ゆりかごのうた




 開いた瞳に映るのは、輪郭を無くし、闇に全てが溶けているような世界だった。
 
 ベッドサイドに置かれたオレンジ色のランプも、窓際の黄色のカーテンも、その色に何か別の色を混ぜてしまったかのよう。昼間の時のような鮮やかさはそこには無い。
 そして、自分のぼんやりとした視界のせいなのか、それらの色は――ものとしてそこに在るというよりも、ただ、色としてその場所に浮いているかのようだった。まるでそれは、闇のパレットの上に点々と搾り出された色絵の具か、遠くから眺めるネオンライト。
 ――綺麗、だなぁ。
 眠りの世界に今にも引き戻されそうな頭で、彼はそんなことを思う。
 いつもは眼鏡のレンズ越しに眺めている世界、一つ一つの輪郭がしっかりと保たれているそれは確かに便利で分かりやすい。けれどたまにはこうした――何が何やら分からない世界も、良いな、と。そう彼は思うのだ。
 彼はベッドの上で身じろぎをすると、視線を窓の方へと向けた。朝が近いのだろうか、カーテン越しにぼんやりと見えるのは、闇夜の漆黒ではなく、朝焼けの紅を含んだ薄い青だ。
 再び眠りにつくには短いが、かといって起きるには少し早い――さて、どうしようか。彼は眠気を追い払うために瞬きを繰り返しながら、思考を巡らせる。しかし、身体を包み込んでいるベッドのやわらかさ、寝室にたゆたう空気のなだらかさが、甘い言葉でそうっと彼を手招く。さあ、お眠り、お眠り。疲れているんでしょう?
「でも――起きないと」
「良いじゃない、寝てれば」
 甘い手招きを振り払うために彼が発した言葉、それに被さるように振ってきたのは、溶けた世界をきゅうと引き締めるような声だった。
 隣のベッドで寝ていたはずの彼女までも、起こしてしまったのか。慌てて身体を起こすと、彼はベッドサイドの小さな棚に置いてある筈の眼鏡を手探る。
「優紀、ごめん。起こしちゃったかな。優紀こそ寝てても」
 眼鏡はどこだ? ぼんやりとした視界で、隣のベッドに腰掛けている彼女の姿らしきものを見つめながら。彼の左手は眼鏡の在りかを探し続ける。ぽん、ぽん、と棚の上を指先が探って、探って。ようやく金属のつるりとした感触に行き当たる。
「良いんだってば、博一」
 正に眼鏡を持ち上げようとした、その彼の指先が、別の感触で遮られた。
 ――優紀の指先。
 彼女が自分の手を留めているのだと、そう気づくよりも早く、彼の視界一杯に彼女の顔が映る。いくら眼鏡をかけていなくとも、その造作が分かるほど近く、近くに。
 近付いて。
 暖かな感触が、思わず閉じた瞼へと降って来て。そして、また、彼女の顔は彼の視界から離れてゆく。視界の中で、彼女の姿はぼんやりとした影へと戻る。
「良いから、ね。今日は休日なんだから、寝過ごしたって。だから、寝てて?」
「そしたら、優紀、君だって寝てれば……」
 彼女の掌に導かれるようにして、彼の掌はベッドへと戻る。眼鏡をかけることは止めて。彼の身体は再びベッドへと沈み込んだ。
「良いんだってば、あたしは。夢の続きを歌いたくて起きちゃっただけだから」
 薄闇に紛れた彼女が、どこか笑みを含んだような言葉を投げて寄越す。その声は悪戯を仕掛けた子供のように無邪気で、それでいて、母性を秘めた海のように凪いでいて。振り払ったはずの眠気が、また、彼女の一声で彼の元へと呼び戻されてゆくかのようだった。
 ――起きなきゃ、でも。
 彼はそう思うも、落ちる瞼を留めることが出来ない。
「おやすみなさい、博一」
 窓の向こうから届く、朝の細い光に縁どられた彼女は、そして。夢で歌っていたというその歌の続きを、そっと唇に乗せた。掌をすり抜ける音の絹糸を追い求めるかのように、細く、細く。
 瞳を閉ざすその最後の一瞬。彼が見たのは眼鏡の無い世界、輪郭を無くして闇に溶ける様々な色。そして彼が聞いたのは、その闇に広がり散ってゆく、調べの欠片。
 隣のベッドに腰掛け歌う彼女の姿を頭の中で描きながら、彼は眠りの海へと再び沈み込んでいった。



 ――ゆりかごのうたを、カナリアが歌うよ――

《了》


前項

作者/ねこK・T