それは真実?




 俺の目の前に小動物の彼女――沙希子ちゃん(ちゃんづけで呼ぶことにきめた。心の中だけで)がもそもそとフレッシュネスバーガーをほおばっている。
 それはハムスターやリスなどのげっ歯類が一生懸命頬袋に食べ物を溜め込む仕草そのままで、俺は内心身悶えた。
 写メとかとらせて貰えないだろうか。
 とか一度、言ってみる価値はあるかもしれない。君の食べてるところを待ち受け画面にしてみたいって――いやいや、さすがに駄目だろ。ドン引きだろ普通。
 俺はすんでのところで、良心に従って口を閉ざした。
 その自問自答が表情に現れていたのかもしれない。沙希子ちゃんは食べる手を止めて、俺を訝しげな表情で見ていた。その小首を傾げる角度までツボすぎる……思ってた以上に重症だ。
 俺はそんな危ない思考を誤魔化すべく、紳士的な笑顔を心がけながら口を開いた。
「辻さんって、すごく一生懸命食べるんだね」
「あまり食べるところ、じろじろ見ないで欲しいんですけど」
 沙希子ちゃんは頬を林檎のように紅潮させてうつむく。
 あらら。どうやら俺はまた言葉を間違えたらしい。ようやく食事に誘っても身構えなくなってきたところだったのに、これじゃ逆効果だな。
 俺が焦って頭を下げると、沙希子ちゃんは謝ってくださるほどの事でもないです、とぶっきらぼうに答える。では、なぜ彼女は不機嫌なのか。やはり女の子の気持ちってのは良くわからない。



 最初に沙希子ちゃんとメシを食べにいった日から、俺は三日に一回は彼女を夕食に誘うようになっていた。
 彼女の仕草、声は、俺の一日の疲れを吹き飛ばすぐらいの癒しレベルで、正直に言えば毎日でもご一緒したいぐらいだが、紗希子ちゃんはどうやら気を使う性質らしい。だからこそ今日のチョイスもファーストフードだし、これなら彼女も気兼ね無くご馳走させてくれるだろうという、俺が無い知恵を絞り出した作戦なわけだ。
 沙希子ちゃんは、俯いたままで、じっと一点を見つめ続けている。
 ん? なにかそのポテトフライに不具合でもあるのか? 俺の専門はメカニックだが、沙希子ちゃんの幸せディナーを阻むものなら俺が対策を講じるが?
 彼女の視線をたどってみたが、それは何の変哲もないポテトフライだ。
 沙希子ちゃんのきゅっと噛みしめた唇が深紅の薔薇色に染まっていて、俺はそれにしばしうっとりと見惚れた。彼女は意を決したように顔を上げて俺を見据える。真剣な顔もなかなか凛々しいのだが、緊張にぷるぷる震える肩に俺はつい微笑んでしまった。彼女はそれに一瞬怯んだように顔を赤らめながら、拳を握りしめ口を開く。
「あの、なんで杉原さんは、私をいつも夕食に誘うんですか?」
「なんでって」
 唐突に質問されて答えにつまった。
 強いて言えば紗希子ちゃんが可愛いからだが、それを口に出すとまたセクハラだと言われるかもしれない。固唾をのんでこちらを見る沙希子ちゃんの真剣な眼差しに、俺は何か答えを返すべきだという義務感にかられた。だから俺は正直に率直に自分の心のうちを述べることにしたのだ。
「見ていて面白いから、かな」
「面白いから……?」
「うん、一生懸命食べてるのが小動物みたいで」
 俺からしたら最高級のほめ言葉だ。一生傍でじいっと見ていたいぐらいだとは流石にいえなかったが。
 しかし、紗希子ちゃんは硬い表情をしながら立ち上がり、用事を思い出したので帰ります、と妙に無感動な声で言った。きびすを返した紗希子ちゃんを俺はぽかんとした表情で見送りそうになって、すんでのところで声をかける。
「……何ですか?」
 立ち止まった紗希子ちゃんに、俺は立ち上がり近づいた。覗き込むようにすると、やはり顔色が優れない。もしかしたら気分が悪いのかもしれない。
「暗くなったし送っていくよ」
「結構です。少し寄っていきたいところもあるので」
 沙希子ちゃんは何故か強ばった表情をしていた。無理をしなくてもいいのに。俺はにっこりと警戒心を抱かせないような笑みを浮かべる。
「君みたいに可愛い子の夜道の一人歩きは危険だ……というか、紗希子ちゃん、ちょっとごめん」
 一言断って、俺は彼女の額に自分の手を重ねた。じんわりとした熱が掌を暖める。俺の体温よりは高いが、熱は無いみたいだ。
 すると、硬直していた紗希子ちゃんが、真っ赤な顔をして俺の手を払いのけた。叩かれた手の痛みよりも、そのリトマス試験紙みたいな顔色の変化に俺は目を丸くする。
「きゅ、急に、触らないで下さい!」
「あ、ごめん、熱があるのかと思ったから」
「……っ、失礼します」
 かつかつ、とヒールを鳴らしながら去っていく彼女を引き止めることはできなかった。耳まで真っ赤な彼女の背中を見送りながら、俺は猫にひっかかれたような痛みを持つ左手をそっと押さえた……にゃんにゃん紗希子ちゃんってのも癒しだよなぁ。



 お前は馬鹿か? 馬鹿だろう? 馬鹿なんだよ。この馬鹿。
 そう問われたので、お前よりは頭がいいと思うぞ、と俺は返した。
 そうしたら、加畑祐介(かばたゆうすけ)は呆れたような溜息を吐いて、音を立てながらうどんの汁を飲み干す。やつの眼鏡が湯気で曇ったのを、俺はうんざりとして見ていた。
 まずビジュアルからして癒しレベルが足りない。お前も紗希子ちゃんを見習うべきだ。まぁ、どうせ努力したところで足元にも及ばないとは思うが。
 俺がそのようなことを言うと、加畑は心底嫌そうな表情をする。加畑は俺の学生時代からの悪友で、会社の同期でもある男だ。容姿もそれなりで悪くないし腕の立つ男ではあるが、口が悪いところが玉に瑕な二十九歳、独身、ただいま彼女募集中。
 そんな加畑に俺はここ数日の紗希子ちゃんの可愛さをとつとつと語っていた。そして、昨日の紗希子ちゃんの不可解な行動について言及しているところにかけられたのが冒頭の言葉なのだ。
 その言葉の真意を問うような視線を投げかけると、加畑は箸を俺の鼻先に突きつけた。おい、危ないぞ。
「いいか、杉原。非常に不本意だが言っておく。お前が、セクハラならまだいいが、最悪の場合、性犯罪者でしょっぴかれる前にこれだけは忠告しておこう」
 加畑は馬鹿みたいに真剣な顔で失礼なことを言った。性犯罪者だなんて人聞きの悪い単語を出すんじゃない。この長閑なお昼時に似合わないこと甚だしい言葉じゃあないか。飯が不味くなったらどうしてくれる。
 俺がそう咎めると、加畑はウルセェ、黙ってて聞いてろ無駄美形、と吐き捨てる。貶すか褒めるかどっちかにして欲しいな。
「褒めてねぇよ! 本当にお前はずれてるっていうか。ツラ以外が残念すぎるんだよ」
「どうも」
「だから、褒めてねぇって……いいか? もし、彼氏でもなんでもない野郎に頻繁に食事に誘われてたら、『私の事、もしかして好きなのかしら?』って普通は思うだろうが」
 加畑の気色の悪い声色に俺は怖気を奮ったが、思い返せば、彼女の質問の意図はそのようにも考えられる。俺がこれから加畑のことを恋愛マスターって呼ぼうかどうか考えあぐねていると、加畑はそんな俺を見返しながら鼻の穴を膨らませた。
「それで返したのが『面白いから』『小動物みたい』だぁ? お前、空気を読まなさ過ぎるにも程があるだろう! そんなペットに対するような言葉、彼女が怒って当然だろうが!」
「……あれは怒っていたのか?」
 俺が愕然としていると、加畑は肩を竦めた。
「俺はその場に居なかったから解らんが、多分な。それだけじゃないぞ。問題なのはお前の無意識がやってるセクハラ――もといスキンシップだ。しかも脳内は爛れた妄想でいっぱいときた。何が、にゃんにゃん紗希子ちゃんだ。恥を知れ三十路前。お前、そのツラなかったら、速攻で訴えられて豚箱行きだぞ」
 加畑に諭され、俺は物事の深刻さを少しだけ理解した。
 そうか、いかに癒しといえど可愛いものに無許可で触ってはいけないのだ。余りの癒しオーラに俺は我を忘れていたらしい。目を覚ましてくれてありがとう加畑。紗希子ちゃんを怒らせたり、彼女を不快に思わせるのは俺の本意ではない。
 しかし、本来人間とは強欲なものだ。最初は遠くから眺めているだけで満足だと思っていたはずなのに、今では彼女に近づけない、声も聞けないという状態には到底堪えられそうにも無い。
 俺は悲壮感を漂わせながら、恋愛マスターに助けを請うた。
「加畑、どうすればいい?」
「……お前、そんなこともわかんねぇのかよ。ほんっとうに馬鹿だな」
 何とでもいうがいい。俺は今、最大の危機に直面しているのだ。それぐらいの謗りは甘んじて受けようではないか。
 加畑は深い溜息を吐いて、真剣な顔で答えを待つ俺をじいっと見た。
「簡単だよ――コクれ。告白して来い。貴方の事がちゅきだから、とでも言ってこい」
「サランヘヨって?」
「そうそう……って普通にやれよ! 普通に! 日本語で! いいか、真面目かつ誠実な態度で告白するんだぞ」
 最初にふざけたのはそっちだろう、と思ったが、ふと疑問にぶつかった。根本的な疑問に。
「え、俺って紗希子ちゃんのこと、好きだったのか?」
 ぽろり、と心の声を漏らすと、加畑の顔からは表情がすべて失われ、奴は死んだ魚の目をした。
「お前……いまさら何言ってやがる。一緒にいたい。可愛いって思うってことは、その彼女のこと好きだからだろ? ったく……お前と喋ってると本当に疲れるっつーか」
 あ、そう。俺って紗希子ちゃんのこと好きだったんだ。
 その事実はすとんと胸の中に落ちて、熱伝導のようにじわじわと温かいものが広がってくる。やばい、今、俺の顔は真っ赤になっているかもしれない。俺は好きな子になんて態度と妄想をしていたのだ! 加畑じゃないが、恥を知れ三十路前だ!
 俺は猛省し、椅子の上に正座した。胸の前で腕を組んでいた加畑が、ふと何かを見つけたかのように声をあげる。
「噂をすれば、なんとやら――だぜ」
 反射的に見れば、カフェテリアに入ってきたのは、渦中の人、紗希子ちゃんだった。ちょこちょことハツカネズミのように歩く姿がなんとも可愛らしい。いつもならでれでれになってその姿を思う存分堪能させていただくところだったが、思いを自覚した俺はぱっと顔を背けて縮こまった。なんというか非常に顔を合わせ難い。恥ずかしいというか、面映いというか。
 俯いている俺の頭を、加畑は容赦なくはたいた。
「何、シカトしてやがるんだ、馬鹿。彼女、見てるぞ」
 その言葉に弾かれるように振り向いたが、彼女は既にこちらを見てはおらず、その姿は遠ざかっていく。落ち込んだ俺の肩を拳骨で小突き、加畑は今日何度目かになる溜息を吐いた。
「フォローしとけよ。絶対に」
 言われるまでも無い。俺は固く心に誓った。俺は紗希子ちゃんに告白する。



 ――と決心して早何日たっただろうか。
 俺は椅子に体重をもたせかけながら天井を眺めた。
 思いを自覚してからはや十日はたっただろうか。俺は告白するところか、最近では彼女を夕食に誘うこともできなくなっていた。彼女を目の前にすると緊張の余り、変なことまで口走ってしまいそうだからだ。彼女を食堂で見かけることもあったが、変なバリアみたいなものを感じて彼女に近づくことができない……俺って実は恋愛チキンだったんだな。
 そう思うと、自然に深い溜息が漏れる。これまで誰とも付き合ったことが無いわけではなかったが、向こうからやってきて、いつのまにか愛想をつかされるというのがパターン化していたから、自分から好きになるのは久しぶりなのだ――覚えている限りでは幼稚園の美代先生以来かもしれない。
 圧倒的に不利な状況だった。まるきり経験とデーターが足りていない。人間の感情という奴は電気回路のように単純には出来てないらしいから。
 俺が途方にくれながらぼんやりと天を仰いでいると、ふと点滅する蛍光灯が目に入った。あぁ、そろそろ交換しなきゃだな……っと、ちょっと待てよ。そういえば彼女、紗希子ちゃんは総務課だったな。
 みよんと、だらけきっていた背筋を伸ばして、俺は内線電話に視線を落とした。そして、緊張感と共に受話器をとり、ゆっくりと総務課の内線番号をプッシュする。
 紗希子ちゃんが出ると決まっているわけでもないのに、俺の心臓は早鐘を打っていた。彼女に電話に出て欲しいのか、出て欲しくないのか良くわからない心境だ。
『はい、総務課です』
 心臓が高鳴った。久しぶりに聞く彼女の声で、俺は感動に打ち震えていた。電話の相手が無反応だったことを訝しげに思ったのだろう。受話器の向こうからは不振げな声が聞こえてくる。
『あの、もしもし?』
「あ、ごめん。システム開発部の杉原だけど」
 なんとか平静を装って俺が名乗ると、彼女は一瞬だけ沈黙してから用件を聞いた。妙に事務的な声に胸がひやりと冷える。
「実は電算室の蛍光灯が一本切れてるんだけど、また時間のある時に業者を読んでくれる?」
『わかりました。そのように手配します。そのほかに御用はありませんでしょうか』
「その他は大丈夫だけど……辻さん」
 話を終えようとしていた彼女の名前を呼んで引き止めると、受話器越しに驚いたような空気が伝わってきた。
『なんでしょうか』
「食事に誘いたいんだけど、今日の夜はあいてる?」
『……申し訳ありませんが、今、その質問には答えかねます』
「ごめん。仕事中に不謹慎だった。でも、もし今日、時間が空いてたら駅前の喫茶店に来てくれる? 待ってるから」
『その件に関しましては、はっきりとしたことは申し上げられません』
「来れたらでいいから。あ、それから――辻さんの声聞けて嬉しかった。お仕事頑張って」
『……失礼します』
 がちゃりと音を立てた受話器を握り締めながら俺は緊張を解いた。紗希子ちゃんの声と態度が硬かったことは気になるが、とりあえず言いたいことは伝えられた。ミッションコンプリートだ。肝心の告白という最大の懸案事項が残っているが、あとは死ぬ気で望むほか無い。
 俺は椅子に体重をもたせかけ、ずっと点滅する蛍光灯を見つめ続けていた。



 俺は今日、何杯目となるブラックコーヒーを飲み干した。
 ここのコーヒーは豆からこだわっているだけあって美味しいのだが、飲んだ杯数が二桁に突入してくると流石に話は別だ。もたれ気味になってきた胃を軽く撫ぜて、俺は喫茶店の硝子越しに外を見つめた。
 薄暗くなってきた外の景色は、少し気の早いネオンに彩られ始めている。そして、いつの間にか振り出した雨粒が、ぼんやりと世界を滲ませていた。
 うん、俺も案外感傷的になっているらしい。すこぶるポエムちっくだな。
 喫茶店の中にただようブルージーな音楽もそれに一役かっているのかもしれなかった。
 手持ち無沙汰に腕を組み、俺はひたすら彼女を待ち続けた。もしかしたら待ち人来たらずという可能性もあったが、とりあえず時間が許す限りは彼女を待つつもりだった。
 すると、カランとドアが軽やかな音を立て、湿った空気が店内に流れ込んでくる。
 俺が期待をこめて入り口のほうを見ると、そこに立っていたのは紗希子ちゃんだった。嬉しいという気持ちもあったが、何よりも俺は彼女の姿に息が止まるかと思った。ここへ来る途中に雨に降られたのだろうか。彼女は濡れ鼠のように全身が濡れていたのだ。
「遅れて、すみません。少し仕事が長引いてしまって……」
「いや、それはぜんぜんかまわないんだけど……辻さん、君、びしょ濡れじゃない」
 荒い息を整えながら言った彼女に、俺は眉を顰めた。女の子が体を冷やすのはよくないと祖母が言っていたのをふと思い出す。これは由々しき状態だ。
「ごめん、マスター。タオルある?」
 振り向いて声をかけると、心得たという風に、マスターはタオルを差し出した。流石サービス業のプロフェッショナル。素晴らしい接客だ。俺は感謝の気持ちを込めて頷くと、タオルを受け取り、紗希子ちゃんの体をタオルで包んだ。
 華奢な肩から丁寧に水気をふき取っていくと、一瞬、びくりと彼女は体を震わせたが、直ぐに大人しくなる。彼女のその反応に、セクハラという言葉が俺の頭の中を過ぎったが、とりあえず緊急事態だから勘弁してもらうことにした。冷たくなった指先を擦るようにして暖めると、次第に血色が戻っていく。ほっと安心して温かい手を握り締めると、彼女の頬にまで色が灯ったようだった。
 とりあえず落ち着くために、俺は紗希子ちゃんの手を引いて椅子に座らせる。ずっと頬を高潮させながら下を向いていた彼女は、初めて俺を見返した。その真っ直ぐな視線に俺の頬は自然と緩む。
「辻さん、雨降ってたのに、来てくれて本当にありがとう」
「いえ……いいんです。私こそ、本当に遅くなってしまってごめんなさい」
 しっとりとした瞳で(雨の所為かもしれない)こちらを見つめる紗希子ちゃんに俺のボルテージもあがる。もしかしなくてもこれはいい雰囲気というやつではないか。つまり告白するチャンスだということだ。
 俺は緊張のあまり渇く喉を黒い水で潤しながら、紗希子ちゃんの様子を伺った。
 紗希子ちゃんの表情も少し緊張しているようだったが、その中に嫌悪の感情が混ざっては居ないように見える。それに勇気付けられ、俺は机の下で拳を握った。
「辻さん……いや、紗希子ちゃん。実は俺は君の事が、す――」
 その言葉を舌の上にのぼらせようとしたとき、俺の視線はある部分に釘付けになってしまった。
 透けてる。胸が。
 雨で濡れた彼女の胸元が見事にシースルーだ。ふむ、今日はピンクの花柄レースか……紗希子ちゃんのイメージを裏切らなさ過ぎて感動さえ覚えるな――って違う! 俺は何を考えている! 好きな子が気づいていないからって、透けている胸を凝視するとは、これが紳士の所業か? 否!
 俺は光の速さでぐりんと回れ右をした。外の景色を見て動揺を落ち着けていると、紗希子ちゃんの怪訝そうな声が聞こえてくる。
「あの、外が何か? それに今言いかけたことって……」
「いや、別に。とりだてて面白いものがあるわけじゃない」
「……そう、ですか」
 彼女の顔が直視できなくて、俺は誤魔化すためについぶっきらぼうな言い方をしてしまった。
 まずい。落ちる沈黙に俺は内心汗をかく。その静寂を埋めるようにコーヒーに口をつけてみたが、冷えたコーヒーの苦味だけが舌先に残った。
 そういえば彼女に何も飲み物を頼んでいなかったことに俺はようやく気づく。どうやらその余裕さえなくしていたらしい。そんな自分自身に深い溜息をつくと彼女は体を硬くした。もしかしてまだ体が冷えているのかもしれないな。大変だ。
 やっと少しだけ落ち着いてきた俺は、首から下はなるべく見ないように彼女に視線を向け、何か飲まないか問いかけようとしたが、そのときぶつかった視線に言葉を無くした。紗希子ちゃんは、瞳にいっぱいの涙をため、こちらを睨みつけていたのだ。
「馬鹿にするのも……いい加減にしてください。私をからかって面白いですか?」
 その糾弾するような言葉に息が詰まった。
 からかっているつもりはない、と俺は伝えたかったが、悲しそうな彼女の表情に俺は言葉を忘れてしまったかのように何もいえない。紗希子ちゃんは拳を握り締め、零れ落ちそうな涙を必死に堪えていた。
「気に入ってるって笑いかけたり、唐突に触ってきたり。そうかと思ったら、突然、無視したり冷たい態度をとる。私が動揺したり、一喜一憂するのを見てて面白いですか? ……優しい態度や言葉で期待させないで下さい!」
 紗希子ちゃんはそう言いきって勢い良く席を立つ。俺は何とか彼女を呼び止めようとしたが、その背中全体が俺という存在を拒否していた。叩きつけられた言葉に、伸ばした手を握り締める。
 罪悪感と自己嫌悪で俺は叩きのめされていた。まさか彼女があんなふうに思わせていたなんて。俺はどれだけ彼女を傷つけるような態度をとっていたのだろう。無意識とはいえそれは許され難い罪だ。脱力感に支配された体を丸める。
 俺は彼女を好きになる資格なんてはなから無かったのかもしれない。遠くで眺めるだけで満足しておくべきだったのだ。



 紗希子ちゃんと分かれてから、一週間は経っただろうか。
 時の経過もさえも曖昧になっている中で俺は、癒しもへったくれもない沈鬱で乾燥した毎日を過ごしていた。あれからカフェテリアで彼女を見かけることもあったが、彼女の頑なな雰囲気に近づくどころか声をかけることもできない。俺の好きだったリラックスモードの紗希子ちゃんにストレスを強いているのは俺だと気づいてしまったからだ。なんだか出口のない迷路に迷い込んだ挙句、落とし穴にはまってる気分だった。
 ディスプレイの画面に踊る文字の羅列を、無感動に眺めいた俺は、名前を呼ばれたような気がして振り返る。それは気のせいではなかったようで、その証に入り口のドアにもたれるように立っていたのは加畑だった。
「辛気臭ぇツラしてんな……空気が淀むから即刻やめろ、振られ虫」
 加畑に思いやりの心を期待するほうが馬鹿だったらしい。俺は無神経な加畑とやりあう気力が無かったから無言で通した。
「ったく、怒る元気もねぇのか? 情けねぇ。一度振られたぐらいでなんだよ。死ぬわけでもあるめーし」
 しかし、それは死にたくなるぐらの重たさだったことは事実だ。俺は加畑から視線を外して俯く。
「――俺は俺自身に愛想が尽かしたんだ。自分がこれほど無神経だと思わなかったんだよ」
 好きな子――紗希子ちゃんを酷く傷つけていたことにも気づかずに、彼女を更に傷つけた。俺は彼女に好きだと伝える資格はないのだ。胸の痛みを堪えながら、そう独白すれば、加畑は馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「はぁ、お前の馬鹿さかげんには恐れ入るね。お前が無神経なことなんて、それこそとっくの昔から解りきってたことだろ? むしろ、ようやく自覚しておめでとさん、って言いたいぐらいだぜ。それに彼女に好きだと言う資格ゥ? そんな大層なものがあるとは初耳だがな。くだらねぇ寝言ぬかす暇があったら、さっさと彼女の誤解を解いて来い」
 誤解を解く?
 そんな事ができるとは到底思えなかった。彼女は俺の事を嫌っているはずだし、今となっては顔を見るのも嫌だろう。食事に付き合ってくれたときは、内心の不愉快さを飲み込んで無理をしてくれていたに違いない。俺がそう言うと、加畑は頭を片手でかき混ぜながら肩を竦めた。そして、すごく嫌々といった表情で、俺を見やる。
「あのなぁ、こんなこと言うの、俺からしたら相当あほらしいんだが……期待させないでってことは、つまり期待してたってことだろ。お前がこんな女の腐ったような奴だって知られりゃ別だが、当然、にくからずは思ってたんだろうよ」
 俺は弾かれたように顔を上げた。
「おい、気色悪い目で見るんじゃねぇよ。いいか、あくまで俺が言ったのは可能性で、しかも過去形だ。チャンスの女神様は禿げてんだぜ? 二度目は胸ぐらつかんで引き留める勢いでいってこい」
 ニヒルに笑う加畑に俺は久しぶりに再び立ち上がる気力を貰った。やはりこいつは恋愛マスターと改名して、広く教えを広めるべきだ。半ば本気でそう言うと、案の定、馬鹿と罵られる。
 肩に軽くぶつけられた拳に励まされて、俺は電算室をようやく出ることができたのだ。



 さて、どうするか。
 俺は沙希子ちゃんとの遭遇確率が高いカフェテリアで彼女を待ち受けていた。あまり美味しくもないコーヒーをあおってみたが、特にこれといったアイディアは浮かんでこない。こんな風にグチグチ考え込んでくると、恋愛マスターのお告げが聞こえてくるようだ。加畑なら、馬鹿が考えてる暇あったらぶつかっていけと言うだろうな……俺は素直にその教えに従うとしよう。
 その愁傷さが神に評価されたのかもしれない。
 顔を伏せながらカフェテリアに入ってきたのは紗希子ちゃんだ。どこか浮かない表情をしている彼女に胸が詰まったが、俺は立ち上がると、そんな彼女に歩み寄った。
 見られているという視線と誰かが近づいてくる気配に気づいたのだろう。紗希子ちゃんははっと顔を上げ、こちらを見る。そして、その顔ははっきりと負の感情で歪んでしまった。
 怯みそうになる心を蹴飛ばしながら、俺は彼女との距離を縮める。しかし、彼女はそんな俺の視線を避けるかのように踵を返し、カフェテリアを出て行ってしまった。
 やはり、もう許してはもらえないかもしれない。だが、ここで諦めるようならば最初から行動なんてしていない。それに彼女の背中を成す術も無く見送ることにはもう飽きた。そう、何度も同じ轍を踏んでたまるか。
 俺は体のそこから沸いてくる力に後押しされるように彼女を追いかけた。
 彼女が履くハイヒールが高い音を立て、俺の革靴がそれを追う。ぱたぱたと廊下を小走りする彼女に対して、コンパスの差か俺はそれほど急ぐことなく彼女に追いつけそうだった……というか、あんな踵の高い靴で走って転ばないか俺は冷や冷やしていた。だから、これ以上の速度で追いかけて彼女を更に追い詰めてしまうことが躊躇われたのだ。時折、紗希子ちゃんが走りながら後ろを向いたが、俺がつかず離れずの距離で付いて来るのを確認すると、その表情は引き攣る。そういえばそれはホラー映画で殺人鬼に襲われる人の顔に似ているような気がしないでもなかったが、俺は満面の笑みを浮かべていることだし、ただの気のせいだろう――それにしても、好きな子とこんなふうに追いかけっこするのってある意味、男の夢だよな。花子さん、待ってくれないか。一郎さん、うふふ、捕まえてごらんなさい。とかどこかで目にした覚えがある。すごいな、それが今この状況か。
 ちょっと幸せな気分になりながら俺が追いかけていると、前方を疾走していた紗希子ちゃんがすべって転倒した。
 あ、パンツ見えた……白のレースか、よし! っていかんいかん。最低だぞ俺。
「辻さん、大丈夫?」
 直前までの親父的思考をおくびも出さず、俺は彼女に近づいた。しかし、きつい目で睨まれてしまい、パンチラを密かに喜んでいたのがばれていたのだろうかと肝が冷える。まじですいません。ごめんなさい。
「なんで、追いかけてくるんですか……転んだの、杉原さんの所為ですからね! いたっ」
 紗希子ちゃんは床にへたり込みながら、顔を真っ赤にしている。そして立ち上がりかけたが、足を捻っていたらしく、顔を痛みに歪ませた。
「ごめん。手を貸すから捕まって」
「嫌です! 触らないで下さい!」
 俺は紗希子ちゃんを引っ張り上げようとしたが、彼女はそれを痛烈に拒否する。俺だってちょっとは傷つくのだが、それは俺の自業自得なんだろうな。
「ずっとそこに座っていたいってのなら止めないけど……女の子ってお腹冷やすとよくないんじゃない?」
 少し意地悪な言い方だったかもしれない。俺がじっと手を伸ばしていると紗希子ちゃんは唇をきつく噛みながらその手をとってくれたが、ちくりと憎々しげに溜息を吐かれた。
「本当にこんな意地悪な人だって思ってなかった……イメージとぜんぜん違う」
 うわ、流石の俺でもちょっとだけカチンときたぞ。俺は怒るのも面倒くさいから気が長いほうだが、理想を押し付けられても困る。
「俺だって辻さんがこんな人だとは、遠くで見てるだけの時は知らなかった」
「なっ……!」
 意趣返しにそう答えると、紗希子ちゃんは絶句してまん丸になった。それがシマリスみたいで、俺は少し愉快な気分になる。
「こんなに可愛くて癒し系で、一生懸命で――すごく感情豊かってのは一緒に居て解った」
 ふっと微笑みながらそう言うと、彼女は酸欠の金魚みたいに真っ赤になって口をぱくぱくさせた。可愛いなぁ……ひとり動物オンパレードだ。
 その和みエネルギーに後押しされて、俺はほろりと自分の素直な気持ちを告白した。
「つまりは君の事が好きってだっていう結論なんだけど――ねぇ、また君を食事に誘っていい?」
 言葉を無くした紗希子ちゃんを腕に抱きながら、俺は妙に晴れやかな気分で彼女を見つめ続けていたのだ。


 さて、二人の妄想と理想と現実は、はたして真実の愛を導き出せるのか?
 それは皆様の想像に任せるということで。

《了》


表紙
作者 / 佐東 汐