マンションの新婚さん




東京郊外にある普通のマンション。そのマンションの503号室に新婚夫婦、山崎美佳さんと友之さんが住んでいる。
これはそんな新婚さんが主人公のどこでもありそうな物語である。

10月のある日、友之の両親から久しぶりに荷物が届いた。
開けてみると段ボール箱一杯に梨が入っていた。
友之の実家の兄弟が茨城で果樹園を営んでいるということで毎年この時期になると梨を頂くのである。
もちろん新婚さん2人ではとても食べきれないのでいつも隣近所の家におすそ分けをしている。
友之にも会社の同僚にいくつか持っていくと言っていた。
美佳も明日マンションの隣近所に数個ずつおすそ分けをするということだ。

翌日、家事を終えた美佳は早速頂いた梨を数個ずつスーパーの袋にいれた。
まずは隣の家の504号室の本田さんに梨を持っていった。
ここの家は山崎家がこのマンションにきた当初から色々とお世話になっている。ごみの出し方や近所の公共施設の位置まで色々なことを教えてもらっている。
この家の50代くらいのおばさんは細身でいつもしゃれた眼鏡をかけている方で、どことなく気品を感じさせられた。
玄関のベルを鳴らすとすぐに本田さんのおばさんが出てきた。美佳は「夫の田舎から送ってきた梨です。少ないですがどうぞ食べてください」と話した。
本田さんは思いがけない頂き物をもらったためかたいそう喜んでくれた。
「こんなせわしない世の中、しかもマンションでありながらきちんと近所づきあいをしてくれる人がいるとは・・・」
美佳も自分ではおすそ分けくらいなんでもないことだと思ったのだがこんなにも喜んでもらったのは珍しい。
「もし良かったらお上がりになってお茶でもどうですか?」本田さんにも笑みがこぼれている。
家事が終わった主婦の身である。せっかくの誘いを断るわけがない。美佳も快諾し本田さんの家に上がった。

本田家は子供が独立し今では夫婦二人暮しだそうだ。そのためか室内は小奇麗に整理されている。山崎家とは大違いである。
そして何よりも部屋のあちこちに写真が飾られているのである。少し前の写真ばかりで家族3人で写っている写真がほとんどだった。意外なことに本田さんの旦那さんはかなり体格のいいスポーツマンタイプの方なのである。
そうしているうちに台所にいたおばさんがお茶と菓子を私のところに運んできた。
「お茶を飲むと眼鏡が曇るから・・・」といいながら眼鏡を年季の入った眼鏡ケースにしまった。眼鏡を取ったおばさんの姿は今まで美佳がマンションの廊下や外で見かけたときと違い何だか素朴でどこか可愛らしい感じがした。
美佳は今までと違う姿に少し動揺したが外見では平静を保っていた。けどおばさんはそれを察知したらしく、
「私は昔から眼鏡を取ると子供っぽくなって見えるのよ。まあ私は眼鏡がきっかけで今の旦那と結婚したんだけどね・・・。」
美佳も結構恋愛モノは好きであり、いわゆる「なれそめ」の話となると俄然興味がわくのである。もちろん相手に失礼にならない範囲で聞くのは当然のことである。
「もし良かったらでいいので、おばさんが旦那さんに出会ったきっかけを教えて下さい・・・」美佳は言った。
機嫌がいいのか相手に教えたい話だったのか、ためらいもなく本田さんは話し始めた・・・・・・

昭和40年代。私は富山県の片田舎の高校に通っていた。当時から私は目が悪かったので日頃から眼鏡をかけていた。
勉強が出来たので先生や一部の生徒からは好感を持っていたが、勉強が出来ない一部の生徒にとっては私のような人は鬱陶しい存在なのか、クラスの中の数人は私のことを好意的には思っていなかった。
「ガリガリのガリ勉メガネ女!」こんな風に私は一部の生徒からからかわれ馬鹿にされていた。
悔しいけどその言葉は響きがいいから今でも良く覚えている。もちろんそんな人たちにはいつもは相手をしなかった。相手にすると無駄な被害を被るのは目に見えているし馬鹿馬鹿しいからだ。
高校生だから子供と違い私に直接手を出したりいじめたりはしなかった。けどその人は一度だけ手を出した・・・

「殴られたの?」話の途中だが美佳は質問した。本田さんは首を横に振った。

・・・一回だけちょっかいを出されたのはある秋の日。普段は相手にしない私をからかう2人の生徒につい「いくらあんたたちが頭が悪いからと言っていい加減私を馬鹿にするのはやめて!」と抵抗した。
するとそのうちの一人が私の眼鏡を取り上げた。「やーい!お前なんか眼鏡がなくていいんだ!」「眼鏡を取ったら何も出来ないだろう!」などとと罵ると私の眼鏡をわざと床に落とした。
幸いこの時私の眼鏡は、当時ようやく出回り始めたプラスチックレンズの眼鏡だったので割れはしなかったがフレームが少し欠けてしまった。
「イヤー!眼鏡がないと私、何も見ないのよ!」全然視界が見えない中、奴等に抵抗することも出来ずにそのまま床にうずくまりうなだれてししまった。
私が反発をしたのも悪かったが、それにもまして私の大事な眼鏡を取り上げられてしまったことが情けなくなり悲しくなった。
教室には10人くらいのの生徒が私の周りにいたが、私のことを冷やかしていたのかそれともいい気味と思っていたのかそれとも勇気が出ず黙殺していたのかは分からないが、一部始終を観覧するだけで私を助けようとする気配がなかった。
まさに四面楚歌状態になってしまい、私は感情も抑えることも出来ず思わず涙がこぼれ始めた・・・。

そのとき教室に大きな声が響いた。
「・・・女の子にそんなことをして何が楽しいのか!!」
大柄な男子生徒が私をいじめる生徒の前に立ちはだかった。
「本田さんの大切な眼鏡を奪って、しかもさらし者にするとは何事だ!同じ生徒として許せない!彼女が可哀想だとは思わないのか!眼鏡を早く返して謝りなさい!」
彼はその男子生徒が怖そうに見えたのか急に勢いを失い眼鏡を私に返すと強制的ながらも「もうこれからはからかいません」と平謝りをした。
本当にあの時彼の一言がなかったらあのままどうすることも出来なかったはずだったわ。

「・・・その男子生徒がひょっとして今の旦那さん?」美佳の質問に本田さんは照れながら頷いた。「・・・だって、私のことをかばってくれたのだから・・・。」

この話には続きがあって、あの日の放課後、私が帰ろうしたとき彼がやってきて『君の眼鏡を取ったときの顔は可愛いね。』と一言言ったの。
確かに私はやせていて魅力的な体型でもなく、眼鏡をしていて見た目が秀才の女史風だから、たいていの男子生徒は私を恋愛対象には思っていなかったらしいのよ。
翌日、彼は「見ての通り俺は図体たけが大きく運動だけがとりえで、おまけに君よりも頭が悪く話もぶっきらぼう。おそらく君とは不釣合いかもしれない。けどこんな俺でよかったら付き合ってくれないか!」と言ったの。
その時は困っていた時にただ一人私のことをかばってくれたし、しかも私のことを〔かわいい〕と思ってくれただけでもうれしいと思い、彼と付き合うことにしたの。
そして紆余曲折の末3年後に結婚したのよ。

ここまで聞いて、幸せそうに見える本田さんにもこんな辛い過去が有ったんだな、と美佳は意外にも感じた。
そのとき美佳はふと本田さんのおばさんの顔を見つめた。すでに茶を飲み終えたおばさんはいつの間にか眼鏡をかけている。
良く見るとおばさんがかけている眼鏡の左のレンズの縁の上の部分が少し欠けているのだ。
美佳は失礼だとは思いながらも、「ひょっとして今かけているのがこのときの眼鏡ですか?!」と尋ねた。するとおばさんは微笑みながら、
「そうよ。あれから何本も眼鏡は買い替えたが、この眼鏡だけは今でも手放すことが出来ないの。外では恥ずかしくてかけないのだけど、昔も今も度がそれほど変わっていないから今ででは室内用として使う程度なのだけど・・・」
美佳は「やはりそうだったんだ。思い出が詰まった眼鏡だったんだ!」と笑いながら話した。そのとき本田さんは少し照れていた。けどこの眼鏡こそが二人を結びつけた唯一の証拠なのである。
そしてなかなか人には言えない話をしてくれたこととその眼鏡を見せてくれたことに対し美佳は礼を言った。

「眼鏡が取り持つ恋」か。なかなかいいものだな。・・・梨を隣近所に配り終え自宅に戻った美佳はふとそう思った。それに比べて私と友之との出会いはいたって平凡だったな・・・と思ったりもした。まあそれでも友之と一緒に暮らして幸せなので別にいいのでは有るが。

これ以来美佳は504号室の本田さんのおばさんをちょっとうらやましく思った。もちろん「お気に入り」の眼鏡のことも・・・

《了》


前項

作者/K.S