空高く、遥か彼方へ手を伸ばす




 青空を白い雲が流れて行く。ぷかり、ぷかり。ふわり、ふわり。ひつじが一匹、ひつじが二匹。うさぎが一匹、うさぎが二匹。
「うさぎは一羽だよ。」
 訂正の声と共に、視界に広がっていた青空が逆さの顔に隠された。
「哉田。」
 夏木は突然現れた級友の顔を見上げながら、その名を呟く。
「授業サボって、何やってるのさ。」
 哉田はにこりと笑って、夏木の隣に腰を下ろした。
「別に。」
 一時間目の数学の終了後、どうにも眠気に勝てず、少しばかり昼寝をしようと教室を抜け出したのだが、枕を忘れてしまったせいで固いコンクリートの上ではなかなか眠れず、空に浮かぶ雲をひつじやうさぎに見立てて数え始めたところだった……などという説明を一々する気にはなれない。尋ねた哉田だってそんな説明を求めているわけではないのだ。
「加藤先生は出席厳しいのに余裕だねえ。」
 哉田は膝を抱えて顔だけこちらへ向けながらけらけらと笑う。
「お前には言われたくない。ここにいるってことはお前だってサボりだろ?」
 夏木は腹筋を使って素早く身体を起こし、向けられた笑顔を睨み返した。
「うーん、でも、二限の理科は自習になったからねえ。仕方がないから僕は実験でもしようかと思って来たんだけど。」
 言いながら、哉田は用意して来たらしい実験道具を夏木の目の前に差し出した。
「何だよ、それ?」
「黒の画用紙。と、ルーペ。」
 哉田は目の前に差し出したそれを引っ込めると同時に笑う。
「そうじゃないだろ。」
「画用紙は美術室から貰って来た奴だよ。ルーペは理科室。」
 哉田は画用紙を広げ、その上でルーペを動かす。凸レンズが太陽の光を集め、黒い画用紙の上に光の点を作った。
「だから、そうじゃなくて。」
「昔やらなかった? こうやって焦点を合わせて……。」
 哉田は画用紙の上に小さな小さな点を作ると、ぴたりと手を止めた。
「ちょっと待て。お前、ここで燃やすのか!?」
 夏木は慌てて飛び起きる。
「大丈夫だよ。大した火にはならないし、燃え移るようなものも周りにないから。」
「そういう問題じゃないだろ、これは。」
「時々さー。」
 黒の画用紙に移した白い点を見つめながら、哉田が呟いた。実験を止めるつもりはないらしい。
「全部燃やしてみたくなるんだよね。全部消して何もかも無くなっちゃえば良いのにって。」
「それ、真顔で言うと危険思想だぞ。」
「そう?」
 哉田は柔らかな笑みを向けて、実験を続けた。
「あ、少し焦げてきたかも。」
「本当かよ?」
 夏木は怪訝そうに哉田の実験を覗き込む。
「もーえろよ、もえろーよ、炎よもーえーろー。」
「音、外してる。」
「音痴の夏木よりはマシだと思うんだけどな。」
「お前って、何考えてるのかさっぱり分かんねえ。」
 一歩下がって胡坐を掻き、ため息混じりに夏木は漏らした。続けて浮かんだ「頭はいいのに」という言葉を声に出すことはない。その褒め言葉を相手が喜ばないことはとっくの昔に悟っていた。
「夏木に理解されるほど底の浅い人間じゃないからね、僕は。」
 哉田の視線の先では白い煙が細長く昇り始めている。
「哉田。」
 じっとルーペ越しに光の点を見つめる哉田を眺めながら、夏木は呟くようにその名を呼んだ。何か言うべきことがあったわけではない。何も言うべきことが思いつかなかったから、ただ名前を呼んだ。今にも消え入りそうなそれをこの場所に繋ぎとめるために。
「うーん、燃えないねえ。焦げてはいるんだけど。僕はもっとこう炎を上げて燃える姿が見たかったんだけどな。ルーペのついでにリンでも貰ってくれば良かったかな。ほら、手品師がよく使ってる奴だよ。少しの摩擦熱でも燃えるんだ。」
「哉田。」
 哉田の説明を遮るように夏木が再び呼び掛けると、哉田は表情を崩した。
「何だかもう、疲れちゃったな。」
 哉田はふっと笑って、ルーペを黒画用紙の上へ置く。
「実験は失敗。これで終了!」
 哉田は声高く叫び、画用紙とルーペを端へ除けると、全身を伸ばしてごろりとその場に横になった。
「ちっぽけだなあ。」
 手の甲を額に当て、空を見上げて哉田が呟く。
「だから、これがあるんだろ?」
 夏木は哉田が脇へ除けたルーペを拾い上げ、レンズ越しに哉田を見た。焦点よりも遠くにある物体は本物よりも小さく見えたけれど、レンズを近付けるごとに少しずつその虚像は大きくなる。
「その発想、面白いね。」
 哉田はひょいと身体を起こし、けらけらと笑う。
「でも、確かにそれは真実だ。人間の力不足を補うために道具はある。」
 哉田は夏木の手からルーペを奪い取り、夏木を見た。
「ただ、使い方を間違えたらいけない。」
 そう言って哉田はルーペを空高く掲げた。
「例えば、ルーペで太陽を見るとかね。」
「目玉が焦げるから。」
「相変わらず笑わせてくれるよ、お前は。」
 哉田は柔らかく微笑んで掲げた腕を下ろした。夏木は黙って哉田を見つめる。
「さあて、教室に戻ろうか。今日は紫外線が強いらしいから。うっかりすると本当に焦げそうだよ。」
 哉田はルーペと黒画用紙を手に立ち上がった。
「夏木も戻るだろ? 今日は暑いから、日陰の教室の方が昼寝にはちょうどいいよ。」
 哉田は座り込んだままの夏木に向かって右手を差し出した。夏木は小さくため息を吐き……。

 空高く上った太陽の強い日差しが照りつける。夏木遼(なつき・はるか)は哉田巧(かなた・たくみ)へそっと手を伸ばした。

《了》


前項

作者/桐生 愛子