覆される時間




 先生があたしの手を引いて飛び込んだのは、廊下の途中にある資料室だった。
 柴崎先生は資料室に入り込み素早く扉を閉めると、私の口を塞ぐ。あたしは自分の顔の半分を、思っていたよりもずっと大きな手が塞いだことにとっさに慌てるが、今はそれどころでは無いとあげかけた悲鳴をどうにか飲み込んだ。
 そうか。せんせーの手ってこんなに大きくて暖かかったんだ。
 そんな場違いな感慨に浸っているうちに、ばたばたと廊下の方から雨宮君が走っているらしい音が聞こえてきた。
 あたしたちは物音ひとつ立てないようにじっと息を潜める。
「ちっ……アリス=シバサキ。ようやく尻尾を掴んだと思ったのに、相変わらず逃げ足の速い奴め……」
 雨宮君はそう舌打ちをすると、さらに廊下の奥へと走っていく。
「……相変わらずと言いたいのはこっちの方だよ。まったくしつこい奴だ」
 遠ざかる足音がやがて完全に聞こえなくなるまで待ってから、柴崎先生は大きくため息をついてずるずるとその場で腰をおろした。口を塞がれたままだった私も、そのまま一緒に座り込む羽目になる。
 あたしの物言いたげな視線に気付いたのだろう。柴崎先生は押さえて手を離して、決まり悪そうに苦笑を浮かべた。
「すまないな、春日君。ここまで君を巻き込むつもりじゃなかったんだ」
「そうですよ、せんせー! あれはいったいどういうことなんで――むぐっ」
 先生が慌てて、思わず声を張り上げてしまったあたしの口を再び塞ぐ。あたしもやってしまったとはっとなる。
 二人で息を殺し、戻ってくる足音が聞こえてこないのを確かめてほっと胸を撫で下ろした。
「春日君……」
「今のはごめんなさいっ。でも、本当にいったいなんなんですか? 時空跳躍法がどうのとか、雨宮君が時空課特別なんちゃらだとかって……」
「時空跳躍法違反に、時空課特別捜査員だな」
 先生はどこか疲れたような、それでいて寂しげな声で呟くとアラレちゃん眼鏡のフレームを中指で押し上げる。薄暗い部屋の中、先生の表情は眼鏡の影になっていてよく見えない。
「春日君は僕がどうしてタイムマシンなんてものを作る技術を持っていたか、不思議に思ったりはしなかったかい?」
「それは……」
 むしろ不思議と思う間もなく巻き込まれた訳なのですが。
 じとーっと先生に視線を向けるとさすがにばつが悪かったのか、
「うむ。その疑問はもっともだろう。だから、僕も本当のことを答えようと思う」
 柴崎先生は視線をはずして何事もなかったかのように話を再開させる。せんせー、それ誤魔化してるの丸分かりだよ。だけど、先生が言う『本当のこと』とはあたしの度肝を抜くに充分な告白だった。
「実は僕は……、700年後の未来から来た亡命者なんだ」
「へ……?」
 あたしは、目を見開いたまま何も言えなくなってしまった。びっくり眼のまま固まったあたしを先生は不思議そうに見る。
「ん、どうしたんだ? よく聞き取れなかったか。なら、もう一度言おう。実は僕は……」
「いや、ちゃんと聞こえましたから。聞いてますから」
 あたしは慌てて先生を押し留める。
 そんな衝撃の告白を何度も聞かされたら、あたしは自分が正気でいられる自信がない。
 ぜいぜいと呼吸を整えるあたしをやはり不思議そうに見ながら、先生はぽつりぽつりとまるで夢物語のような未来の世界について教えてくれた。
「僕が生まれる半世紀ほど前。西暦で言うならば2650年頃だな。タイムマシンの理論が完成した」
 そしてそれから50年ほどの年月をかけて、タイムマシン自体も完成するらしい。某有名漫画作品でネコ型ロボットが誕生したとされていた年からおよそ600年遅れのことである。それは過去と現在を行き来するだけで、未来には行けないものらしいがそれでもタイムマシンであることには相違ない。人類が長年夢想してきたタイムマシンの完成の時を遅いと思うか意外と早いと感じるかは、人それぞれだろう。
「僕の父はタイムマシンの機体の設計開発に関わっていた技術者でね。そのお陰もあって子ども時代の僕はタイムマシンの完成が認められるよりも早く、過去に連れて行って貰えたりもしたものだ」
「それはむしろかなりチャレンジャーなことだと思うんですが……」
 役得だったと言わんばかりに満足そうにうなずく先生に、あたしはひくりと頬を引きつらせる。
 なにしろ承認前と言うことは、まだ未完成の実験段階だったということだろう。
 そんな不安の残るタイムマシンに子連れで乗り込むなんて、さすがは先生のお父さんだけあって思い切った性格をしていたようだ。そしてその性質は着実に息子に受け継がれている。
「だけれど、せっかく完成したタイムマシンは結局日の目を見ることはなかった。徒に現在を改変してしまう可能性を持つ装置の存在を、世界政府は見過ごすことをしなかった。そしてせっかくの功労の成果を奪われた父は、理不尽で不当な扱いを受け失意のうちに亡くなった」
「それは、その……ご愁傷様です」
 淡々とした先生の声は、まるで他人事を語るようだった。だけど、それが逆に先生の受けた傷の深さを浮き彫りにしているようで、あたしはなんと言っていいか分からなくなる。
「いや、確かに父は不幸だったけどね。それでも政府の判断は納得のいくものでもあった。過去を変えると言うのは、確かに恐ろしい事態を引き起こしかねないからね」
 しかし、一度生まれた技術を完全に封じることは難しかったらしい。
「どこから漏れたのか、タイムマシンの設計図が流出してね。違法トラベラーが大量に発生したんだ」
 そしてそれは当然のように多くの時代で様々なトラブルを起こしはじめる。そのため、それを取り締まるための法律と機関を世界政府は作り出した。
「それが『時空跳躍法』と『時空課特別捜査員』?」
「ああ、その通りだ」
 柴崎先生はあたしを見てうなずいた。その表情は勉強を教えてくれていた頃、解けなかった問題をようやく理解したあたしに向けられた優しい笑みと同じもの。あたしはこんな状況であるのにも拘らず、なんだかとても懐かしい気持ちになった。
「みだりに過去へ行ってはいけない。過去の時代の『現代人』に害をなしてはいけない。なにより『未来』変えるような真似はけしてしてはいけない。それを破った者は時空課特別捜査員によって逮捕される決まりとなっている」
 あたしは先生の言葉に神妙に頷いて見せた。いや、むしろそれくらいしかできなかったと言ってもいいだろう。なにしろ、とんでもない事実を連続で聞かされて、あたしの脳みそはもはや飽和状態だったのだ。
「蛇足だが、時空課特別捜査員は我々の時代においてはかなりのエリートにあたるんだぞ」
 つまり、雨宮君もまたエリートであるということなのだろう。この推論を三段論法と言う。つまりA=BかつB=Cならば、A=C。時空課特別捜査員がエリートで、雨宮君が時空課特別捜査員なら、雨宮君はエリート。こういった論法は受験対策として他でもない柴崎先生にみっちりと叩き込まれたものだ。
「雨宮君、若いのにすごいのね……」
 あたしは思わず感心する。あたしと同年代……いや、生まれた時代が違うので同年代といっていいか分からないけれど、現代で言う高校生の年でエリート捜査員というのはやっぱりすごいことだ。
「いや、確かにあいつは若いには若いが……、それでももう二十代半ばなんじゃないか」
「えっ!?」
 あたしは耳を疑う。そいつはすごい若作りだぞ!
「未来人は現代人よりもだいぶ老化が穏やかだからな」
 では700年後の未来ではお肌の曲がり角を越えても十代半ばのピチピチ肌をキープしているのがデフォルトなのか! なんて羨ましいんだ、未来!
「え、じゃあまさかせんせーもそろそろ三十路とか言ってるけど、ほんとうは50歳近いとか……」
「違う! 実際に30歳だ。僕は向こうでは老け顔な方なんだよ」
 なるほど。あたしはちょっとだけほっとした。確かに先生もアラレちゃん眼鏡をかけていれば高校生で通じてしまうくらいには若々しい。
「じゃあ、せんせーはどうして雨宮君に――時空課特別捜査員に追われているんですか? それに亡命者とか言ってたけど、どうしてこの時代にいるんですか……?」
「それは私がこの時代が好きだからだな」
 先生はあっさりと答えた。おいおいそれは答えになってないぞ、と思ったけれどそれでも納得できる理由を先生はくれた。
「父が幼い頃に連れてきてくれたのは、この時代が一番多かった。それもあって、僕はこの時代にはかなりの愛着を持っていた。一方僕が本来生まれた時代は父の事もあってあまり居心地のよい場所ではなかった。だから、思い切って過去に亡命しようと考えたんだ」
 そのため秘密裏に違法タイムマシンを購入し、さらに元の時代に戻るための帰還装置をわざと壊して柴崎先生はこの時代へやってきた。それはいろんな意味で危険極まりない賭けだっただろう。計画がばれれば時空課特別捜査員に捕まるのはもちろんのこと、壊れたタイムマシンを使うことで何が起こるかわからない。けれど、先生は一世一代の大勝負に見事勝利した。
 そして先生は『高校教師』と言う肩書きを手に入れ、生活の基盤を得て、何食わぬ顔で現代に紛れ込んだのだ。
「つまり、せんせーは自分の望みを叶えることに成功したのね」
「ああ、まさしくその通りだ」
 先生はうなずく。
「じゃあ、どうして先生はこの時代でまたタイムマシンなんて作ったんですか?」
 そう。それが何よりも疑問だった。
 今の時代に満足しているのなら、もう時代を移動する必要なんてない。なにより未来にいけないタイムマシンでは、生まれた時代に戻ることだってできない。
 それならばどうして、先生はタイムマシンなんて作ろうと考えたのだろう。
「それは……」
 先生は途端に視線を逸らす。そして言い辛そうに言葉を濁した。
「ねぇ、どうしてなの。せんせー」
「そんなもの決まっている。時代を自分の望むままに改変しようと企んだんだ」
 がらりと、突然背後の扉が開いた。
 あたしたちはぎょっとして振り返る。
「雨宮君!」
 あたしは彼の名前を呼ぶ。雨宮君はなにやら居心地が悪そうにしながらもあたしに視線を向けた。
 確かに彼は高校生にしては大人びているように見えるけど、それでも二十代半ばには到底見えない。なんだかおかしな所で未来のすごさを実感しつつある。
「時間を弄ぶ犯罪者は、ほとんどがそうやって道を踏み誤る。この時代でタイムマシン製作などしなければ、あるいは発見される事もなかっただろうに、欲をかいたのが運の尽きだな。さぁ、アリス=シバサキ! 神妙にお縄に着け!」
「違うっ」
 柴崎先生は、雨宮君の言い分に慌てたように首を振る。
「私は徒に未来を変えようとしているわけじゃない! むしろ自分の所為で変わってしまった現在を変えようと……」
「ふん、そんなものは詭弁に過ぎない」
 雨宮君――いや、時空課特別捜査員のクウガ=アマミヤはふんと鼻で嘲笑う。
「どう足掻こうが、貴様がこの時代に来たことで少なからず時代は改変されている。それを自分の気に入らない部分だけ直そうなどという行為自体が時間を弄ぶことに相違ない。大体、自分の時間軸において世界に適応できなかったような奴が、少し時代を遡ったからといってうまくやっていけるとでも――」
「あんまり先生を馬鹿にしないで! そりゃせんせーは変人であることは否定しないけど、あたしを大学に進学させてくれた立派な『先生』なんだからっ!」
 雨宮君のあんまりな言い方にかっとなったあたしは、横から雨宮君を突き飛ばした。油断していた雨宮君は良く磨かれた廊下を滑るほどの勢いで転倒する。
「せんせ、行こう!」
 あたしは目を白黒させる先生の腕を無理に引っ張り立たせると、再び廊下を走り出した。
 いくらそれが仕事だとは言え、雨宮君の言い方はあんまりだ。それこそ、百年の恋も冷めるというものだろう。
(と言うか、あたし……どうして雨宮君のことを好きになったんだっけ……)
 澄んでいた川の流れが急に澱むように、ふいにあたしの思考が濁る。はっきりとしない自分の記憶に、すっと背筋が冷たくなった時おもむろに先生が言った。
「ここまででいい。春日君。きみは自分の元いた時代に戻るんだ」
「せんせー!」
 あたしははっとなって先生を振り返る。資料室からはだいぶ走ったとは言え、ここはまだ校舎の中だ。雨はすでに止んでおり、どんよりとした曇り空を背景に渡り廊下の真ん中で先生はふっと笑みを浮かべる。そしてあたしの顔にアラレちゃん眼鏡――眼鏡型タイムマシンを被せた。
「たぶん、あと十分ほどで元いた時代に戻れるはずだ」
「そんな――! あたし、この状況下でせんせーのこと置いてなんていけません! だって、あたしはずっとせんせーのことが……っ!?」
 そこまで叫びかけて、あたしはぎくっとなった。学生時代、ずっと雨宮君が好きだった自分。そして芝崎先生に対する淡い恋心を秘めていた自分。
 二つの過去がまるでぶれたように二重にあたしの中に存在していた。
 自分でも信じられないこの現象に、あたしは顔を青ざめさせる。自分が自分でなくなってしまうような潜在的な恐怖に、指先がどうしようもなく震えているのが分かる。
 先生もあたしが怯えている理由に気付いたんだろう。
 先生は哀れむような悲しそうな表情で、あたしの頭を優しく撫ぜた。
「それが時空課特別捜査員たちが躍起になって時空犯罪者たちを取り締まる最大の理由だよ。ほんの些細なことがきっかけで、未来は大きく変わってしまう。今回君が時間を遡ったことが、ここよりさらに過去になんらかの影響を与えたのだろう。今は、君も正規の時間軸にいるわけではないから、記憶が完全に塗り替えられたわけではないだろうが」
「じゃあ、どれがあたしの正しい本当の記憶なんですか!」
 あたしは、思わず先生に詰め寄る。先生は寂しげに首を振った。
「それは僕にも分からない。いや、少なくとも本来ならばこの時間軸にいるはずがない僕とアマミヤに関わる記憶は、全て偽物だと思ってもいいかも知れない」
「そんな――!」
 あたしは強いショックを受けた。思わず目に涙が滲む。それを見た先生が慌てて手を伸ばしてくるけれど、今度はあたしはそれを跳ね除けた。
 このショックの原因が、自分の現在を好き勝手に塗り替えてしまう未来人に対する怒りなのか、それともあたしとの思い出の全てを偽物だと言い切った先生に対する怒りなのか。それは自分でも分からなかった。
「春日君、すまない……」
 柴崎先生はどこか沈んだ声音でそう呟く。再び伸ばしかけた手が、力なく傍らに落ちた。
「もう、観念したのか。アリス=シバサキ」
 はっとなり、あたしは振り返る。そこには雨宮君が立っていた。
「ああ、そうだ」
「せんせー!」
 落ち着いた先生の肯定に、あたしはぎゅっと先生の白衣の袖を掴む。
「いや、いいんだ。ここまできてしまっては、もはや逃げることはできないだろう」
 達観したような静かな笑みを浮かべて、先生はあたしの腕をそっとはずしに掛かる。けれどあたしはそうはさせまいとばかりに、強く先生の腕に抱きついた。
「春日君……」
 困ったような力ない声が頭上から降ってくる。だけど、あたしは先生の腕を死んでも離さないぞというつもりでいた。しかし、
「ぎゃっ!!」
 尻尾を踏まれた猫のような声を出して、あたしは固まる。いきなり先生があたしを強く抱きしめたのだ。驚いて力が緩んだ隙に、先生はするりとあたしの腕から抜けだし雨宮君のほうへ歩いていく。
「もう、別れの挨拶は済んだのか?」
「ああ」
 勝手に別れなんかにしないで! あたしはすごくそう思ったけれど、先生と雨宮君のそばに駆け寄ることができない。
「ねぇ、せんせーはこれからどうなるの……?」
 震える声で尋ねるあたしに、雨宮君は素っ気無く答える。
「……滞在時間、そして計画性などを鑑みると、奴に与えられるのは時空の墓場で終身刑が妥当だろうな」
「そんな!」
 思った以上に重い罰にあたしは顔を青ざめさせる。しかし先生は自分に与えられるであろう罰を目の前に突きつけられても、どこか淡々とした様子を崩さなかった。
「ひとつ、頼みがある。君が私を逮捕するためにこの時代にやって来た際、この時代に残した影響を過去から今に至るまでできる限り除去していってくれないか」
「言われるまでもない。はじめから、そうするつもりだ。そんな初歩的なことは捜査規定の中に織り込まれている項目だ」
「それは良かった」
 渋い顔をする雨宮君と、ほっとしたような顔の先生。
「では、もういいな」
 そう言って雨宮君は先生の腕に手錠をかける。700年後でも基本的な造りは変わっていないのか、がしゃんという錠のかかる音にあたしはぐっと唇を噛み絞める。
 先生は犯罪者としてあたしの目の前で捕まったのだ。
「春日も早くもとの時代に戻るんだぞ。時空跳躍法はなにも未来人にだけ適用される法律では無いんだからな」
「そちらも、そろそろ時間だな。春日君……どうか、元気で」
 先生が穏やかな春の陽だまりを思わせる声であたしに別れを告げる。あたしの目に涙が浮かぶ。
「やだっ、せんせー! 柴崎先生!!」
 あたしは耐え切れず、先生の方に駆け出す。しかしあと数歩と言うところで、先生と雨宮君は眩しい光に包まれて姿を消した。
 はじめから、そんな二人なんて存在しなかったかのように。
「先生の馬鹿ぁっ!!」
 あたしは喉も裂けよとばかりに泣き叫ぶ。その次の瞬間、この時代に来たときと同じように私の視界も真っ白なまばゆい光に包まれた。



 眩しい光が収まって、あたしは足元に床の存在を感じた。けれどそのまま立っていることなどできるはずがなく、あたしはバランスを崩して倒れそうになる。
「うおっ」
 その瞬間、誰かに危うく受け止められたけれどその人も同じようにバランスを崩したため二人揃ってひっくり返る羽目になった。だけど、そんなことあたしにとってはどうでも良かった。
「せんせー……」
 あたしは見知らぬ誰かの腕の中で、ぐしゅぐしゅと泣いていた。先生が逮捕され、この時代から姿を消してしまったということが哀しくて。
「む? なんだね」
 しかし頭の上から聞き覚えのある声が返ってきて、あたしはそのまま固まった。
 え、この声ってまさか……。
「なんとか無事に戻ってこれたようでよかったな」
「しっ、柴崎せんせーっ!」
 あたしは驚きのあまり、がばっと顔を上げる。そこにいたのは、相変わらずの白衣姿であたしを抱きとめて苦笑している柴崎先生の姿だった。
「せ、先生、三年前に雨宮君に連れて行かれてしまったはずじゃ……」
「ああ、やはり私は逮捕されてしまったんだな」
 先生はなるほどとばかりにうなずく。しかしあたしの頭はパニック状態だった。
「せんせー! これはいったいどういうことなんですか」
 きっと涙目で睨みつけるあたしに、先生はどこか狼狽したような様子でしどろもどろに答える。
「ふむ、つまりだ。三年前に君の前に現れたのは、『三年前』の私ではない。もちろん『現在』の私でもない。『半年後』の私だったんだ」
 その告白に、あたしはきょとんとする。
 あたしと入れ替わりに『三年前』の先生がこの時代にやってきたとき、それとタイミングを合わせるように訪れたのが『半年後』の先生だった。
「そして三人で相談した結果、『半年後』の私が連行されようということになったわけだ。私にとっては半年間の執行猶予という形かな」
 それが根本的な解決になっていないのは分かっている。けれど、あたしはまだ自分の前に先生がいてくれていることにほっと安堵した。
「さて、それでは春日君。そろそろ私の上から降りてくれないか」
「え……、はっ、はいっ!」
 そう。あたしはさっきからずっと先生の上に圧し掛かっている体勢のままだったのだ。飛び退くように慌ててどいたあたしに、先生は苦笑して身を起こす。そんな先生の頬に傷ができていることにあたしは気付いた。
「せんせー、怪我してるっ」
 たぶんあたしを抱きとめてひっくり返った時、床に置いてあった機材や箱か何かにかすめてしまったのだろう。この部屋、汚いから。
 自分の所為で怪我をさせてしまったという事もあり、あたしはあわてて自分のポケットを探る。出てきたのは古びた絆創膏だった。かなり年季の入った猫型ロボットのイラストのそれ。
「あれ、持って来ちゃってたんだ……」
 三年前の化学準備室で先生の机から見つけ出したものだけど、どさくさに紛れて持って帰ってきてしまったらしい。
「あっ、それは……!」
 先生ははっとした様子であたしの手ごと絆創膏を掴む。そしてほーっと息をついた。
「いったいどこにいったのかと探し続けていたが、そうか、君が持っていたのか」
 あきらかに安堵したといわんばかりの先生に、あたしは首を傾げる。
「あの、勝手に持って来ちゃったことは謝りますけど……それ、なんなんですか?」
 あたしがそう尋ねると、先生はわずかに頬を染めてそっぽを向く。えっ、先生照れてる?
「笑いたかったら笑ってもいい」
「いや、別に笑ったりはしませんが」
 むしろ照れてる先生がなにやら可愛らしく思えたり……。
「私が子供の頃に過去に連れてきてもらった時、その時代の女の子に貰った物なんだ。言ってみれば初恋の思い出ようなものかな。亡命先にこの時代を選んだのも、もしかしたらその子にまた会えるかも知れないと思ったからだし……」
 先生はぼそぼそと言い訳をするように答える。
 へぇ、そうなんだと思いながら、あたしは「ん?」と首を傾げる。似たような話をどこかで聞いたことがあるような……。
「せんせー、これからいったいどうするつもりなんですか?」
 あたしは先生に絆創膏を返しながらたずねる。先生の機転により半年間の猶予ができたとは言え、半年経てば先生が連行されてしまうのは変わらない。
「ああ、それに関してはもっと抜本的な解決策を取らなければならないだろうな」
 先生のどこか思いつめたような顔にあたしはどきりと胸を鳴らす。
「それって……?」
「過去を変える。三年よりももっと前から」
 つまりそれは雨宮君が先生を疑ってやってくるよりもさらに前から、時間をやり直すということ……?
 あたしの視線から何を言いたいのかを察したのだろう。先生は頷く。
「ああ、そうだ。この学校に教師として赴任する過去を消す」
「な、なんでですか! そんなの、嫌です!」
 あたしは先生にすがりつく。つまりそれは、あたしと先生の出会いすら、なかったことにしてしまうということだ。あたしの三年間の高校生時代の思い出から先生が消えていなくなるということ。
「あたし、せんせーがいなくなっちゃうなんて絶対にいや!」
 再び目に涙を溜めるあたしの頭を先生は優しく撫ぜた。
「前々から考えていたことだったんだ。私は、君の時間に多大な影響を与えてしまった。その償いはしなくてはならない。まさか自分がいた全てを消してしまうことになるとは思ってなかったけれどね」
 それでも、これが一番いい方法なんだ。と先生は優しく笑う。
「すまないな。幼い頃、君はタイムマシンに憧れていたようだったから別れを告げる前に一度タイムマシンを見せてあげようと思ったんだが、まさかここまで巻き込んでしまうことになるとは思ってもみなかったんだ」
「え……」
 あたしは溢れそうになる涙を拭いながら、きょとんとして先生を見上げる。
 確かにあたしは小学生の頃猫型ロボットの出てくるアニメを見てから、一時期そんな憧れを持っていたときがあったけど、どうしてそれを先生が知っているんだろう……。
「三年前……、いや春日君にとってはついさっきか。私は君に言っただろう。『未来を変えないように最善の策を練るから、安心してくれ』と」
「だからって、だからってそんなのひどいですっ。あたしの思い出まで全部持っていっちゃうなんて!」
 先生は寂しそうに笑った。
「君の未来を君に返そう、春日君」
 先生があたしの手を取る。その中にかさりと何かが手渡された。
 そして先生の顔にはアラレちゃん眼鏡が――眼鏡型タイムマシンが掛かっている。
「せんせー、駄目!」
 あたしは慌てて先生に手を伸ばす。けれどその手が届くほんの一瞬前に、先生の姿は眩しい光に包まれて消えてしまった。
「せんせーっ!」
 あたしは、誰もいない化学準備室で泣き叫んだ。


 あたしは呆然と高校の化学準備室に立っていた。
「あれ……あたし、どうしてこんなところにいるんだっけ」
 あたしは首を傾げる。確か、近くまで来たついでにお世話になった先生たちに挨拶しようと思ったんだっけ。じゃあ、どうして自分は化学準備室になんて立っているのか。
「あー、でもここも懐かしいなぁ」
 実験クラブに所属していた自分にとって、となりの化学室は愛着のある部室でもあった。
 その頃のあたしは部長の神谷君に対して淡い恋心を秘めてもいて、卒業式の日に思い切って告白をしたりもした。残念ながら結果は玉砕だったけれど、今となってはそんな事も含めて高校生時代の懐かしい思い出のひとつになっている。
「う〜ん、懐かしいには懐かしいけど、やっぱり自分がどうしてここにいるのかが分からないなぁ」
 もう一度首をかしげた時、あたしは自分が手にやけに古びた絆創膏を持っていることに気がついた。そして、
「あ、あれ……? どうしてあたし、泣いているの?」
 自分でも知らないうちに、ぼろぼろと涙が頬をつたっている。訳がわからないまま、あたしは古びた絆創膏をぎゅっと握り締めたままひたすらに泣き続けていた。


 そして、それから半年が経った。
 大学入学からちょうど三年半。今が就職活動最盛期ということで、あたしはリクルートスーツを着こんで企業の説明会の会場へと急いでいた。
 半年前、知らないうちに持っていた絆創膏は大事に手帳に挟んである。もう本来の用途には使えないような年季の入った絆創膏だけど、どうしてだか捨てる気にはなれずにずっと持ち歩いているのだった。
 時計を見ると、もう開場10分前。これはもうかなり急がないと間に合わないかもしれない。こんな時にタイムマシンがあったら、家を出る時間をあと五分早められるのに。
 あたしはほとんど駆け足同然で道を急いでいた。だけど、その所為で前方がかなり不注意になってしまっていたようだ。あたしは目の前にいた人にぶつかって、尻餅をついてしまった。
「いったぁ……」
 後ろ手を着いてしまったようで、手のひらが擦りむけている。自業自得とは言え、ついてない。ヒリヒリと痛む手を振っていると、あたしがぶつかってしまった人がおずおずと声を掛けてきた。
「き、君は……いや、あの、大丈夫かい」
 挙動不審なまでにあたふたした様子。あたしは戸惑いながらもうなずいた。
「はい、大丈夫ですけど」
 そう。あたし自身は大丈夫。だけどこの時間のロスで説明会への遅刻は確定だろう。
「あーあ。本当に、こんな時にタイムマシンがあればなぁ」
「えっ!?」
 ぶつかった相手の人は、さらに慌てた様子を見せる。いったいナンなんだろう、この怪しげな人は。
「それじゃあ、あたしはもう行きますので」
「あ、待ちたまえ。怪我をしているようだから、せめてこれを」
 立ち上がって行こうとするあたしを呼び止めて、その人が差し出したのは昔懐かしの猫型ロボットが描かれた子供用の絆創膏だった。
 これはタイムマシンがどうこう言ったあたしをからかっているのだろうか。そんなことを思ったけれど、だからと言って親切でくれようとしているのなら受け取らないのも失礼だ。
 そう思って、差し出された絆創膏を手に取った途端、あたしの中にまるでスパークが走ったような衝撃が起きた。
「あ……」
 唇がわなわなと震える。
「どうした? 大丈夫か?」
 そうやって心配そうな表情で優しく問い掛けてくる先生。そう、『先生』だ!
「柴崎せんせーっ!」
 あたしは目の前にいる先生に抱きつく。
 先生が目を白黒させる。私もどうしてだか分からない。だけど、記憶は全て蘇っていた。
「なっ!!? 春日君、どうして!?」
 あたしは半泣きで、先生の腕をぎゅっと掴む。もう、離さないとばかりに。
「お詫びなら大黒堂の揚げせんべいでいいですから。だから、もう勝手にどこかに行ったりしないで下さいね」
 そして半泣きの笑顔で先生を見上げる。何より大切なのはただそれだけ。
 あたしの手には、猫型ロボットの絆創膏が強く握り締められていた。

《了》


表紙
作者 / 楠 瑞稀