夢を抱きし可憐なる乙女




 ありえねえ、ありえねえ! マジありえねえ!
 この神様もどきと俺の親父がソウルメイツだったなんて信じられねえ! というかこの偶然はなんだ、奇跡ってやつなのかおい。
 何より一番ありえねえのが、“あの”親父がかつて高校生だった頃、己を「ぼく」とか言っちゃってるあたりだ。今どき高校生のくせして「ぼく」はないだろ。しかも平仮名だぞ? って、ああ三十年前の話なのか。ちょっとだけホッとしたけど、それでもまだ違和感が。
「君が彼の子息だったとは……いささか信じられぬが、この気配は本物だろう。先程は散々罵ってすまなかった。父親に代わり約束を果たしに来てくれたのだな」
「いやいやいや、全然これっぽっちもそんな気はなかったんだけど」
 さっきこいつが言った通り、まさに興味本位かつ面白半分だったのは今更言うまでもない。けど、眼鏡神は全く話を聞いていないらしく、考えを改めて感心していた。
 どうするんだこの展開……助けを求めて祥一を振り返ったが、なんでか祥一も感動していて、眼鏡神に同意していた。忘れてたが、こいつ結構ロマンチストなんだよな。
「こうなったからには会わせてやるしかないな」
 なんて簡単に言いやがった。
 おいおいおい何を言い出すんだよマイブレイン。面倒事をこれ以上増やさないでくれ。というかその前に切実な問題があるだろう。
「どうやって会わせるんだよ。学生ならともかく、何の理由もなく親父を連れて来られるわけがないだろ」
 すると、祥一は意味ありげに不敵に笑んだ。
 知性溢れるスマイルが、今は悪魔の微笑に見えてしかたねえ!
「ちょうどいいイベントがあるじゃないか」
「はあ? イベント?」
「三者面談。おまえ、明日だろう?」
 そんな恐怖の時間があったことすら、俺の脳裏からは綺麗さっぱり忘れ去られていたのだ。



 念を押して祥一にも言われ、さらに意外なことに眼鏡神(仮)からも願われ、俺は昨日の帰宅後、三者面談は親父に来てもらうよう手回しをした。
 眼鏡神はどうしても親父に会いたいと言っていた。それが妙に切羽詰まった感があったため、俺は仕方なく了承したのだ。かなり渋々だけどな。
 直接言うと色々と問題が生じるため、頼んだのは当然お袋だ。本来ならば今日の面談はお袋が来るはずだったのだ。俺が話をした時は心底驚いていたけど、見えないふりを決め込んだ。というか、そうする以外に選択肢がなかったんだっつーの。
 そんなこんなで、あっという間に放課後が訪れ、恐怖の三者面談が近づいてきた。
 ハンドボール部の部室で時間をやり過ごしていた俺は、迫りくる恐怖から逃げ出したい感を募らせていた。
「……逃げてえ」
 ぼそっと呟くと、かたわらで数学の課題をこなしていた祥一が顔を上げる。こっそりのぞき見てみると、次のテストで出されると予測される小難しい部分が、すでにしっかりと回答されているではないか。そのノートあとで丸写しさせてもらおう。
「まあ、おまえの親父さん、ちょっと特殊だからな」
 気持ちはわからなくもない、と珍しく祥一が同情的な眼差しを向けてきた。祥一は実際に会った事はないが、俺が散々愚痴っているため、どんな親父なのか大体知っている。
 そう思うんだったら最初から余計なこと言わないでくれよ……と心の中で激しく突っ込んだが、祥一も悪気があったわけじゃないってわかっているから、強く責められないのが痛いところだ。
 そんなこんなで憂いの溜め息ばっかり零しているうちに、俺の面談時間まで残り十五分というところまで来てしまった。
 こうなったからには親父と眼鏡神(仮)を引き合わせる以外にない! ようやく進路決定したかのような勢いで意を決した俺は、この面倒事の原因となる祥一を巻き添えにし、眼鏡神の元へと向かった。面談の前に二人を合わせてやろうというのが俺のベストプランだ。
 珍しく少しそわそわした様子で俺たちを待っていた眼鏡神と合流し、いざ教室へと向かう。そんな俺の心中は「親父怖え!」という緊張感で満たされていた。ぶっちゃけ、二人の再会なんぞ二の次だ。
 教室へと向かう途中、妙な殺気を感じ取った俺は、校舎を繋ぐ渡り廊下のど真ん中で立ち止まり、ぞっとした。恐らく顔色は悪くなっているだろう。その証拠に、祥一がなんとも微妙な表情で俺を見ている。
「明人ォ〜」
 ドスの聞いた野太い声が、俺を呼んでいる。
 恐る恐る振り返ると、そこには……その身に鬼神を降臨させたと思われる、屈強そうな強面の男が立っていた。
「おめェ、まみちゃんを差し置いてこの俺を呼びつけたからには、誇れるようなモンがあってのことだろうなあ!」
 ちなみに“まみちゃん”というのはお袋のことだ。
「い、いや……そういうわけじゃ、ねえんだけど」
 自信なさげに声が小さくなってしまう俺!
 助けを求めるように祥一に目を向けると、いつも気丈な祥一も、今は若干びびっている感じだ。
 それも仕方ないだろう。俺の親父、どこからどう見ても“その道”の人なのだ。あれで仕事はケーキ屋だっていうんだぜ。誰が聞いたってある意味恐ろしいだろう(しかも親父のケーキは美味である)。
 しかも今日の装いは、三者面談に相応しくスーツだ。色はダークグレー。髪型はオールバック。親父は背が高くがっちりしているため、どこからどう見ても“その道”の人でしかない。あんなのが自分を「ぼく」とか言ってたなんて誰が信じると思う? 息子の俺が一番信じがたいんだぞ。
「あァ? おめェ、ティーチャーに失礼かましてたら承知しねえぞ!」
 頭蓋骨をガッチリと掴まれ、俺は青ざめた。昔アメフトだかで鍛えた握力が、俺の頭をそのまま握り潰しそうな勢いである。
「それはそうと、こちらはおめェのフレンドか?」
 ちなみに余談だが、親父は変なところで英単語を入れたがる癖がある。
 親父と視線が合うと、祥一は丁寧に頭を下げた。
「野木祥一です。はじめまして」
 さすがクラス委員、我等がハンドボール部のエース! 自己紹介も様になっている。
 祥一の知性溢れる挨拶に気を良くしたらしい親父は、がっちり手を握って上下に振っていた。
「ウチの馬鹿が世話になってんな!」
「馬鹿って……」
 こっそり突っ込むと親父がギン! と睨みを飛ばしてきて、俺は祥一の陰にそっと隠れた。
「全く出来た子じゃねえか。おめェ、こういうフレンドは大切にしろよ」
「わかってるよ」
 言われなくとも、祥一ほどのダチは今後出会えないだろうと自覚はしてる。祥一は本当にいい奴だ。財布忘れた時はおごってくれるし、朝礼の代返も(たまに)してくれるし、課題のノートも見せてくれるしな。
「で、こちらさんは?」
 親父の視線が俺たちの背後に向く。
 一歩踏み出した奇抜な風貌の少年に、親父は少し驚いた表情になる。
「あれ、おめェは……」
 俺はわずかに目を見開いた。親父の目には眼鏡神の姿がはっきりと見えているようだ。
 大人には見えないはずの眼鏡神の姿。それは親父だからこそ見えるのかも知れない――そう考えると、この眼鏡神が言っていたことは真実だったのだと思えた。
 眼鏡神はもう一歩踏み出し、親父の前に進み出た。絶妙なタイミングでどこからともなく吹いてきた風が、古めかしいマントをなびかせる。ザ・大正ロマン。
「……この気配、間違いない。私を覚えているか、桜井明彦」
 真正面で向かい合い、細い指先で眼鏡のブリッジを押し上げた眼鏡神は、じっと親父の顔を見上げていた。その表情は先程そわそわしていた時と違い、怒っているようにも見えた。
 一方、親父はというと――

「いや、おめェ誰だ?」

 見事なまでに“知らない人”を前にした顔をしてやがった。

「えええええッッ?!」
 俺と祥一はお笑い芸人コンビのごとく声を揃えて仰天した。いやどう考えてもこの後の展開は、「明彦!」「眼鏡神!」みたいな感動的再会になるんじゃねーのかよおい。
「親父、本当にこいつに見覚えねえのかっ?」
「いや……なんつーか、喋り方に聞き覚えがあるし、懐かしい雰囲気はするんだが、こんな眼鏡マント少年は初めて会ったぞ。おめェ、なんで俺の名前知ってんだ?」
 心底不思議そうな顔でまじまじと見下ろす親父に、眼鏡神こそ驚いて絶句していた。
「いやいや親父、よく思い出せ! ここの学生だった頃にこいつと会ったことあるだろ! でもって校舎裏の隅にお社建てて、こいつのしてる眼鏡奉ったりなんかしてさ!」
「お社? 俺はそんなもん建ててねえぞ」
 親父は慎重に思い出しながら答えていたし、嘘が嫌いな性格だから多分言っていることは本当だと思う。けど、そうなると眼鏡神の話とはまるで食い違っていて、どっちが本当なのかわからなくなった。
「たしかに初々しいハイスクールボーイだった頃、不思議体験をしたことはあるがな」
「それ、どんなだよ!」
「おめェ、俺にその“ちょっと甘酸っぱい思い出シリーズ”を暴露しろっていうのか、ああ?」
 鋭い眼光で睨んでも、言っている事がこっ恥ずかしくてあんまり怖くねえんだけど。何だよその聞いているだけで赤面できそうなタイトルは。しかもシリーズなのかよ。他にいくつあるんだ。
「まーいいや。よく聞けよ青少年ども。俺がおめェらくらいのガキだった頃、この学校では不思議な話があってな。校舎裏の社のあたりに、とんでもねえ美少女の幽霊が出るって有名だったんだ。まあ今のマセガキどもにはわからねえかも知れねえが、当時のハナ垂れ坊主どもにはイイ刺激でな。我先にと競ってその幽霊を探しに行ったってわけよ」
 今は共学だが、当時は男子校だったらしい。とくれば、普段慣れ合えない美少女などという存在は、たとえ幽霊でもお目にかかりたいと思うもんだという。
「けどどいつもこいつも、ことごとく見つけられ仕舞いでな。俺はさほど興味もなかったんだが、たまたま放課後に音楽室から見下ろした時、校舎裏の社が光ってるのを見つけてよ。何事かと思って行ってみたら……出たんだよ」
 当時、音楽や美術といった芸術に興味を持つ男子はほとんどいなかったらしい。理由は“女々しいから”だそうだが、当時深窓の美少年のごとく(実際は美じゃねーけど)クラシックなんかをこよなく愛しちゃってた親父は、放課後によく音楽室へと通っていたそうだ。
「出たって、なにが!」
 相変わらず絶句している眼鏡神をも巻き込んで、俺と祥一は身を乗り出していた。早くその先言っちまえよもう。
「噂の“とんでもねえ美少女幽霊”だよ」


 その幽霊は、本気で美しかったという。
 緩やかになびく黄金色の長い髪に、空の色を映したかのように青い瞳。肌は抜けるように白く、折れてしまいそうなほどに手足は細い。身にまとうのは天女の羽衣のように滑らかで、まさに女神のような美しさだった。
 少年・明彦は、そのあまりの美しさにすぐさま惹かれた。少女もまた、自身の姿が見える唯一の少年に心を開いた。
 放課後のほんの一時間ほどだったが、二人は毎日のように会い、心の交流を深めた。
 少女はなせそこに存在するのか、どこから来て、いつからいるのか、全ての記憶を失っていた。どんなに思い出そうとしても記憶は蘇らなかった。
 二人のセンチメンタルかつ(当然)プラトニックな秘密の会合は、明彦の卒業の日まで続いた。やがてこの学校を去らねばならなくなった時、明彦は少女にかたく約束をした。
 ――ぼくは絶対に会いに来る。だから、待ってて。


 ――という、親父の少年時代の甘酸っぱい恋物語など、聞いていて楽しいどころかむず痒くてしかたねえ。というか、なんでいきなり外人設定なのかよくわからん。
 それ以前に、俺達が知りたいのは幽霊の美少女っぷりでも、このいかつい親父の純な一面でもなく、どうして眼鏡神と話が食い違っているのかってことだ。
「少女つうか、俺より少し年上に見えたんだけどな。そん時の美少女幽霊が、そっちの眼鏡マント少年と同じような喋り方だったのはハッキリ覚えてるぜ。お綺麗なくせに案外古風なんだな、とか思ったしよ。だから懐かしい感じはするけど、全然知らないんだよ」
 姿は見えたことだし、確かに親父は何かを感じ取っている。さっきも言ったが嘘を吐くような人間じゃないから、息子の勘も働いて言っている事は全て真実だろう。
 とすれば。間違った記憶を語っているのは、眼鏡神の方で――

「ううううっ!」
 うめき声に、俺と祥一は同時に振り返った。
 眼鏡神は頭を抱え、床に膝をついて苦しみ出した。
「おいおい、いきなりどうした?」
 その苦しみっぷりが尋常でなかったため、俺も祥一もさすがに慌て、眼鏡神を気遣ったが。
「いたい、あたまが、いたい……!」
 頭を押さえて苦しむ眼鏡神を前に、俺達は成すすべもない。
 そうして次の瞬間。はっとしたように顔を上げた眼鏡神の、ベンゾウさんのごとくぶ厚いガラスの瓶底眼鏡が、ビシッと音を立てて割れたのだ。
「ああ、あああ……」
 割れてポロポロとこぼれ落ちるガラスの破片を手のひらに受けながら、眼鏡神は声を上げた。まるでそれまで築き上げてきたものが崩れて、嘆き悲しむように。
 眼鏡神の大正ロマンマント(俺命名)が、再び流れてきた風をはらんで大きく膨れ上がる。呆然と事の成り行きを見守るしかできない俺達の前で、眼鏡神の身体は淡く輝き出し、その輪郭がぼんやりと崩れてゆく。
 放たれる光のあまりの眩しさに目をつぶり、そうして再び目を開いた俺達の前に現れたのは――とんでもねえ美少女だったのだ。


 眼鏡神……もとい美少女幽霊の名前はリュネットといい、気付いた時にはあの社に住みついていたそうだ。かなり昔、それこそ親父が高校生になる以前に外国の方から飛んできた霊で、まあ割と高貴な身分だそうだ。だからあんなに高慢ちきな性格なのかと妙に納得してしまった。
 眼鏡少年の姿を取り、自分のことを座敷童子だと思い込んでいたのにはわけがあった。悪戯かなんかだろうが、社の中に誰かがあのベンゾウ眼鏡を入れたらしく、その眼鏡に刷り込まれていた記憶に長い間触れているうち、自分を見失ってしまったのだという。長い間幽霊をやっていると、そういう能力というか体質(?)になってしまうこともよくあるらしい。ベンゾウ眼鏡の持ち主は妖怪マニアとかホラー好きとか、間違いなくオカルトファン系だろうな、と俺は思った。
 それはさておき、およそ三十年の時を経て再会した明彦少年とリュネットであるが。
「……私は、君の言葉を信じてずっとあそこで待っていた。それなのに、君は私の事を忘れていた。約束さえも」
 恨みますう〜! という台詞が聞こえてきそうな目で、リュネットは親父を睨んでいる。
「ま、まあいいじゃねえか。ずいぶん時間は流れたけど、こうして無事約束を果たして、会いにきたわけだし」
 フォローのつもりで俺が口をはさむと、リュネットはものすごい剣幕で睨みつけてきた。
「約束? ただ会いに来た事がか? 馬鹿を言うな!」
「違うのか?」
 リュネットは、今度は問いかけた祥一を睨んでいる。
「これだから男は……! いいか、明彦はな、私を“迎えに来る”と言ったのだ! 必ず迎えに来るから、結婚しようとな!」
「はあああああ?!」
 俺と祥一は仰天し、揃って親父を見た。
 親父はと言うと……
「あ、俺そんなこと言ったか?」
 すっとぼけているではないか。
「親父、何て約束かましてんだよ!」
「いやあ、見ての通りの美少女だろ? きっと少年時代の純な俺は本気だったんだよ」
 だからって幽霊相手にそんなこと言っちゃう馬鹿がどこにいるっていうんだ。それを頭から信じる幽霊もどうかと思うが、相手は時間の止まった、しかも他の誰にも姿が見えない(多分)いたいけな少女なんだぞ。
 まあどっちもどっち、という気もしなくもないが、この場合悪いのはどう考えても――
「親父、潔く責任を取れ」
「たしかに、それしか方法がないな」
 俺の言葉に、祥一が頷いた。
「ざけんな。おめェ、俺にはまみちゃんという、目に入れても痛くない可愛い妻がいるんだぞコラ」
「こんなデカイ息子こさえといて、いつまでも新婚気分でいるんじゃねーよ。このままじゃこの子が可愛そうじゃないかよ。親父の言葉を信じてずっと待ってたんだぞ? 他の誰にも気づいてもらえなくて、(多分)寂しい思いをしながら」
 言いながら、俺は本当にリュネットが哀れになってきた。
 人間の少年と自分が結婚できるなんて、彼女自身不可能なことだと理解していたと思う。それでも、いつか本当に迎えに来てくれるのでは? と信じてずっと待っていたのに、再会した時にはこんなデカイ息子がいる親父になっていたなんて(ついでに風貌もだいぶ変わっていて)悲しいだろう。
 なんだか居た堪れなくなった俺は、リュネットに向き直り、親父の代わりに恨みがましい視線を真正面に受け止めた。つーか、美少女が凄むと結構怖いんだな。
「結果的に結婚詐欺みたいな真似して、悪いのは完全にこの親父だけど、悪気はなかったんだよ(きっと)。だからさ、許してやってくんないかな」
 それでもリュネットは凄んでいたが、やがては諦めたのか、すとんと表情をなくし、落胆した。
「……そんなことは、もうずっと前からわかっていた。霊体である私と結婚しようなど、無謀以外の何物でもないと。けれど、少しだけ、夢を見てみたかったのだ」
 恋も知らずに若くしてその命を散らせた少女の、密やかな願い。
 それはどんな少女でも一度は見る、ささやかで慎ましやかな夢だ。
「その、軽々しい事言って、三十年も待たせて悪かったな」
 さすがに悪いと思ったらしく、親父にしては素直に詫びていた。
「いや……いいんだ。君が幸せならば、私はそれで十分だよ」
 それまでずっと厳めしい顔をしていたリュネットが、華やかに可憐に笑った。
「君達にも礼を言わなければな。こうして明彦に引き合わせてくれて、ありがとう。君達を信じて本当に良かった」
 やっべえ、マジ可愛い! 親父の気持ちがよくわかったぜ! とうっかり惚れそうになったのは俺だけではないらしく、隣の祥一も密かに見惚れていた。ああ勿体ない。これが実在の美少女だったらよかったのに。

 リュネットはもう一度「ありがとう」と言って、ゆっくりと昇天していった。
 俺達は彼女の姿が見えなくなるまで、ずっと空を見上げていた。


 その後の三者面談は、予想通りというかなんというか、とにかく散々だった。
 担任より普段の生活態度を赤裸々に暴露され、帰宅後、俺は親父にこっぴどく叱られた。








 校舎の裏の隅。目立たないような場所にこっそりと建っている小さなお社には、“眼鏡の神様”が住んでいるという。
 もしも何か叶えてほしい願い事があるならば、こっそりと裏庭へ赴くといい。そして拍手を打ってお社の戸を開き、中の眼鏡のレンズを三度磨く。
 それから眼鏡をかけて願いごとを唱える。

『眼鏡の神様、どうかこの願いを叶えてください』

 すると果たして、その願いは必ず叶うのだ。


 そんな噂話をめっきり耳にしなくなってから、数か月が経った。
 俺達があの社に行ってから、同じようにして“眼鏡の神様”を頼って行ったやつが何人かいたけど、決まって口にするのは「そんな眼鏡なんぞ無かった」だった。
 当り前だろうな。あのベンゾウ眼鏡は割れてなくなっちまったんだから。
 それから“眼鏡の神様”の噂は徐々に信憑性をなくし、やがては噂にさえ上らなくなったってわけだ。
「桜井先輩〜、なんか面白い話ないっすか?」
 昼休み、いつものように我等がハンドボール部の部室で集まっていると、後輩のひとりがそんなことを言ってきた。
「なんだよ、俺の話は嘘くさいとか言ってなかったか?」
「そ、そんなこと言った覚えないですけど」
「いーや言ったね」
 と言いながら後輩を捕まえて、こめかみを拳でグリグリと抉りながら教育的指導をしていたが、そういやとっておきの話があるなと思い出し、俺は手を止めた。
「“美少女幽霊と結婚詐欺少年”の話、なんてどうだ?」
「え、なんすかそれ! 面白そう!」
 俺の話に他の後輩達もノリノリになって来て、気付けば「早く聞かせてくれ」的な眼差しで見ているではないか。よしよし、だいぶ忠実になって来ているな。いい傾向だ。
「よし、そこまで言うなら聞かせてやろう。だが気をつけろよ、この話は本気で実話だ。疑ってかかると、こわーい美少女の幽霊がおまえたちの……ほら隣に!」
「ぎゃあああ!!」
 後輩共の間を指差して声を張ると、面白いほどに皆して椅子から転げ落ちた。
「馬鹿か! これくらいでビビってんじゃねーよ!」
 後輩共があたふたする姿を見て、腹を抱えてケタケタ笑っていると。
「……馬鹿は君だ」
 隣から覚えのある声が聞こえてきて、俺はぎょっとして首を捻った。
「この私を笑い話にするなど許せんな」
 腕組みをして仁王立ちする美少女幽霊・リュネットがそこにはいたのだ。
「ぎゃあっ!」
 あまりの驚きに俺自身も無様に椅子から転げ落ち、盛大に尻を打った。
「せ、先輩、急にどうしたんですか?」
 どうやら後輩たちにリュネットの姿は見えないらしい。
 とすると、俺はどんだけ滑稽な男だと思われている事だろうか。
「い、いやいや何でもねーよ。ちょっと急用を思い出したから、教室に帰るわ。じゃーな!」
 なんて苦し紛れの言い訳を口にしつつ、気前よく後輩たちに手を振って、俺は部室を走り去った。
 というか、なんであいつがここにいる? 無事成仏したんじゃなかったのかよ。
「霊というものはな、この世に未練があると成仏できないらしい」
「ぎゃっ! お前いきなり出て来るな!」
 廊下を疾走する俺に並んで、リュネットは悠々と浮遊しているではないか。
「ていうか、なんだよ未練って!」
 すると、リュネットは俺の顔をじっと見つめ、かと思ったらふいっとそっぽを向いてしまった。心なしかその頬が赤くなっているのは気のせいだろうか。
「その……明彦が無理でも、君ならば大丈夫かと思って。まだ若いしな」
「はあ?!」
「私と結婚してくれないか」
「はあああああ?!」
 何が悲しくて幽霊と結婚しなきゃならねえんだよ! いくら美少女でもマジ勘弁!
「絶対に嫌だ!」
 俺はハンドボール部で鍛えた脚力を駆使し、廊下を全力疾走した。途中、教頭やら宮下先生やらに注意されたが今はそれどころじゃない。
「私を呼び出した責任を取れ!」
「そんなの知るか! さっさと成仏しやがれ!」
 それでもリュネットはしつこく追ってくる。

 ――眼鏡の神様、本当にいるのなら俺の前に姿を現してくれよ。

 こんな願い事したばっかりに。
 “眼鏡の神様”……もといおかしな美少女幽霊にうっかり好かれてしまったらしい俺は、一日中どころかこの先ずっと付きまとわれるはめになってしまったのだった。
 嗚呼、本気で超可哀想な俺!

《了》


表紙
作者 / 水那月 九詩