stolen time〜退屈しのぎ




薄暗闇の中、わずかに差し込んだ外光にあたって、丸みを帯びたレンズが白く浮かび上がる。すぐに消え、また光る。その白い点滅は、矢野がその場所にいる何よりの証拠だった。
「こんな暗いところで作業していると、目を悪くしますよ」
 若い男の声がするも、それで辺りが明るくなる気配はない。ただカチカチと金属が触れ合う音が、時計の秒針のように規則正しく響いている。
 男は招かれざる客だったが、主の応対を気にする素振りもなく、暗闇に慣れた様子で散らかったがらくたを避けて、足音一つ立てずに部屋を横切った。
「電気を点けますよ」
 その言葉をいい終わる前に、光閃が差し、裸電球に明かりがともる。一つしかないオレンジの光は空間を埋め尽くす金属のがらくたに影を作る。
「誰だ……」
 矢野は急に差し込んだ光に顔をしかめて、眇めた目を背後に向けた。
 ぎくしゃくと首を回して、そのあまりのぎこちなさに、自分がずいぶんと長いこと作業に没頭していたことに気づく。ということはつまり、これまでにも何度かあったように、来訪者は矢野に何度か声をかけ、その声に自分は気づかなかったに違いない。
 そう思って、声のする方を凝視するのに、視界に映るのはいつもと同じ巧機や金属の残骸に伸びる影だけ。何か特別な変化は見て取れない。けれども逆に、そのいつもと変わりない空間を見て、矢野は誰がきたのかをはっきりと悟った。
「……おまえさんか……」
「ええ」
「まだ約束のものはできていない」
「わかってますよ」
 来訪した男は明かりのともった部屋の中にいても、まるで影の中に立つように全身真っ黒なものに身を包んでいた。
 真っ黒なマント、真っ黒なズボン、真っ黒な靴、真っ黒な髪――。
 その真っ黒な男の、影に縁どられた顔が、どこか楽しそうな気配を帯びている――その音もない気配を、矢野は目にしなくても、はっきりと感じ取っていた。
「じゃあ、何の用だ?」
「いえね。ちょっと近くまできたものですから」
 真っ黒な青年は細い銀縁の眼鏡を押し上げながら、低く声を響かせた。
 艶を消した銀色は光をほとんど反射せず、わずかに細長いレンズが光を集めて、白い肌に光の影を作っている。白く柔らかな光彩を横目に見ながら、矢野は手にしていたボルトのナットをきつく締め付けた。
「どうもあなたの仕事ぶりは根を詰めすぎるようなので……」
「いけないか?」
「……そうですね…………」
 黒ずくめの青年は一歩、部屋の中心へと足を踏み出して、矢野が作っているものをじっと見つめた。
 巨大な鳥の骨格にも似た、人の背丈を越える金属フレームが、大きく弧を描いて交差する様は、下から見上げると、まるで中世の天球儀のようにも見える。別なときには、作業場の天井を支える筋交いと入り交じって、ただ無造作に置かれた金属の廃棄物の山の一欠片になっている。
「“これ”はいつ空を飛びますか?」
 青年の声は終始淡々とした調子で話しかけてきた。
 矢野も決して感情豊かに話しているわけではなかったが、黒ずくめの青年と比べると、ずいぶん感情が読み取れる声を出してるような気がしてくる。とはいえ、それがどうということでもない。目の前にいる男に感情を読みとられたとしても、何か不都合があるということもない。そもそも初めて会った時から、男は矢野の望みを知っていた。
 鳥のように……飛びたいときに空を飛べる巧機――からくりを作る……それはいつからか、矢野が抱いていた望みの一つだった。
「試作品が……ちゃんと飛べるとは限るまい……」
「なるほど」
「俺に任せていたら、いつできるかわからんぞ」
 その言葉に、黒い影が笑った。
「実用的でない巧機――からくりを作らせるなら、矢野功一郎が一番。人づてに聞いた限りでは、シャンハイ、ヨコハマ、ハノイ……世界三大巧機城市の名だたる巧機師たちが、口をそろえてそう答えたそうですよ……元、日本巧機工業の筆頭技師――飛空挺の生みの親……矢野浩一郎技師」
 十数年前――巧機作りが花開く直前、矢野は巧機技師の先駆けとして、大量空輸を見据えた巧機機械を作っていた。現在実用化されている飛空挺も矢野が設計した原型をもとに造られている。そうして、新案特許をもつ日本巧機工業は世界有数の巧機製造会社として名を馳せたが、その巧機の生みの親はとおの昔に社を去っていた。
「昔のことだ」
「そんな歳でもないでしょう」
 裸電球でははっきりそれとわからないものの、確かに矢野という男の顔は、昔語りをする老人というにはまだ若かった。かといって、青年というほど若くはない。しいていうなら中年の親父という表現が一番近いのだろうが、その言葉から大抵の人が受けるであろう親父臭さや老成した落ち着きは、身にまとう雰囲気の中に感じられず、目の前にしていても、どこか実年齢がはっきりとしないのだった。
「……よく間違われるが、いったい俺はいくつに見えるんだ?」
「十八」
 即答した青年に、矢野は大仰なため息をつく。
「それはおまえの歳じゃないのか? 冗談ならもっと気の利いたことをいってくれ」
「私も十代というのはちょっと……」
 控えめな声が相変わらず淡々という。
 常に歪んだ笑みを口元に浮かべている青年は、はっきりと矢野より若い。
 長い前髪と眼鏡に隠された顔立ちは、よく見れば黄金律のように整って、黒髪と黒い瞳の印象だけでなく、東洋系の血が混じっているようだった。かといって、はっきりと東洋人の顔を見た後で見ると、むしろ西洋系の血が強いようにも見える。多国籍の血が入り交じった長所ばかりでできているような顔だが、大して高くはない身長と細身の身体は、平均的な中国人のそれと何ら変わりない。けれど。
「英国で盗みを働く夜鴉――ナイトクロウという怪盗は、派手好きで、自意識過剰で、目立ちたがりの遊び人だとばかり思っていたが、どちらかというと単なる閑人のようだな」
 矢野はまるで独り言のように呟いた。
 目の前で組み立てる異形の巧機は青年の依頼で作っているものだが、矢野はある日突然やってきた青年の素性を何一つ知らなかった。尋ねようとも思わない。ただ、以前訪れたときに気まぐれに渡した巧機機械と同じような機械を夜鴉――ナイトクロウという怪盗が倫敦で使ったという記事を偶然目にしたにすぎない。
 矢野の母国――日本の茶坊主の巧機人形を模したらしいと報じられた玩具の特徴は矢野が作ったものと酷似していた。
 直に目で見たわけでなくても、断片を繋ぎ合わせるとそれらしい事実が浮かび上がる。
 とはいえその曖昧なものを確実なものにしたいとは思わなかった。
 間接的にとはいえ、犯罪にかかわらされたから、というのではない。犯罪とかそれを取り締まる正義というものがこの世にあろうとなかろうと矢野には興味のないことだったのだ。ただ――――――――。
 それでも、心の中に釈然としない想いがあった。
 問いに対する答えがないまま、矢野は独り言を続けた。
「本当に欲しいものを盗むのなら、予告状など出さないほうがいい。人に知られず、よくできた贋物でも作らせて、本物とすり替えておけば、場合によってはもっと長く疑いをかけられずにすむだろう。
「何故、怪盗というものは予告状を出すのだろう? それによって何か怪盗自身に見返りはあるのだろうか?」
「義侠心からくる義賊英雄的行為のパフォーマンスじゃないですか? 盗みに入った家の金持ちは汚い金を集めてこんなものを買っていると、衆目にさらされることになりますから」
 矢野の意図とは無関係に、青年もまた、人事のように会話を続ける。
「なるほど。怪盗夜鴉――ナイトクロウ――が義賊か。それは大変面白い解釈だな」
「確か、美術品を盗まれた資産家が、その後逮捕されたことを受けて、そんな記事を載せた新聞があったと思うが」
「大衆紙の三文記事にどれほどの信憑性がある?」
「さぁ……少なからず、信じている人もいるようですよ」
「……そうだな……多分、そうなんだろうな……」
 真実であろうとなかろうと、はっきりとした形となってばらまかれた言葉には、何らかの力が発生する。その真偽のわからぬ言葉に影響される人間がいる。言葉は放たれて、巡り巡って己に返ってくる。
 矢野は今そのことを身をもって体験していた。
 問いかけた言葉が、問いに変わり、わずかな事実は覆され、虚実に変わる。
 男にとってそれは、言葉遊びをするようにたやすいことのようだった。その上、男の声には人の意思を従わせる響きが込められていた。
 何をいっても、言葉を裏返して、なかったことにされてしまう。
 自分の放った言葉に、自分の心が封じられる。
 それは生きながら弄ばれるようなやりどころのない重苦しさで、矢野の心を抑圧する。理不尽な思いで心ばかりが、体までもががんじがらめに重くなる。
 けれども矢野はこの来訪者が、嫌いではなかった。
 決して他人を好むわけではない矢野だったが、何故か初めて会った時から、青年の持つ影のような雰囲気にどこかしら居心地の良さを感じていた。
 その感覚はおそらく、青年自身も矢野と同じく人が好きとは思えない、他人を拒絶する空気を身にまとっているからかもしれない。
「事実とか、大衆の意識とか、俺にはどうでもいい」
「そうですか」
「ただ、俺が、疑問を感じているだけだ」
「なるほど」
 キリキリと螺子を巻くような音がして、男の影が動いたかと思うと、甲高い金属音が旋律を響かせた。
 くるくると踊り子の人形が影を引き連れて盤上を回るオルゴールは、繰り返し螺子を巻けば、延々と踊りを繰り返す。ただ意味もなく。
「………………多分、その怪盗は退屈なんだろう」
 オルゴールの音に、抑揚のない声が混じる。
「ただ盗むのは簡単だろう? だからルールを作る。障害を高くする。それで、ほんのわずか……退屈がしのげる」
 そういった瞬間、眼鏡のレンズ越しに見えた黒い瞳が、わずかに煌めいた気がした。
 醒めたように、かすかな表情も持たない酷薄な目が、一瞬のぞかせた真実――何もかも退屈だという感情。世界に存在する何もかもに倦み飽きたらしい感覚は、退廃的と表現すれば、幾分煌びやかな印象を帯びて、金に飽かせて美術品を愛でる貴族たちが好みそうな言葉にも聞こえるのに、“退屈”といえば、どこか野暮ったい時代遅れの言葉にすりかわる。
 影のような男の――光の加減によっては妖艶にも見える顔の、整った口元からから吐き出されるにしては、どこか違和感のある――“退屈”。
「つまり……この巧機を注文したのも、いわゆる退屈しのぎということか」
「……おそらくは」
「退屈しのぎ……ね」
「気分を害されましたか?」
 闇に浮かび上がる白い指が、長い前髪をかきあ用げながら壁にもたれていた体をゆっくりと起こした。
「……いや……」
「そうですか。矢野さん、あなたならそういうと思いましたよ」
 口元が笑う。
「私は決して急いでませんから。どうぞ矢野さんの好きなだけ時間をかけて作ってください。時間はいくらでもありますから……」
 退屈な時間が。
 濁された語尾にはそんな言葉が込められているようだった。
 わずかな明かりの勢力範囲から歩き出て、昏い影の中に消えていく華奢な背中が声にならない言葉を語る。
 所詮は、生きていくことそのものが退屈しのぎにすぎないのだと――――――。
 音もなく影に飲み込まれ、がらくたの金属塊で埋め尽くされた床を、重みを持つ何かが通り過ぎたとは思えないほど静かに存在は氏に品掻き消える。
 テンポが緩やかになり、螺子を巻く存在もいなくなったオルゴールが、最後の一音をかき鳴らして沈黙すると、矢野は自分が一人になったことを知った。
 すると急に、毒気を抜かれたような心地になって、大きなため息と共に後ろ手をついた。
 ふと床に広がった設計図に目を凝らすと、さっきまで一生懸命締めていたボルトは間違ったフレーム同士を繋いでいた。
 その作業に浪費した時間を思うと、腹の底から苛立ちが湧き起こったが、同時に馬鹿馬鹿しくもあった。
 おそらくは、矢野にとっても巧機を作ることは――そして生きることは退屈しのぎにすぎないのだ。
 矢野はすのこの上に仰向けになると、光を受けて反射する底の見えない眼鏡の奥で、目を細めて微笑んだ。

《了》


前項

作者/ゆや