ファーザーミーツフィリップ!




 七夕祭のときは、確か上品なオフホワイトのブラウスにチャコールグレーのスカートを合わせていたような気がする――。
 そんな記憶を頼りに、茜は目の前に立つ女性をしげしげと見つめる。
 グレーのカットソーにゆったりとした黒のパンツスタイルで現れた目の前の女性は、前回とはまた違った印象を茜に与えた。
「柿崎、茜ちゃん、かしら?」
「え?!」
 そんな噂の彼女は、茜を見つめるとにっこりとほほ笑んで言葉を続ける。
「ああ、驚かせちゃってごめんなさい。私――フィリップの姉のカスミと申します。フィリップがいつもお世話になっております」
 そう言ってカスミは丁寧にお辞儀をする。
「いえいえ! あ、フィリップのお姉さんだったんですか?!」
 カスミの自己紹介に、茜は今までイライラしていた気持ちがすぅーっととけていくのを感じた。
 なーんだ。身内だったんだ。
 もしかして、七夕祭の日に何か家族のことで問題とかあったのかも知れないな。
 それじゃぁ仕方ないよね。うんうん。納得。
 一人うなずきながら納得していた茜は、そこで妙なことに気づく。
 ん? でもじゃぁなんでフィリップはあの後知らないとか言ったんだろ。お姉さんだったんならそういえばいいじゃない。
「たぶんあの子は私のこと話してないと思うんだけどね。昔からお姉ちゃんっていう存在が恥ずかしいみたいで」
 茜の疑問を解消するかのような絶妙なタイミングでカスミがフィリップを弁護する。
「だから今日もフィリップには内緒で来ちゃったの。あの子、まだ帰ってないかしら?」
「あ、はい。フィリップ……さんは、いつも夜遅くまで帰ってこないので今日もたぶん遅いんじゃないかと」
 本人の姉に対して呼び捨てはまずいだろ、ってことで、茜はぎくしゃくしながらさんづけでフィリップの帰宅状況を伝える。
さんづけにするとなんだか別人みたいだ。
「そう。……少しだけ待たせてもらってもいいかしら?」
「あ、はい。大丈夫です。お茶入れますね。そこらへんに座ってください」
 そう言って茜はカスミを事務所(という名のフィリップの寝室)に通して、キッチンでお茶の準備をする。
「あら、茜ちゃんってすっごくしっかりしてるのね」
 革張りのソファに腰掛けたカスミは、茜がお盆にお茶を乗せてきたのを見て、眩しそうに目を細める。
 それは、まるで何かを懐かしむような微笑み。
「そんなことないです。ただ、母と二人暮らしだったんで気がつけば出来てるようになったって感じで」
「まぁ。それじゃぁ家事と勉強の両立で大変だったでしょう」
「そうでもないですよ。家事って要領さえつかんじゃえば簡単なんです。テスト前なんかは結構適当にしてましたし」
 淡々と返事をする茜の横顔を優しい微笑みで見ていたカスミは、茜が淹れたお茶を美味しそうにすする。
「お母様を亡くされたそうね。このたびは本当にご愁傷さまでした」
「あ、お気づかいありがとうございます。でも母が亡くなってすぐにフィリップがそばにいてくれたんで、あんまり悲しむ暇とかなかったんです。そういう意味では、私、すっごく救われてるんだなぁって思います。フィリップは男の中の男って感じで、面倒見もいいし、優しいですしね」
 一応フィリップの姉だというカスミの手前、茜は精一杯のほめ言葉を口にする。
 実際は結構だらしなくて帰宅時間もまちまちで、家事を取り仕切る同居人としてはなかなか大変な面もあるのだが。
「男の中の男、ねぇ。やっぱり茜ちゃんはそういう人と一緒に生活したいと思うかしら」
 茜のその言葉に、カスミは少し悲しそうな色をその瞳に宿しながら、何気ない口調で茜に質問を投げかける。
「え? うーん。どうかなぁ。そりゃ確かに、せっかく男に生まれたなら男らしく頼りがいがあってほしいと思うけど……。でも、一緒に暮らすなら優しい人がいいな」
「お母様みたいな?」
「うん。天然で頭のネジが一本どころじゃないぐらい吹っ飛んでる人だったけど、父がいなくてもあの母と二人で暮らせた毎日は幸せだったもの」
 そう言って茜は幸せそうに笑う。
 茜にとって父親の記憶は全くなく、気がつけば母一人子一人であの小さなアパートで暮らしていた。
 母と娘、女所帯で何かと不便な面も多かったが、それでもあのアパートで二人、身を寄せ合って暮らした毎日は決して辛いものではなかったのだ。
 暮らしは決して楽ではなく、小学生のころから友達と遊ぶより家で洗濯や夕食の支度を任されていたのだから、遊びたい盛りの小学生にすれば恨みごとの一つでも言いたいところだろう。
 しかし、茜は違った。
 昨日の戸籍謄本のことを考えると、当時父と母は協議離婚の話し合いの最中だったのかもしれない。
それでも、母は茜にそんなことをこれっぽっちも悟られることなく、茜が父のことを聞けばにっこり笑って「お星さまになったのよ」と穏やかに言っていた。
 二人にどういう理由があって別れてしまったのかわからないが、少なくともあの当時の母の様子を見ている限り、母は決して父のことが嫌いで別れたわけではないように感じたのだ。
 その母の気持ちが、茜にも伝わっていたのだろう。
「幸せだったのね。よかった」
 茜のその言葉に、カスミはほっと安堵のため息をつく。
 何故、カスミが安心するのだろう。
 ふと沸き起こる疑問に、茜は訝しげにカスミの顔を盗み見る。
 フィリップの姉と言うが……あのフィリップと顔が似てるとは思えない。
 むしろ年齢的にはフィリップより若いのではないだろうか。
「あら? 私の顔に何かついてるかしら」
 盗み見るつもりが思わずじっくりと観察していた茜は、カスミのその言葉にあわてて首を振る。
「いえいえ! ただ、すっごく綺麗で若いからフィリップのお姉さんって感じがしないなぁって」
「そう?」
 それだけ言って、カスミは茜が淹れたお茶をすする。
 やっぱりおかしい。
 この優しい雰囲気に、つい自分のことをベラベラしゃべってしまったが……よく考えるとフィリップの姉だというのは自称なのである。
 まぁ、フィリップという存在自体がかなり怪しいわけなのだが、茜はそのことにはまったく気づいていない。
 二週間の同居生活が、茜の常識を少しだけ麻痺させてしまったといっても過言ではないだろう。
 そんな茜でも、目の前の女性には何か引っかかるものを感じた。
 女性だと思って何の警戒心も抱かずに部屋に(事務所だが)招き入れてしまったが、もし強盗とかそういうたぐいの人だったら……。
 そこまで考えた茜だったが、もう一度ゆっくりとお茶を飲んでいるカスミを見ると、そういう猜疑心がすっと消えていくのを感じる。
 何か、懐かしい。
 目の前にいるこの女性は、茜にとって懐かしい何かを思い出させる。
 昔、ずっと昔に会っていたような、そんな気がするのだ。
「あの……以前どこかでお会いしてませんか?」
 気がつくと、茜はうっかりその質問を口にしていた。
「?」
「なんだか、あなたを見ているとすごく懐かしいんです。もしかしたら記憶にない子供のころに会ったことがあったのかなーって思ったりしたんですけど」
「……!」
 茜のその言葉に、カスミは目を見開く。
 それは、驚愕。
 そして、驚愕の後ろには……歓喜?
「え……?」
「あ、ごめんなさいっ。私、用事があったんだったわっ。また今度フィリップがいる時間にお邪魔するわね」
 さっきまでゆっくりとソファに座ってお茶を飲んでいたカスミは、茜のその言葉にあわてて荷物を手に席を立つ。
「あっ……あのっ!」
「それじゃぁ、またね。茜ちゃん」
 振り向きざまにあでやかな笑みを残して、フィリップの姉と名乗る女性は事務所を後にした。
 残されたのは、ただただ茫然と立ち尽くす茜、ただ一人。
「……え?」
 今の帰り方は、明らかに『逃げた』と思える慌ただしさだ。
 茜の最後の台詞は彼女にとって何か都合が悪かったのだろうか。
「……子供のころに会ってましたかとか、そういうのを突然聞くのって失礼だったのかなぁ」
 若干腑に落ちない感じもしつつ、茜は一人ぶつぶつと呟きながらテーブルのお茶を片づけようとソファに腰掛けた。すると――。
「おーっと、レディ、こんなところで何やっているんだい?」
「フィリップ」
 珍しく明るいうちに事務所のドアを開けたフィリップが、山高帽を脱ぎながら茜のそばにやってくる。
「何ってお茶を片づけようと……って、あれ? 今そこで会わなかった?」
「誰にだい?」
「フィリップのお姉さん。さっき来られて少しだけ待ってらっしゃったんだけど、フィリップと入れ違いに帰られたよ」
「姉……?」
 茜のその言葉に、フィリップは訝しげに首をかしげる。
 何よ。お姉さんがいるっていうの、そんなに知られたくないのかしら。
「七夕祭のときに一緒に歩いていた女の人、お姉さんだったんだね。言ってくれればよかったのに」
「あ、ああ!」
 茜のその言葉に、フィリップは一瞬目を見開いて、それから納得の表情を見せる。
「カスミさん、悲しそうだったわよ。フィリップが私のことを恥ずかしがるって」
「ハードボイルド探偵に家族なんてものは不要なのさ」
 そう言ってフィリップは大げさに肩をすくめる。
「そっかなぁ。優しそうなお姉さんだったじゃない。そんなこと言ったらかわいそうだよ」
「優しそう? レディは彼女のこと、好きかい?」
「え? まだ一度しか会ってないから好きとか嫌いとかまでいかないけど、でも、感じのいい人だよね」
 何故そんなことを聞くのだろう。
茜は不思議に思いつつ、思ったことをそのまま口にした。
 茜のその言葉に、フィリップは満足げにうなずいてぐるりと部屋を見渡す。
「そういえば、今日はレディのボーイフレンドは来ていないのかい?」
 フィリップのその言葉に、茜はお盆を手に立ち上がったところできょとんと首をかしげる。
「昨日、一緒にケーキを食べていた彼だよ」
「ああ! 栗生のことね。昨日はたまたま来てくれただけだよ。それに、別に彼氏でもなんでもないから――」
 そういえば、昨日フィリップと栗生は何やら握手して友情がうんたらって言ってたっけ。
 昨日のことを思い出した茜は、ふと父親のことを考える。
 昨日緑に言った台詞と、茜の父鈴木一朗が母律子に送った手紙の文面。
 ラストの一文が合致していたのは、偶然ではないだろう。
 ということは。
 茜は昨日からもやもやしているこの胸の内を吐き出そうかと悩んだ。
 手紙を見て、戸籍を見てからずっと引っかかっていること。
 それは、鈴木一朗が、茜のよく知る彼なのではないかということ。
「あの……フィリップ?」
 どさりとソファに深く腰掛けたフィリップは、ん? と茜を見上げる。
「鈴木、一朗って人に、心当たり、ない?」
 茜のその言葉に、フィリップの瞳が少しだけ揺らいだ、気がした。
「私のお父さん、らしいんだけどね。フィリップ、もしかして――」
「心当たりないな」
 茜の言葉をさえぎるように、フィリップは冷たくそう言い放つと茜から顔をそむける。
「本当に? 本当に知らないの?」
「ああ、少なくとも今の俺の知り合いにそんな奴はいないな」
「知り合いって……もしかして、フィリップが鈴木一朗――私のお父さんじゃ、ないの?!」
 茜は手に持っていたお盆をテーブルに置いてフィリップの隣に座ると、その腕をがしっとつかむ。
 胸につっかえていたモノを、一気に吐き出すために。
「だって、お父さんが残した手紙の中にフィリップが昨日言った台詞と同じ言葉が書いてあったもんっ。『これが、美しい友情の始まりってやつだ』って! 昨日、ここで栗生に言ってたじゃんっ。昔、お母さんにも言ったんでしょ?!」
 我慢していた気持ちが、一気に流れ出す。
 母の葬儀の日に、何故あそこにフィリップがいたのか。
 何故茜に声をかけたのか。
 それは、母律子を、そして茜を心配していたが故のことだったのではないのか。
 茜のことでもめていた親戚が何もいわなくなったのも、フィリップが父親ならすべての説明がつくのだ。
「……レディ」
「いつまでハードボイルド気取ってんのよ! 実の娘が目の前でこんなに真剣に言ってんのよ?! ちゃんと真面目に話してよっ」
 そこまで一気にまくしたてて、茜は肩で息をしながらフィリップを見つめる。
 まだ父親だと認めていないフィリップに、娘であることを盾に文句を言っても無理なんじゃないだろうかという気もするが、頭に血が上った茜にとってそういうことはお構いなしである。
 今までの不安や疑惑が、堰を切ったように茜の中からあふれ出す。
 母が死んでから二週間。突然目の前に現れた男に茜は父親を重ねてしまっていたのかもしれない。
 でも、それはそうなっても仕方がないと思えるほどにフィリップが茜に優しかったからだ。
 話を聞いてくれて、何も言わずに部屋に泊めてくれた。
 七夕祭だって茜が行きたいと言えば一緒に行く約束をしてくれた。
 だが――肝心なことはすべてぼやかして真実を語ろうとはしない。
 それは、フェアではないのではないか。
「……」
 茜の苛立ちを全身に受けて、フィリップは言葉を失う。
 透き通ったダークグレーの瞳が、さみしそうに細められる。
「フィリップ?!」
「残念だが、レディが考えているほど状況は単純じゃないんだ」
「なっ」
 この期に及んでしらを切るつもりか。
 茜は煮え切らないフィリップの態度に怒りあまりその言葉を飲み込む。
「おーっと、そろそろ依頼人との約束の時間だ。留守番頼むぜ、レディ」
 ふと何かに気づいたように茜の視線をかわすと、かなり至近距離で怒りをあらわにしている茜の腕を振りほどき、わざとらしく腕時計を見てさっと立ちあがる。
「フィリップ!」
「今日も帰りは遅くなると思うぜ。先に寝ててくれよ、子猫ちゃん」
「ちょっと! 話はまだ終わってないわよっ」
 話途中で逃げる気か! とフィリップの腕をつかもうとしたら、するりとその手はかわされてしまう。
 そのまま流れるように脱いだ上着に再度腕を通すと、山高帽を手にフィリップは事務所のドアを開ける。
「明日、学校終わったら俺たちが出会った公園においで。そこですべてを話してあげるよ、茜ちゃん」
「え?」
 出会った公園? それってあのブランコのある公園のこと? と一瞬茜が別のことに気を取れた隙に、フィリップは颯爽と事務所から姿を消した。
「ちょ、ちょっとフィリップ!」
 部屋に残された茜は、風のように去っていったハードボイルド気取りの同居人の気配に苛立ちを募らせつつ、ふとあることに気付く。
 出会ってから一度も呼ばれたことのなかった茜という名前。それを今、フィリップははっきりと口にした。
 そこには一体どんな意味があるというのだろう。





 六時間目の授業終了のチャイムと同時に、茜は電光石火の勢いでカバンに教科書をつめていく。
「かっきざっきさーん」
「え?」
 誰の声も耳に入らない勢いでとりあえず必要なものをカバンに詰め終えた茜は、さ、帰るぞっと席を立ったところで、隣で手を振る緑の存在に気付く。
「栗生。何してんの?」
「何してんの、じゃねぇよ。さっきから何回も呼んでたんだけど。そんなに急いでどーしたんだよ」
「え、えーっと」
 学校終わったら公園、そのことしか考えていなかった茜は、緑のその問いかけにとっさに返事ができない。
 今はとりあえずあの公園に一刻も早く向かいたい……のだが。
 栗生には今回の件でかなーりお世話になってるしなぁ。
思い返すと、七夕祭で助けてもらって以来ずぅーっと茜は緑に相談しっぱなしだったのだ。
しかも、わざわざ自宅(自分の家ではないが)にケーキまで持ってきてもらう始末である。
こんなにいろいろしてくれた人なんだし、やっぱり昨日のこともきちんと報告するべきだよね。
そう思い立った茜は、カバンを手に緑を見上げる。
「栗生、今日も部活だよね?」
「あ? ああ。まぁなー。でも練習は四時からだからまだ時間あるぜ」
 そう言って緑は話なら聞くぜ、という意思表示をしてくれる。
 ほんっと、同い年にはもったいないぐらいよく気が利く男だ。
「それじゃ、昇降口まで付き合ってもらっていい? 昨日あの後ちょっといろいろあってさ」
 そう言って、茜は緑と一緒に教室を出て、昨日の夜のことを大まかに話す。
 フィリップの姉が訪ねてきたこと。
 アパートで見つけた手紙と、フィリップが緑に言った台詞の一致。
 それをもとに帰宅後のフィリップに詰め寄ったこと。
「うーん。確かにその手紙の感じだとあのおっさんが柿崎の親父さんっぽいよな」
「でしょ?」
 昇降口で下駄箱に手をかけた茜は、緑のその言葉に同意を求める。
「やっぱり栗生もフィリップが私の父親っぽいと思うよね?」
「うーん。あんま認めたくないけどそんな気がするよな。でも、親父ならなんでちゃんと最初から話さなかったんだろうな」
 靴に履き替える茜を見ながら、緑は小さく首をかしげる。
「わかんない。そういえば昨日、私が考えてるほど状況は単純じゃないとか言ってたけど」
「なんだそれ? ほんっとあいつって結構いい加減だよなー」
「……その台詞って、もしもフィリップが私のお父さんだった場合結構失礼な言葉なんだけど」
 そういってむくれる茜に緑はあははっと笑う。
「ごめんごめん。でもそう思うだろ?」
「まぁね。確かにいい加減っていうか、大人なのに嫌なことを先延ばししてる感じがするよね」
「だよなー。なんか、大人なのに大人っぽくないよな。あいつ」
 緑のその言葉に、茜はうんうんとうなずいて笑う。
 真夜中の公園、一人でブランコをこいでいた茜に声をかけてくれたトレンチコートに山高帽の変な男。
 その彼が差し出したイチゴミルクを受け取ったあの瞬間に、今日のこれからのことは決まっていたのだろうか。
「頑張ってこいよ。あいつからちゃーんっと話、聞いてこい」
 昇降口を出たところで、緑はそう言って茜の肩をたたく。
「うん。ありがと」
「また泣かされそうになったら、遠慮なく言うんだぞ」
 そう言って緑はにかっと笑う。
 同い年ならではの明るいその笑顔に、茜は心がいやされるのを感じる。
 ここ最近いろいろあって頭ぐるぐるだったけど、ほんっと栗生がいてよかった。
「栗生ってマジでいい奴だよねー。また巨大りんご飴でもねだろっかなっ」
「うっわ、千円はマジ勘弁。俺今月かなりキビシーんだぜ?」
 茜の冗談に緑はぎょっとした顔をしてぷるぷると首を振る。
 大人っぽい表情をするかと思ったら、子供のような反応を返す。等身大のオトコノコを絵にかいたような緑を頼もしく感じながら、茜は笑顔で手を振る。
「じゃね。行ってきます!」
「おう」
 校門に向かう茜に緑は親指をぐっと立てて送り出す。
 たとえこの先にどんな真実が待っていようと、緑と過ごした何気ないこのひと時で茜は救われる気がした。
 それは、何があって助けてくれる味方がいると、はじめて感じることができたからかもしれない。





 二週間ぶりに訪れた近所の公園は、まだ時間が早いためか数人の子供たちが遊んでいた。
 そういえば、あそこでフィリップと出会ったんだっけ。
 最初、後ろ姿からは想像できないぐらい無駄に老け顔でびっくりしたんだよね。
 あの夜のことを思い出して、茜は一人小さく笑う。
 今日、フィリップは一体何を話すつもりなのだろう。
 何故わざわざこの公園を指定してきたのだろう。
 わからないことはたくさんあるが、それでも茜は不安を感じなかった。
 帰りに緑が茜の背中を押してくれたというのもある。
だが、それ以上に茜の中で自分の父親はフィリップだという確信があったし、それにフィリップは今日、すべてを話してくれると言ったのだ。
 それはつまり、このもやもやとしたものが今日これからすべて解決するということなのである。
「お父さんのこともわかるしね。やっとこれを渡せる」
 ベンチに座ってカバンを膝の上に置いた茜は、そう呟くとカバンの中から大切そうにあの黒ぶち眼鏡を取り出す。
 お母さんが大切にしていた眼鏡。茜にとって唯一父の存在を知ることができるもの。
「茜ちゃん?」
 手の中の眼鏡をぼんやり見つめていた茜は、自分呼ぶ声にふと顔をあげた。
 するとそこには――。
「フィリップのお姉さん?!」
 公園の入り口に、グレーのパンツスーツを着たカスミが驚いた顔で立っていた。
 手には大きなビジネスバック。仕事帰りといった様子だ。
「え? どうしたんですか?」
「茜ちゃんこそ、制服のままこんなところで何してるの?」
 そう言いながら、カスミはカツカツとピンヒールを鳴らして茜のそばにやってくる。
 今日も抜群のプロポーションで、その立ち居振る舞いにはまったく隙がない。
 昨日の帰り際に見せた動揺も全く感じさせない、完璧な大人の女。
「フィリップと待ち合わせしてるんです」
「わざわざこんなところで?」
 茜の言葉に驚いた様子を隠そうとせずに、カスミは公園をぐるりと見渡す。
 決して広くはないそこは、ごくごく普通のありふれた公園である。
「なんだか、フィリップが私に隠していたことを全部話してくれるらしいんです。だから学校が終わったらここに来いって」
 そう言いながら、茜はふと気付いた。
 もしフィリップが茜の父親ならば、目の前にいるカスミにとって茜は姪にあたるはずである。
 その割には、カスミは茜にそのことについて一切触れることがない。
 もしかして……フィリップが父親だという考えは間違っているのだろうか。
「隠していたこと?」
 とんでもないことに気付いた茜は一瞬この状況をどうしようかと悩んだが、この際実力行使とばかりにカスミに向かって博打を打ってみることにした。
 もしフィリップがしらを切りとおしても、カスミを味方につければ話がよりスムーズに進むかもしれないからだ。
「はい。フィリップが、私の父親だってことです」
「?!」
 茜のその言葉に、カスミは手に持っていたバッグを地面に落とす。
「あのっ、カバン汚れますよ?」
「あ、かね……ちゃ、ん? ど……うし、て」
 あわてて立ち上がってカスミのバッグを拾い上げると、そこには驚愕のあまりたどたどしい口調で茜に問いかけるカスミの姿があった。
「え?」
「どう……して、フィリップが父親だと、思ったの?」
 その表情は……悲しみ?
 まるで、裏切られたかのような絶望感と身をよじるほどの悲しみをその瞳に宿して、カスミは茜を見る。
 その顔は真っ青で、今にも崩れ落ちそうだ。
「えーっと……なんだか、それが一番しっくりくるなーって。まぁ、昨日フィリップに聞いてみたらうなずいてはくれなかったんですけどね」
「そ、そう」
 茜のその言葉を意識もうろうとした感じで聞きながら、カスミは茜が据わっていたベンチに崩れ落ちるように腰掛ける。
「あの、大丈夫ですか? なんかすっごく調子悪そうですけど……」
「だ、大丈夫」
 心配そうに覗きこむ茜にどうにか言葉を返したカスミは、茜のカバンの上に乗っていた一本の眼鏡に目がとまる。
 それは、茜の両親の形見である、野暮ったい黒ぶち眼鏡。
「その眼鏡――」
「ああ。これ、お父さんのなんです。お母さんが唯一大切にしていた形見なんで、そのまま私が譲り受けたものなんですけど」
 茜のその言葉を聞きながら、カスミはふらふらとその眼鏡を手に取った。
「え?」
 そして、ゆっくりと自らの顔にかける。
 その動作はとても自然で、父の眼鏡は何の違和感もなくカスミの顔におさまる。
 まるで、彼女が主であるかのような。
 今、この瞬間彼女にかけてもらうのを待っていたかのような、そんな自然さで黒ぶちの眼鏡は彼女の顔におさまった。

「ごめん……なさい」

 眼鏡をかけたカスミは、小さく呟く。
 それは、謝罪の言葉。
 何度言っても、言い足りないほどの、深い悔恨。

「ちょ、ちょっとどーしちゃったんですか?! なんでお姉さんが謝るんです? っていうか、なんでその眼鏡かけちゃうんですか?!」
 目の前の人物の謝罪の言葉に、そして何よりも父の眼鏡を勝手にかけられたことに、茜は混乱しながら問いかける。
 これは、自分の父の形見ではなかったのか。
 目の前のこの人は、フィリップの姉ではなかったのか。

「私が……なの」

 眼鏡をかけた人物は、消え入りそうな声でそう呟く。

「え?」
「私が、父親なのよ」
「は?」

 その台詞を聞いた茜は、思いっきり間抜け顔であんぐりと口を開けたまましばらくその場に突っ立っていた。
 目の前では、豊かなロングヘアで顔を隠した一人の女性がうなだれている。
 そう。
 間違いなく目の前にいるのは『女性』なのだ。
 茜が探しているのは、母親ではなく父親である。
 世間一般的に、父親というものは『男性』ではないのだろうか。

「そんな言葉じゃこの子は納得しねぇよ、一朗」

 父親だと名乗る女性を目の前にかなりテンパッテいた茜は、聞きなれたその声、その気障ったらしい言い回しに救いを求めるように後ろを振り返る。
「フィリップ!」
「感動の親子のご対面は済んだかい? 茜ちゃん」
 そう言って山高帽を斜めにかぶったトレンチコートの男、ハードボイルド探偵フィリップは、茜の前で座り込んでいる父親と名乗るその人物の肩をたたく。
「ほらほら、お前も昔は男だったんだから潔く全部吐いちまえよ」
「昔は……男?」
 フィリップのその言葉に、茜はこれ以上開かないというぐらい目を見開いて目の前の二人を見つめる。
「茜ちゃんにはとりあえずこれを渡すぜ。その透き通ったチャーミングな瞳で真実をしっかりと見てみな」
 そう言ってフィリップは茜に一枚の写真を差し出す。
 その中には、見慣れた茜の母、律子が袴姿で黒い筒を持ち満面の笑みで写っていた。
「これって、お母さんの卒業式の写真?」
「ああ。あの日は空に舞い上がる桜の花びらが美しかったぜ。まるで離れ離れになる俺らの気持ちを表すかのようだった」
 フィリップのその言葉を受け流しつつ写真に目を戻すと、どうやら律子の左隣に写っているスーツにソフト帽という卒業生にしては少しおかしな格好をしてニヒルに笑っている男と、目の前の山高帽を斜めにかぶって空を見上げている男はどうやら同一人物であるようだ。
 と、いうことは。
「まさか、この右隣の人が」
「そう。律っちゃんの右隣にいるのが、当時の私、鈴木一朗よ」
 そう言って目の前の女性……もとい一朗はぎこちなく微笑む。
「え? えぇええええ?!」
 一朗のその言葉に、茜は首が取れるのではないかと思えるほど激しく首を動かし、写真に写るさわやかな好青年と目の前の大人の女とを見比べる。
 た、たしかに……言われてみれば……似てる、けど。
 目元とか鼻筋とか、顔のパーツは同じに見える。
 でも、目の前にいるこの人、間違いなくバリバリの女なんですけど?!
 そんな茜の心の叫びを知ってか知らずか、フィリップが横からひょいっと茜に渡した写真を取り返す。
「ま、俺ら三人は大学の同級生だったってわけだ。そしてその後一朗と律子はめでたくゴールインして、それを俺は心から祝福した、と」
 軽い調子でそう言ったフィリップは、ふと何とも言えない視線を一朗に送る。
 その瞳の中には、かすかな非難が見え隠れする。
 あの日、一生そばにいると約束したのに、結局その約束は果たされることなく彼女は一人で逝ってしまった。
 その罪を、お前はどうするつもりなのだ、と。 
「で、でもっ。あの手紙の文面は?!」
 あまりの展開に脳みそのほとんどが機能停止してしまったような状態だが、それでも茜は必死に食らいつく。
 だって、あの手紙の内容は絶対にフィリップが書いたものっぽかったんだものっ。
「これが美しい友情の始まりってやつだ?」
 茜の言葉に一朗は苦笑いをして手紙の最後の一文を繰り返す。
「そう! それって絶対にフィリップが言いそうなことじゃない? 実際フィリップ、栗生にそう言ってたし」
「あれはね、学生時代私たち三人の間で流行った台詞だったの」
 むきになって話す茜に、一朗は柔らかな笑みで疲れたようにそう言う。
「最初はフィリップだったかしら。この人、昔からこんな感じだったから、私も律っちゃんも最初はびっくりしてね。でもむしろ面白いからみんなで使おうってことになったの」
 律っちゃん――。
 先ほどから目の前の人物が呼ぶその響きに、茜は心のどこかがこの人が父親であると認めざるを得ないということを感じていた。
 目の前の人物が母、律子の名前を呼ぶその響きは、とても優しくて愛おしいものに向けられる柔らかさに満ちている。
 間違いない、この人は私の母を愛していたんだ。
 私の父は、私の母をきちんと愛していたんだ。
 でも、じゃぁ何故?
「その手紙は俺も知らなかったから、正直焦ったぜ。そういうことはちゃんと言っといてもらわなきゃ困るな、依頼人さんよ」
「ごめんなさい。私自身もまさか律ちゃんがあの手紙をこの子に見せてるだなんて思いもしなかったものだから。その後連絡もなかったし、てっきり怒ってそのまま破って捨てちゃったのかと思ってたのよ」
 何故、父は家を出ていかなければならなかったのか。
 何故、父と母は離婚してしまったのか。
「ねぇ、どうして母と別れたの?」
 フィリップと話していた一朗は、その言葉にびくっと肩を震わせてゆっくりと茜を見つめる。
「どうしてお母さんと離婚することになっちゃったの?! ちゃんと好きだったんでしょ? お母さんだってお父さんのこと、好きだったんだよ?」
 一朗の視線に臆することなく、まっすぐと目の前の父の目を見て茜は言葉を続ける。
「女になったから? お父さんは女になるために私たち親子が邪魔だったの?」
 邪魔。
 その言葉を口に出したとたん、茜の瞳からこらえていたモノがあふれだした。
 母と二人で過ごした日々。それはかけがえのない大切な日々だ。
 でも、どうしてもぬぐえない喪失感。
 そこに、大切な人が一人足りないが故の、悲しみ。
 死んでしまったのなら仕方ないと思っていた。でも、父は生きていたのだ。
 それなら何故っ。
「違うのよ」
 茜の言葉を受けて、一朗は小さく首を振る。
「二人が別々の人生を歩もうと決めたのは、私と律っちゃん、二人でよくよく話し合った結果だったの。でも、今考えるとこんな大切なこと、二人だけで決めちゃったのは悪かったと思ってるわ」
 そこでいったん言葉を切って、一朗は茜の目の高さに合わせて腰をかがめる。
「茜のことをほったらかしにして、ごめんなさい」
 茜。
 一朗は母律子のことを呼ぶのと同じぐらい優しい声で、茜の名前を呼んだ。
 そこに込められたのは、親の愛。
 あふれんばかりの、娘への愛情。
「お、とうさ、ん」
 一朗のその言葉に、茜の中で何かがかちりと合わさった気がした。
 目の前には、野暮ったい黒ぶち眼鏡をかけた、父の顔。
 母が大切にしまっていた、父の形見の眼鏡。
 その眼鏡を自然にかけて、目の前の父は私に微笑みかけている――。
 もう二度と会えないと思っていた人が、優しい微笑みで茜を見つめているのだ。
「お父さん!」
 そう叫ぶと、茜は一朗の首に思いっきりしがみついた。
 優しいにおいがする。
 広い肩幅はやっぱり男のもので、背中にまわされた腕は茜を守ってくれると思わせてくれるほどしっかりしていた。
 母が亡くなってから二週間。
 茜は、やっと安心して飛びこめる胸を見つけたのだ。





「ふー。これで一件落着ってことかな」
 そんな親子の美しい愛情を見ていたフィリップは、山高帽を目深にかぶって小さくため息を漏らす。
「今回のヤマはどうなる事かと思ったけどよ、お前の愛する二人は幸せになれそうだぜ、律子」
 そう言ってフィリップは赤く染まる夕焼けを見ながら取り出した煙草を口にくわえる。
 もちろん火をつけるライターは例の改造品だ。
 シュボッ。相変わらず十センチを超える炎はフィリップの前髪をじりじりと焦がす。
「あの日、俺に見せた笑顔でお前はまだ笑っていると信じるぜ」
 ふと見上げると、そこにはもう月が輝いていた。
 薄闇の中で淡く光る月は学生時代の律子のようで、思わずフィリップは懐かしく目を細める。

 お前は俺の愛した女なんだから、いつまでも幸せに笑っていてくれよ。

 誰に聞かれるともなくひっそりとそう呟くと、フィリップはゆっくりと煙を吐き出して公園を後にする。
 何年振りかに再会を果たした、ひと組の親子をその場に残して――。





 その後、事務所に戻って優雅にコーヒーを飲んでいたフィリップの前に親子が揃って顔を出すのだけれど……それはまた、別のお話。

《了》


表紙
作者 / 真冬