彼女とサバイバル




 富士の麓の青木ヶ原樹海を彷徨いながら、僕は彼女について来てしまったことを後悔した。しかしそれも数十分前までのことだ。今、僕は心の底から後悔している。彼女に告白してしまったことを!

 僕はどこにでもいるごくごく普通の高校生だ。背が低いことを除いては。男子バレーボール部に所属しているけれど、二年になっても部内一背の低い僕は万年補欠組である。リベロを努める技術さえない。
 一方、彼女は女子バレーボール部のエースアタッカーだった。男子はもちろん、女子からも慕われるちょっと、いや、かなり可愛くてかっこいい女の子なのだ。彼女は僕よりも一年上の三年生で、僕にとっては入学以来ずっと憧れの人だった。バレーボール部に入ったのも彼女がいたからだ。男子と女子は別々だけれど、同じ体育館で少しでも彼女の姿を見られるならそれで僕は満足だった。
 何しろ彼女は学校中の憧れの的と言っても過言ではない存在だったのだ。彼女に好意を寄せている男子生徒は数多いたのである。しかし、彼女に思いを寄せる多くの男子生徒がお互いに牽制し合っていたせいか、彼女に特定の彼氏がいるという話は聞いたことがなかった。彼女が恋人を作ることより部活動のバレーボールに力を注いでいたからでもあるのだろうけれど。
 とにかく、僕はおよそ二年間、彼女に片想いをし続けていたのだ。この先もずっと片想いのままに違いないという僕の悲観的なイメージに多少の変化がもたらされたのが一ヶ月ほど前のことである。僕より一学年上の彼女が間もなく卒業してしまうのだということを実感した時のことだった。どうせ片想いなのは分かっていたし、告白しても振られるだけだとは思っていた。スポーツ推薦で某有名私立大学への進学を決めた彼女を追って、一年後に同じ大学の学生として再会しようというプランも立てたけれど、学力が足りないとかそういう問題以前に、一年も経ったら彼女も彼氏を作ってしまうのではないかという危惧が生まれた。男子バレーボール部に所属している万年補欠でバレーボールが下手くそどころか運動神経もあまりない後輩。僕は、彼女がそれ以上の認識を持っていることを期待できず、当然ながら、彼女に「一年間待っててね。」などと言える立場にはない。
 どちらにしろだめなのなら、ここで潔く自分の思いに決着をつけよう。そう決心が固まったのは卒業式の後で、僕は、偶然にも彼女が大学の近くのアパートへ引っ越す直前、最後の挨拶として女子バレーボール部の後輩を激励にやって来たことを神様の思し召しと思い込み、彼女を体育館裏に連れ出して、告白した。たとえ振られても、この先もう二度と会うことはないだろうという確信を持って。
「好きです。付き合ってください!」
 たとえ上手く行っても遠距離恋愛になるんだろうなんてことは考えていなかった。だって、振られるに決まっていたんだから……。
 なのに、彼女は言ったのだ。
「うん、いいよ。付き合おう。」
 僕は自分の耳を疑った。
「あ、あの、先輩? もしかして勘違いされているのかもしれませんが、僕は決してバレーボールの練習に付き合ってくださいとかそういう意味で言ったんじゃありませんよ?」
 僕が彼女を見上げながら――言うまでもなく、彼女は僕より背が高い。頭一つ分違うのだ。――恐る恐る確認した。彼女にはこういう勘違いを素でやらかしそうなところがある。そういうところも僕は好きだ。
「分かってるよ。彼女と彼氏になろうってことでしょ? 恋人同士。」
 彼女はにっこりと僕に微笑み掛けた。眩暈がしそうだった。憧れの彼女が僕の目の前でにっこりと笑ってくれた。それだけで僕は死んでもいいと思った。
 数日の間、僕は浮かれていた。三回に二回は外していたサーブが百発百中になるくらい、僕は浮かれていた。僕と同じように彼女に憧れていた男子バレーボール部の副部長から手厳しいレシーブ特訓を受けても全て拾い上げられるくらいに僕は浮かれていた。
 そしてある日突然、彼女から僕の携帯へメールが届いたのだ。電話番号とメールアドレスの交換は当然ながら告白当日に済ませていた。浮かれていた僕はその日の夜に一言「今日はありがとうございました。おやすみなさい。」と送るのが精一杯で、その後何度もメールや電話を試みてはごろごろベッドの上を転がっていたのだけれど。
 彼女から届いたメールは非常にあっさりしていた。
「明日、八時に駅の改札前で待ってるね。動きやすい格好で来るように。」
 僕は跳んだ。これがデートの誘い以外の何だと言うのだろう。本来なら男の僕から誘いをかけるべきだったのだろうが、僕は四月から大学生になる彼女も忙しいだろうと考えて遠慮していた。そんな僕の気持ちを察するかのように届いたメールに、僕は即行で返信をした。
「分かりました。必ず行きます。」
 晴れて恋人同士になったのだから、もう少し砕けた感じでハートの絵文字なんか入れてみてもいいかなあなんて考えが頭を過ぎったものの、彼女のシンプルな文面に対してそれを返すのはあまりに危険過ぎる。ちゃらちゃらした奴だと思われたら嫌われてしまうかもしれない。
 言うまでもなく、その時の僕はどうかしていたのだ。絶対振られるに決まっているという少し前まで至極当然に持っていた考えを忘れていた。彼女と僕では釣り合うはずがないのに、こんなに都合のいいことは漫画でも起こり得ないと理解していたはずなのに……。僕は愚かだった。
 翌朝、待ち合わせ時刻より三十分も早くに駅前に着いた僕は、約束の時間よりも十分早く現れた彼女に驚いた。彼女は、地味なスラックスに、中年の登山家が着ていそうなポケットのたくさんついたベストを着ていたのだ。背中には大きなリュックサック。斜めに掛けられたポシェットも地味だったけれど、彼女は何を着ても似合う……なんてあほなことを考えている場合ではない。制服とジャージ、そしてバレーボール部のユニフォーム以外に彼女の服を見たことがない僕には、それがいくら流行に反した格好でも可愛く思えたのだけれど、その格好は僕にとってあまりにも予想外だった。
 動きやすい格好をしてこいと指示された時点で、映画を観てお茶をするという定番コースではないだろうと思っていた。それでも僕は公園でお花見がてらのピクニックかなあなんて想像していたのだ。最近はレンタサイクルでサイクリングなんていうのも流行っているとかいないとか。スポーツの好きな彼女のことだから、市民体育館でバドミントンとか、それくらいは僕にも想像できた。
 でも、彼女の格好はちょっと本格的過ぎる。富士登山にでも行くんですか。それともあなたは探検家ですか。そんな問いが言葉にならないまま頭の中を巡って、僕はTシャツにパーカーを羽織り、ジーンズにスニーカーという至極普通の格好でやって来てしまったことを反省した。
「なんだ、もう来てたんだ。早いな、草野は。」
 彼女はそう言って僕に微笑み掛けると、よっこらせっと背負っていたリュックサックを下ろした。
「あ、あの、今日は……。」
 何をするつもりなんですか? と聞きたかったのだが、それを聞いてしまっていいのかどうか、僕の本能は怯えていた。
「悪いんだけど、私の代わりにこれ、背負ってくれる? あ、全部じゃなくていいよ。今、少し中身抜くから。そんな不安そうな顔しないで。いくら草野が小さくても潰れるほど重くはないよ。」
 彼女は言い掛けた僕の言葉を聞いていたのかいないのか、リュックサックの中から小さなリュックサックを引っ張り出して、それを自分が背負い、残りを僕の方へ押した。彼女の台詞は男の僕にとっていささか屈辱的だったのだけれど、僕が小さいのは事実だし、それくらいで冷める恋ならとっくの昔に冷めている。
「分かりました。」
 僕は不安を心の奥底へしまい込んで、彼女に言われるままにリュックサックを背負った。
「大事なお弁当も入っているから扱いには注意してね。」
 彼女が微笑んだ。お弁当と言うのは彼女の手作りだろうか。僕に弁当を用意して来いと伝えなかった事実を考慮すると、そのお弁当には僕の分も含まれているはずだ。初めての彼女の手料理に僕は期待を膨らませ、浮かれた足取りで彼女について駅の改札をくぐった。

 そしてやって来たのが富士の樹海こと青木ヶ原樹海だった。電車を乗り継いで、バスに乗って、それから延々と歩いて、彼女が僕に背負わせたリュックサックに入れてきたコンビニのおにぎり――彼女が駅前へ現れるまで、それは彼女が大きなリュックサックから抜き出した小さなリュックサックの下にあったので、それらはすべて潰れて原形をとどめていなった――を頬張ったのが一時間ほど前のことで、その時やっと、僕は彼女がここへやって来た目的を知らされた。
「宝探しをするんだよ!」
 彼女は喜々として瞳を輝かせ、彼女のリュックサックの中から一枚の古びた地図を取り出した。
「宝探し……ですか?」
 僕は水筒の中の温かい麦茶を飲みながら、そう返すしかなかった。
「父さんの書斎で見つけたんだけど、ここに『富士の恵の在り処』って書いてあるでしょ? そしてこのバツ印! ここに『富士の恵』つまりはお宝があるに違いない! って私は結論付けたんだけど、どう思う?」
 彼女は僕の目の前で地図を広げながら、僕の顔を覗き込んで来た。あまりにも間近に見た彼女の顔に、僕は危うく腰掛けた木の根から転がり落ちそうになった。
 どう思う? なんて尋ねられても困る。既に青木ヶ原樹海へやって来てしまった今、「宝の地図なんてそんな子供だましあり得ないですよ。」とは言えない。これが気の知れた男友達なら「馬鹿話に巻き込まれるのはごめんだ!」と踵を返していたに違いないのだけれど、相手が彼女とあってはそれもできない。こんな無茶苦茶な彼女でも、僕にとってはやっぱり憧れの人なのだ。
「この地図がこの青木ヶ原樹海のものだってことまでは確認済みなの。この地図の端っこにある眼鏡の絵はたぶん眼鏡穴のことだと思うんだよね。ほら。」
 彼女は古地図を僕の膝に載せ、別の真新しい地図を取り出した。広げられた地図は『河口湖周辺ガイドマップ』と題された観光用のものらしい。
「あのー、なんか眼鏡穴ってもう一つありますけど……。」
 昔から、観察眼は鋭い方だった。僕は彼女が指差したのとは別の場所に「眼鏡穴」の文字を見つけたのだ。下手をすると、完全に前提がひっくり返ってしまう大発見だ。
「うん、知ってる。でも、それは位置関係からしてこの古地図に載っているものとは違うと思うんだ。だから、この地図は青木ヶ原樹海の地図。間違いない! 真実はいつも一つ、じっちゃんの名に懸けて!」
 彼女がそうきっぱりはっきり言い切った時、僕は初めて彼女がミステリオタクだという事実を知った。そして、彼女が、名探偵の彼女には何一つ間違いなどないとありがたくない確信を抱いてしまっているという事実も……。

 そんな経緯があって、今、僕は彼女について青木ヶ原樹海を彷徨っている。既に遊歩道から外れ、僕は彼女が用意してきた梱包用の紐――その一端は遊歩道脇の木に結び付けて来た――をしっかりと握り、それを唯一の命綱として、一生懸命に彼女の後を追いかけていた。彼女は古地図を片手に縦横無尽に樹海をぐんぐん進んで行く。先ほどコンビニおにぎりの昼食を終えた後に、これで大きなリュックサックの中身がだいぶ軽くなったと踏んだ彼女は、必要最低限以外の荷物を再び僕の背負っている大きなリュックサックの中に戻したのだ。だから、今の彼女の持ち物は新旧の地図二枚と、探偵七つ道具が入っていると言う小さなポシェットだけである。
 磁石が狂うとも言われる――その信憑性については大いに疑いがあるのだけれど――樹海の中で、彼女は太陽の方角と腕時計の針を頼りに方角を調べていた。時計の短針を太陽に向けると、その短針と文字盤の十二の方向のちょうど中間が南の方角になるのだ。木々の生い茂る樹海の中で太陽の方角を正確に把握するというのはかなり困難なことだから、果たして本当に彼女が正しい方角に進んでいるのか、僕には分からなかった。たぶん、十中八九間違っている! しかしいずれにしても、僕にとって重要なのは進む方向ではなく戻る方向だから、命綱さえ確かなら、狂った磁石でも彼女が漫画で学んだサバイバル術でも、頼りにするものは何でも良かった。僕はただ彼女が早く引き返す決断をしてくれることを願いながら、一生懸命に身軽な彼女の後を追いかけるだけだ。
「せ、せんぱーい!」
 ふっと彼女の姿が盛り上がった木の根の向こうに隠れて、僕は慌てて声を上げた。命綱を手にしているのは僕で、もし僕が彼女を見失って彼女とはぐれてしまったら、彼女は永久に樹海の中を彷徨い歩くことになりかねない。その危険性を彼女は全く認識していないのか、重いリュックサックを背負った僕を振り返ることなく、彼女はぐんぐん進んで行く。
 重いリュックサックに動きを制限されながら、僕が木の根を乗り越えると、彼女が退屈そうに僕を待っていた。そして、僕が木の根を乗り越えるのを確認すると、彼女はまたすたすたと樹海を進んで行く。もはや地図に記されたお宝以外には興味はないといった様子だ。
 彼女の素っ気ない態度に、僕は一つの仮説を導き出していた。僕は彼女の彼氏ではなく、ただの荷物持ちなのではないか。全くもって妥当な結論だ。彼女が僕の突然の告白にあっさりOKの返事をしたのだって、この探検のためのちょうどいい荷物持ちになりそうだと考えたからではないのか。そうだ、そうに決まっている! 彼女のOKにすっかり舞い上がっていた僕は馬鹿だ。どうしようもない間抜けだ。阿呆だ。救えない!
 はあとため息を漏らすと同時に、僕は手に握っていたものの異変に気が付いた。二百メートルの長さがあるはずの紐はもはや手許に数十センチしか残っていない。
「せ、せせせ、せんぱーい! 先輩、戻って来てくださーい!」
 僕は慌てて叫んだ。このまま彼女に先に行かれてしまったら、僕は命綱である紐を手放すか、彼女を見捨てるかしかなくなってしまう。どうしようかと焦っているうちに、彼女が引き返してきた。
「どうした、草野?」
「紐がもう終わりになってしまって……。」
 僕が言うと、彼女はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。まだ何巻か草野のリュックサックの中に入ってるよ。この日のためにたくさん買い込んだから。とりあえず、これをその辺の木に結び付けて……。」
 彼女は僕の手から紐を奪い、それを手近な木に結び付けようとした。
「せ、先輩、引き返しませんか? そろそろ戻らないと夜になっちゃいますよ?」
 僕は紐を結び付けようとしている彼女の手を制して言った。その時、僕は初めて彼女の手に触れて、僕の心拍数は急激に上昇していた。
「大丈夫だって。まだ三時のおやつにもなっていないんだから。」
 僕の顔を見て一瞬停止した彼女は、ぱっと表情を明るく変えた。確かに、今の時刻は午後二時を少し過ぎたところで、日没まではまだ時間がある。樹海の入り口まで引き返すだけなら、もう少し進んでも日没前に戻ることは可能だろう。しかし、一般道に出てからバスに乗って――田舎のバスはそんな遅い時間まではないはずだ――電車を乗り継いで家へ戻るまでは三時間以上掛かる。そろそろ帰らなければ夕飯に間に合わない。せっかくのデート――だと思い込んでいた――だし、二人でディナーもいいかもしれないと考えてはいたけれど、こんな樹海の真っ只中でディナーは嫌だ。彼女が用意してきたコンビニおにぎりはとっくに食べきっている。最低限、日没前に電車に乗りたかった。
「でも、のんびりしているとバスも電車もなくなって……。」
「だけど、あと少しだよ? ほら、今いるのがこの辺で、宝の在り処がここだから……ね?」
 彼女は慌てて地図を広げ、それを指差しながら説明した後、懇願するように僕の顔を見た。立ち位置の高低差のおかげで、彼女が僕を見上げるような状況になる。だめだとは言えなかった。みんな勝手に笑うがいい。彼女の可愛さにめろめろで命に関わるような重要な判断もろくにできない愚か者だと笑えばいい。この樹海の中で彼女と一緒に死ねるなら僕は本望だ!
 でも、彼女まで死なせるわけにはいかないから、僕はなんとしてでも彼女を無事に家まで連れて帰らなければならない。男としての最低限の責任は果たすつもりだ。でも、まだ日没までは時間がある。
「じゃあ、早く見つけましょう。」
 僕は彼女に微笑み返し、彼女が手にしていた紐を受け取って、木にしっかりと結び付けた。これが僕らの命綱だ。リュックを下ろして新しい紐の一巻を取り出し、その端も木に結び付け、ずっしりと重い一巻を手に歩き出した。彼女と一緒に。
「足元、気を付けてくださいね。」
 一歩先を身軽に進んで行く彼女に、僕は声を掛けた。
「うん。なんか……草野がいると頼もしいな。」
 ふっと彼女が足を止め、振り返って言った。照れくさそうに。頬を染めながら。これは僕の錯覚だろうか。
 彼女があまりに眩しくて、慌てて視線を逸らした僕は、木の根に躓いてすっ転んだ。
「大丈夫?」
 彼女が慌てて駆け寄ってくる。僕は今更ながらに自分に運動神経がないことを思い出した。怪我がなかったのは不幸中の幸いだ。こんな樹海の中では救急車も呼べやしない。僕は再び自分が非常に危機的な状況にあることを思い出し、背筋を凍らせた。しかし再び「引き返しましょう。」とは言えない。少なくとも、もうしばらくは。
「この辺なんだけどなあ。」
 しばらくして、彼女が呟くように言った。古い地図と新しい地図を交互に見比べ、辺りをきょろきょろと見回す。
「その、先輩が探している宝ってどんな物なんですか?」
 僕はそれまでし損なっていたもっと早くに確かめておくべき質問をした。
「知らない。」
「え?」
「だって、地図には『富士の恵の在り処』としか書いてないし。とにかく富士の恵って言うんだからいいものなんじゃないかな?」
 別にこれは今気付いたことではないけれど、たぶん、宝なんてものは存在しないに違いない。ああ神様、この思い込みの激しい彼女を何とかしてください。でないと僕ら、死んでしまいます! 僕は祈った。僕の家は仏教だったから、仏様にも同じように祈った。もうとにかく祈った。
「そ、そうですか、富士の恵、いいものだといいですね。」
 僕はもう自分が何を言っているのかも分からないくらい魂の抜けたような状態で返した。
「シッ! 静かに。草野、何か聞こえない?」
 突然、彼女の手が僕の唇を覆った。いや、正確には顔の下半分を引っ叩かれたと言うべきかもしれない。それでも、僕は突然唇に感じた彼女の手の感触にどきりとした。
 彼女を倣って耳を澄ませるが、脈の音が全身に響いていて、何も聞こえない。
「何も……聞こえませんけど。」
 僕が言っても、彼女はまだ耳を澄ませている。
「聞こえるよ。水の流れる音。こっち!」
 彼女は走り出した。僕も慌てて追い掛ける。突然、彼女が立ち止まった。木の根をよじ登って彼女の隣に顔を出すと――。
 岩の間から、水が流れ出していた。湧き水だ。生い茂る木々の隙間から漏れた陽の光に流れ出る水がきらきらと輝いている。
「富士の恵だ。」
 彼女が呟いた。どこにも宝なんてない。黄金も宝石も千両箱もない。それでも、僕には彼女の言わんとすることが理解できた。
 確かに富士の恵だ。これ以上の富士の恵が他にあるだろうか。
 彼女はさっとくぼ地へ下りて行き、水の湧き出る口へ手を寄せて水をすくった。それをそっと口元へ運ぶ。樹海の中、静寂の中の緩やかな動きを僕は目で追った。
「おいしい! ほら、草野も早く!」
 彼女は満面の笑みで僕を振り向いた。
「はい!」
 僕は素直に答えて彼女の元へ駆け寄……ろうとして、また、躓いた。
「草野!? 大丈夫!? 怪我はない!?」
 先ほどと違い、完全に前のめりに倒れた僕に、彼女が慌てて駆け寄ってきて声を掛ける。
「だ、大丈夫です。」
 顔を上げて、僕はため息を漏らした。全く、どうして僕という人間はいつもこうなのだろう。心底情けない。
「楽しくなかった?」
 彼女が寂しそうに僕の顔を覗き込んだ。
「え?」
「前に草野はシャーロック・ホームズが好きだって話してたでしょ? だから、こういう探検も好きなんじゃないかって思ったんだけど……。」
 彼女は申し訳なさそうに微笑む。彼女が何を言っているのか少しの間理解できなかった。確かに僕はシャーロック・ホームズが好きだ。小学生の頃からの僕の愛読書だ。でも、それをどうして彼女が知っている? 彼女と好きな本について話したことがあっただろうか。いや、あるはずがない。僕と彼女は同じバレーボール部の――しかも実際は男女別の――先輩後輩の関係にしかなくて、僕はずっと一方的に彼女に片想いして見続けるだけで……。そもそも、男子バレーボール部の友達とだってシャーロック・ホームズについて語り合った記憶はない。僕が毎日部活中にホームズ語りをするシャーロキアンならともかく、幸か不幸か僕はそういう話をする相手に恵まれなかった。部活中は専らバレーボールの話――正確には僕がどれだけバレーボール選手に向いていないかという話――で、シャーロック・ホームズが好きだなんて話をしたことは……あった! たった一度だけあった。
 入部した時のことだ。新入生は全員自己紹介をするように言われて、その時は僕はシャーロック・ホームズが好きだと確かに言ったのだ。
 でも、それにしたって解せない。あの時の自己紹介はあくまでの男子バレーボール部の中での話で、同じ体育館にいはしたはずだけれど、女子バレーボール部の彼女がそれを聞いているだなんて。いや、聞いていた可能性は十分にある。自己紹介の最中「今年はイケメンが少ないねえ。」という誰かの声が背後から聞こえて来ていたからだ。
 しかしそれでも、なぜそんなことを今も彼女が覚えている? 僕のようなちびで運動センスがなくて、バレーボールの才能なんてあるはずもない男の自己紹介の内容なんて二年間も記憶に留めておくには無理がある。それとも、彼女もシャーロック・ホームズが大好きで、特別印象に残っていた? でも、彼女がシャーロキアンだなんて話は聞いたことがない。ミステリが好きだってことは今日初めて知った。
「どうして……僕がホームズ好きだって……。」
「え? まさか違うの!? 二年の間に趣味が変わった!? 知らなかった! 私としたことが!」
「いや、そうじゃないんです。今でもホームズは好きですけど、どうしてそれを先輩が?」
 聞いておきながら失礼だが、たった今の彼女の発言で、彼女が僕のホームズ好きを知りえたきっかけは理解できた。
「入部の時の自己紹介で話してたのが聞こえた。」
「でも、そんなのよく覚えてましたね? 普通、忘れちゃいますよ?」
 僕が本当に聞きたかった質問を重ねると、彼女は頬を赤く染めた。もう日が傾いて夕日が彼女を染めているのだろうか。いや、そうではない。太陽の光はまだ空高くから白く降り注いでいる。
「先輩?」
 無言で俯いた彼女の顔を僕は覗き込んだ。
「草野が……ちびだったから。」
「はいぃ?」
 実は彼女も僕に一目惚れをしていたなんて真実が語られるのではないかと期待した僕は大馬鹿者だ。身の程知らずもいいところだ。
「あんなちびでサーブもろくに入らない奴が仮入部期間が過ぎても部に残ってるなんて変だと思ったの! 二週間もあれば自分がどれだけスポーツに向いていないか分かるはずでしょう、普通は!」
 全く褒められている気がしない。実際、褒められてはいないのだろうけれど……。
「絶対にすぐに辞めると思って私はポッキー一箱を賭けたのよ、草野が一ヶ月以内に辞める方に! それなのに辞めないから!」
 あんまりな逆恨みだ。勝手に僕が部を辞めるか否かで賭け事なんて。
「草野がいつまで経っても辞めないから……好きになっちゃった。」
「え? は? へ?」
「今日辞めるか明日辞めるか気になってずっと見てたら、好きになっちゃった。」
「……。」
「どうせ私は馬鹿であほで間抜けで救いようのない女ですよ! 笑えばいいじゃない!」
「いや、僕は何も言ってない……。」
「好き。好きです。大好きです。」
 彼女は僕の服の袖をちょこっと摘まんで、俯きながら言った。
「僕も、先輩のことが、大好きです。」
 やっとの思いで口にして、僕らはしばらくの間黙って向き合って地面に腰を下ろしていた。立ち上がれなかった。身体は震えていて、脈は限界まで速くなっていて、もしかしたらこのまま死ぬんじゃないかと思った。
「そ、そそそそそうだ、草野! 水、飲まないの? ほら立って、それ飲んで! そして早く帰ろう、日の暮れないうちに!」
 彼女は突然立ち上がり、僕の腕を掴んだ。バレーボールで鍛えている彼女は、ちびの僕をあっさりと引っ張り上げる。真っ赤になった彼女の顔は明後日の方向を向いていたけれど、僕は彼女に半ば引きずられるようにして水の湧き出る隣に立った。彼女が見守る中、僕は水をすくって口元へ運ぶ。おいしい。冷たい水が全身を洗い流して行くような気持ちがして、僕は背筋を伸ばした。これからまた長い道を引き返さなければならない。
「どう? おいしい?」
「はい、とても。」
 僕が返すと、彼女は嬉しそうに笑った。

 せっせと樹海を引き返す途中で、僕は彼女に尋ねた。
「あの、ところで、先輩がわざわざ今回の探検を計画したのは僕のためだったんですか? 僕がホームズ好きだから……。」
 僕はどちらかと言うとこういう体力を使う探検よりも知恵比べのような暗号解読の方が趣味なのだ。僕が運動音痴であることは彼女だって知っていたはずだ。行程中、地図を眺めていたのは彼女で、今回の冒険で僕は荷物持ち以外の役割を果たしていない。ミステリっぽい宝探しとは縁遠いのが今回の探検だ。僕を喜ばせるための計画にしてはちょっとずさん過ぎる。
「ううん、単に私が来たかっただけ。引越し準備の最中に地図を見つけてずっと気になってたんだよね。でも、なかなか付き合ってくれる人がいなくって……。」
 そりゃそうだろう、と僕は思う。富士の樹海で宝探しなんて普通は誰もやりたいとは思わない。うっかり宝ではなく仏さんを見つけかねない場所だ。最悪、見つけられる仏さんになる可能性だってある。
「草野に告白された時、ピーンと閃いたんだ。草野なら付いて来てくれそうだなって!」
 僕は先ほどの感動は何かの間違い、白昼夢だったのかもしれないと思った。やっぱり彼女は今回の探検に都合のいい荷物持ちを見つけたと思って僕の告白をOKしたのだ。そうに違いない。
 しかしそれでも恋人は恋人。僕は彼女の彼氏で、彼女は僕の彼女だ。彼女が僕の隣で僕に微笑みかけてくれるなら、それ以上に何を望もう。

 ……なんて甘ちょろいことを考えていたのは数十分前までのことだ。今、僕は心の底から後悔している。彼女に告白してしまったことを!
 僕らは未だ樹海の真っ只中。そしてもうすぐ日が暮れる。
「また探検しようね、草野。」
 お願いだから、まずは今回無事に帰れることを祈って欲しい。一歩間違えたら僕らはここで永久に探検を続けることになってしまうのだ。
 ああ、どうか、どうか……助けて、神様! 仏様!

《了》


前項

作者/桐生 愛子