平成浪漫




 北沢功一は提出されたばかりの書類に誤りのないことを確認すると、判を捺した。生乾きの朱肉に気を付けながら慎重に書類を揃え直す。
「問題ない。これで経理に回してくれ。」
 北沢は逆さまに持ち直した書類を、目の前に突っ立っている神妙な面持ちの新入社員に差し出した。
「はいっ。」
 新入社員は威勢のいい返事を返しながらも強張った表情で書類を受け取る。背を向けてから、ほっとしたように肩の力を抜いたのが北沢の目にもはっきりと見て取れた。安心したらしい新入社員は今にもスキップを始めそうな軽い足取りで部屋を出て行く。初めての仕事に緊張しながらも、自分の企画が通ったことが相当嬉しいのだろう。
 入社して間もなく、初めて任されたプロジェクトにはしゃいだことが自分にもあったと北沢は懐かしさを抱きながら老眼鏡を外した。かつては左右共に一・二以上と自慢の一つだった視力も、老化の波には抗えず、今では書類を読むにも新聞を読むにも、一々眼鏡が必要になる。眼鏡に慣れない目はその度にやたらと疲労を感じ、それが更に視力低下を誘引していることは間違いなかった。最近は老眼以外に近視も進んでいるように思え、次の健康診断では間違いなく、新しい眼鏡を作るよう勧められるのだろう。
 昔は良かったなんてくだらない懐古趣味に浸ってみたところで、何かが変わるわけでもない。ただ時々、ふっと昔に戻りたくなる。昔に戻って、もう一度やり直せたら……。そうしたら今とは違う何かを手に入れることができたのではないか、と。
 今の人生の何が不満と言うわけではない。給料はこの不景気の中にしては必要十分なだけ貰っているし、仕事にはやりがいを感じている。人間関係だって、課長という悩み多き中間管理職にしてはかなり恵まれた状態にあるのだろう。
 何が足りないのか、それは今更問うまでもなくはっきりしていた。
 ――家族。
 五十を過ぎて、北沢は独身だった。早くに妻を亡くしたとか、離婚したとかいうわけではない。北沢は今まで一度も結婚したことがなかった。
 女性に興味がないわけではない。結婚を面倒だと考えているわけでもない。子供嫌いだなんてことも全くない。何度か見合いをしたこともあるし、女性からそれなりの好意を示されたこともある。一緒にレストランで食事をしたり、映画を観たり、そういう相手がいなかったわけではない。ただ、恋人同士と言う気分ではなかった。相手がどう思っていたかは別として、少なくとも北沢自身はそういう気持ちになれなかったのだ。
 結婚はしたかった。いや、この表現は正しくない。正確には、結婚は当然にするものだと思っていたと言うべきだろう。
 ただ、結婚したいと思う相手がいなかった。どんなにきれいな女性を見ても、どんなに優しい女性を見ても、その人と残りの人生を共に過ごそうという気にはならなかった。
 いや、ずっと昔に、たった一人だけ……。

 大学の卒業式が終わって就職を間近に控えた頃、北沢は世話好きな叔母にごり押しされて、生まれて初めて見合いをすることになった。学生の内から見合いをしてまで結婚相手を探さなければならないほど、北沢は恋人探しに苦労してはいなかったのだが、その頃は叔母の趣味に付き合えるちょうどいい人材が親戚内に不足していたから、北沢は不運にも暇を持て余した叔母の標的としてリストに入れられ、その顔を立てるために無理矢理引っ張り出されたのだ。
 見合い会場はホテルのレストランだった。その頃から早め早めの行動をポリシーにしていた北沢は、電車の乗り継ぎが予想以上に都合良く進んだこともあって、約束の時間より三十分以上早くホテルに着いてしまった。ホテルのロビーで待ち合わせをしていた叔母もまだ到着していないらしく、北沢は手持ち無沙汰にホテルの中庭へ出た。
 丁寧に手入れのされた日本庭園に、桜があった。ピンクの花を満開に咲かせた桜は、緑の多い庭園で一際目を引く存在だった。しかし、それ以上に北沢の目を引いたのは、その桜の下の振袖だった。桜と同じピンクを基調とした振袖に錦の帯が蝶のようにくっ付いている。綺麗な黒髪は結い上げられ、うなじが見える。あまにりも艶かしい後姿に、北沢はごくりと唾を飲んで、ふらふらと誘われるように桜の下へ近付く。背後の気配に気付いたのか、振袖の女性はゆっくりと振り返り、北沢を目に留めると微笑んだ。真っ赤な口紅が微かに動く。
「今年は桜が早いですね。」
 女性が満開の桜を仰いで呟いた。
「え? ええ。」
 女性に見入っていた北沢も、慌てて桜を見上げる。満開の桜が、風に揺られてひらりと花弁を一枚零した。
「もう満開になって……散るのも早いのかと思うと寂しくなります。」
 女性はゆったりと語る。振袖を着るくらいだから、年の頃は北沢と変わらないか、少し若いくらいだろうか。落ち着いた口調は大人びた雰囲気を漂わせるが、紅を引いた唇はふっくらとしていて、顔にはまだあどけなさも残る。
「ええ。」
 答えながら、北沢は再びぼんやりと目の前の女性を眺めていた。
「功一さーん!」
 ふと背後から響いた声に振り返ると、叔母がこちらに向かって手を振っていた。叔母の声の大きさに恥ずかしさを覚えながら、再び叔母が声を張り上げるのを止めなくてはならないと、北沢は振袖の女性に小さく会釈して、叔母の下へと早足に歩いて行った。
「私、ロビーで待っていてって言わなかったかしら。」
「ええ。でも、少し早く着いてしまったので、少し散歩を……。」
「そうなの? でも、あちらさん、もういらしてるのよ。」
 叔母は妙に焦った様子で早口に言い、すたすたと北沢の前を歩いて行く。叔母の後を追いながら、北沢は庭園の入り口で足を止めた。ゆっくりと振り返ると、振袖の女性はまだ桜の木の下にこちらを向いて立っていた。北沢が振り向いたことに気がついて、にこりと微笑む。視力には自信があった。確かに彼女は微笑んでくれた。
「功一さん!」
 再び桜の下へ引き付けられた北沢は、叔母の急かす声に引き戻される。北沢はゆっくりと庭園に背を向け、叔母について見合い会場へと入って行った。
 その後の見合いはあまり好ましいものにはならなかった。元々結婚をするつもりも、見合いをするつもりもなかった北沢だから、見合い相手への関心もさほど高くない。北沢は黙々と出される料理を食べ続け、北沢の沈黙を補うために叔母がやたらと喋り続けていたのを覚えている。後は若い人たち二人で……なんてお決まりのパターンに入ることもなく、北沢はお腹を満たした後、叔母の説教を聞きながら真っ直ぐ帰って来た。
 散々文句を言ったにも関わらず、その後も叔母はしつこく見合いを勧めて来て、年齢が上がるにつれて北沢も多少の興味を持って見合いに挑むようになったのだが、それも何回か続いて間もなく、再び関心は薄れてしまった。
 叔母が見つけてくる見合い相手は決して悪い相手ではなかった。叔母の仲介で上手く行ったカップルも多いし、彼女の目は確かである。それなのに、北沢はどうにもピンと来る相手に巡り会えなかった。叔母の持ってくる見合い話以外にも、出会いはいくらだってあったのに。
 四十も後半になって、さすがの叔母も北沢に見合いを勧めることはなくなった。もっと若い結婚適齢期の親戚が彼女の回りに溢れているからだ。北沢は相変わらず、結婚しようなんて微塵も考えていなかったし、日常の煩わしさが減ったことはむしろ喜びだった。
 それでも、時折気になるのだ。大切な何かを忘れているような空虚な感覚が湧く。
 若い頃はただひたすら仕事に夢中になっていれば良かった。同僚と酒を飲み交わしながら愚痴を零していれば楽しめた。しかし、同期の連中が次々と結婚し、妻や子供が待っているからと付き合いを避け出して、仕方なく後輩を連れて飲み歩いてみるも、その後輩さえいつの間にか……。
 入社以来、熱心に仕事をしてきた割には出世も遅かった。上司は、いつまでも結婚の決まらない男に何か胡散臭いものを感じたのかもしれない。五十を間近にしてやっと課長に昇進したものの、職場内で密かに囁かれている噂があることも知っている。半ば冗談のようなものだからと気にしていないが、先程の新入社員が書類を受け取るときにやたらと身体をこわばらせていたのも八割がたはその噂の影響に違いない。
 ――北沢課長は男好き。
 全く、迷惑な誤解だ。結婚に対する関心が弱いのは確かだが、むさくるしい男連中と一緒にいるよりは、華やかな女性と一緒にいる方が心は安らぐ。最近の肌も露に街を闊歩する若い女性たちを見てどぎまぎするくらいには北沢も女好きだった。
 もし北沢が本当に男好きだったら、バレンタインデーに女子社員が用意してくれるチョコレートを年に一度の楽しみにしたりなんかしない。結婚願望はなくとも、女の子にもてることが嬉しいのは世の一般男性と変わりない。
 だからこそ余計に、どうして自分は結婚しようという気にならなかったのだろうと不思議に思う。今現在、結婚願望がないのは、ここまで独身で来て今更という気持ちもあるから仕方ないと思うが、過去に数多あった結婚のチャンスを逃してきたことは、北沢自身にも謎だった。
 原因として思い当たることは一つしかない。初めての見合いの直前に出会った振袖の女性だ。その後の見合いが上手くいかなかったのだって、目の前に座った女性以上にあの桜の木の下の女性が気になったからに他ならない。
 たった一度、ほんの数分間会っただけの人が気になって、他の女性を想うことができなかった。三十年間も、ずっと。
 我ながら信じがたい話だ。それでも、あの最初の見合い相手の顔はさっぱり思い出せないのに、あの桜の木の下の女性の顔は未だにおぼろげながらも脳裏に描くことができるというのは、やはり自分にとってあの女性が特別だったからなのだと北沢は思う。
 あれ以来、北沢があの女性に会うことはなかった。名前も聞かず、どこの誰かなんて分かるはずもない。しかし、そもそもこれまで北沢はあの女性を探そうとさえ思わなかった。
 もう一度会いたいと明確に思ったわけでもない。会いたいか会いたくないかと聞かれれば、きっと会いたいと答えただろう。しかし誰にも会いたいかとは聞かれなかった。だから、会いたいと答えることもなく、会いたいという自分の気持ちを認識することもなかった。
 ――会いたい。
 今更な話だと思う。どうして今更と思う。当時、美しかったあの人も、自分と同じように年齢を重ねているはずだ。とっくにおばさんになっているだろう。結婚して、子供もいるかもしれない。
 しかしもし、もしもチャンスがあるのなら……。

 翌日曜日、ふらりと散歩に出て訪れたのは、あのホテルだった。由緒正しい一流ホテルとして名を馳せたそれは、当時よりも広くなった敷地に当時とは異なる外観で建っている。玄関前の「旧館」の看板に記された矢印に従い、古い記憶を辿りながら北沢は歩いた。真新しい建物の背後から顔を出したのは、当時のままの景色。旧館の外壁が思いの外年代を重ねて見えないのはきちんと補修がされているからだろうか。速まる鼓動に急かされて、北沢は中庭へ出た。
 立ち止まって、息を呑む。
 あの時と同じだった。あまりにも似過ぎていた。全くあの通りだった。唯一違うのは、桜がまだ満開ではなかったことだ。
 桜の下には、振袖の女性が佇んでいた。薄紅色の、あの時と同じ振袖だった。少なくとも北沢の目にはあの時と同じもののように見えた。
 北沢はあの時と同じようにふらふらと夢見がちに桜の下へ近付いた。女性が振り返り、微笑む。
「今年は桜が遅いですね。」
 振り返った女性は、かつて北沢が同じ場所で出会ったあの人に似ているような気がした。年齢も同じくらいではないかと思う。もちろん、当時の女性が今も若いままで存在しているはずはない。それは北沢にも分かっていた。
「ええ。少し来るのが早過ぎました。」
「桜を見にいらしたんですか?」
「ええ、まあ。」
「何か特別な思い出でも?」
「え?」
「だって、普通はわざわざホテルの中庭にあるたった一本の桜のためにお花見に来るなんてしないでしょう?」
 女性の指摘は尤もだった。花見のためにわざわざホテルまでやって来たどころか、北沢は散歩のつもりで家を出たはずなのに、気が付いたら電車を乗り継いでまでここへやって来ていたのだ。
「ふと昔が懐かしくなりましてね。年を取った証拠でしょうか。」
 北沢はゆっくりと庭を見渡した。庭の景色は変わらないのに、自分だけが一人取り残されたような疎外感を覚える。
 ――来るべきではなかった。
 北沢は後悔した。懐かしさに浸れば浸るほど、目の前の現実が苦しくなる。取り戻せない何かの存在をはっきりと認識する。見上げた桜の枝にはいくつものつぼみが付いているけれど、果たしてこれらはきちんと花開くのだろうか。
「きっと素敵な思い出なんでしょうね。」
 北沢の心中など知る由もなく、女性はにこりと笑う。その笑顔が、三十年前の女性の笑顔と同じだった。突然のフラッシュバックに体が硬直し、北沢はじっと女性の顔を見つめた。
「何か……?」
 女性は北沢の視線に気付いて怪訝そうに首を傾げる。
「あ、いや。以前、ここでお会いした女性にあなたがそっくりだったものですから……。もう三十年も前の話ですが。」
 北沢は慌てて視線を逸らし、俯きながら言った。
「もしかして、その女性が思い出の人ですか?」
「は? え? ええ、まあ……。いや、お恥ずかしい。」
 北沢は最近目に見えて白髪の多くなって来た頭を掻きながら恐縮した。初めて出会った若い女性に対して何をお喋りしているのだろう。全く良い年をして……。
「きっと来週なら満開になっていますよ、桜。」
「沙希ちゃん。」
 北沢が顔を上げるのと、声が掛かるのはほとんど同時だった。女性の背後へ目を遣ると、五十前後らしい女性が立っている。
「こんなところにいたのね。黒川さんがお待ちかねよ。」
「はぁい。」
 女性は今時の若者らしい返事をして、北沢に背を向けた。二、三歩進んだところで、はたと足を止めて振り返る。
「来週も、来られますか?」
「え?」
「桜を見に。満開になったら、きっと綺麗ですよ。」
「そう……ですね。考えておきます。」
 北沢は微笑み返し、振袖の女性と、その母親らしい女性に向けて小さく会釈した後、桜の木に背を向けて歩き出した。
 北沢は確信を抱いていた。あの女性の振袖が三十年前の女性が着ていたものと同じで、あの女性がきっとあの人の娘だということについて。あの人を一目見て直感した。間違いない、と。どんなに年を重ねても分かるのだ。あの人だけは見間違えることはない。
 三十年前と同じほんの一時の出会いだった。再会は運命だった。今更結婚など考えてはいない。再び会えたというそれだけで、北沢は十分幸せだった。
 また来週ここへ来ようと決意する。この桜の下に、忘れてきてしまった懐かしい何かがある。ここへ来て何が変わるわけでもない。ただ心は穏やかに、安らぎの場所を求めている。


「絶対に間違いないよ。あの人が叔母さんの運命の人だよ。」
 見合い会場へ向かう廊下を歩きながら、沙希は興奮した様子で話した。
「運命の人ってねえ……。」
「あの人、私が思い出の女性に似てるって言ってたもの。お母さんにもよく若い頃の叔母さんに似てるって言われるし、この振袖だって叔母さんの借りてるわけだし!」
「沙希ちゃん、私、もう五十よ? あの人だってとっくに結婚してるわよ。」
「そんなの分からないじゃない。私はきっと独身だと思うな。結婚して幸せにしてるなら今更こんなとこ来ないよ。確か、コウイチさんって名前だって言ってたよね? ああ、名前聞いとけば良かった! でも、あの人絶対に来週も来るよ。ねえ、叔母さんも来週来るでしょ? ていうか、絶対来てよ。私、連れて来ちゃうから。」
「はいはい。分かったから、沙希ちゃん、今は私のことより自分のことを考えて。今日はあなたのお見合いなんだから。」
「分かってるよ。分かってる。お見合い写真を見た時にピーンと来たの。この人は私の運命の人だって! 私の勘、けっこう当たるんだから! だから、あの人が叔母さんの運命の人だって勘も絶対当たってると思う。ねえ、もし上手く行ったら、私と叔母さんと、黒川さんとコウイチさんでダブルデートしようよ。面白いよ、きっと!」
 沙希の大声にホテルの廊下を行き交う人の視線が集まるけれど、その声は既にホテルを後にした渦中の人へは届かない。それでも、運命は確かに導いている。

《了》


前項

作者/桐生 愛子