眼鏡の向こうは滲む空




 広げたスケッチブック、その白に、薄く色を含ませた刷毛でそうっと青を広げ、そして更に紅を重ねたような。そんな色合いの空が広がっている。西に傾き始めた太陽の光すらもどこか頼りなげに溶けそうで、綿雲もすぐに風に飛ばされてしまいそうだ。
 見上げた空は、秋広が描いていたものよりもどこか儚げで、美空は思わず苦笑を浮かべてしまう。彼が描いていたものは確かに絵でしかなかったけれど、今、ここにある空よりもずっと力強く、生命を感じさせてくれるようだった、と。
 彼女の視界を、風に流される雲が横切って、通り過ぎる。視界の向こうへと消えて――その内に、千切れたそれは形すら無くして青の中へと消えてゆく。
「美空さん」
 背中からかけられた呼び声に、美空は空へと向けていた視線を下ろす。瞬きを繰り返して、瞼の裏に残る青を振り払った。何でしょう。小さく震えた声で返事を返しながら、呼び声の主へと振り向いた。
「そろそろ、始まるから」
 漆黒のワンピースに身を包んだ秋広の母親が、ふうわりと微笑みながら美空の方を見つめている。早くいらっしゃい、とその目は語っているようだった。美空は小さく頷くと、小走りに彼女の元へと向かう。
 空の白雲がまた一つ、美空の背を追うかのように流れ、そして消えていった。


    * * * * *


 窓の外を一面塗りつぶしているのは溶けたような暗闇だった。重く立ち込めた灰色の雲が空を埋め尽くしているために、月や星といった明るさは微塵も感じられない。
 美空はそっと、見つめていた窓ガラスへと指先を伸ばした。初秋の闇に冷やされたそれは酷く冷たく、少し触っただけでも、まるでそこから指が凍ってしまうような感覚すら覚えてしまう。
「――つめ、た……」
 彼女が思わず零した声に被さるように、窓ガラスが音を立て始めた。ぱた、たた、雨の雫とぶつかり、軽い音を響かせる。白い線が闇の中を滑り落ちてゆく。カッターナイフで、黒の折り紙に切込みを入れるかのように――細く、細く、そして、鋭く。触れたならば、血を流してしまうよ。そんなことを見ているこちら側へと伝えるかのように。
 ばたばた、たたた、ざ、ざあ……ガラスの向こう側の秋雨は、その白線の数をみるみるうちに増やしていった。美空の耳の内側を、雨音だけが占める。
 その雨音を、どの位の間聞いていたのだろうか。
 自らの部屋の中で何するとも無く、ただ膝を抱えて座り続けていた美空は、雨音以外の音が混じっているのに気づいた。何かが震え、何かにぶつかっているような、ごとごと、という音だ。
「あ、携帯電話……?」
 鞄の中に入れたままの携帯電話が、着信を告げているのだと彼女は気づく。慌てて鞄の奥から引っ張り出してみれば、思ったとおりやはり、電話の着信を告げる緑色のランプが点滅を繰り返していた。携帯電話の表示が示す、電話の相手の名は、美空がここ数日何度も何度も繰り返し頭に描いていた人物のそれ。
 ――小管秋広。
「ヒロくんっ? 大丈夫、元気だ……」
「美空さん?」
 息せき切ったように電話口に話しかける美空の声を遮ったのは、彼女が想像していた彼のものではなく。少し低い、穏やかな、彼の声ではなく――何処か揺れるような、寒さに震えているような女性の声だ。
「――秋広がね」
 秋広の母親だ。携帯電話を握り締めた美空は、そんな言葉を浮かべる。そして電話の向こうから続けられた言葉が、思考を止めた彼女の頭の中を、つるりつるりと滑り落ちていった。
 ざ、ざああああ……窓の向こう、闇を切り裂く秋雨は、まるで彼女の耳元で叫ぶかのよう。その音の中で、美空はどうやって言葉を続ければ良いのか分からずに、ただただ、手のひらの中の携帯電話をぎゅうと握り締めた。
 ――ああ、この言葉はきっと、「嘘」じゃない。
 あの眼鏡が無くても分かる。――むしろ、嘘であって欲しかった。
 彼女は思考を取り戻し始めた頭で、そんなことを考えた。

『美空さん? ――秋広がね、さっき、息を引き取りました』


 秋広が呼吸を止めたのは、共に海辺に出かけた日から一ヵ月後のことだった。
 海辺で倒れこんだその時、秋広はつらそうに浅い呼吸を繰り返しながらも、美空に笑って見せて。
「大丈夫だから、美空。これでも良くなって来てるんだし」
 そんな風に言葉を投げてきたにもかかわらず、だった。
 ――結局、嘘だったんじゃない。
 美空は言葉を胸の中で呟く。搾り出すように。
 海辺でスケッチブックに手を走らせながら、もう大丈夫だと返した彼の言葉。重ねるように続けられた、ずっと美空のそばに居るという声。モグーの最終話を嬉しそうに語っていたその姿。――けれど、それは全て実現する事は無かったのだ。
 秋広が嘘をついていたのなら。本当は治る見込みなどないにもかかわらず、そんな前向きな言葉ばかりを選んでいたのなら。美空が眼鏡越しに見た秋広の姿に、何らかの変化があって良さそうなものだった。しかし、あの時眼鏡が見せたのは、ただ、そのままの秋広の姿を伝えるだけだったのだ。透明な窓ガラスがそのまま空の色を映し出すように。
 そう、だから――祖父が贈ってくれた眼鏡は、本当は嘘など見抜けないのではないだろうか。魔法の力など持ってはいないのではないだろうか。
「おじいちゃんが残してくれた言葉さえ、嘘になっちゃうの、かな」
 秋広の言葉だけでなく、祖父の言葉すらも、嘘に。
 吐き出された美空の震える言葉は、締め切られた部屋の中へと散ってゆく。窓の向こうには、強い雨が通話を終えてもなお降り続いていた。


    * * * * *


 秋広の母親に連れられて葬儀会場へと入った美空は、どこかぼうっとした表情で座っていた。葬儀が行なわれているこの場所、小さな寺院の堂内には、張り巡らされた鯨幕と、人々のすすり泣く声が満ちている。木魚の規則的な音と、上手く聞き取れないような経が僧侶から上げられて、それが一層、この葬儀の重々しさを増しているようでもあった。
 美空の前に座っていた男性が、いつしか居なくなり、そして祭壇の前から帰って来た。さあ、次の方、どうぞお焼香を――祭壇の脇に控えている秋広の親族から、そう掌で示されて、美空はのろのろと膝を上げた。中腰のまま祭壇の前へと進んでゆく。視線は上げられずに、ずっと、寺院の板張りの床を見つめたまま。
 ――お焼香、どう、やるんだっけ……?
 祖父の葬儀の時にもやった筈――しかし、その時のことを思い出そうにも、からからと乾いた音を立てそうな頭と瞳は、どうにも上手く働いてくれない。考えはまとまらないまま、彼女はぼんやりしつつ身体を動かした。
 焼香を続ける間も、終えて自分の席へと戻る間も、決して視線は上げずに。
 笑っている秋広の写真が、黒く縁どられているのなど、決して瞳に入れたりしないよう。
 そうしないと彼女は、祭壇の前に座り込んだ姿勢のまま、この場から動けなくなってしまいそうだったのだ。


 一通り葬儀が終った後、通夜ぶるまいの食事にも軽く口をつけて。――明日も学校があるので、と美空が寺院を抜け出して来た頃には、空は夕方の赤を通り越して闇色一色へと変わってしまっていた。浮かぶ三日月の白が、ほろりとこちら側へと届く。
 ふう、と吐き出した息は、薄い色に染まって闇の中へ溶けてゆく。それは、嫌でも彼女に時の流れを感じさせるものだった。もうこんなに寒くなった――そう、秋広に告白を受け、共に過ごしたあの暑い季節は過ぎ去ってしまったのだと。
 ――駄目、考えちゃ。
 秋広の顔を、共に過ごした夏の日を、海で抱きしめた時の身体の暖かさを、うっかり思い出しそうになってしまって、美空は慌てて頭を振った。その耳に、ぱたぱたぱた、と軽い足音が響く。誰かが自分を追ってきたのだろうか、彼女は不思議に思って振り返った。
「美空さん……よかった、追いついて」
「ヒロくんの、お母さん――あの、何か、あたし、忘れ物でもしました?」
「いいえ、そうじゃなくて」
 渡したいものがあったから。秋広の母親は、闇にどこか溶けてしまいそうな笑みを浮かべながら美空に告げる。差し出された両手には、あの日海で描いていたスケッチブックと、秋広の数学の教科書が乗せられていた。
 ――これ、は。
 思わず声を上げそうになる美空を先回りするように、秋広の母親が言葉を継ぐ。
「秋広が描いていたものなの。美空さんに貰って欲しいと思って」
「頂けません……だって」
「ううん、これは、美空さんが持つべきものだと思うの。――良ければ、見てあげて」
 ね、と二冊を手の内に渡されて、美空は受け取らざるを得なくなる。見たい、確かにそうは思うのだが、手が震える。見たら最後、泣き出してしまいそうで。
 しかし、彼の母親は、美空に見て欲しいと言ったのだ。その思いを無駄にはしたくない。美空は夜風をふうう、と思い切り吸い込み、震えをなるべく押さえながら、スケッチブックをまず、めくった。
 一枚目に描かれていたのは、以前病室でも見たやわらかな空の絵だった。背中をきゅうと伸ばす猫、ほころんだ暖色の花々……秋広の繊細なタッチで丁寧に描かれた絵が、一枚一枚、スケッチブックをめくるのに合わせて美空の瞳に飛び込んでくる。
 翼を広げたカラス、泡立つ波、そして――あの海に行った日に描いていた、彼女の眼鏡姿。思わずそのページで、彼女の手は止まってしまう。鉛筆の黒、その一色で描かれたスケッチだが、それは他の絵に負けない位丁寧に、繊細に、彼女の姿を映し出していた。
 眼鏡のガラスの内側で少し伏せられたような瞳に、小さく上がった口角。そんなに優しい表情を、あの海辺で彼女が浮かべられていたはずは無い。言葉を交わす度にあんなにもぐらぐらと気持ちが揺れていたのだ。しかし、この絵に描かれている自分は、何て幸せそうな表情をしているのだろうか。
 絵には描き手の心が表れるという。ならば。
 ――ヒロくんはあの時……そんな風に、幸せな気持ちを、私を見ながら思っていたの?
「こっちの数学の教科書にもね、ずうっと、描き続けていたのよ」
 スケッチブックを広げたまま止まってしまった美空を促すように、母親が言葉を投げた。応えるように視線を上げた彼女の前で、ぱらぱら、と数学の教科書をめくってみせる。ページの端に描かれた小さな絵がぱたぱたと動き出す。
 小さなモグラが歩き、走り、笑い。そして、巻いたリボンが可愛らしいハツカネズミと出会う。見つめあい、言葉を交わし、抱きしめる。
「モグーの……最終話」
 そう、それは秋広が語っていたモグーの最終話に間違いなかった。弱くなっていく体を抱きつつ、そしてそれに不安と葛藤を続けながらも、愛しい人との日々を選んだモグー。ページはぱらぱらとめくられ続け――突然に絵が途切れた。151ページ目、教科書の最後の方に当たるそのページで、唐突に話は終ってしまっていた。大好きだよ、そんな言葉をモグーが発したその場所で。
 どうしてこんなところで。美空が疑問符を浮かべたのを見取ったのか、秋広の母親は教科書を静かに閉じながら、あのね、と言う。
「ここまで描いたところで、息を引き取ったの」
「――え」
「秋広は……死ぬ直前まで、ずっと、絵を描いていたわ。描き続けることで生きられると思ったのかもしれないし――もしかしたら、その逆かもしれない」
「生きられるから、ずっと、描き続けて、いた?」
 美空は彼女と瞳を合わせながら唇を開いた。
 秋広がずっと描き続けていた姿――諦めなかったその姿が瞳の裏に浮かぶ。そう、この残された沢山の絵は、彼が生きることを、ずっと、諦めてはいなかったことを何よりも証明しているように思えて仕方なかったのだ。
 ――ならば、彼の言ったあの言葉は。
「ヒロくんは、大丈夫だ、って繰り返し言ってました。――あたしはそれを嘘だとばかり思っていたけれど……だけど、それは」
 彼にとって、本当のことだったのかもしれない。
 
 本当に生きられる、大丈夫だと秋広は思っていたからこそ、あの眼鏡は何も反応を示さなかったのではないのか。
 秋広は嘘など言っていなかったのではないのか。
 
 秋広の微笑が美空の胸の内側で弾け、気づけば彼女は大粒の涙をぼろぼろと流していた。彼が死んだと聞かされてからずっと、流れていなかった、流せなかった涙が。
 漏れる嗚咽をなだめるように、秋広の母親は優しく彼女を抱きしめると、背中を撫でる。――あの日の秋広と一緒だ、泣きながら、そんなことを美空はどこか遠くで思った。


 スケッチブックと数学の教科書とを抱え、美空はゆっくりと帰途に着いた。さんざん涙を流したせいか、瞳がひりひりと痛む。赤くなってしまったであろうその瞳に、夜風の冷たさが逆に気持ちよかった。
 ――そうだ。
 彼女は鞄の奥から眼鏡ケースを取り出した。祖父の形見のあの眼鏡だ。秋広の嘘を見抜けなかった、そして、祖父の遺言すらも嘘だった、そんなことを感じてしまってからというもの、見るのも嫌になってしまい、鞄の奥底に彼女は仕舞っていたのだ。それを久々に取り出してみる。
 ケースを開けて、細いつるを耳へ。レンズを瞳の前に。
 彼女はかけた眼鏡でぐるりと周囲に視線をめぐらし、そして最後に広がる夜空へと目を投げた。
 ――ね、おじいちゃん、ヒロくん。
 空の向こうに居るであろう人達に向かって、美空は思った。
 たとえ結果が「嘘」になったとしても。その時に心で「本当」だと思っていたなら――それはきっと、嘘じゃないのかもしれないね。
 だからおじいちゃんの遺言も、この眼鏡も、ヒロくんの言葉も、嘘じゃないんだね。
 あたしはそう思いたい、と。
 
 眼鏡の内側では瞳が水分を帯びる。彼女の視界を占めている夜空はじわりと滲み、溶けるように揺れるよう。それが自分の涙のせいなのか、或いは眼鏡が美空の考えを「違うよ、それは嘘だよ」と告げているのか。
 それは美空には分からなかったが、しかし。
 彼女はただ、じっと滲む空を見つめ続けていた。
 
 本当と嘘の狭間に揺れていた、今は居ない二人の事を思いながら。

《了》


表紙 - 前項

作者/ ねこK・T