりの台詞が発せられた。
「遠坂千尋さん、僕と付き合ってください!」
 真っ赤になった少年の前に立つのは、さらりと肩に流れ落ちる黒髪が印象的な少女。可愛いか可愛くないかで言えば、間違いなく可愛い。いわゆる美少女のたぐいだが、そのぱっちりとした二重の瞳は、今はどこか冷めたように目の前の少年に向けられていた。
「佐藤くんは、目はいいの?」
 突然の質問に佐藤と呼ばれた少年は戸惑う。けれど、今こそアピールのチャンス! とでも思ったのか、
「はいっ! 視力には自信があります!」
 と胸を叩いた。
 千尋はにっこりと笑う。佐藤もにっこりと笑い返す。彼の中では、すでにYESの返事を貰ったも同然だった。しかし――
「ごめんなさい」
 語尾にハートマークを付け、千尋はぴょこんと頭を下げた。そして回れ右してぱたぱたと去っていく。残されたのは、呆然と立ち尽くす佐藤少年一人だった。



 それから少し時間は流れ、夕方の六時。
 とある高校の敷地内にある女子寮では、30人ほどの女生徒たちが食堂で夕食を取っていた。

「うわ、それだけ言って帰ってきたの? 理由もわからずふられるのって、結構ショック大きいと思うよー?」
「そうそう。佐藤くん、勉強も運動もできるし、顔も平均点以上。断る手はないと思うんだけどなー」
 間延びした語尾がそっくりの二人は、一卵性双生児の長谷川姉妹。最初の台詞が姉の佐恵で、次の台詞が妹の佑里だ。顔も声もまったく同じこの二人は、付き合いの長い千尋でさえ、前髪の分け方くらいでしか見分けることができない。
「うるさいなー! どれだけレベルが高かろうと、私の趣味じゃないんだから仕方ないでしょ!」
 両サイドからのステレオ攻撃に耐えきれず、千尋が声を上げた。その言葉に佐恵と佑里は顔を見合わせる。
「でも千尋の趣味って……」
「ねー」
「なによぅ、私の趣味のどこが悪い!」
 そう言うやいなや、千尋はコップに注がれた水を一気に飲み干した。からになったコップが勢いよくテーブルに置かれ、ゴトンと大きな音を立てる。
「眼鏡、メガネ、めがね! 眼鏡こそ人類が生み出した最高の文化遺産よ! 眼鏡男子バンザイ!」
 突如こだまする眼鏡コールに、食堂に居合わせた寮生たちは苦笑いを浮かべた。千尋の眼鏡好きは寮内でも有名なのだ。長谷川姉妹もあきれた顔で漏らす。
「だからって、『眼鏡を掛けてない』って理由だけでふるなんてねー」
「モテるくせに彼氏ができないわけだよねー」
「黙らっしゃい。私、そこだけは妥協するつもりないの。でもなぜか眼鏡男子からの告白はないのよねー……。眼鏡との相性悪いのかしら。こーんなに愛を送ってるのに」
 ほぅ……とため息をつく横顔は、恋する乙女そのものだった。しかし、想いを寄せる対象が『眼鏡』なのだから、友人たちも素直に応援することができない。むしろ、その偏った性癖に将来が心配になってくるくらいだ。
「もしかして、今噂の眼鏡泥棒の正体は千尋だったりして」
「眼鏡泥棒?」
「あれ、知らないー? 最近、うちの学校で眼鏡の盗難が多発してるんだって」
「教室や寮からも盗まれてるから、内部の犯行だって言われてるんだけど……」
 そこまで言って二人は口を閉ざす。代わりに向けられた疑いの眼差しに、千尋は思わずうろたえた。
「なっ、なによ、私が犯人だって言いたいわけ?」
「……信じてるから」
 声をハモらせ、佐恵と佑里は憐れむような表情で千尋の肩に手を置いた。
「失礼な! 私が好きなのは眼鏡を掛けている男子! 眼鏡単体を盗むだなんて、そんな馬鹿なことするわけないじゃない!」
 二つの手を思いきり払いのけると、千尋は憤慨した様子で席を立った。食事を終えたトレイを手に、ずかずかと返却口へ向かう。
「そうだよね……。いくらなんでも、千尋が泥棒なんてするはずないよね」
「うん。ほんのちょっとでも疑ってごめん」
 長谷川姉妹は千尋の背中に申し訳なさそうに頭を下げた。
「まったくよ」
 千尋はそう言って振り返る。そこに浮かんでいる笑みを見て、佐恵も佑里もほっと胸を撫で下ろした。しかし、次の瞬間、耳を疑う。
「やるからには、素敵眼鏡男子を拉致監禁よっ」
 ぽかんとした顔が二つ並んだ。恐ろしいことを笑顔で言ってのける千尋に、長谷川姉妹は言葉を失う。
「というわけで、ちょっと学校に行ってきます」
 小さく敬礼をすると、千尋は駆け足で食堂を出ていってしまった。残された佐恵と佑里はぱちぱちと瞬きを繰り返す。一体、何が「ということで」なのか。前後の文脈からいくと、学校に拉致監禁している素敵眼鏡男子がいるということになるが――
 まさか、いくらなんでもそんなことは。そう思いつつも、千尋ならやりかねない、とも思う二人だった。



 夜の七時。
 下校時間を過ぎた校舎は当然のことながら閉めきられている。しかし、千尋は唯一開いている職員用玄関から忍び込むと、脱いだ靴を片手に校舎内へと入った。まだ明かりのついている職員室前をかがんで通り抜け、二階にある教室を目差す。忍び込みの常習犯である千尋にはお手のものだった。
 目的地の2−Eに到着すると、千尋は迷うことなく窓際の後ろから二番目の席へ向かった。机の中を探って出てきたのは一枚の数学のプリント。なんてことはない、単に忘れ物の課題を取りに来ただけだった。
 千尋は目的を済ますと、来た時よりも急ぎ足で廊下を引き返した。教職員が帰ってしまう前に校舎を出なくてはならない。しかし、ふとその足が止まった。
 ――誰かいる。
 直感的にそう感じたのは、2−Bの前だった。
 物音はしない。けれど、確かに人の気配がする。千尋は息を殺し、ドアのガラス越しに教室内を覗き込んだ。すると、そこには暗闇の中で動く人影があった。制服に身を包んだ男子生徒だ。
 千尋は始め、自分と同じく忘れ物を取りに来た生徒かと思った。しかし、その行動を見ていると、どうもそうではない様子だ。教室にある机を一つ一つ前から順番に中を調べていっている。その行動はまるで――
(泥棒? ……もしかして、佐恵と佑里が言ってた眼鏡泥棒!?)
 思わず声を上げそうになり、千尋はとっさに両手で口を塞いだ。その瞬間、手にしていた靴が滑り落ち、静まり返った校舎に大きな音を響かせた。教室にいた人影がこちらを向く。
(やば……ッ)
 すぐに靴を拾ってその場を逃げようとした。けれど、千尋の体は動きを失う。ドアの前に立ちすくんだまま、視線が一点に釘付けになった。その先にいるのは、ゆっくりとこちらへ近づいてくる人影。足音一つ立てず、滑るように向かってくる。――机も、椅子もすり抜けて。
 千尋は息を呑んだ。そして目を疑う。
(泥棒……じゃ、ない? ていうか、人じゃ……ない!?)
 そう思う間にも、人影との距離は縮まっていく。千尋は思わず後ずさった。後ずさって、後ずさって、背中が窓の手すりにぶつかる。人影はドアをすり抜け、千尋の目の前にまで迫った。
「き……きゃあああーーー!!!」
 ありったけの悲鳴を上げ、千尋は一目散に逃げ出した。猛ダッシュで階段を下り、職員室の前を駆け抜ける。そのあまりの速さに、職員室に残っていた教師たちは呼び止めることすらできなかった。

(なんなのよあれ! なんなのよあれ! なんなのよあれ!!)
 校舎を出て寮の自室に飛び込むと、千尋はそのまま床にへたり込んでしまった。頭を抱えてひたすらそうくり返す。
(夢よ、夢。そうとしか考えられない。でなきゃ、まぼろしか幻覚……)
『オイ』
「ぎゃーーーー!!!」
 突然かけられた聞き覚えのない声に、千尋は飛び跳ねて叫んだ。振り返るとそこには見知らぬ男が立っていて、千尋はさらにパニックに陥る。
「ぎゃ、ぎゃ、ぎゃ」
『オイ、落ち着けよ』
「いやー!」
 悲鳴を聞いて駆けつけたのは長谷川姉妹だった。勢いよくドアを開き、見事に声をハモらせる。
「どうしたの!?」
「お、おと、男がっ」
「男?」
 千尋は涙目で訴えるが、佐恵と佑里は部屋の中を見回して怪訝な顔をした。
「誰もいないよ?」
「い、いるじゃない! ここ! ここにっ!!」
 そう言って自分のすぐ隣を指差すが、二人は首を傾げるばかりだった。
「千尋、大丈夫? 夢でも見たんじゃない?」
「今日はもう寝たほうがいいと思うよー」
 別の意味で心配そうな眼差しを向け、長谷川姉妹は去っていった。部屋には一人、呆然と座り込む千尋だけが残される。
『どうやらお前にしか見えないようだな』
 ――訂正。千尋と、千尋にしか見えない男の二人が残される。
 先程よりもだいぶ混乱の収まった千尋は、隣に立つ制服姿の男を横目で見上げた。
「……あんた、誰よ」
『見てのとおり幽霊だが?』
 千尋はがっくりと肩を落とした。そうはっきり断言されると、なぜだか恐怖も薄れてしまう。
「もしかして、さっき学校にいたのもあんた? なんでついてくるのよ」
 この場合、漢字をあてるとしたら、「憑いてくる」というのが正しいのかもしれない。
 自称幽霊はその質問には答えず、しげしげと千尋を眺めた。それから『よし』と小さく頷き、腕を組んでふんぞり返る。
『喜べ。お前を俺の下僕一号に任命してやろう』
「……は?」
『は? じゃない。そこは「ありがたき幸せ」か、「まことに光栄に存じます」だろうが』
 頭にクエスチョンマークを並べている千尋を睨み、そしてため息をつく。
『まぁいい。お前のすべきことは一つだ。――眼鏡を探せ』
「眼鏡?」
 混乱のさなかでも、その単語にだけは反応してしまう。千尋のそれはもう本能に近かった。
『そうだ、眼鏡だ。俺の眼鏡もしくは俺にあう眼鏡を探せ』
「はぁ……いや、え? なんで?」
『それがないと成仏できないからだ』
「じょうぶつ……成仏? 眼鏡で成仏?」
『あーもう! お前は一から説明しないと理解できないのか?』
 幽霊はじれったそうに頭をかきむしった。それから一度大きく息を吐いて気を取り直す。
『俺は目が悪い。ものすごく悪い。両目とも0.03のド近眼の上に筋金入りの乱視だ。おまけにドライアイだからコンタクトがつけられない。だから眼鏡は俺の生活にはなくてはならない道具なのだ』
「……でも、今は掛けてないみたいだけど」
『そうだ! だから今は何も見えない。お前がどんなに不細工だろうと、この至近距離でも面と向かって話せるわけだ。まぁお前の顔など見えなくてもなんの不都合もないがな。今ここで問題視しているのは天国に行ってからの話だ。天国にはお前の想像しうる最高の景色など足元にも及ばないような美しい世界が広がっていることだろう。そして、お前とは月とすっぽんと言うとすっぽんに申し訳ないくらいの金髪美女天使が俺を待っている。それが眼鏡なしの状態ではまったく見えないんだ。大問題だろう? というわけで眼鏡探せ』
「…………」
 幽霊の長ったらしい説明が終わる頃には、恐怖心などとうに消えうせていた。代わりに千尋を支配しているのは、えも言われぬ苛立ちと憤り。状況を理解していくにつれ、幽霊の偉そうな言動が鼻についてきた。こんな奴が天国も何もあるのだろうか。
「じゃあやっぱり眼鏡泥棒の犯人ってあんただったのね。自分にあう眼鏡を探してるなら、何も学校内で盗まなくても眼鏡屋に行けばいいじゃない。それか、自分の家に取りに帰るとか」
『できるならとっくにそうしてる。だがあいにく俺は地縛霊でな。ここで死んだから、学校の敷地内からは出られないんだよ。おまけに死んだ時の影響か、自分に関することをすっかり忘れてしまっている。家はおろか、名前すらな』
 幽霊はそう言うと音もなく浮かび上がり、二段ベッドの上に腰を下ろした。人の寝床でふんぞり返るその男を見上げ、千尋は一人部屋でよかった、と心底思った。寮は基本的に二人一部屋なのだが、人数の関係で千尋は一人で部屋を使っているのだ。
「そもそも、なんで眼鏡がなくなってるわけ? 普段掛けてたなら幽霊になっても掛けてるものなんじゃないの?」
『……あれは五月の実に暖かい日だった』
 突然、どこか遠くを見つめて語り出す幽霊。千尋は瞬時にこの話が長くなることを悟り、げんなりと肩を落とした。
『俺は屋上で昼寝をしていた。あんな絶好の昼寝日和に教室内で授業を受けるなんて馬鹿げているからな。ところで、お前がどれだけ無知だろうと、寝る時には眼鏡を外すことくらいは知っているな? 無論、俺もその時は眼鏡を外していた。そして目が覚めた時、そのまま屋上を去ってしまったのだ。……いや、正確には去ろうとした、だな。完全に覚醒していなかった俺は、視界が不明瞭なことにも疑問を持たず、工事中の札が貼られた柵のほうへと歩み寄ってしまった。そして手をついた瞬間、柵が外れて――あとは見てのとおりだ』
「……ぷっ」
 千尋は思わず吹き出してしまった。やたらと硬い言葉を使ってはいるが、つまりはこういうことだ。
「寝ぼけて屋上から落っこちた? ま、まぬけ……」
『黙れ笑うな! 俺の死因などどうでもいい。お前は何も言わず眼鏡を探せばいいんだよ』
「……それが人にものを頼む態度?」
 こんな偉そうな奴の言いなりになる道理はない。しかし、千尋にはずっと気にかかっていたことがあった。この幽霊――美形なのだ。
 切れ長の瞳にきりりとした眉、すっと通った鼻筋、形のよい薄い唇。それぞれのパーツが絶妙に配置された、完璧にまで整った顔立ち。ここに至高のアイテム、眼鏡が追加されるとしたら?
『オイ、どうかしたのか?』
 突然、口元を押さえてかがみこんだ千尋に、幽霊は心配そうに、というよりは鬱陶しそうに声をかけた。
「いや、ちょっと鼻血が……」
『鼻血?』
「ううん、なんでもない」
 想像した瞬間、脳内でアドレナリンが大放出してしまった。千尋は深呼吸して平常心を取り戻すと顔を上げた。
「わかった。協力してあげるわよ。感謝しなさい眼鏡幽霊」
『勘違いするな、俺が協力させてやってるんだ。感謝するのはお前のほう。それと、眼鏡幽霊はやめろ」
 礼の一つも口にしない幽霊に、千尋は思わず引き受けたことを後悔した。けれど、断ったところでボロクソに言われるのは目に見えている。それに何より、この幽霊が眼鏡を掛けたところを見ない手はない。多少の失言は大目に見ることにしよう。
「しょうがないわねぇ。じゃあ……コグレ」
『……いいけど、なんでコグレ?』
「メガネくんといったら小暮なのよ!」

 こうして千尋と幽霊、もといコグレの眼鏡探しの日々が始まった。

《続》


表紙 - 次項

作者/藍川せぴあ