がおお




 夏休み目前。僕は午前中に退屈な講義を聴き、午後は図書館にこもってレポートを仕上げ、偶然に遭遇した悪友に少しばかり拘束を受けた後、できる限り急いで、狭くてぼろいアパートへ帰り着いた。気だるい身体に重い頭を載せて外階段を二階へ上がり、玄関のドアを開けるなり……。
「がおーっ!」
 僕は眼鏡のブリッジを押さえながら、しばし対応に苦慮せざるを得なかった。聞こえて来た声は特撮映画に出てくる怪獣か、百歩譲って恐竜の鳴き声だろう。多少リアリティに欠けるとしても、それを模した声であることは間違いない。これに対し、目の前に見えるのは白い布に覆われた小さな塊で、それは推理するまでもなくシーツを被った子供であるのだが、真っ白いシーツのような正体不明の存在と言えば、外国的な幽霊である。お化けである。ホーンテッド・マンションにいるべきものである。
 お化けは「がおーっ!」と鳴いただろうか。
 否、お化けは「ひゅうどろどろ。」が基本のBGMだ。いや、これは日本的幽霊のBGMか。キーとかヒューとか言うお化けもいたような気がしないではないが、それが本当に鳴き声なのか、それともただのBGMなのかは意見の分かれるところだと思う。日本的幽霊なら「うらめしやあ。」が定番の台詞だが、お化けは……。
 いや、問題はそこではない。問題は、この目の前のシーツを被った子供が僕を驚かそうとして、このような脈絡のない行動に出ているということである。僕は驚くことを期待されているのだ。僕の疲れた脳は予想外の事態に直面して、いつもの通り素早く適切な判断を下すことができなかった。
 僕は「わあ、お化けだあ!」と震えるべきなのだろうか。それとも「うわあ、怪獣だあ!」と逃げ惑うべきなのだろうか。
 数秒判断に迷った後、僕は正しい結論を出した。目の前の白シーツが怪獣にせよお化けにせよ、僕はとにかく驚いて見せればいいのだ。「出たあ!」で十分ではないか。いや、怪獣に対して「出たあ!」は不自然だろうか。
 そんなことを考えるうちに、僕はかなり無駄な時間を費やしたように見える。僕の反応にさぞ大きな期待を抱いているであろう白シーツも「がおーっ!」の不意打ちの後は何も言わず、微動だにしない。
「やり直しだ。」
 僕は決断した。今、明らかな時差をもって驚いてもそれは不自然である。とりあえず扉を閉めて、もう一度最初からやり直すべきだ。何が起こるか分かってさえいれば、僕はお化けでも怪獣でも適切に対処できる。
 僕はノブに手を掛けたままだった扉を思い切りばたんと閉めた。
「怪獣か、お化けか。」
 僕は扉を前に考えた。同じ失敗を二度も犯すわけにはいかない。怪獣かお化けか、僕は絶対に誤りのない判断を下して完璧な対処をすることを現在求められている。
 腕を組んで瞳を閉じ、冷静に頭を回転させる。
「怪獣だ。」
 どんなに子供が頭の悪い存在でも、お化けががおーっと鳴くという思い込みは滅多にないことだ。それに対し、怪獣の真似をしようとしてたまたま使えそうな小道具が白いシーツしか見つからなかったということは十分考えられる。もしかしたら、最近の特撮映画には真っ白な怪獣が登場するのかもしれない。確率的には怪獣説の方が圧倒的に可能性が高い。
 僕は確信を抱いて、再び扉を開けた。吐くべき台詞は決まっている。
「わ……あ?」
 扉を開けたが、白シーツは姿を消していた。
 狭い廊下の先を覗き込むと、奥の部屋で白い塊が微かに動いている。僕はため息を吐き、後ろ手に鍵のつまみを回しながら、狭い玄関にスニーカーを脱ぎ、部屋の奥へ進んだ。
「何をしてるんだ?」
 僕は、ソファーに載っていた白シーツの頂上を摘まみ上げ、さっと巻き取った。
「コウちゃんのばかぁ。」
 小さな女の子がソファーの上で膝を抱えている。漏れ出た声は涙声だ。
 僕は対処法を間違えたつもりはない。最初の判断の遅れは確かに僕の失敗だが、疲れた僕の脳にあれ以上のスピードを期待するのは無謀を言うものだ。
「マユコちゃん、ドーナッツ、食べる?」
 僕は明らかに機嫌を損ねている預かりものの姪に問い掛けた。お化けだか怪獣だか分からない――僕の適切な判断に従えば怪獣であろう白シーツに扮していた少女は、僕の姪である。僕にとって非常に不幸で、姉夫婦にとっては非常に幸運なことに、姉夫婦は僕の大学の近所に憧れのマイホームを購入して住んでいる。
独り暮らしをしている僕のアパートも必然的にその近所になるわけで、商店街の福引でシンガポールペア旅行券を当てた姉夫婦は、昨日から大事な愛娘を僕に預け、夫婦水入らずの海外旅行を今まさに楽しんでいる最中に違いない。
 どうせなら実家に預けて行けと僕は散々抗議したのだが、僕と姉の実家はここから少しばかり遠く、姪の小学校の学区外になるのはもちろん、電車を乗り継がなければならず、まだ夏休みに入っていない現状では、小学生の娘を実家へ預けることは不可能だったということらしい。だったらうちの両親が姉夫婦の家へ泊り込めばいいのではないかという僕の提案は、出発前で慌しい強引な姉夫婦の手によって揉み消された。
「ドーナッツ?」
 涙声の少女――僕の姪で小学一年生のマユコちゃんは、潤んだ瞳で僕を見上げた。僕は悪友からノートの賃料として受け取ったドーナッツの入った箱を目の前に掲げる。
「マユコちゃんはチョコレートのドーナッツが好きでしょ? それもあるんじゃないかな。」
 僕が言うと、マユコちゃんはぱっと顔を明るくした。
「食べる! ちょーだい!」
 マユコちゃんはソファーの上に立ち、僕の手からドーナッツの箱を奪い去った。瞳はまだ潤いを湛えているけれど、嬉し涙こそ流れども、それまでのネガティブな感情はとっくにどこかに吹き飛んだらしい。現金なものだ。
「紅茶、淹れるね。」
 箱を開けて、ドーナッツ選びに夢中になっているマユコちゃんをその場に残し、僕はソファーの上に鞄を放り出すと、キッチンへ立った。
 男の一人暮らしで、部屋に紅茶の茶葉が何種類も揃えられているなんてことを普通は期待すべきでない。女の一人暮らしでもその期待は決して高いものであってはならない。僕は学業に関しては非常にいい意味で普通ではなかったが、紅茶の楽しみ方に関しては普通だった。近所のスーパーで今月のお買い得品に指定されていた三十個入りで一パックの紅茶のティーバッグを二つ取り出し、マグカップに放り込む。今朝沸かしたお湯は、普段なら外出中は電気代節約のために保温機能を切っているはずのポットも、今日は姪のために――と言っても、彼女はコーヒーや紅茶や緑茶を淹れるなんてことはせずに、冷蔵庫の中のペットボトルからジュースを選び出すに決まっていたのだけれど――コンセントを繋いだまま出掛けたから、ポットの中の水はたぶんまだお湯の状態を保っているだろう。
 僕はポットの頭を押して二つのマグカップにお湯を注ぐと、それをお盆に載せ、更にドーナツを載せるためのお皿を二枚載せて、リビングへ戻った。
 マユコちゃんは早速、大好きなチョコレートドーナッツにかぶりついている。テーブルに紅茶とお皿を置いてやると、マユコちゃんは箱の中から取り出した最もシンプルなドーナッツを、僕のお皿に乗せてくれた。
「これ、コウちゃんにあげるね。」
 たぶん、その意味は「これしかコウちゃんにはあげないよ。」と解釈するべきなのだろうけれど、僕は大人しく「ありがとう。」と答えて、ドーナッツの載った皿を自分の前へ引き寄せた。僕が悪友から勝ち取ったドーナッツの箱の中には、確か六つほどのドーナッツが入っていたはずだったが、それほどドーナッツを食べたいという気分ではなった。マユコちゃんが僕のために――たぶん、彼女自身のために消去法を用いて――選んでくれたシンプルなドーナッツは、日頃、僕が最も好んで食べる種類だったから、選択結果は僕としても非常にありがたかった。と言っても、ドーナッツなんて、年に三回食べれば良い方なのだけれど……。
 何はともあれ、彼女が機嫌を直してくれたことは僕には幸運だった。悪友に感謝しなくてはならない。

 一時間ほど前のことになる。僕は大学を出てすぐ、悪友に発見された。
「あ、コウスケ! ちょうどいいところに!」
 悪友はしばらく前から、僕に断りなく僕を名前で呼んでいる。僕は決してその悪友を名前では呼ばないが、一々訂正を求めることもしなかった。それが僕の最大の抵抗である。
「悪いんだけどさあ、田山の講義ノート見せてくんない?」
 悪友はその言葉に反して全く悪いとは思っていない様子で尋ねてきた。悪友が常に浮かべ続けているへらへらとした笑みは相変わらずだ。
 ちなみに、田山というのはうちの大学の教授である。そして、田山は僕とその悪友が共通して受けている数少ない科目のうちの一つを担当している。つまり、悪友が見たがっているのは田山のノートではなく、僕のノートである。田山の講義に関する。
「断る。」
 僕は即答した。とにかく僕は早く帰りたかった。マユコちゃんのために夕飯を用意しなければならない。僕一人ならカップラーメンでも凌げるが、マユコちゃんにまでカップラーメンを出すわけにはいかなかった。彼女の健康のために栄養バランスに配慮しようなんて思いやりはない。だが、姉夫婦が帰って来た後、彼女がカップラーメンしか食べさせてもらえなかったなんて姉夫婦に告げ口したら、僕が一時的にせよ彼女の保護者失格であると言われるのは構わないとしても、毎日そんなものしか食べていない僕に世話焼きの姉夫婦が僕にとってありがたくない申し出をしてくることは間違いなく、それが僕には非常に不幸なことだったから、僕は僕の平穏な生活を守るために、数日の間、しっかりマユコちゃんの世話をしてやらなければならないのだ。
「いや、そんなこと言わずに、そこを何とか……。」
 悪友は顔の前で両手を合わせながら懇願する。
「田山の講義、必修だから落とすとやばいんだって。分かるだろ? な?」
 そんなにやばいなら真面目に講義を受けていればよかったのだ。講義中にぐっすり眠り込んでいた男が今更「やばい」だなんて、僕にはさっぱり理解できない。
「分かった。分かった! 奢る。お茶でもしながらゆっくり話し合おう! なあ、コウスケ君。」
 悪友は、無言のまま真っ直ぐに歩いていた僕の腕を掴んで引っ張った。
「僕は急いでるんだ。」
 そう答えたものの、実際にはそれほど急いではいなかった。レポートが思いのほか早く終わって、もうすぐおやつの時間になろうかというところだ。小学生のマユコちゃんが帰宅しているかどうかも怪しい時間である。
「まあ、そう言わずに……。」
 悪友に掴まれた腕を振り払うこともできず、僕はずるずると悪友によって大学近くのドーナッツショップへ連れて行かれることになった。退屈な授業とレポートで疲れた頭を癒すのに、悪友の支出で糖分を摂取するというのも悪くはない案だと思ったからだ。本気で逃げようと思えばいくらでも方法はある。僕は昔から体育だけは苦手だったが、体力に勝る知力があることを知っている。力任せに引っ張られたくらいで降参するような間抜けではないのだ。
 僕は同行する意思を示した後、僕の腕を掴んだままの悪友の手を振り払い、機嫌よく笑う悪友に続いてドーナッツショップへ入った。様々な種類のドーナッツが並んだショーケースを覗きながらご機嫌の悪友に「コーヒー。」とだけ告げて、僕は店の奥へ行った。甘いもので糖分補給をするつもりが、店内の甘いにおいを嗅いだらそれだけでもう十分な気持ちになってしまった。元々僕は甘いものがあまり好きではない。
 間もなくして、悪友はコーヒーとコーラ――アイスコーヒーならしゅわしゅわとした気泡は見えないはずだ――それから、小さなお皿に半ば無理矢理載せられた三つのドーナッツをトレイに載せて僕の向かいの席へやってきた。
「ほい、コーヒー。」
 悪友は僕の前にコーヒーをソーサーごと置いた。コーラと三つのドーナッツは間違いなく自分のためのものなのだろう。三つの内の一つが僕のために気を利かせて注文してくれたものであるなどという解釈は成り立たない。
「で、田山のノート、今持ってるんだよな?」
 悪友はにこりと笑って言った。
 ――ああ、持っているさ。今朝、講義を受ける時に必要だったからね。
「持ってるけど?」
 面白くもない嫌味を返すのも面倒で、僕は短く答えてコーヒーに口を付けた。
「見・せ・て?」
 大学生の男が媚を売ってもかわいらしくないどころか気持ち悪いという事実を僕は悪友に伝えるべきか悩んだ。実際は、反射的に「消えろ。」と叫びたい気持ちをすんでのところで抑えたのだが……。
「嫌だ。」
 僕は相手と同じ三音で答えてやった。間違っても媚は売らない。
「なんでだよ。ノートくらい人に見せて減るもんじゃないだろう。いま少しだけでもいいから、すぐにコピーしてくるからさ。あ、何ならこれ食べてて良いから。」
 悪友は山盛りのドーナッツを僕の前に差し出して言った。どう考えても甘過ぎるクリームたっぷりの商品ばかりを選んでいるそれは、僕にとっては嫌がらせ以外の何ものでもない。
「いらない。」
「あー、もー、頼む! 一生のお願い! 他のやつらに頼んだけど、まともにノート取ってる奴一人もいねえんだよ。コウスケ君だけが頼みです!」
 悪友はがばっと頭を下げた。気をつけないと髪の毛がコーラに入ってしまうと教えてやるべきだろうか。
 全く、類は友を呼ぶとはこのことだ。この悪友の周りには授業をまともに聴かない奴ばかりが集まっているに違いない。このまま僕もこの悪友に関わっていると、朱に交われば赤くなるを証明してしまいかねない。早く縁を切らなければ。
 僕は鞄を探り、取り出したそれで悪友の頭を叩いた。悪友はきょとんとして顔を上げる。そして瞬く間に嬉しそうに顔を綻ばせた。
「そうこなくっちゃ! やっぱりお前はいい奴だ! みんなにちゃんと伝えておくからな!」
 悪友は僕が差し出したノートを受け取って叫んだ。僕のノートはまとめて複数部コピーされ、この悪友の周囲の人間に配られるのだろう。この程度は予想の範囲内だ。
 悪友はノートをテーブルの端に載せ、それから満足そうにドーナッツの載った皿を自分の手許へ引き戻し、一つを取ってかぶりついた。僕がゆっくりとコーヒーを啜り、悪友は甘ったるいコーラで甘ったるいドーナッツを胃へと流し込んで行く。
「じゃあ、そう言うことで……。」
 コーヒーを飲み干した僕は立ち上がった。
「ふぁ、ふぉっふぉまふぇ!」
 ドーナッツを咥えたままの悪友は、隣を通り過ぎようとした僕の腕を掴んだ。言葉にならない声は、意訳すれば「あ、ちょっと待て!」だろうか。
「せっかくだからもう少し話をしていけ。これ、一つやるから。あ、お姉さん、コーヒーお替り!」
 悪友は僕を引き止めると、お皿に残された二つのドーナッツのうち一つを手に取り、お皿を僕の席の方へ寄せ、挙句の果てに忙しそうに働いている店員を捉まえた。
「お前にはもう少し聞きたいことがある。まあ、座れ。」
 悪友は片手にドーナッツを持ちながら、尊大に言った。僕が渋々席に着くと、店員がコーヒーの入ったポットを持ってやって来る。それほどコーヒーを飲みたい気分ではないのだが、店員は空になった僕のカップになみなみとコーヒーを注いでくれた。
「ごゆっくりどうぞ。」
 嫌だ。できれば早く帰りたい。店員は僕の心境など知る由もなく、ありがたくない言葉を吐いてくれた。
「お前、彼女いるか?」
 悪友はコーラで一息入れた後、突然聞いた。
「は?」
 僕は冷静に聞き返す。多少の苛立ちがあったことは否定しないが、取り乱しはしなかった。
「いや、だから、恋人。彼女とか……婚約者とか?」
「いると思ってるのか?」
「いや、思ってない。だから聞いた。」
 恋人のいない者同士仲良くしようとでも言うつもりなのだろうか。だとしたら非常に迷惑だ。
「ちなみにお前、妹もいないよな?」
「姉貴はいるけど?」
「妹はいないわけだ。」
「何の訊問だ?」
「……正直に答えてくれ。あの子は誰だ!?」
 悪友は身を乗り出しながら言った。全く意図が理解できない。あの子は誰だと聞かれても、あの子が誰だか分からない。いや、何となく想像は付く。悪友がろくでもない勘違いをしているということも……。
「あの子って?」
 僕は冷静に聞き返し、なみなみと注がれてしまったコーヒーを仕方なく消費する。
「だから、お前が昨日の夜にこっそり部屋に連れ込んだ……。」
 こっそりと言うのは悪友の完全な誤解から発生した思い込みである。
「マユコちゃんのことか。」
「お、お前やっぱり!」
「やっぱり……姪を預かって面倒を見るなんて優しいなあとでも言いたいのか?」
 僕が言うと、悪友はきょとんとしている。
「姪?」
「姉貴が夫婦で海外旅行に行く間、預かってる。その話じゃないのか?」
「いや……そうか、そうだよな! うちの大学一の優等生であるコウスケ君がそんなことはないって俺も思ってたんだよ。それを鈴木の奴が……。」
 誤解をしたという点においては鈴木もお前も同じようなものだろうと言ってやりたかったが、無駄な論争を引き伸ばしたくはなかった。
「で、お前、その子、いつから預かってるんだよ。」
 悪友は安心した様子でコーラをストローで吸い上げて言った。
「昨日から。」
 悪友が僕の目の前のドーナッツを惜しそうに眺めるから、僕は皿を悪友の前のトレイに戻してやった。
「あ? いらないのか? じゃあ、俺が。」
 悪友は満足そうにドーナッツを取る。
「しっかし、お前がお子様の面倒を見てるとはねえ。いくつ?」
「小学一年。」
「ちゃんと面倒見れてんの?」
「別に、飯と寝床提供してるだけだから。」
 繰り出される質問に淡々と答えていると、突然、悪友の目が光った。
「寝床……って、もしかして一緒に寝てたりする?」
 悪友はにたりと笑う。僕はなんと答えようか一瞬考えた後、最も合理的な結論を導いた。
「帰る。」
 僕は立ち上がると同時に、悪友に渡したはずのノートを手に取った。
「わっ、待て! それはまずい! 今のはほんの冗談だ!」
「悪趣味な冗談だ。」
「お前が真面目なのはよぉく分かった。ああ、そうだ! マユコちゃんだっけ? ほら、可愛い姪御さんにお土産のドーナッツを持って帰ってやったらどうだ? 喜ぶぞ? な、俺が奢るから。」
 悪友は僕をその場に留めると、慌ててカウンターへ走って行き、再びドーナッツを選び始めた。僕はもう一度席に腰を下ろし、まだ半分も飲んでいなかった二杯目のコーヒーに口を付けた。
 僕が何とかコーヒーを飲み干した頃、悪友はドーナッツの入った箱を持って戻ってきた。
「特別大サービスの六個入りだ! さあ、これで文句はないだろう。ノートを返せ!」
 悪友は自慢げに僕の目の前にドーナッツの箱を突きつけ、空いた一方の手を差し出した。
「僕のノートだ。」
「お願いします、貸してください。」
 悪友は素直に僕に頭を下げる。僕はドーナッツの箱を受け取り、悪友の手にノートを置いて、ドーナッツショップを後にした。
「明日の講義には返すからなー。」
 悪友の馬鹿でかい声は店員や他の客にとっては非常に迷惑だったに違いないが、それは僕のせいではない。

 僕がやっとドーナッツを消費し終えた時、マユコちゃんはいつの間にか二つ目のドーナッツの最後の一口を口に入れようとしていた。このまま残りのドーナッツを食べさせると、夕飯を食べられなくなってしまうのは間違いない。
「今日はそこまでね。」
 僕はテーブルの上に載せられていた箱を手に取った。残りは明日の朝ご飯にでもしよう。僕が夜食として食べたっていい。いつの間にかドーナッツの数が減っていたら、マユコちゃんはまた機嫌を悪くするだろうが、古いドーナッツを食べて万が一にもお腹を壊されると困る。箱には「お早めにお召し上がりください。」と書いているのだ。普通は一日が限度だろう。
「ええー。」
 マユコちゃんは不満そうな声を漏らしながらも、暴力的抵抗はしない。姉の子供にしてはなかなか教育が行き届いている。旦那様がまともだからかな、と僕は思った。大事な愛娘を僕のような男に預けて夫婦水入らずのシンガポール旅行を楽しんできてしまうというのはある意味非常にまともではないことだったかもしれないが、姉のわがままに反論できなかったというのが実際だろうと思うから、たぶん彼はまともだ。尤も、本来なら配偶者として姉を選んでしまったという時点で彼のまともさを疑うべきなのだが、世間的には美人に属する姉だから、うっかり過ちを犯してしまうのもよくある話だろう。結婚前に気付かなかったのは大きな過ちだろうが、まあ、なんだかんだで仲良く夫婦を続けているのだから良いことだ。
 僕はドーナッツの箱を冷蔵庫に入れるついでに、冷蔵庫の中の食材を確認した。昨日、空っぽの冷蔵庫に気付いた僕は、マユコちゃんを連れて――本当は連れて行きたくなかったのだが、どうしてもついて行くと彼女が聞かなかったのだ――近所のスーパーで色々買い込んだから、今夜と明日の朝食には十分すぎる食材が揃っている。結果として、僕の財布は空に近い状態になっていたけれど――マユコちゃんが食材以上にお菓子をねだったことも大いに影響している――なんとか次の給料日まで食い繋げそうだ。
 最悪の場合は、またあの悪友にドーナッツを奢ってもらうしかない。あまり頼りたくない人間だが、生命維持に関わるとなれば話は別だ。
「マユコちゃん、今日のお夕飯はカレーでいい?」
 ついでに、明日はシチューで明後日がハヤシライスでもいいかと尋ねたかったが、たぶん「だめ。」という答えが返ってくるだろうと想像できたから、その質問はやめておいた。
「いいよー。マユコ、カレー大好きー。」
 姉の手料理をおいしいと思える舌なら、僕の手料理でも大した文句は出ないだろうと思いつつ、僕は夕飯の仕度を始めた。
 僕がたまねぎを切り始めると、ちょうど背後から賑やかな音楽が聞こえて来た。アニメのオープニングテーマらしく非常に前向きだが、時々おかしな英語もどきの歌詞がどうにも気に障る。聞いているだけでも恥ずかしいオープニングが終わった後も、やはり恥ずかしい台詞を臆面もなく発する登場人物ばかりのアニメは聞くに堪えず、僕は精一杯、目の前の食材に集中した。僕が泣いていたのはアニメの登場人物の決め台詞に感動したからではない。たまねぎの発する硫化アリルなどの辛味成分が持つ催涙作用のせいだ。
 何とかたまねぎとの戦いを終えて、涙も引いた頃、お気に入りのアニメを見終わったマユコちゃんがキッチンを覗いて来た。
「お手伝いすることある?」
「ないよ。」
 僕が答えると、マユコちゃんは暇を持て余すように狭いキッチンで僕の周りをうろうろした。食器洗いくらい頼んでもよかったのだけれど、マユコちゃんの背ではシンクに届かないし、踏み台として使用できそうなものもそばになかった。
僕の寝室兼勉強部屋に椅子が一脚あったけれど、それをわざわざ持って来るというのは面倒だ。
「学校の宿題は終わった?」
 鍋をかき混ぜながら、僕はマユコちゃんに尋ねた。
「今日は宿題ないの。」
「そう。……テレビ見ててもいいよ? ゲームしててもいいし。」
 僕がそう言うと、マユコちゃんは渋々リビングへ戻って行った。近くをうろうろされるとどうも落ち着かない気分になるから、マユコちゃんがリビングに戻ってくれて僕は心底ほっとした。
 しばらくして僕はカレーを作り終え、自分の分とマユコちゃんの分をお皿に盛り、リビングへ持って行った。カレーをじっくりことこと煮込む間に用意したサラダ付きだ。僕の夕食にしてはなかなか豪勢な方である。
 リビングで待ちくたびれた様子だったマユコちゃんは、カレーの姿を目に留めると、喜々とした笑顔を見せた。
「いただきまーす。」
 マユコちゃんはカレー皿が目の前に置かれるなりそう言って、掴んだスプーンでカレーライスをすくった。僕はマユコちゃんが一口目を飲み込むのを待って「おいしい?」と聞いてみる。一応味見はしていたから「おいしくない。」の答えが返ってくることは想定していない。
「うん。コウちゃんのカレーすごくおいしいよ!」
 マユコちゃんが僕の予想通りの返事を返し、僕は満足してカレーを食べ始めた。一口食べて、ふと邪悪な質問が脳裏を過ぎる。
「ちなみに、お母さんのカレーとどっちがおいしい?」
「コウちゃんのカレーの方がおいしい!」
 マユコちゃんは即答した。子供は正直だ。
「コウちゃんのカレーとってもおいしいから、マユコ、大きくなったらコウちゃんのお嫁さんになってあげるね。」
 子供の発想というのはどうにも解せないものがある。僕のカレーがおいしいとお嫁さんになってくれるというのは、結婚後は僕が料理をすることを期待しているということだろうか。今時、家事の分担を拒絶するほど僕の頭は固くないが、何となく全ての家事を押し付けられそうな気がする。わがままな姉の子供だということを思うと余計にそんな予感が強くなる。そもそも「なってあげる」とはどういうことか。僕はマユコちゃんにお嫁になってくれと頼んだ覚えはない。いや「あげる」という表現は目上の者に対して使う敬語表現の一つだから、一応は僕を敬意を払うべき対象と見てくれていることに感謝するべきか。
 いずれにしても、無茶な話だ。民法上、叔父と姪の間での婚姻は成立しない。認められない。しかし、だからと言って、ここで「それは不可能だ。」と断言するほど僕も堅物ではない。というか、そんな回答は無意味だ。小学一年生のマユコちゃんが子供は結婚できないという事実を知っているだけでも褒めてやるべきだと思えるくらいには僕も大人だった。
「そう、じゃあ楽しみにしてる。」
 僕の回答に、マユコちゃんは嬉しそうに笑って再びカレーを食べ始めた。マユコちゃんは口の周りにご飯粒を付けている。どうせ今取っても、また次の一口で同じことをしでかすに違いないと思ったから、僕は黙って自分のカレーを食べ続けた。食事が終わっても本人が気付かないようなら、注意してやろうと思う。

《了》


前項

作者/桐生 愛子