水中眼鏡




「え、プールもあるんですか?」
 声の持ち主にしては珍しく弾んだ調子に、僕はふと顔を向けた。萩原メガネ女が、宿泊施設のパンフレットを広げて、他の女性メンバー達とワイワイ盛り上がっていた。
 もうすぐ行われる、年に1回の組合青婦人部の親睦旅行。企画運営はもちろん我らが執行部・・・ということで、一足先に情報を手に入れ、イベントプランを練っているところだ。
 滞在先は、オフシーズンで泳げない海辺のリゾートを安く利用。その代わり、小さいが、ちゃんと室内の温水プールがある。もちろん露天風呂は必須だ。
「ふーん、萩原さん、泳ぐの好きなんだ?」
 尋ねると、彼女にしては珍しい、ニコニコ顔が返って来た。
「はい!最近特に、イイもの仕入れましたんで」
 そして、にやりと笑った。これはいよいよ珍しかった。メンバーの中でも、頑固で堅いと定評のある人なのだ。相当に浮かれているらしい。
「イイものって・・・」
「ふふふふふ」
 おお、目がカマボコだ。
「実は、度入りの水中眼鏡をですね、ついに買いまして」
「・・・度入り?」
 一瞬間が空いた。頭の中で、普通の矯正眼鏡足す競泳用のゴーグル和・・・なんて映像が飛び交った。
「そんなものがあるんだ?」
「はいv」
 自信に満ちた笑みが返って来た。
「もしかして、また例の眼鏡屋・・・」
「ああ、いえ、今回はスポーツショップで」
 否定されて、かえってびっくりした。
「スポーツ店で売ってるのか?」
「はいvちょっと高くて買いためらってたんですけどね。使ってみたら、これが凄くいいんですよー。久しぶりに水の中をくっきり覗けて、私は感動しました。癒されましたよ」
「え、でも度とか、どうやって」
「あー、レンズを交換できるタイプのゴーグルを買って、片方ずつ度入りのレンズと交換するんです。そのレンズが、老眼鏡とかと一緒で、大雑把に度が入ってまして。まあ適当に自分で選ぶんですが、緩めでいいですね。やってみたら案外簡単ですよ」
 うーん、しかしそりゃ確かに、高くつきそうだ。
「本物の眼鏡に比べれば安いものです。はー。水の中をあんな風にはっきり眺められたのは、子供の頃以来で、懐かしかったですよー。もう、絶対おススメです!」
 幸せそうに力説する彼女の姿に、以前、高いが買う価値のあった眼鏡をあつらえてもらった時の感覚が蘇った。
 とにかく、眼鏡に関しては、彼女は師匠なのだ。
「・・・ちなみにドコで?」
 教えを乞う姿に「君たち最近仲良しさんだねえ」と妙な突っ込みが入るのには、もう慣れた。


 度入り水中眼鏡は、確かに正解だった。
 僕はコンタクトも使用しているので、今までは必要ならコンタクトしてゴーグルをつければいいと思っていたが、これがなかなかご存知のように、快く装着というわけにはいかなくて。
 レンズの紛失の危険もなく、水中のユラユラを楽しめるのは、なかなかに良い気分だった。
 親睦旅行の初日の夜。到着したばかりで皆が大浴場に流れる中、小さな温水プールはまだガラ空きだった。早速新しいゴーグルの具合を確かめようと、潜って底に沈んでいたら、ザブン!と突然水音がした。
 おお、第2陣。誰かな。
 ポッカリ水面に復活したら、執行部の女連中だった。
 手を振ったら、首を傾げられた。・・・ああ、ゴーグルか。
 外して、もう一度手を振ったら、キャワキャワと反応があった。
「なーんだ園田くん。早いなー。まーたサボってたんでしょう!」
 ちなみに、執行部はタダで参加できる代わりに、自動的にスタッフ働きを要求される。やぶへび藪蛇。
「風呂行かないの?」
「みーんな行ってるもの。後でいいわ」
 狭いプールの端と端で挨拶代わりの会話を交わし、またそれぞれ適当に泳ぎ始めた。
「あ、萩原さーん、こっち」
 そんな声にふと振り向いて。
 一瞬固まって、次の瞬間水中に沈んだ。

 何だアレは。

 いや、別におかしいとか見苦しいとかじゃなくて。
 連想したのは、以前ヤツを意趣返しの為に飾り立てた時の姿だった。
 2期下の本部行員萩原のイメージは、大体において「お堅い」だ。いつも眼鏡を掛けていることもあるが、私服の時でも、他の女性達の服装に比べると、地味ださい以前に、堅苦しいほどきっちり着込んでいる感じがした。何か理由でもあるんじゃないかと思うような頑さだ。
 だが、あの時、いざ肩腕の出たワンピースドレスを着た姿には、何も問題などなかった。まあ一瞬わからなかったくらい、別人にはなっていたが。
 寧ろ、いつもは服の下に隠されている肌は白く、滑らかで、思いがけない色香があって、正直戸惑ったくらいだ。
 目のやり場に困った。・・・今みたいに。

 やばい、やばいぞこれは。

 今はいい。ここには女友達と僕しかいない。
 だがしかし、そのうち男連中もやってくるだろうし、そうしたら奴らも気づくだろう。
 あの時、写真で眺めただけでも驚いた萩原の変身に、映っていなかったものがあることに。


 僕は、別に萩原の保護者でもなんでもない。心配をする義務も、口出しする権利もない。
 だが、何だか黙っていられなかった。
 状況も悪い。
 年に一度のこの組合青婦人部の旅行は、実のところ、銀行の独身連中が一堂に会する、一大出会いイベントなのだ。もちろん、僕のように義理で出席とか、普段は離れている知人に会えるからとか、組合から補助が出るから安く旅行できるとか、そういう連中もいるが、「ここで相手を見つけられたらラッキー」くらいには思っている連中もまた、多いのだ。まあ職場公認の旅行だから、滅多なことは起こらないはずだが。

 とにもかくにも、餓えた狼が混じってる旅行なのだ。
 あの危険物は、しまっておかなければ。


 プールで頭を冷やしながら、ない知恵を絞って対策を思いつき、僕は一度部屋に戻った。
 急ぎカバンから取り出したのは、袖も通さずしまいこんでいた、執行部用スタッフTシャツだ。もらった時は、誰が着るかよこんなもの、と馬鹿にしたが、今は有難いことこの上ない。
 それを引っ掴んでプールに舞い戻り、眼鏡は外したまま、萩原に近づいた。
「あ、園田さん、こんばんはー」
 呑気そうに見上げてくる彼女に、僕は黙ってずずいとTシャツを差し出した。視界がぼんやりしてて幸いだ。
「はい?」
 首を傾げる彼女に、むっつりと言う。
「スタッフTシャツ。目印だから、着てて」
「・・・はあ?」
 何やら言いたげな顔を見ないふりして、服を広げて、頭からかぶせた。
「わ、ちょっ」
 多少強引でも仕方がない。なにより早いとこ、この危険物を隠してしまわないと。
 とりあえず着せて、脱ぐ気配もなく絶句している様子に満足すると、僕はその場を離れた。
 やっとこれで安心して泳げる・・・。
 それが大いなる早計だったと知るのは、そう遅くなかった。
 なんで今度は、足だけ目立つかな!


 そして、余りにもあからさまな隠蔽工作に、さすがに周りから、言いたい放題突っ込みが入った。残りの日程は、そりゃもう散々な目にあったとも。
「当たり前です。何考えてんですかアナタは!」
 萩原にもキツく叱られたしなあ。


 そして、何故か次の年から、青婦の旅行に行く時は、フリーサイズのTシャツを持参し、カップル成立したらお互いのTシャツを交換する、などというスポーツの試合後みたいな妙な伝統が、まかり通り始めたのだった。

《了》


前項

作者/oki