掟破りの愛のカタチ




 薄闇の中、円らな瞳が僕を見つめている。大きく開いた瞳孔が真っ直ぐに僕を突き刺して、瞳は微動だにしない。僕はそっと彼の鼻先に口付けした。顔を背けようとした彼の顔を両側から包み込んで、僕は彼の丸いメガネの縁をなぞるように、そっと親指を滑らせる。僕らは正面から見つめ合った。
 愛おしい。
 今日、僕は初めて彼を抱いた。ずっと遠くから見つめるばかりだった愛らしい存在が、今、僕の腕の中にある。
 彼が僕の手の甲に爪を立てた。微かな痛みが脳へ届き、目の前の小さな存在への愛おしさと共に心地よさが募る。僕は彼をぎゅっと胸元へ抱き寄せた。
 彼が短い悲鳴を上げて、僕の腕から這い出そうと力を込める。彼は首を伸ばし、僕の耳元へ鼻先を寄せた。僕は彼の顔を正面へ戻しながら、彼のメガネに白い光が映るのを捉えた。僕が背にしていた扉が開かれたのだ。
「お前はエンジュを潰す気か!」
 低く抑えられた怒声と共に、僕は後頭部を叩かれた。前屈みになった僕の腕から、彼――エンジュがするりと抜け出し、僕の肩を踏み台にぴょんと跳ねる。
 僕は振り向いたけれど、薄暗い部屋に慣れた目は開け放たれた入り口からの強い光に戸惑い、僕の視界は揺れた。
「よしよし、アホな飼育員が担当で悪いなあ。」
 僕の後頭部を叩いた男がエンジュを抱きとめ、その小さな頭を撫でる。
「アホな飼育員って何ですか! 僕は今日からこのメガネザルの小屋を任された一人前の飼育員ですよ!」
 僕は男に向かって叫んだ。目は次第に明るさに慣れ始めたが、夜行性動物のために昼夜逆転の明るさに設定された部屋の中では、逆光になる男の顔は見えづらい。しかし顔を確認するまでもなく、その男が誰なのかはすぐに分かった。僕にとっては先輩飼育員であり、頼れる指導係でもある東条さんだ。
 東条さんは片手にエンジュを抱き、長年愛用しているらしい流行遅れの丸眼鏡のブリッジを押さえながら息を吐いた。
「何が一人前だ。動物を抱き締めて呼吸困難に陥れるなんて今時小学生でもやらんわ。遊んでないでとっとと掃除してエサをやれ。もうすぐ開園だぞ。さっさとしろ、この新米アホ飼育員が。」
 背の高い東条さんはあからさまに僕を見下して、スラウェシメガネザルのエンジュを木の枝の上へ戻す。
「うー。」
 呼吸困難になるほど強く抱き締めてはいないと反論したいのをぐっと堪えて、僕は入り口脇に準備していた掃除用具を拾い上げた。
 動物園の動物は一般家庭のペットとは違う。できる限り野生に近い環境を維持することが望ましく、人間がべたべたと触れれば動物はストレスを感じてしまう。それくらいのことは、いくら僕が新米だからと言っても今更教えられるまでもない。それでもついエンジュを抱き締めてしまったのは、このメガネザルたちが僕の初めて任された動物たちであるという嬉しさゆえだ。これから彼らのお世話をする身として、少しばかりの挨拶は礼儀でもある。
 確かに僕の挨拶はちょっと行き過ぎたルール違反だったと思うけれど、飼育員と動物とのコミュニケーションだって重要だ。
 もちろん、こんなことを言えば「一方的な迷惑行為をコミュニケーションとは呼ばん! お前の行為は信頼を害することはあっても信頼に資すものじゃない!」とかなんとかいう正しい反論がお説教と共に返ってくるのは目に見えているから、僕は大人しく掃除を始めた。
 この動物園で一番の下っ端である新米飼育員の僕に口答えの権限はない。残念なことに、そもそも口答えするだけの能力もないのだ。動物は昔から大好きだが、知識と経験は先輩飼育員の方が格段に上である。
 でも、動物への愛なら負けない。これだけは自信があった。
「やっぱり可愛いよなあ。」
 ブラシの柄の先で組んだ手に顎を載せ、僕はぼんやり細い枝にしがみついてじっと僕を見つめているメガネザルを眺めた。僕らは見つめ合う。
「こらっ! ぼけっとしないで掃除しろ! 何度言ったら分かるんだ。」
 再び怒声が降り掛かり、僕は不満と共に振り向いた。動物に限らず知識は豊富だけれど、短気で神経質な東条さんは少しばかり飼育員としての資質を欠いているような気がする。動物にはもっと優しく接するべきだ。人間だって動物の一種だということを忘れないでほしい。
「な、何だ、その顔は。」
 僕の不満な視線を受けて、東条さんは身構えた。新米の僕だって抵抗の意思を完全に投げ捨てたわけではない。僕は眉を顰めてじっと東条さんを見つめる。東条さんが僕の視線に圧されるように僅かに身を引いて、丸い眼鏡が入り口からの光にきらりと輝いた。
「似てるかも。」
 僕はふとあることに気が付いて、鋭い視線を解くと同時に呟いた。東条さんは怪訝そうに顔を歪める。
「東条さんって、メガネザルに似てますよね。」
 僕が言うと、東条さんは更に顔を歪め、
「はぁあ!?」
 と左頬を引きつらせながら声を上げた。動物の側でそんな大きな声を上げるなんて飼育員失格だと言いたかったが、突然の僕の発言に東条さんが驚くのも無理はない。
「その縁の丸い眼鏡。目もぱっちりしていてけっこう大きいじゃないですか。今まで全然気が付きませんでした。」
 僕は自分の思いがけない発見に興奮しながら、ブラシを放り出して東条さんに近付いた。背伸びをして、背の高い東条さんの顔を間近にしっかり観察する。近くで見れば見るほど、先程まで目の前にあったエンジュの顔にそっくりだ。
「……可愛い。」
 僕は嬉しくなって呟いた。同時に、東条さんが蛇のように素早く後退して僕から離れる。僕は、ちょうど東条さんが背にした木の上にいたエンジュと東条さんの顔を比較した。やっぱり似ている。
 僕は恍惚と東条さんを見つめた。
「お、お前、ちゃんと掃除しておけよ! もうすぐ開園なんだからな!」
 東条さんは僕を指差して言い放ち、脱兎の如くメガネザルの小屋を出て行った。まるで幽霊でも見たかのような恐怖の表情だったけれど、大きく見開かれた目は東条さんの顔を更にメガネザルに似たものへ変化させていた。僕は振り向いて後方を確認し、ふふふと笑う。
 入り口からの光で黒い瞳孔が縮まり、きらりと光る黄金の瞳が闇の中に二つ並んで浮かんでいた。偉そうな口ぶりに似合わず、東条さんはけっこうな小心者だ。
「それにしても、メガネザルの目が光ったくらいで怯えるなんて、やっぱり東条さんの方が飼育員失格だよなあ?」
 僕は金色の瞳に向かって笑い掛け、ブラシを拾い上げると掃除を始めた。早くしないとお客さんたちがやって来る。僕の愛しいメガネザルたちもエサの時間をお腹を空かせて待っているのだ。

 翌日、なぜか東条さんは愛用の眼鏡を掛けていなかった。
「あれ? 東条さん、眼鏡どうしんたんですか?」
 デスクにいた東条さんに朝の挨拶代わりに尋ねると、東条さんは慌てて椅子から立ち上がった。
「コンタクトにした。妻にも前からその方がいいって言われていたからな。」
 東条さんは妙に「妻」にアクセントを置きながら答える。
「もったいない。奥さんも趣味が悪いなあ。あの眼鏡、メガネザルにそっくりで可愛かったのに……。」
「……それだけか?」
「はい?」
 なぜか警戒感を露にして尋ねる東条さんの前で、僕は首を傾げた。妙に強調された「妻」の言葉についてもっと深く言及すべきなのかもしれないという考えが一瞬頭を過ぎったけれど、東条さんに奥さんがいることは以前から知っているし、一人娘の愛美ちゃんを溺愛していることも知っている。この間、別の先輩飼育員から東条さんが奥さんと愛美ちゃんの写真を上着の胸ポケットに入れて大事に持ち歩いているという話を聞き、僕は早速、東条さんが椅子の背に引っ掛け忘れていった上着から写真を抜き出して美人と噂の奥さんをお姿を拝見したばかりだ。すぐに東条さんに見つかって、動物とのちょっと度の過ぎたスキンシップを見つかった時以上に怒られた。それが照れ隠しだということは考えるまでもなかったけれど、また機嫌を損ねられるても何かと都合が悪いと思ったから、それ以来、僕は奥さんと娘さんの話は東条さんの前では禁句なのだと学習していた。でも、もしかすると僕の考えは間違っていて、実は東条さんはもっと自分似の可愛い娘について褒めてもらいたいと思っていたのかもしれない。
 僕は東条さんの大事な写真に奥さんと一緒に映っていた愛美ちゃんの姿を思い出した。東条さん似でぱっちりした円らな瞳の可愛い女の子だった。眼鏡は掛けていなかったけれど、もし彼女が眼鏡を掛けたら東条さん以上にメガネザルそっくりになりそうだ。大きさも頭と体のバランスも、東条さんよりずっとメガネザルに近くなる。
 眼鏡を掛けた愛美ちゃんの姿を脳裏に描き、僕は無意識の内に笑みを零していた。
「……何を考えてる?」
「え? あ、いや、なんでもないです。」
 眉を顰めて睨む東条さんに、僕は笑顔で両手を振った。可愛い一人娘がメガネザルに似ているなんて言われたら、たぶん東条さんでなくても怒り出すだろうということくらいはまだ独身である僕にも分かった。メガネザルの可愛さは僕が保証するけれど、父親にとって可愛い娘は可愛い娘以外の何者でもないのだ。世間で大人気のアイドルに似ていると言ったって、うちの娘の方がずっと可愛いと断言してしまう生き物なのだ。
「それで、えっと、何の話でしたっけ?」
 僕は、愛美ちゃんのことを考える前に話していたことが何だったかを思い出せず、東条さんに尋ねた。
「だから、お前の真意はそれだけかってことだ。」
 東条さんはしかめっ面で言った。東条さんの言う真意が一体何についての真意なのか、僕には質問の趣旨がさっぱり理解できない。どこか物足りなさを感じる東条さんの顔を見て、話の始まりが東条さんが眼鏡をコンタクトに変えたことだったということまでは思い出せた。同時に、東条さんの不機嫌で意味不明な質問の原因にも何となく思い当たった。眼鏡をコンタクトに変えたのも、やはり昨日、東条さんの顔がメガネザルに似ていると言ったのを気にしているからに違いない。僕は「メガネザル」という言葉が眼鏡を掛けている人への蔑称として機能し得ることを頭の片隅に思い出していた。あんなに可愛いメガネザルの名前を蔑称にするなんて、失礼な奴らがいるものだ。
「やだなあ。僕、確かに昨日東条さんがメガネザルに似てるって言いましたけど、それが悪いなんて少しも思っていませんよ? 僕は純粋に可愛いって思ったんですから。僕はメガネザルに似てる東条さん、好きですよ。むしろ似てれいば似ているほど可愛いというか……。」
 僕は、初めて東条さんがメガネザルにそっくりだという発見をした昨日を思い出して、再び柔らかく息を吐いた。あの円らな瞳の愛らしさをまさかこの怒りっぽい先輩飼育員の中に見つけられるなんて、きつい仕事の中で貴重な癒しを得た気分だ。
 東条さんはしばらく僕を怪訝そうに見つめ、突然、くるりと回れ右をして僕に背を向けた。
「あれ、東条さん? どうしたんですか?」
「俺はお前とはもう関わり合いたくない。」
「えぇ? 何でですか。僕、東条さんの気に障ることしました? 昨日、仕事中に遊んじゃったのは悪かったと思いますけど、ちゃんと開園には間に合ったし……。」
「とにかく頼むから俺に近付かないでくれ。お前がどんな趣味を持とうがお前の自由だが、俺は妻と娘が大事なんだ。俺は巻き込まれたくない。」
 東条さんは僕に背を向けたままそう言い、すたすたと事務所の出口へ向かって歩き出す。僕の趣味と東条さんの奥さんや娘さんが一体どう関係しているのか、僕にはさっぱり分からなかった。巻き込まれたくないと言われても、僕が一体いつ何に東条さんを巻き込んだというのだろう。消費者金融の取立て屋が借り手の近隣住民にまで脅迫を掛けていたなんて記事が今朝の新聞に載っていたけれど、僕は消費者金融どころか銀行からだってお金を借りたことはない。闇金融も然りだ。いずれにしても、近付くなと言われて分かりましたと答えるわけにはいかなかった。僕の指導係である東条さんには、この先教えてもらわなければならないことがまだたくさんあるのだ。僕は慌てて東条さんの後を追いかけた。
「そんなこと言われたって困りますよ。東条さん、僕の指導係じゃないですか。それに、せっかく東条さんがメガネザルに似て可愛いって発見したのに。」
 再び僕の脳裏にメガネザルそっくりの東条さんの顔が浮かんだ。今、僕に背を向けている東条さんが振り向けば、そこにはあの愛らしい顔があるのだ。抜け出しそうな魂を引き止める代わりに、僕は丸く息を漏らした。
「あんなに愛おしいものってないですよね。小さな身体に大きな円らな瞳。メガネザルって本当に……って、あれ? 東条さん?」
 僕が語り出したメガネザルへの愛を聞くことなく、東条さんは無言で事務所から走り去った。昨日から、東条さんの行動にはどこか落ち着きがない。
「らしくないなあ。」
 僕が自分の席へ戻ろうと振り向くと、事務所内の視線が一斉に散った……ような気がした。
 やっぱりみんな東条さんの妙な行動を気にしているのだ。東条さんはまだ三十代でこの動物園の職員の中では若い方だけれど、その知識の豊富さから全職員に頼りにされている。東条さんがいなくなると職員だけでなく、動物たちも困るのだ。
「しっかりしてくれないと困るよなあ。」
 僕は呟きながら自分のデスクに着いて、メガネザルの飼育日誌を開いた。昨日、つい嬉しくて、日誌の隅に東条さんがメガネザルに似ているという発見を記してしまったけれど、もしかしたらこれを見た誰かがそのことで東条さんをからかったのかもしれない。僕は昨日、確かに東条さんがメガネザルに似ていると言ったけれど、そのことを否定的に伝えたつもりは全くない。むしろかなり好意的に伝えたはずだ。僕の発見は間違いなく愛に溢れていた。僕の言葉で東条さんが機嫌を損ねる理由なんてどこにもないのだ。犯人は僕ではない。別の誰かだ。最初に原因を作ったのは僕かもしれないけれど……。
 僕は発見を記すと同時に描き添えたメガネザルそっくりの東条さんの似顔絵を見た。僕の愛ある発見が、東条さんへの中傷に利用されないようにするためには、これらを全て消してしまうべきなのかもしれない。僕は迷ったけれど、我ながら感心するほどの傑作を失うのは惜しかった。とても愛らしく描けているのだ。やはりこれだけは消すわけにはいかない。みんなが東条さんを頼りにしていることは間違いないから、下手な噂もすぐに消えるだろう。僕の発見に罪がない以上、その記録にも罪はないはずだ。素敵な発見は素敵に共有しなくてはならない。
 僕は愛らしい東条さんの似顔絵に微笑みかけるとページを捲り、今日の日付を書き込んだ。

 再びゆっくりと彼の方へ向けられ始めた視線に、彼は全く気付かない。
 昨日一日で動物園中に広まったある噂。その存在を知らぬはただ一人、その噂の渦中の人である。

《了》


前項

作者/桐生 愛子