剣呑な目付きを眼鏡の所為にする為だけに、眼鏡を掛けていた。
 誰だったかに言われたのだ。眼鏡でも掛けて誤魔化せ、と。
 しかしそのアドバイスは今現在全く効果を失くしていた。むしろ悪い方向に向かっていた―ー全力疾走で。
 硝子に反射する光が、その奥の凶眼に籠る炎を助長している。
 
 ずん、と重い空気。
 空気に重力を掛ける男は宣う。男の腹からはどくどくと赤い滑りが広がっていた。それでも男の口元に刻まれているのは地割れのような、笑みだった。
「手前らには仁義ってもんがねぇのか?あん?何処の組だか暴力団だか知らねぇがうちの若い連中に手ぇ出しやがって。挙句に餓鬼浚って売るだぁ?極道にも筋ってもんがあんだろうがよ」
 たん、たん、と一歩一歩、赤い河川を引き摺りながらも男は進む。
 圧倒的多数であり、小火器を身に着けたその筋の方々は、じりじりと…後退していた。怪我を負った男一人相手に気後れしている。
「――さぁて、覚悟は出来てるよな?」
 空気を暴落させる声が和やかに死刑宣告を下した。



斜め上から直角へ




 そういえば暫く兄の姿を見ていなかった。
 当の兄が帰宅して、久し振りだな、と思って漸く気がついた。
「よう、沙汰ぁ。久し振りだな。背ぇ伸びたか?」
 人の頭をわしわしと犬にでもするようにかき回してくる。適当にやり過ごしてやったが、兄が異常にハイテンションであることは分かった。…何かクスリでもキメてるんじゃないかと思うほどに。足も萎えてしまっているようで、兄の同僚だという男性(『崎田先輩だ!』と兄)に肩を貸して貰うという体たらく。兄が騒ぐ度に崎田氏は蹈鞴を踏み、急に動くな落ち着け騒ぐな喧しい、と子供にする注意を兄にする。終いには頭を叩かれ、犬や餓鬼扱いにされても、兄は痛ぇっすわー、と笑うばかりで効果なし。
「…えっと、兄がすいません。――薬中とかじゃないですよね?」
「いや、ハシシもLSDもやってないんだがな。多分脳内の合法麻薬が大量分泌中なんだろう。…痛み止め飲んどけって言っても聞きやしねぇ」
「痛み止め?」
 兄が崎田氏に肩を借りているのは頭イッちゃっているからではなく、怪我のため、らしい。傍から見て頭イってるように見えるから、真実はあまり重要ではない。
 とりあえず何時までも兄が厄介になるわけにはいかないので、彼とポジションを交代し、兄の脇に肩を入れて担ぐ。兄の方が頭一つ分背が高いので重い。矢鱈と体温が高い気がした。痛みがあるから、だろうか。
 このまま帰ってもらうのは道義に悖るし、聞きたいこともある。崎田氏に上がるように促すと、彼は一礼して靴を脱いだ。サングラスで厳つい風貌をしているが、外見程はアウトローではないらしい。侠客、という感じか。
 脳内麻薬にキメられた兄を適当な和室に叩き込み、押入れから布団を引っ張り出して投げつける。痛ぇな、文句が布団の奥からもがもがと聞こえるが無視。ちょ、お前眼鏡のフレーム曲がったーという声には少し罪悪感が湧いたが、ぴしゃんと襖を閉めて座敷牢とする。
 崎田氏を別の和室に通して珈琲を出し、僕は緑茶を啜る。頭がイった兄には解毒用に大量の水を入れた水差しとコップを与えておいた。
 そして本題。
「で、兄はどうしたんですか?」
「職務中に被弾したんだよ。ドテっ腹にズドンと。まぁあれだけ暴れれば一発ぐらい食らうもんだ」
「…そうですか」
「暫く入院してたんだが、薬は飲まねぇし、どうしても帰るって言い張るしでな。…難儀な兄貴を持ったなぁ、沙汰くんも」
 困った兄。全くもってその通りだ。
 あぁ、高校から大学まで、兄は斜め上をカっ飛び続けていた。僕は小、中、高、と兄を追いかけるように進学しているが、先々で称されるのは“あの榊糺の弟”だ。若気の至りならいざ知らず、良い歳してもやっぱりアングラな商売に就いてしまったのか…。銃撃されるような商売だなんて。母さんと父さんが知ったら何て言うだろう。いや、銀行強盗が二人の出会いのキッカケだなんて言う両親だから特に反応しないかもしれない。
「――ご迷惑をお掛けしました」
「いやいや。まぁ怪我するわ始末書もん謹慎もんことやらかすわ、で色々やらかしたが、あの時あいつは一番俺たちがしたいことをやってくれたからな。多分復帰出来るだろう」
 はぁ、と相槌を打ちながら、僕は少し違和感を抱いていた。
 始末書、謹慎。えらくお堅い単語だ。そういえば職務中、被弾、という少しばかり一般人が、いや民間人が使わない言い方もしていた。
「つかぬことをお伺いしますが、貴方と兄の職業は何ですか?」
 崎田氏は酷く珍妙な顔をした。
「…一応公務員で、刑事なんだが」
 僕は思わず湯呑を握り潰した。緑茶が辺りに零れる。熱い。兄さんの所為だ。
 あれ?兄さんって博徒じゃなかったっけ?情報が古すぎる?いつから兄さんに会っていない?あぁ、もうかれこれ――二年だ。…二年で職業が正反対になったりする?カっ飛んでるなぁ兄さんは。ちょっと首締めたい。
 凄い握力だな、糺みたいだ、と崎田氏は布巾でテーブルを拭きながら笑った。
 拭われていく緑茶を見て、この人はA型だな、と僕はぼんやり思った。

《了》


※ この作品はイラストとセットになっています。

前項
作者 / 今野些慈