笑わぬしおり屋の微笑みて曰く 


「こうーみぃーっつぅー!」
 雨戸から差し込む奇妙に年期の入った節回しの声と鉦の音で、彼は泥に似た眠りから解き放たれた。
 身が重い。頭も重い。眠るうちに寝台と身体の間に何か強い吸引力が育ってしまったかのようである。ならば良い、丁度良い。その魔物とやらにもう少し捕まってやろう。
 揺り起こしたり、或いはたたき起こしてくれるような家人はここにはいない。気ままさとわずかばかりの侘しさを従え、彼の唇はかすかに微笑みを成した。
 先程の時守の声は晃三ツを伝えていたから、昼前にも少し届かない時間帯らしい。日の出を基準として一日を(こう)(みょう)に分け、さらにそれぞれを六ツに分けてあのお役人は時を知らしめてくれる。いつも自分が起き出す時間ならば「こうみっつ」と鉦三打の後に「半!」という切れの良い付け足しととどめのコーンという音が一つ加えられるはずであるから、普段よりは幾分早く目が覚めたことになる。何となしによい気分になって、彼はのんびりと天井を仰いだ。さらさらと癖の無い長い前髪が額にこぼれかかる。
 薄汚れた無地の壁紙に添って、ぷん……と、あまり爽やかとは言えない匂いが鼻をくすぐった。彼が生業にしている古書の醸し出すそれは、この小部屋に隣接する番台部屋の方から、広大な地下室から、染み付いた家具や柱から、やわやわとした風に乗ってやってくるものであった。
 今日は紙そのものの古びた匂いが強いから、年中下ろしっぱなしの雨戸の外では一点の曇りも無い青空なんかが広がり、ひしめく人々は藁色石畳の上に砂ぼこりを撒き散らしているのだろう。げんなりと溜め息をついてはみたが、時守の「こうーみぃーっつぅー、はん!」に急かされ、彼はそばの小箪笥の上をまさぐると銀縁眼鏡を鼻に乗せのそりと起き出した。
「っつ……いてて。」
 麻のローブに包まれた腰が鈍く痛む。昨日今日に始まったものではないが、今日明日に慣れられるものでもない。きっとあいつが来るせいだ、などとやぶれかぶれの悪態をつきながら、彼は部屋の隅に作り付けの洗面台に向かった。
 習慣になってしまった簡潔さで洗顔を済ませ、習慣になってしまった手つきでさして生えもしない髭をあたり、顔を拭いたその布で眼鏡もさっとぬぐう。再び焦点を得た鏡の中で見返していたのは見飽きた姿。生木を裂いた色の、やや長めの髪に包まれた自分の顔だった。瞳は緑がかった薄茶、琥珀の薄片から森を覗いたような風合い。寝台や灯の落とされた青銅ランプがごちゃごちゃと混ざる世界の中、どことなく冷めた視線でこごっている。
 年の頃は24、5に見えるだろうか。一言で言えば若い男にありがちな、取り立てて特徴の無い容貌であろう。端正といえば端正、無個性といえば無個性。緩やかにカーブを描く二重といつも少し吊り上がった薄桃色の唇がそこそこの愛嬌を与える。
 貴婦人の記憶に残る程では無いが、町娘の心拍を上げる程度には魅力があるらしい。そう彼自身も見定めていたし、事実、深緑がかった細身の銀縁眼鏡を外し屈託の無い笑顔の一つでも陽の元にさらしてみようものなら、びっくりするほど華やいだ印象を与えるに違いなかった。尤も、そのご面相も大部分は抑えたような、何かを腹に飼い慣らしているような、皮肉めいた微笑みに彩られる事が多かったのだが。
 ひとしきり目覚ましの儀式を終えると、彼はこれも習慣になってしまった組み合わせのココア色の三つ揃えと鈍色のループタイを身に着け番台へと赴いた。一階のわずかな生活圏を除けば地階も含めて棟割長屋の殆どが古書に占領されている。古書を毛、店全体を動物に喩えるならば、まさしく"毛むくじゃら"。その絡まる大小色とりどりを超えた鼻先、表通りに面した方に申し訳程度の接客場所が造りつけてあった。
「うーん。」
 やる気に似合った景気の悪い唸りを一発、彼は塗料のかかっていない形だけは大きな番台にへばりつく。どうせ客は来ないのだ。来たとしても、まともに彼の扱う古書を相手にできる者は本当に少ない。たまに汚れを知らない肌の白さを纏った少年少女が紛れ込む事もあるが、そんな時でも彼は必ず言葉少なげに諭して帰すのだった。
「あーふ。」
 風貌に似合わぬ間延びしきった欠伸を一発、身をひねり背後にそびえる木造の棚へ長く繊細そうな指を這わせ、適当な一冊を選び出す。
 抜き出したのは薄汚れた赤の、布張りの表紙。手首から肘くらいまでの奥行きと、指二本くらいの厚みを持つ。起き抜けの伴にするには、こういう当たり障りの無い規模のものがちょうどよい。辞書と見まごう厚さの物語を選んでしまった日には眠るのも忘れて没頭しかねないし、逆に絵本などは眺めるだけでも泣けてくる。決して本の虫では無いのだと自身に言い聞かせながら、それでも文字と紙が作り出す世界に彼は捕らわれないではいられなかった。
 かさり……。手書きの赤みを帯びた黒インクを丹念になぞり、一枚、また一枚とうっすらと黄ばみ始めた(ペイジ)を繰ってゆく。自らがその流転に関わる者だからこそ、彼は一文字たりともおろそかにできないと考えていた。
 表では丁度昼食で賑わう時間帯であったが、彼が看板を出しにゆく気配は無い。元より屋号など持たないし、喩え有ったとしても示す気は無いのである。それはまるで違法酒場のように飾らない板張りの外壁と、ひと一人がやっと通れるだけの粗末な開き戸の造りからも伺える。そんな彼の意向あってか、この店は時守が立つ円形広場に面する店舗の並びの中では、構えの小ささ以上に見落とされがちな――むしろ気にもかけられない――目立たなさを纏うのに成功していた。
「こうーよぉーっつぅー!」
 折しも、時守が正午を告げる声が届く。古書に閉ざされた過去未来・老若男女が織り成す独特の時間の中、生ける者が成す遠いざわめきと頁をめくる音だけが床に積み重なって行った。




 時守の声が五ツ半を告げた頃だろうか。再び存在を訴え出した腰痛とどこからともなく忍び寄るざりり、ざりり……何か硬いものを引きずったような、否応なしに神経を逆撫でする音に気付いて彼は面を上げる。出迎えるまでもなく、不吉の主が必要以上に勢い良く扉を開け放った。
「よーー古書屋、元気だったかーーー?」
「仕立て屋、やっぱりあんただったか。」
 不服そうな顔を向けられた男は、一向気に病む様子も無く無精髭を撫でてニヤリと笑い飛ばす。
「そんなに俺の事が待ち遠しかったか。」
「あんたが来ると、腰が痛む。」
 何ともすげない返事である。だが断り無く背負った大荷物を下ろしていた仕立て屋は、白い歯をこぼして嬉しそうに振り返った。
「何だ、調子が悪いならついでに診てやろうか。」
 そういう事ではないのだと、彼は無言で首を振って返す。古書と彼が作り出した虚構と現実の狭間を突き破る男自身の存在が原因なのだ、と。しかし彼がそれを仕立て屋に告げる事は無い。言えば、顔に似合わず深く落ち込んでしまうだろうから。
 「仕立て屋」と呼ばれた男は年の頃三十過ぎの偉丈夫、肩書きが抱く繊細な響きにはおよそ程遠い大作りの指と体躯の持ち主である。引き締まった全身から出される張りのある野太い声や精悍な顔立ちや、ぼさぼさの木炭色を強引に後ろで一つにゆわえた頭髪。一言で延べると、不遜不敵の勝負師風だろうか。顎に残る無精髭にしても「整える暇も無いほど繁盛してるんだ」とは男の弁であるが、ロイヤルブルーの双眸と相まって醸し出す、荒削りで、それでいて見る者を惹きつけてやまない知的な人懐っこさを男自身も愉しんでいる節があった。
 そんなただでさえ妖しい魅力を放つ男が、今はボロ布を寄せ集めたような厚手のコートを着込んでいるのである。漆黒の生地に、さらに大蛇がのたくったような薄気味悪い文様。まして全身に鈍い銀の鎖を巻きつけ引きずっているものだから、子どもが見たら泣き出しかねない有様である。
 「古書屋」の彼も思わず荷を解く仕立て屋の背中に溜め息をつく。
「コートは仕方ないとしても、鎖はやりすぎじゃないのか。そのうち退治されるぞ。」
「んあ? ――ああ、いや。やっぱりこのくらいでないとここでも引き倒されそうになるんだわ。俺もまだまだ修行が足りんな。」
 もしもコートの下の仕事装、黒地の七部袖シャツを着こんだ姿で評価されたとしても、十人中五人は男を「小隊長」と見定め、あとの四人は「傭兵」、そして残りの一人は――少しためらってからこう答えるだろう。詐欺師、と。
 実のところ当たらずしも遠からずで、金の片眼鏡をかけ腕利きの若親方として職場でドヤしている姿などは竜すらも呑みそうな勢いである一方、古い伝統にしがみつく商売敵をつるりと出し抜き王室御用達の座を得る策士でもあった。「古書屋」との副業においては、出不精な彼に代わって仕入れや流通を一手に引き受ける面倒見の良さも見せている。
「ほら、注文の物を持ってきてやったぞ。」
 ほどいた包みの中身を仕立て屋はドサリと番台に置いた。衣類の類ではなく、全て書籍の容体である。数にして十数冊。いずれも上製本布装、栞紐付き外包無し。色や大きさ、頁の材質は違えど、「古書屋」の彼が先ほど読みふけっていたものとほぼ同じである。特筆すべきはそのどれもに題名が振られておらず、また肝心の頁にも文字の類は一切見当たらない事であろうか。本としては無価値なことこの上ない。特に、それが古書として扱われるものであれば。
 この店にある古書は三種類。通常の本と同じくびっしりと文字が並ぶものと、無題無文章の古書候補と、そして中ほどまで文字による侵食が進んだもの。そのうち彼が世に出すのはもちろん最期まで仕上がったものだけである。後の二つは、渋る彼を仕立て屋が言いくるめ、こっそり他人の屋敷の下まで広げた遠大な地下室に保管されている。
 だからであろうか、彼も全く意に介する様子を見せず、届いた品の一つ一つを入念に調べるのみであった。その滑稽なほど真摯な様子を、仕立て屋は脇にのけられていた一脚だけの椅子を引っ張り出し背もたれを顎に乗せて可笑しげに見守る。
 しおり屋の彼が底知れずの謎めいた喰えなさを纏うとすれば、この男はわざと底を作って見せているようなきらいがあった。どちらが根性曲がりかと聞かれれば、同時に指差し合う事間違いなしの間柄である。だからこそ、両者の隙の無い遣り取りは互いにとって一種心置きなく自分を曝け出せる時間でもあった。
「……この角金打ちが少し甘いな。これでは丸みを帯びているとはいえない。」
「はいよ。」
 厳しい注文にも手馴れたもので、仕立て屋は腰に提げた革製の用具袋から小ぶりの金鎚を取り出し、その場で表紙の角まわりを覆う金具を二三度叩く。
「これでどうだ?」
「完璧ではないが、いいだろう。それからこっちの緑藻色の表紙のやつ。ちゃんと調べたのか? 中にインクがこんなに飛んでいる頁があったぞ、ほら。」
「おう。そいつぁあ差し替えだな。バラして綴じ直せばいけると思うか?」
「仕立て屋の腕次第だ。」
 「古書屋」の眼鏡が静かに光る。
 大衆向けの諸本ならば、頁それぞれの端と背表紙を強力な糊でくっつけてしまう綴じ方も赦される。だが彼らが扱う古書においては、移ろう物語をよりまとめておけるよう、頁は糸で丁重に綴じられる事が要求された。その上で腕の良い仕立て屋は不可欠なものであるし、また仕立て屋にとっても顧客に難を負わせない為にはしおり屋の鋭敏な感覚が不可欠であったのである。
 その後いくばくかの注文が付けられ、仕立て屋の持ち運んだ古書は先程の一冊を除いて全て彼に引き取られた。
 仕立て屋の身が軽くなったのも束の間、今度は仕立て屋が注文の品を受け取る番である。
「女の子向けのはあるか。そろそろ傾き始めた貴族の、年頃の娘さん。金の巻き髪でそばかす多め、性格は明朗だがこまっしゃくれ。好きな色は、あーー何だったか、『セスティリア・ローズで染めたベルベットの光沢以外は受け付けませんの』でしたかしら?」
 しなを作り始めた仕立て屋に、彼は気色悪い、と大きく眉をひそめてから番台を離れる。再び姿を現した手には小ぶりの、猫も乗れないような大きさの深紅の表紙をした古書が携えられていた。
「小汚いと投げつけられるのが関の山だろうが、一応薦めておく。」
「何、お前さんの見立ては外れたためしが無い。」
 彼らの扱う古書は誰にでも相手にできるものではないが、必要な者にとってはこれ以上の無い妙薬となる。仕立て屋は、その仲介を担っているのである。一度なぞはあれやこれやとえらく難しい注文を付けるものだからむくれながら選んでやれば、欲していたのは何と大公の妹君で、以来この店と仕立て屋は税金徴収からのお目こぼしを戴いている。全く、抜け目の無い商売仲間である。
 その調子で仕立て屋は七、八冊を受け取り、来た時と同じように紙で包み麻縄でくくり上げると肩に掛けて背を向け、
「じゃ、また。」
 簡潔極まりない別れの辞を残して立ち去ろうとした背中を、不機嫌な声が呼び止めた。
「……しおりはどうした。」
 答えて、にんまりと仕立て屋も振り返る。番台の向こうでは、銀縁眼鏡の彼が拗ねたような視線を注いでいた。
「それから、さっきから気になっていたがわたしは古書屋じゃない――。」
「しおり屋だ、ってか。」 短い笑い声すら立てながら、仕立て屋は黒コートの内側をまさぐる。
「どっちでも同じように俺には思えるが、お前さんにとっちゃあ大切な違いなんだわなあ。」
 そんな乱暴な、とたたみかけた形のいい唇を束ねられた薄い紙切れが遮った。どうにも、相手の扱いに関しては仕立て屋の方が一枚上手のようである。
 理不尽な感情を脇へ遣りながら、彼は古書の時と同じ――いやそれよりももっと真摯な面持ちで栞を確認し始める。紐の栞はいずれの古書にも備わっているが、それはどちらかというと顧客向けにつけたおまけである。本にはやはり栞、それも紙でできた栞がよい。一般のものならば芸術的な絵の一つも入るものだが、ことこの古書相手には無地の台紙、特にロウで周囲を封したものが好まれた。
 栞を守るには、ロウが一番いい。必要ならばさらに木や金雲母で薄く覆う時もあるが、基本はやはりロウのみであると、彼は強く説く。はずみで裂けず、しかして破ろうと思えばできない事も無いこの危うさが丁度いいのだ、と。
 その辺は仕立て屋も心得たもので、豪胆な物言いで彼を挑発すれど、いくら草木も眠る冥六ツに遊び心の魔が差そうとも穴を開けて無粋なリボンを結わえることもなければ、まして自分の店の広告を銘打つはずもなかった。
 紡がれた物語を見守る二人にとって、栞は何に替えても慎重に扱われるべきものなのである。
 故に仕立て屋は選び抜かれた古書を手渡す時、必ず顧客にこう伝えた。
「紐の栞は自由に使うと良い。但し、紙の栞は絶対に恣意では動かさないように。」
 わざわざ恣意で、と付け加えるのは、紙の栞自身が時折独りでに移動する事があるのを見越しての事である。
 今度こそ仕立て屋は然るべき用件を果たし、主人と同じく仏頂面の木の扉を押し開けようとして――今やっと思い出したと言うにはいささか不自然な間合いで、「ああそうだ」と振り返った。迷惑そうに顔をしかめるしおり屋のそばににじり寄ると、典麗な目尻から耳のラインに髭面を寄せる。
「公手左、八番通り南入る三本目の路地裏で、厄介ごとが頻発しているらしい。影だけの鼠の群が走り回ったり、うっかり紛れ込んだ余所者が消息を絶ったり。」 ぴくり、彼の眉だけが反応する。そっぽを向いたまま。
「元凶はそこの婆さんくさいんだが……いい取り引き相手になると思わんか?」 
「思わん。」
「疼くだろ?」
「疼かん。」
「行きたいだろ?」
「行かん。」
「行くだろ?」
「行かん。」
「行けよ! この強情っぱり。」
「強情で結構。」
「愛想知らず。」
「無愛想で結構。」
「女もたまには抱け。」
「抱かん。」
「子どもとたまには遊べ、なごむぞ。」
「なごまん。」
「人生を学べるし。」
「これ以上ややこしさは要らない。」
「いい営業にもなるんだ、積極的に生きようぜ、あいぼーう。」
「都合の悪い時だけ相棒呼ばわりするな。普通の古書屋は営業して回らない。」
「普通の店でも、古書屋でも無いんだろ、お前さんは。」
 痛いところを突かれて思わず息を呑み込んだ彼の頭を、仕立て屋は満足そうにぐしゃぐしゃとなでた。自分は気付いていないのだろうが、一たび余裕が剥がれるとこの冷酷漢はひどく幼い表情を垣間見せる。今も紅潮した頬で乱れた髪を乱暴に直す彼に、仕立て屋は破顔せずにはいられなかった。
「お前さんほどのしおり屋は他にいないんだよ。――時に、これほど材料に囲まれていて自分で書く事はしないのかい?」
「しない、今はまだいい。」 それにわたしがいなくなったら、あんたはどうするんだ。
 寸でのところで飛び出しそうになった熱を、彼は喉元で留め置く。
 そうか、と木戸をくぐり去る仕立て屋の呟きは、妙に湿り気を帯びているようだった。


*   *


 災厄が過ぎ去りようやく店内が落ち着きを取り戻したのは、間もなく冥一ツを迎えようという時刻。彼は仕立て屋が残していった椅子を元に戻すと、新たに得た古書候補と栞をそれぞれ然るべき位置に分類し、読書を再開した。
 そろそろ夕飯時、雑踏を呼び込んでいた商店露店も終い始める音がする。潮が引くように静けさを取り戻した番台の中、しかし文字を追う視線はさ迷い、細指は苛々と銀縁を掛け直し――物語が主人公一世一代の求婚に差し掛かった所で、とうとうパタンと閉じられた。
 しばらくそのままぐずぐずと留まっていたが、諦めたように溜め息一つ。木戸から漏れる斜陽が無いのを確認した後、彼は寝室にマントとランプを取りに立ち上がった。仕立て屋の快活な笑いっぷりを思い浮かべながら。
 表通りは既にとっぷりと闇が落ちていた。円形広場に行き交う靴音は無い。締め出された子どもも、客引きの遊女も見当たらない。十数年前の辻斬り騒ぎ以降、この街は夜に息をひそめる事を覚えてしまった。ただ家々の懐かしげな灯りが成す黒の林を一つの人影が通り過ぎるのみである。
 女、煙草、美食、賭博。喩えそうした誘惑が絡み付いてきたとしても、彼が心を動かすことはもう無いだろう。彼は陽気に満ちた男の仕草を思い出し、ふいに胸苦しさに捕らわれる。仕立て屋が仕立て屋である限り、真に理解されることは無いのだ。しおり屋を称する事が、何を意味するのか。
 温暖な気候のこの街において彼が羽織るような厚手の外套はさして必要無かったが、習慣とは恐ろしいもの。立ち襟から肩にかけてを小さなベルトで留める型など流行遅れも甚だしかったが、彼がしおり屋となる前から愛用していた数少ない物であったため、なんとなしに手放せなくなってしまっていた。それは背に負った子どもの背丈ほどの四角い篭も同様で、仕立て屋の言葉通り彼の見立てが外れる事はここ数年では殆ど無くなっていたのだが、用心深い彼は仕事の時はいつも予備の数冊をその中に入れていた。
「みょうーみぃーっつぅー!」
 広場の中心に独りそびえる時守の声が寂しげに響き渡る。
 彼の知る限り、時守は誰にも干渉しない。以前、角の肉屋と八百屋の大喧嘩の仲裁を取り成そうとして酷い目に遭って以来、時守は腹に据え兼ねたのか誰にも言葉をかけないし、石台を降りようとはしない。
 それは人々も同じで、誰もあの形ばかりの鎧兜の下に隠された顔も本当の年齢を知らないし、名前も呼ばない。庶民の生活に時計が広まって久しい。もはや雑踏の一部になってしまった時守の声に耳を傾ける者など殆どいないのだ。しかし時守は自らに備わる生理に逆らい、どんな天気のどんな時でもそこに立ち、彼なりのわずかばかりの秩序を捧げ続ける。識字率の広がったこの城下街で、文盲のために同じだけの鉦を打ちながら。
「時守、首の傷はもういいのかい。」
 そう訊く度に、しかし誰からも干渉されないはずの時守はひどく哀しげにかぶりを振る。わかっていながら、その前を通るたび彼は同じ匂いのする存在に声を掛けられないではいられなかった。
 雑踏に身を投じてにかたくなにたたずもうとする者と、雑踏から身を引いてかたくなにたたずもうとする者。彼は珍しく微笑みを浮かべ何かを呟こうとし――思い直したかのように、眼鏡をずり上げた。夜は彼を過剰に饒舌にさせる。
 隣と共に廃業した青物店が並ぶ角を抜けて、もう四半刻ほども歩けば街を東西に分断する運河が香り出す。青黒く塗り潰された水面は、昼間は貨客船が行き交い賑わうだけに余計に恨めしげにすすり泣いていた。
 橋を伝い、最北に位置する公宮から街を臨んで左手に位置する岸に渡れば、体に押し寄せる闇は一気に濃密なものになる。彼はこの辺りに詳しくは無かったが、煉瓦造りの合間を縫う足取りが迷う様子は無かった。
 わかる、のだ。運河の匂いに混じってかすかにたなびく、へどろの醸す生臭さとは違った……雨の日の古書に似た……見捨てられた倉庫の隅でじっとりと水に打たれて腐ってしまった、赤錆のような異臭が。仕立て屋ならば、喩えあの不気味なコートを纏っていても満ち満ちたこの陰の気に堪らず膝をついていたことだろう。
 だが仕立て屋としおり屋は決定的に異なる。今の彼ならば、灯火すら要らぬ。いつしか老緑の瞳は金色を帯び、備わる白さは一層妖しく燃え立ち嗤う。鼻を突き出すまでも無く、彼は心臓の求めるままにのたうつ漆黒へと揉まれて行った。
 時は冥四ツ、真夜中。もはや戻れぬほどに道が込み入った辺りで、ごぅ……。突如ランプの灯が掻き消える。風すら吹かぬ路地裏で。声だけの群れが足元をすり抜けた。
 なぜ消息を絶ったという余所者は、ここまで来ても気付かなかったのだろう。もう戻れなくなっていたのだろうか。独りごちようとして、あまりの喉の圧迫感に背筋を正す。きし、と肩に食い込む篭帯が揺れた。
 腐臭の源はその一角に在る扉の向こうであった。
 ひしめく粗末な軒の間でも取り分け、今にも傾き潰れそうな朽ち屋である。木戸は既に打ち釘で封じられていたが、しおり屋の彼は難なく看破した。
「これはまた、おあつらえ向きの……。」
 閉ざされた扉の内側の世界、尋常にあらざる量の異臭に、今度こそ彼は声を立てる。否、この場においては顕在する言葉は無くてはならぬものであった。
 動物に齧られた壁紙、薄汚れた作業台、花の枯れた花瓶――。口に大いに流れ込む空気以外の物にむせ返りそうになりながら、彼はがらくたと埃を積もらせた板張りの床を越え、目指すものへと慎重に足を運ぶ。間も無く起こる、避けようも無い争いに身構えながら。
 とぷり、とぷり、闇は揺らめく。生あるものと見れば即座に呪われかねないこの空間で、恐怖などは微塵も無かった。むしろ心地良いほどの暖かさで臭気は彼を迎えた。血の気の引いた顔に微笑みすら浮かべ、彼は見知らぬ他人の家を探索してゆく。ほどなくして。
「ああ。」
 意図せず、嘆息が漏れる。荒れ果てた台所の奥、悲しくなるほど貧しい場所に彼女はいた。曲がった背を彼に向けるようにして、既に骨と皮ばかりになった体を椅子に乗せて。
 老婆、のようであった。餓鬼と見まごう荒れた肌をしている。白髪交じりの灰髪を結い上げ、黄ばんだレース編みのショールを肩に掛けている様子のみが辛うじて見て取れた。すかさず背中の篭を下ろし見繕っておいた栞と古書候補を取り出すと、彼は祈るような格好で空白の一頁目を差し出す。
「楽になろうよ、婆さ――っと。」
 練り上げておいた言葉を放ち本職を開始しようとして、寸でのところで踏み留まる。
 こうした相手に肩書きで呼び掛けるのは最も禁忌とされる事の一つだった。言葉は剛い。泥とした絶望に、さらに固着させる作用を放ってしまう。彼女のような――無念の内に肉体を喪い、魂も歪んだ何かに囚われてしまったモノにとっては。
 再び鈍く痛み始めた腰に力を入れ直し、彼は目の前の存在に同調を試み始める。深く、長く息を吐いて心臓付近の門を開く感覚を得、細く、ゆっくりと吸い込みながら彼女から崩れ落ちた黒いかけらを中に取り込んで行く。じっとりと閉ざされたどうしようもない闇の中、すがる岸辺を探していた病みびとである。抵抗するよりもむしろ寄り掛かるくらいのあっけなさで、彼女は自分の一部を彼に赦した。
 同時に、古書を捧げる腕の辺りに激痛が走り出す。血管に闇色の結晶がびっしりと逆立つような不快感。この世でまっとうに光を浴びる者ならば、到底耐えられぬ程の苦痛である。深紅を蝕むそれはしかし紛れも無く、彼女自身が溜め込んで来ざるを得なかった辛苦でもあった。
 どうにか自我を保ったまま、腕に這う彼女の欠片から情報を得ようとする。
「*********。」
 忌みびとの強張った唇から放たれる、低い、歪んだ呪詛のような呟き。とても言葉にならない。だが彼は丹念にそれを受け止める。
「ああ、物心着いた時から酷い貧乏で切なかったんだよな。」
 応えるかのように、ビッと彼の白い頬に裂け目が走った。探る体は揺るがない。
「*********。」
「ああ、女学校にも満足に通えなかったんだな。」
 外套の襟が、袖口が裂ける。ひるまない。流れ込むひと一人分の命の情報の間を縫い、彼は目的の方向を感じ当てる。
「*********!」
 チッ、と硬い何かが目の下に辺り、言葉をこぼれ落としそうになった。銀縁眼鏡の破片。視界の崩壊すら、二人の行為を止めることはできない。
「*****。」
「ちゃんと聴いてるよ。嫁ぎ先でもはしためみたいに扱われたんだよな。」
 もう少し、もう少しで掴める……彼女の核を。首とあらず腿とあらず全身に細かい傷を負い引き倒されそうになりながら、彼はじりじりと模索を展開する。アンは似ているだけ、フィールズは婚後だ要らない、欲しいのは神から賜った――。
「*********、*********。」
「子どもも流れてしまって、旦那さんにも顧みて貰えなくて……。」
 もはや激痛は肩を伝い心臓の辺りにまで達しようとしていた。それは即ち、彼自身の絶命を意味する。それでも彼はやめない、否定しない。なぜなら彼は死絶(した)て屋ではない。亡者は裁かない。
「******************!」
「晩年一人で過ごして、でも偏屈だって誰にも構ってもらえないまま死んだんだよな?」
 彼は死折(しお)り屋、亡者を捌くもの。そして―――。
「頼む。史織らせてくれ、アニー・ラズベルト!」
 しおり屋が存在の真名を叫んだ、その瞬間。
 ご  う。
 あばら屋を満たしていた黒い腐臭の全てが渦巻き、差し出された古書に、彼女のためだけに設けられた居場所に次々と綴じ込まれてゆく。衝撃にひどく振動する彼の腕、全身。ひるまない、倒れない。称号の持つ誇りもて、彼女の人生を受け止める。押し開かれた頁の上では見えざる手が走り、猛然と言葉を書き付けてゆく――赤みを帯びた黒文字で。
 紡がれる。伝えられなかった想いが、孤独に落とされた涙が。誰にも語られることの無かった偏屈の裏側にあるものが、誰にも悟られなかった微笑みの裏側にあるものが、言葉を成して次々に産まれ直してゆく。しおり屋の腕の中で。その喜びを、驚きを、苦しみを、痛みを押し付け彼を引き倒し、喉が張り裂けんばかりの絶叫を共にする――――!
 床の上でなお堰が切れたように空白を埋め尽くす物語は紛れも無く彼女のもの、不遇の内に終焉を迎えたアニー・ラズベルトの歴史に他ならなかった。
 ……どのくらい伏していただろうか。
 死体のように捻じ曲がった姿で崩れ陥ちていたしおり屋の手足が、ぴくり唐突に動いた。同時に再び奏でられ始めた激痛に顔をしかめ、手探りで眼鏡を探し当てるとひしゃげた銀縁のまま鼻に乗せる。
 時間を掛けてようやく起き上がった暗がりにはもう彼女の姿は無く、替わりに決してほどかれる事の無かった腕の中では一冊の古書がコリコリと音を立てていた。開かれたままの空白は既に十数頁まで進み、お世辞にも上手とはいえない筆記体の隣では――栞が、美しげな貴婦人の影絵が、幾重にもめぐらされた神秘的な青のベールに包まれ振り向きかけている。細かい銀の小花模様で縁取られた栞の中の黒き住人は、心なしか笑っているようにも見て取れた。
 大きな溜め息を一つ吐き、彼は何とか立ち上がり篭を背負う。もう一度だけ見回すと、軽くうなずきアニー・ラズベルト晩年の住居を後にした。


*   *   *


 もう、ランプを灯す気力も残っていない。ここで力尽きても嘆いてくれる身寄りの無い事が今はたまらなくありがたかった。草木さえ眠り始めた夜の街中、彼は痛む体を引きずり来た道をよろめき歩く。
 今や肌に触れる闇は浄化され、行きとは比べ物にならぬ軽さである。なのに静謐に漂う石畳の香りが、細く歌う運河のさざめきが、しおり屋をひどく悲しい気分にさせた。無性にあの時守の老人じみた節回しが聞きたかった。この際、いけ好かないどこかの仕立て屋の荒くたい笑い声でもいい。だが冥五ツ半にも六ツにもかからぬ半端な時間、あの律儀な時守は冷たい石の上で静寂を守り、髭面は皆が寝静まった裁縫台で金縁片眼鏡に汗をほとばしらせながら古書候補を修繕しているのだろう。その姿を想像すると、ほんの少し何かがやわらいだ。
「さびしくない、寂しくなんかない。」
 その呟きの意味も、そう呟く事の意味もわからぬまま、彼は延々と歩き続けた。自分を相棒と呼んで笑いかけた誰かの顔を強烈に思い浮かべながら。
 さびれたねぐらに帰り着くとすぐに明かりを灯して回り、腰をかばいながら新しく得た古書を手に地下へ降りる。ひんやりと土の冷たさを思わせる広大な書庫の中では、幾つもの書きかけの人生が眠っていた。
 これら亡者の栞それぞれが語り、存分に語り、余すことなく自分の物語を紡ぎ終わった時――栞は再び過去の頁へとって返し、最も幸福であったと感じられる時々を遊び回るのだ。再び揺り起こされ、しおり屋の手によって誰かの物語へと処方される、その日まで。
 永劫とも思える静けさを堪能した後、彼は階上に戻る。力ない手つきで湯を沸かし布を固く絞って全身を拭うと、やっと緊張がほぐれて行くのがわかった。身が重い。朝よりもずっと重い。存在すらも無かったことにする死絶て屋ならば亡者の語りが体に残る事はないのだが、彼はその性格から、何よりその性質から、折り取った他人の物語の断片を抱えずにはいられなかった。全く、割に合わない稼業である。痛みに痛む腰をさすりながら、次こそは意地を張らずに仕立て屋に縫い直してもらおう、そう彼は決めていた。
 そのまま寝床に倒れ込んでしまいたかったが、彼に宿った内なる闇がざわめいた。いつだって夜は彼を過剰に沸き立たせる。こんな晩は、特に。ランプを片手に番台に座ると、読みさしの赤い表紙を開こうとし――ふと仕立て屋の侘びしげな問いを思い出し、背後の棚に取り分けてあった真新しい一冊を取り出した。
 深く、長く息を吐くと、汚れの無い小口部分を心臓近くに押し当てる。目を閉じ、耳を済ませ、己の内側よりこぼれ落ちてくる何かを求めたが―――帰る鼓動は、無い。
 わずかな焦燥に駆られ頁を繰ってみるも、いつもと同じく迎えるのは空白だけ。静かに肩を落とすと、彼は押し開かれた頁を枕に番台にへばりついた。銀縁に、パサパサと乳白色の前髪が垂れかかる。いつしか全身に帯びていたはずの傷は消え去り、割れていたはずの眼鏡は何事も無かったかのように元の姿を取り戻していた。
 時守が台を下りて用足しに行く事は決して無い。自分が食事を摂る事は決して無い。もう、二度と。しおり屋は愛さない。なごまない。泣かない。季節を感じない。腰の傷は癒えない。笑わない。子どもはいつしか子どもでなくなる。女は次第に円熟する。仕立て屋も同じ。しおり屋は、しおり屋のまま。それが、しおり屋だ。
 薄い唇が哀しげにほころぶ。
「強情だねえ、あんたもわたしも。」
 苦味の染み込んだ言葉が、夜に散る。
 時守は喧嘩の仲裁の最中にはずみで首に肉切り包丁が刺さって死んだ。自分は辻斬りで腰元をばっさり離された、まだ成人にも届かぬ貸本屋見習いだったような気がする。真名はとうに忘れた。白髪を得る前は、きっとうるさい程に笑い転げる若者だったのだろう。気付いた時には他人の史織りを見守ることを生業とするようになっていた。死者と、生者と、死者になり切れなかった者のさらなる狭間で。
 これから眠りに就けば、また身の重い朝が来るのだろう。他人の物語を織り込み、さらに複雑になってしまった己の物語を内側に秘めて。今日明日に終わる辛苦ではないとわかっているが、昨日今日より慣れられた辛苦でもない。だが、こんな夜は考えてならない。時が巡りあの仕立て屋さえもこちらの住人に加わったその時、自分はどう朽ちればいいのだろう? 自分の真名を見つけ、死負ってくれる誰かは現れるのだろうか?
「時守、孤独が怖くてお前を肩書きに閉じ込め続けるわたしを恨むかい?」
 聞こえたはずはないのだが――やや早めに訪れたいつもと替わらぬ調子の冥六ツ知らせに確かに微笑むと、彼は白紙の古書をそっと閉じ置いた。




[笑わぬしおり屋の微笑みて曰く・終]

前項
作者 / 莅樺 想