01 Plus




 まさか二十歳過ぎて夜中とはいえ街中をさめざめ……ううん、わんわん泣きながら歩く羽目になろうとは。凄い自分バカみたいと頭の片隅で思いつつも私はどうしても泣かずにはいられなかった。

 偶然とはなんとも恐ろしいもので、一人でぼんやりとレイトショーの映画でも見ようかなと街中に繰り出していた私はばったり会ってしまったのだ。今日は残業になりそうだから会えないごめんね、と8時間前にメールをくれた彼氏が他の女とばっちり腕を組んで出歩いているときに。
 正直それだけならまだここまでひどい状況にはならなかったと思う。私だってそれなりに大人の対応は出来る。あんな言葉さえ聞かなければね。
「あ、こちら沼津カオリさん。大学の後輩」
 彼のその紹介の仕方はどこか腑に落ちないものがあったけれど、私はその時自分が出来る精一杯の笑みを浮かべて彼の隣で胡散臭げに私を見下すヤケに化粧の濃い女に挨拶をした。
「で、こちらが柴草ユミさん。……俺らこの秋に、結婚するんだ」
 結婚といったときの女の勝ち誇った顔といったら! あぁ、もうこれは今思い出しても止まらない涙の一番の原因だ。その後はもう改めて思い起こすのも憚れるくらいお決まりの展開。どんな挨拶を交わして別れたのかすらすでに覚えていない。傷心? ううん消心。だって本当に何も覚えていないんだもの。気がついたらぼんやりと駅前の大通りの一本裏を歩いていたというわけだ。
 チカチカッと点滅していた歩行者用の信号が赤に変わった瞬間、私の中でそれまで我慢していたものが一気に弾けだした。何結婚って。裏切りじゃん。大学のときからずっともう4年間彼氏彼女だって思ってたのは私だけだったってこと? そうでしょう、だって秋に結婚って。
 一度堰を切ってしまえば、私の涙腺は留まるところを知らなかった。今時オモチャを買ってもらえずになく駄々っ子だってこんな勢いじゃなかないよね、というくらいに溢れ出る涙と嗚咽。客引きのオニイサンオネエサンはおろか千鳥足の酔っ払いまでもが子どものようにわんわんと泣き喚きながら歩く私を遠巻きに見つめるだけ。夜の世界の住人は案外礼儀正しい人たちなのか、そんなことをぼんやりと思いつつもやっぱり涙は止まらなかった。私の大切な4年間、彼と一緒に過ごしてきた時間がこんな残酷で許しがたい、たった一つの言葉で終わりになってしまうなんて。

 涙で潤んだ瞳で見つめる視界はどうしようもないくらいにぼやけていたけれど、私は転ばないようにだけは気をつけていた。ここで一度へたり込んでしまったらきっと、私はもう立ち上がることが出来ない。泣いてる間も、涙が枯れてしまっても。
 だけどやっぱり視界不良に気力なしの私は看板との距離の目測を誤って、豪快に看板と一緒に倒れこむ。付き合い始めの頃に彼とベッドになだれ込んだような勢いで。不意にそんなことを思い出したから、破れたストッキングに守られていたはずの膝小僧の痛みと共に収まりつつあった涙がまた勢いよく流れ出てきた。立ち上がる気力は正直もうない。
「……お客様、お客様」
 ぐずぐずと泣いていた私にまるで天からの助けのように声をかけてくれたのは、同い年くらいの眼鏡のお兄さん。ギャルソンエプロンをつけているところを見ると、私と地面にベッドインした看板のお店の人だろうか。
「お怪我はありませんでしたか?」
 柔らかい声で一声かけるとお兄さんはまず看板を抱き起こす。ブラウンに白地のCafe 01 Plusという文字が眩しい。それから私に手を差し伸べて立ち上がらせてくれた。と同時にお兄さんの眼鏡の奥の瞳が曇る。
「看板が壊れていなかったので、大丈夫かなとは思ったんですけど。……膝、血が出てますね」
「だい、じょうぶ……れす」
「泣くほど痛いのに強がらなくてもいいですよ。店に入ってください。消毒しましょう」
 どうせもう閉店時間で誰もいないですから、というお兄さんの言葉に後押しされて、手を引かれた私は小さなカフェの中へとお邪魔することになった。本当は、この見知らぬお兄さんの優しい親切に感謝して、というよりは、もうどうだっていいやという投げやりな気持ちのほうが大きかったのだけど。

 シューッとヤカンが立てる蒸気の音が10人も入ればいっぱいになってしまうだろう小さな、だけど木の温もりが暖かい店内に響く。店長の高嶺と名乗った眼鏡のお兄さんは手際よく私の両膝、そして情けないことに私の反応の悪さを裏付ける左の掌に負った盛大な擦過傷を消毒していった。その手際のよさはカフェじゃなくて怪我の治療が本職なのでは、と泣き疲れてぼんやりとした頭でも考えることができるほどのもの。
「やっぱり換えのストッキング買って来ましょうか?」
「いいえ、いいんです」
 そこまでしてもらう義理はないのだから。私の怪我は泣きながら歩いて目測を誤ったことによる自傷事故。むしろ看板を巻き添えにしてなぎ倒してしまって申し訳ないと思っているのにこの人の良さそうな高嶺さんときたら、ぶつかりやすいところに看板を置いておいた自分も悪いからって。どう考えても必要のない責任被ってるわ。
「ごめんなさい、本当に。怪我の手当てまでしてもらって。……私帰ります。ありが」
「あ、待ってください。折角だから、紅茶を一杯飲んでいきませんか? 落ち着きますよ」
 カフェなので、美味しい紅茶を淹れますよと言った高嶺さんのシルバーセルの眼鏡は蒸気でばっちり曇っていた。その様子があまりにも可笑しくて、ついさっきまで私もう一生笑うことなんか出来ないんじゃないだろうか、とまで思っていたのにぷっと吹き出してしまった。その非礼を詫びることもかねて一杯だけ、好意に甘えてご馳走になる。傷ついている人間の心には些細な優しさでもびっくりするくらいに染み渡るものだ。
 先ほど手当てをしてもらったテーブルから高嶺さんの前のカウンターへと席を移して私は手際よく紅茶の準備をする高嶺さんの手先を見つめる。ふわりと漂う甘い香りは蜂蜜だろうか。
「アッサムとカモミールのブレンドティーです。お好みでハニーシロップと混ぜてお召し上がりください」
「ありがとうございます。……わぁ、いい香り」
「カモミールはとても気持ちを落ち着けてくれますからね」
 カップを手にかけた瞬間、眼鏡の奥の優しい瞳とまた視線が合った。この人は本当は私が看板と倒れこんで負った傷で泣いたのではなく、もっと別な意味で泣いたということを知っているのではないだろうか。そしてその意味までも。
 頭の片隅にふわりと擡げた考えを追いやって、私は困ったように微笑んで見せて紅茶を啜った。

《了》


前項

作者/ハルナ