自業自得




 新一郎は千鳥足で夜の街を歩いていた。ソフト開発関係の会社に勤める彼は今日仕事で大ポカをやらかして落ち込んでいた。憂さ晴らしに煽った酒もさほど強くない新一郎の体には逆効果だった。気持ち悪さと頭の鈍い痛みに苦しみながら彼は自宅へと歩いている。
「明日、会社に行きたくねえ」
 そうつぶやいてふとわき道に目を遣る。ふとその道を通ってみたい衝動に駆られた。夜ともなると街灯の少ないこの路地は真っ暗になるために用心からこの道は普段通らないのだが、この道を抜けると自分のアパートはすぐ目の前であることをふと思い出したのだ。そして、ひょっとしたら普段と違う世界を覗きたかったのかもしれない。あとになって彼はそう思ったらしい。
 ふらつきながら新一郎が路地を進んでいくと、丁度出口との中間の所に数少ない街灯が一本、そしてフードで顔を隠した、雰囲気からはかなり年老いた感じがする女性が、街灯の下に机を置きその脇で自分は小さな椅子に腰掛けている。新一郎が目を合わせずに通り過ぎようとすると、
「……もし」
 しゃがれた声で、その老婆は声をかけてきた。
「はい?」
「要らんかね?」
 見ると机の上には何の変哲も無いヒゲメガネが1つ。
「いえ、結構です」
「そうかい? 気に入ると思ったんだが」
 よく見ると、名札がくくりつけてある。そこには「不思議なヒゲメガネ 500円!」と書いてある。
「不思議な、ヒゲメガネ?」
 「不思議」という言葉に妙に惹きつけられた新一郎は、500円という安さもあってか、気がつけばそのヒゲメガネを買ってしまっていた。
「使いすぎに注意してくださいね」
 老婆はそう言うと、にやりと笑った。その笑みになんとも言えぬ気味悪さを感じて、新一郎は自分の家へと急いで帰る。少し歩いて振り返ると、そこには老婆の姿が既になかった。

 新一郎は自分の部屋に戻ると浴室にシャワーを浴びに入る。それが彼に日課で、今日もそれをいつもどおりこなす。しばらくして新一郎は裸のまま出てきた。着替えを取りに来たというのもあるが、第一一人暮らしである。朝までこのままだったとしても、特に誰に気兼ねする必要も無い。新一郎はそのまま冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出すとソファーに座りテレビをつける。画面には女子アナが真剣な表情で原稿を淡々と読み上げていた。
「そういえばあのメガネ、どこが不思議なんだ?」
 新一郎はテーブルに置きっぱなしになっていたヒゲメガネを手に取ると、名札をはずして掛けてみる。初め部屋の中を見渡したが別段変わったことは起こらない。騙されたのかと半分諦めながらテレビに目を戻した瞬間、新一郎は動転した。慌ててメガネを取るとメガネを上下させて普通の光景とメガネ越しの光景を不思議そうにしばらく見比べる。やがて新一郎は楽しそうに笑い出す。
「なるほど! 確かに不思議だ!」
 何の変哲も無い女子アナの映像、それがこのメガネを通すと一糸纏わぬ姿へと変わるではないか! 男性は誰しもスケベな一面が多少なりとある。新一郎もそういう意味では健全な男であった。新一郎はだらしの無い表情でこの無表情の女子アナを見つめていたが、ふとあることを思いついた。
「まてよ? これをつけて街を歩けば、道行く女性はすごく嬉しい格好になるんじゃないか?」
 そう思うと居ても立ってもいられなくなった新一郎は外へと出てみることにした。念のため玄関の鏡に自分の姿を映してみる。そこにはいやらしい期待に胸を膨らませる、全裸でヒゲメガネの自分が立っていた。ひどく滑稽ではあったが、効果を確信した新一郎は嬉しそうに外へと飛び出した。

 まずは人通りの少ない道を選んで新一郎は歩く。にやついただらしない顔の新一郎とは対照的に、すれ違う女性は声も出さずただ後ずさりをすると、こわばった顔で駆け出していく。その様子を見送りながら新一郎は考えた。
「やっぱりヒゲメガネって、普段掛けてると変に思われるのかな?」
 そう思いながらも徐々に気分が高揚してくるのが分かる。この世の中でひょっとしたら自分だけがこんな得をしているのではという錯覚に陥る。いや、実際そうかもしれない。その自信が新一郎の心を後押しした。
「もっと人通りの多い所へ、行ってみよう……」
 新一郎は、蛍が甘い汁を吸いに行くように街の明かりに吸い寄せられてゆく。大きな通りへと歩いてきた。新一郎のテンションは否が応でも上がる。
「うおおおお! 女だらけだああああ!!」
 ただの馬鹿である。ヒゲメガネをかけたニヤケ顔の男が大通りで叫んでいる、その光景は馬鹿としか言い表せない。決して作者のボキャブラリーのなさが招く弊害ではない……と、思う。とにかく新一郎は見まくった。腕組みをしながら一級の絵画を鑑賞するようにまじまじと道行く女性を鑑賞した。久々に楽しい夜が過ごせた新一郎は自宅へ戻ろうともと来た道を引き返そうとする。
「あー、ちょっと君」
 新一郎が振り返ると、そこには素っ裸の男が二人立っていた。一人は40歳半ば、もう一人は30歳手前と言ったところか。新一郎はがっかりした。折角いい気分なのにまさか最後に男の裸を見せられることになろうとは思いもしなかったからだ。
「何ですか」
「何ですかじゃないよ。どういうつもり?」
 新一郎は早く家に帰りたいと思い、憮然とした態度をとる。
「別に。どうでもいいことでしょ? ヒゲメガネ掛けて街を歩いたらいけないという法律でもあるんですか?」
「いや、別にそういうことではないんだけどねえ……」
「じゃあ一体何が不満だって言うんですか!」
「うーん、とりあえずそのメガネを取って顔を見せてくれないかな?」
 新一郎は舌打ちしながらヒゲメガネを取る。そして自分が置かれている状況をそこで初めて理解した。
「あ……ごめんなさい……」
 目の前には警官、自分は全裸、自業自得。

《了》


前項

作者/ 柊 真平