眼鏡+イケメン、そして事件の終結




「なるほど、おまえは馬鹿ではないらしい」
 にこやかに笑うヒロムの顔に冷酷な表情が現われた。アキカはトーマの服を握り締めていた。怯えるアキカの様子を楽しむかのようにヒロムは口を開いた。
「アキカ、そんなに怯えなくても、僕は君を食ったりしないよ」
 さっきまでの親しみやすい雰囲気は消え、口調もガラリと変わっていた。アキカは背中に冷たいものを感じて生唾を飲み込んだ。目の前で微笑む天使のような、悪魔のようなヒロムに途切れ途切れの言葉をアキカは投げかけた。

「私の眼鏡って加瀬が持ってるの?」
「そうだよ。僕が持ってる」
「どうして?」
「トーマの邪魔をしたいから」
「どうして?」
 ヒロムが微笑んだ。ゾッとするような冷たい笑み。
「憎いから」

 ヒロムの顔は大人びていて、とても同い年に見えなかった。なのになぜクラスメイトに思えたのだろう。アキカが思ったことは顔に出ていたのかヒロムは言った。
「アキカの催眠術が簡単に解けたのは心外だった」
「催眠術?」
「ああ、そうだよ。僕は催眠術を習得したんだ。まだまだ未熟だということなのかな」
「……アキカ、彼の目を見てはいけないよ」
 トーマの声が遠くに聞こえた。
「う……ん」
 アキカは返事をしたものの視線をヒロムから外せないでいた。そのときトーマが後ろを振り返った気がした。
「……見るなよ」
 トーマの手がアキカの目を覆い、アキカの体をぐっと引いて抱え込んだ。
「……彼女は関係ないだろう?」
 トーマは独特の間とまったり感が漂う喋り方をしていた。
 もう少し緊迫感は出せないのかな? そう思ったらアキカの肩に入っていた力が抜けた。トーマに目隠しされているのでヒロムの顔は見えないが、かえってヒロムの声が冷たく感られた。
「関係ないとは言い切れない。彼女もあの小花柄フレームの持ち主だ」
 そんなヒロムを気にする風でもなくトーマは続けた。
「……加瀬と言ったな。あんただって関係ないんじゃないか? あの時、俺が踏んだ眼鏡の持ち主じゃないし」
 ヒロムはふっと笑った。
「へぇー、一度しか会ったことのないのに覚えてるんだ」
 心底感心したような口ぶりなのだが、トーマを馬鹿にしているようにも聞こえた。
「……覚えているさ。あの男の顔を忘れるわけないだろうが」
 トーマの口調は静かだったが、アキカに触れていたトーマの腕が怒りで震えていた。
「トーマ、手を離して」
「……絶対、見んなよ」
 押し殺したトーマの声がして手が離れた。アキカは頷いてトーマを見上げた。青みがかった灰色のトーマの瞳を怖いと思った。アキカはもぞもぞと動いてトーマの腕から抜け出した。
「おまえが見た男は僕の兄だ」
 ヒロムは憎々しげにトーマを睨んだ。
「おまえが、あの眼鏡を壊したせいで兄さんは」



 兄は元々視力がとても弱く眼鏡がなければ生活できなかった。それだけならまだしも、どんな眼鏡でも頭痛がして長時間はつけられなかった。
 レンズのせいかと思い、何度も作り直した。だが頭痛は治まらなかった。
 良い眼鏡屋があると聞けば、どんな遠方でも訪ねて行った。海外、名前も知らないような国や街にも出かけて行った。そのせいで眼鏡コレクターだと思われるほどだった。
 ある時、人伝にフレームを作る天才がいるという噂を耳にした。どんな人でも疲れないという話だった。藁にも縋る気持ちで噂の工房を探し訪ねると、そこにいたのはまだ若い職人だった。
『それは大変でしたね。ご苦労も多かったでしょう。僕のフレームが合うかどうか分かりませんが、精一杯努めます』
 そうして手にしたのが小花柄の眼鏡だった。



「あの眼鏡のお陰で兄は勉学にも集中できた。兄は心理学者を目指してたんだ。得意の催眠術を使って心の病を持つ人の治療ができないかと思ったらしい。コツコツと勉強して心理学者として認められた矢先だった。
 兄はすっごく大切にしていたんだよ、あの眼鏡を。汚れが付いていようとも、付いてなくても暇さえあれば磨いていた。そのくらい大切にしていた。特別な眼鏡だと言ってね。
 それなのにあの日、あんたに踏み潰されてしまった。
 あんたの推測通りだよ。眼鏡の呪いなんてものはこの世にない。踏み潰された眼鏡を見た兄は怒りに任せて催眠術を使ったんだ。
 しばらく途方に暮れていた兄も冷静になってから、もう一度、作って貰おうとその工房を訪ねたけどあの若い職人は亡くなっていた。
 その絶望感が分かるか?
 ……それでも頭痛と戦いながら心理学者への道を捨てていないんだ。だけど、今月に入ってから症状が悪化して論文をかくどころか、普通の生活も出来なくなったんだ……
 確かに兄は多少変わってるけど努力家で、年の離れた弟の僕を可愛がってくれて……人を信じなきゃダメだよと言ってた兄が、人が変わったように誰も信じられなくなってしまったのは哀しかった……それもこれも、おまえが眼鏡を壊したせいなんだ」



 沈黙が続いた後トーマが言った。
「……運命の眼鏡があの小花柄のフレームだとしたら、俺が集めた八個の眼鏡の中に合うのはないか?」
 アキカもあっと思った。
「そうよ。可能性はあるわ!」
 ヒロムは手をグッと握り締めて叫んだ。
「でたらめを言うな!」
「……試してみる価値はあるだろう? あの職人は一つのフレームを十個しか作らないと聞いた。新しいフレームを作るのは依頼人を気に入った時だけだったらしい。あんたの兄さんとやらは気に入られたんじゃないのか? ここにある小花柄のフレームは、二番以降しかない。おそらくアキカのは十番目だろう。それから推測するに恐らくあんたの兄さんのフレームは一番だったはずだ」
 トーマはダルそうに髪をかきあげた。
「……催眠術が解けたら、アキカ以外の眼鏡は必要なくなる。そうなれば、あんたの兄さんに全部あげても構わない。例の工房に聞いたんだ。フレームだけじゃ、特別な眼鏡にはならない。レンズやフレームの調整があって初めて特別な眼鏡になるのだと。工房にはその当時の技術者がいるから何とかなるだろう」
 ヒロムは無意識に唇んでいた。何か考えているのだろう。眉間に皺が寄っていた。
「……分かった。小澤の眼鏡は返してやる。手を出せ」
 ヒロムはアキカの手に眼鏡ケースを乗せた。

 アキカはケースを開けた。そして眼鏡を取り出すと眼鏡を掛けた。
「あ、私のだ。よかった」
「……アキカ、眼鏡を貸してもらえるか?」
「うん。いいよ」
 アキカは眼鏡を外すとトーマに手渡した。
「……悪いな。借りる……やはり最後の眼鏡だ」
 アキカの眼鏡は『No.10』と刻印されていた。

 トーマはベンチに座って傍らで黒鞄を開いた。黒鞄に入っている大量の眼鏡の山の奥から、八つある眼鏡ケースを取り出した。一つ一つケースを開き、小花柄をあしらったフレームの眼鏡を取り出した。そして、トーマはシリアルナンバー順に並べた。
 トーマはシリアルナンバーの一番若い眼鏡を手にとると、今している眼鏡を外し番号順の列に入れた。一番若いナンバーの眼鏡をかけた。
 かなり緊張しているのだろう。トーマは大きな息を吐いた。
 息を吐く姿さえやっぱり麗しいとアキカはトーマに見とれてしまっていた。
 いかん! と頭を振った。
 アキカのことなど眼中にないトーマは、小花柄のフレームを順に一つずつ丁寧に眼鏡を交換して行ったが、特に変わった様子は見られなかった。最後にアキカの眼鏡『No.10』を掛け終わるとまたトーマは大きな息を吐いた。

 一息ついてからトーマは縁なしのシンプルな眼鏡を手にした。その眼鏡はジョナサンの人格を持つ眼鏡だ。眼鏡の呪いが解ければトーマのままだが、もし解けていなかったらジョナサンが現れるはずだ。トーマは手の中の縁なしの眼鏡を見つめていたが、意を決したようにゆっくりと小花柄のフレームの眼鏡を外し、縁なしの眼鏡と交換した。

 ジョナサンが赤いフレームの眼鏡をかけた時とは違っていた。あの時は、しばらくビデオの停止ボタンを押したように動きを止めていたが、小花柄のフレームを交換していたときとまるで変わらなかった。

 息を飲んでアキカが見守る中、トーマは口を開いた。
「……俺は――変わらない、変わってない……よかった」
 トーマは呟くと頭を垂れて肩を震わせていた。

 次にトーマは顔を上げた時には何事もなかったような顔をしていた。『No.10』の眼鏡をアキカに返した。
「……ありがとう。お陰で催眠術が解けたようだ」
「ううん、よかったね。トーマには花柄の眼鏡よりそっちの方が似合ってる」
「……そうだな。俺は可愛いのが似合うタイプじゃない」

 トーマはヒロムの方に体を向けた。
「約束どおり、八個のフレームはあんたにやるよ」
 アキカは叫んだ。
「あり得ないよ! トーマ、人が良すぎない? そりゃさ、確かに眼鏡を踏んだのはトーマだけど、こんな理不尽なことされて、時間とお金をかけて探し集めた八個の眼鏡をあげちゃうなんて、どうかしているよ!」
「……そうかもな」
 トーマが笑った。
 うっ、なんて罪作りな笑顔なんだろう。麗しすぎるとアキカは思った。
 トーマは眼鏡を一つずつケースに戻していった。すると途中で手が止まった。
「この『No.7』は眼鏡店で売っていたままの状態だ。これが一番元に近いはずだ」
 ケースに収めてたものをヒロムに差し出した。ヒロムは恐々と手にすると、眼鏡に顔を近づけた。
「確かにレンズ部分が普通のプラスチックだ」
 トーマは立ち上がると首を傾げて髪をかきあげた。
 夕暮れ時のオレンジ色の光がトーマの髪を染めていた。夕日を背に立っているのでトーマの顔は見えなかった。
「……さてと、俺は元の街に戻るよ。大学も休んでばかりはいられないからな。加瀬、結果が出たら教えてくれるんだろう?」
「なんでおまえに知らせるんだ?」
「……これだけ迷惑掛けたんだ。それくらしてもバチ当たらないよな」
 ヒロムは真剣な顔で言った。
「分かった。連絡する」

 そして――

 アキカは今日も神住町の図書館にいた。花柄の眼鏡を掛けて本を読んでいた。バイブレーションにしてあった携帯電話が震えた。
 ハルミかな? と手の取ると新着メールがあった。送信者は空白だった。
「何コレっ!」
 アキカは恐る恐るメールを開いた。
『あなた方には迷惑をかけた。トーマから贈られた眼鏡はやはり特別だった。また元のように勉学に勤しんでいる。感謝している。ツトム』
 だれよ! ツトムって。あ、もしかして? ヒロムの? そっか。よかったね〜、なんてのん気の思うわけないよ。どんだけキモくて怖い思いさせられたと思ってるのよ!

「さて、帰ろうかな」

 眼鏡を外してケースにしまい、すぐにカバンに入れた。
「忘れたりすると大変だからね。また、あんなことがあったら堪らないからね」
 アキカが立ち上がるとまた携帯電話が震えた。
 今度こそハルミかな?
『要らないからて七個の花柄の眼鏡を返されても迷惑なんだ。少しは考えろ トーマ』
 ははは。トーマにあの眼鏡は似合わない。それに七個も要らないよね。送り返しちゃえばいいのに。
 アキカは笑いながら図書館を後にした。

《了》


表紙
作者 / 音和 奏