黄金の眼鏡と苺姫




 東の離宮の一室。
 薄暗いランプの明かりの中、ヴァニラ色の髪の少年が座っていた。
 視線の先にはクリーム色の髪をした幼い少女がいる。
 ベッドに入って、そろそろ一時間。
 眠りが来てもおかしくはないけれど、幼い少女――フレジェは眠れずにいた。
 窓辺から差し込む月の光は、秘密めいて、静かだった。
 身を乗り出さなければ見ることのできない星も、きっと綺麗だろう。
 フレジェは知っていた。
 空が雲に覆い隠されている日は、泣きたいほど悲しい。
 星が美しく瞬く日は、胸がはちきれそうなほど悲しい。
「《黄金の眼鏡》は良い眼鏡。
 百の秘密と千の知識を持っている。
 どんな願いも叶えてくれる」
 高く澄んだ声が歌う。
 この国では知らない子どもがいないほど、有名な童歌だ。
「本当? お兄様」
 首まで毛布を引き上げて、幼い少女は尋ねる。
 あたたかい毛布は、お日様の匂いがしてホッとする。
「もちろんだよ。
 可愛い僕の妹」
 少年――パルフェは、フレジェのクセのある髪を優しくなでる。
 母である王妃がそうしたように。
「じゃあ、お母様、帰ってきてくださる?
 遠い、お空のお星様になってしまったのでしょ」
 フレジェは口をへの字に曲げる。
 髪をなでてくれた手が止まる。
 自分の目よりも濃い、ラズベリー色の目が困ったように笑う。
「それは……お母様にも相談してみないとわからない。
 空の上は、とてもとても美しいところなんだ。
 神様のいらっしゃるところだから。
 この上なく素晴らしいものなんだよ。
 居心地が良いから、帰ってくるのは難しいかもしれない」
 パルフェは寂しそうにつぶやく。
「お母様にお会いしたいの」
「僕だけでは足りない?」
「だって、お兄様はお名前を呼んでくださらないでしょう?」
 フレジェは毛布を頭まで引き上げる。
 めそめそと泣き出したい気持ちで、心がいっぱいになる。
「仕方がないんだよ、小さな妹。
 それがこの国の決まりごとだからね」
 ルセット王国の不思議な慣習。
 王女の名前は秘される。
 名を呼ぶことができるのは、名づけた者と、伴侶だけ。
「あといくつお日様が顔出したら、お名前を呼んでもらえるの?
 お母様にお会いしたい。
 私の名前は『第一王女様』じゃないわ」
 フレジェは鼻をすすり上げた。
「すぐだよ。
 そんなに時間はかからない」
 大切な秘密を教えるような口調で、パルフェは言う。
「本当に?」
「僕が《黄金の眼鏡》頼んであげよう。
 どんな願いも叶えてくれる、魔法の眼鏡に」
 兄の言葉に、フレジェは毛布から顔を出した。
「約束よ」
「ああ、約束だ。
 だから安心してお休み」
 ラズベリー色の瞳が優しくうなずいた。

   ◇◆◇◆◇

「《黄金の眼鏡》は良い眼鏡。
 百の秘密と千の知識を持っている。
 どんな願いも叶えてくれる」
 窓際で少女は歌う。
 ルセット王国の第一王女フレジェは、クリーム色の髪に、甘いストロベリーピンクの瞳が印象的な少女だった。
 彼女を目にした者は、誰もが苺という王冠をいただいた軽やかな白いケーキを思い出す。
「第一王女様は、本当にその歌がお好きですわね」
 侍女は笑いながら、ゆるく巻く髪を飾り立ていく。
「お兄様がよく歌ってくださったから」
 夜、眠りにつく前に歌ってもらった歌。
 寂しいときに口ずさんだ歌。
 今もずっと一緒にいる歌。
 忙しい兄は、もう歌っていないかもしれない歌だ。
「まあ、国王陛下が?
 想像がつきませんわね。
 陛下にも、そのような子ども時代があったのですね」
 おしゃべりな侍女は、華やかな笑い声を振りまく。
「ええ、そうよ。
 あのお兄様にも、子ども時代はあったの。
 一緒に声を合わせて、歌ったわ。
 ところで、《黄金の眼鏡》はどんな願いも叶えてくれるって、本当かしら?」
 フレジェは笑いを含ませながら訊いた。
「さあ、どうでしょう?
 ご本人に訊かれたほうが早いですわ」
 侍女は銀の手鏡を差し出す。
 水面よりも正確に映し出す鏡。
 まるで、魔法みたいに右左が入れ替わる。
 手鏡片手に、フレジェは百面相をする。
 真珠や色ガラスのピンに飾られた髪は、すぐに崩れてしまいそう。
 それよりも危ういバランスで載っている白百合のほうが面倒だろうか。
「途中で落ちたりしないかしら?」
 不安になり、フレジェは尋ねる。
 恐る恐るシュガーピンクの飾りピンにふれる。
 滅多にしない盛装だけに、慣れやしない。
「大丈夫ですわ。
 きちんとリボンやピンで留めましたから。
 第一王女様が木の上から飛び降りても、崩れやしませんよ」
 侍女は請け負う。
「あら、そう。
 じゃあチャレンジしてみようかしら?」
 二割り増し清楚に見える姿に、フレジェは満足した。
 これなら、兄王も納得してくれるだろう。
 書き出しの決まっている手紙を見る機会は、減るだろうか。
 『親愛なるじゃじゃ馬姫こと、私の可愛い妹。少しは女性らしくなっただろうか?』
 それだけが心配だ。と、この国の王は言う。
 由々しき問題だという自覚はある。
 収穫祭に合わせて、お披露目が決まっている身としては、そろそろ猫の被りかたの一つでも習得しなければならない。
 手鏡の中のフレジェは、とりあえず第一王女様らしく見えた。
 毎日するには、なかなか肩のこる身支度だったけれど。
「かかとの高い靴ではおやめくださいませね。
 《黄金の眼鏡》殿が驚かれますわよ」
 手鏡を箱にしまいながら、侍女は釘を刺す。
「私も驚いたから、ちょうどおあいこよ。
 《黄金の眼鏡》が人間だなんて知らなかったわ」
 フレジェは口を尖らせる。
 ほんの最近まで、《黄金の眼鏡》はおとぎ話だと思っていた。
 困っている人のところに、ぴかぴかに輝く黄金色の眼鏡がやってくる。
 眼鏡は、千年も生きた老人のような神秘的な口調で尋ねるのだ。
 彼は、どんな願いを叶えてくれる。
 お代は、一滴の涙。
 願いを叶えてもらった人は、大喜び。
 やがて眼鏡は帰っていく。
 来たときと一緒、誰も見たことのない世界へ、音もなく帰っていく。
 泣く子どもをあやすための方便だったと信じていた。
 ところが現実に《黄金の眼鏡》は、存在していたのだ。
 百の秘密と千の知識を持つ、この国一の学者。
 それが《黄金の眼鏡》の正体だった。
「第一王女様はのんびり屋でございますわね。
 ちょっと大きくなれば、自然に知ることですわよ」
「誰も教えてくれなかったんですもの。
 知らなくて、当然だわ」


 フレジェは二度めのびっくりを味わうこととなった。
 国王が遣わせた《黄金の眼鏡》を見て。
 彼は、シャンパン色の頭髪に、優しげな顔立ちの青年だった。
「あなたが《黄金の眼鏡》?」
 フレジェは、砂糖菓子のような精緻な椅子の背もたれに寄りかかる。
 手にしていた扇をうっかり取り落とすところだった。
「はい。第一王女様」
 銀色のフレームの奥の瞳は、笑顔と同じ、穏やかなアップルグリーン。
 飾りの少ない長衣の胸にぶら下げられたメダルがなければ、博士号を持つ学者に見えなかった。
 せいぜい大学で学ぶ学生だ。
「どこが《黄金の眼鏡》なの?
 髪が金髪だから?
 だって、眼鏡は銀縁よね!」
 矢継ぎ早の質問に
「クランブルと申します。
 どうか、クランとお呼びください。
 人口のおおよそ半分は金と呼べる頭髪をしています。
 それでは《黄金の眼鏡》だらけになってしまいますよ。
 髪の色と眼鏡の色は、関係ありません。
 《黄金の眼鏡》は称号の一つです」
 ゆっくりとクランブルは答える。
 穏やかな話し方は、歴史の教師を思い出させる。
 若く見えても、学者なのだ。
 フレジェは姿勢を正す。
「国一番の学者なのでしょう?
 知っているわ、それぐらい。
 《黄金の眼鏡》は黄金色の眼鏡を持ってるはずよね」
 フレジェは本を調べた成果を発揮する。
 おとぎ話ではないと知ってから、たくさんの本を読んだのだ。
 もちろん、兄にもそれと同じぐらい手紙を書いた。
 新しく得た知識の自慢と隠し事をしていた恨みをこめて。
「それでしたら、こちらに」
 クランブルは二歩ほど近づき、ポケットからルーペを取り出した。
 窓から差し込む光に照らされたルーペの縁と鎖は、黄金。
 透明な凸レンズがキラキラと光を躍らせる。
 思わず伸ばした手の平に、それが載せられる。
 金属の冷たさを感じて。
 それから、ずっしりと重い。
 幼い頃に想像していた物と形が違う。
 ルーペは、しゃべりだしたりはしない。
 手の中に《黄金の眼鏡》がある。
 喜びよりも、驚きよりも、胸に広がるのは不思議な想い。
 実感が湧いてこない。
 感覚はどこまでも、他人行儀だった。
 兄が約束してくれた《黄金の眼鏡》。
 フレジェは、クランブルを見上げた。
 自分よりも四つか五つ、年上だろうか。
 二十歳を越えているとは思えない。
「あなたが、どんな願いも叶えてくれるの?」
「百の秘密と千の知識で答えられるものならば」
 柔和な笑みを浮かべたまま、クランブルはうなずいた。
 童歌の歌詞そのままの答えに、フレジェは歯を零して笑う。


「《黄金の眼鏡》は良い眼鏡。
 百の秘密と千の知識を持っている。
 どんな願いも叶えてくれる」
 口ずさみながらフレジェは庭を散策する。
 それに影のように付き従う《黄金の眼鏡》と呼ばれる青年。
 離宮から十分離れたところで、フレジェは立ち止まった。
 周囲にあるのは静かな森だけだった。
 ここまで来れば、立ち聞きの心配はなさそうだ。
 それに室内は、好きではない。
 風に吹かれているほうが、気分がいい。
「第一王女様は何をお望みなのですか?」
 クランブルが切り出した。
「どんな願いも叶えてくれるって、本当なの?」
「はい。
 今までも、私の叶えられる範囲でしたら、叶えていました。
 もちろん神の御手の内の事象までは、動かすことはできません」
 青年はフレームを指で押し上げる。
「そんなことを言ったのは、お兄様かしら?
 生き返らせて欲しい、とか」
「……はい。
 私は神ではありませんから、死んだ者を生き返らせることはできません」
 すまなそうにクランブルは言う。
 童歌では『どんな願いも叶えてくれる』と歌うけれど、《黄金の眼鏡》も人間なのだ。
 限界はある。
「そんな無理は頼んだりはしないわ。
 子どもじゃないもの」
 収穫祭が来れば、大人の仲間入りする。
 周りが考えているほど、子どもではない。
「あの時、陛下はまだ子どもでしたから」
 クランブルは懐かしそうに話す。
 銀縁の奥の瞳は、悠久の時を知るように、落ち着いていた。
 森の奥深くに隠された知識の林檎は、秘密をたくさん抱えているのだろうか。
 物語の中の魔法使いのように、時を止める魔法を知っているのかもしれない。
「あなたは一体いくつなの?」
 フレジェは尋ねた。
 千年ぐらい生きているのかもしれない。
「次の冬で十九になります」
 クランブルは答える。
 まるで辞書でも引いているようだった。
 疑問に何でも答えてくれる。
 教師たちのように、考えさせたり、回り道をさせたりしない。
 嫌な顔をせずに、答えてくれる。
「《黄金の眼鏡》は子どもでもなれるの?」
 本には国一番の学者としか書いてなかった。
 国一番の学者なんて、棺おけに片足を突っ込んでいるような人物のほうがぴったりだ。
 フレジェの教師ですら、三十、四十代。
 親ほどの年齢なのだ。
 宮廷の順位では、その上にいる《黄金の眼鏡》が十八歳。
 奇妙な感じがした。
「百の秘密の一つですよ。
 年齢は関係ありません。
 この国には、目には見えない辞書があるのをご存知ですか?
 王宮の奥深くにあるのですが、それを引くことができる人物。
 それが《黄金の眼鏡》です。
 二つめの秘密ですね」
 クランブルはあっさりと言う。
 世間知らずのフレジェでも、もたらされた秘密がとても大きいことはわかった。
 おそらく、他人には話してはいけない類の話。
 きっとフレジェのような子どもには、教えてはいけない秘密だろう。
 ストロベリーピンクの目の色を瞬かせ、大きく息を吐き出す。
 胸がドキドキして、ワクワクする。
 《黄金の眼鏡》は想像と違う形をしているけれど、誠実なイメージを裏切らない。
「お兄様ったら、秘密主義ね。
 ちっとも私に教えてくれないんだから」
 それでも感謝しなければならない。
 フレジェの願いを叶えてくれたのだから。
「あなたに会ってみたかったの。
 だからお願いは叶ったようなものね」
 フレジェは歩き出す。
 優しい優しいお兄様。
 国王になられてからは、お会いする機会も減ったけれど。
 わがままを言えば、叶えてくれる。
「他には?
 願いがなく、私の元へ来る方はいません。
 誰でも胸のうちに、何かしらの願いを抱えています」
 追いついてきた足音が尋ねる。
「神の御手の内の事象は、動かせないのでしょう?」
「……未来をお知りになりたいのですか?」
 穏やかな口調に影が落ちる。
 《黄金の眼鏡》は、兄と同じぐらいに優しいようだ。
「まあ、《黄金の眼鏡》は占術士でもあるのね。
 人の心が読めるって素敵かしら?」
 フレジェは顔を上げ、微笑んだ。
「生死にまつわることの次に多いのが、未来への干渉です」
「よく頼まれるの?」
「非常に」
「大変ね。
 感心しちゃうわ」
「お気遣いありがとうございます。
 ですが、私は《黄金の眼鏡》ですから……仕事の一つです」
 青年は言う。
 ぴんと伸びた背を見て、フレジェは立派と思った。
 仕事に誇りを持つ姿は好感が持てる。
「知りたかったのよ、単純に。
 《黄金の眼鏡》、答えて。
 私は恋ができるかしら?」
 努めて明るく、フレジェは尋ねる。
「いつか、『第一王女様』なんてつまらない称号じゃなくて、フレジェって呼んでくださる方は現れるかしら?」
 どんな願いも叶えてくれるというのなら、一つだけ。
 自分でも忘れてしまいそうになる名前を呼んでくれる人を連れてきてほしい。
 思い出の中の声ではなく、自分の声ではなく、誰かの声で名前を呼んでほしい。
 ずっと望んでいる、ずっと待っている、願いだった。
「あなたが望むのでしたら、いつかは」
 クランブルは穏やかに告げる。
「未来は知ることができないって……」
 フレジェは言葉をつまらせた。
「千の知識の一つです」
 《黄金の眼鏡》が持つのは百の秘密だけではない。
 千の知識も持っているのだ。
「《黄金の眼鏡》は良い眼鏡ね!
 童歌と一緒だわ」
 機嫌よくフレジェは笑う。
「光栄です」
 クランブルは嬉しそうに笑った。



 ルセット王国の第一王女の願いが叶うまで、あと少し。
 童歌の通りに《黄金の眼鏡》が叶えてくれる。
 その日まで、あと少し。

《了》


前項

作者/並木空