眼鏡の代わりに




“遅いな、電話してみようかな”
 佐藤 仁美(さとう ひとみ)は握り締めていた携帯電話を開く。呼び出し音が鳴るだけだった。
 駅前のロータリーの時計は夜の七時を回っていた。
“おかしいな。もう約束の時間はとっくに過ぎてるのに。なんでお兄ちゃんもお母さんも電話くれないの?”



 金縛りのように動かない体。仁美は一生懸命目を開けようとしていた。背中を伝う汗の冷たい感触でようやく目が開いた。冷や汗でパジャマがぐっしょりと湿っていた。
「夢――」
 目覚めたと同時にどっと疲れが襲ってきた。
 休みたい。
 そう思ったがすぐに頭を振った。
 だけど家にいても休まる訳ない。
 ノロノロとベッドから這い出ると、バスルームに向かった。頭からシャワーを浴びて、念入りに全身を洗った。体の芯に残った冷たい感触はいくら洗っても流せるわけもなかった。重い体を引きずるようにしてバスルームから出ると、洗面所で髪を乾かした。胸のあたりまである長い黒髪は切り揃えられていた。やや左寄りで自然に分かれた前髪も長く瞳を覆っていた。鏡に映った顔はいつもより青白かった。
「疲れた」
 洗濯機のスイッチを入れ、帰宅時間に乾燥までが終わるようにセットした。それから花瓶の水を取り替える。そして遺影の前で手を合わせた。
「おはよう。お父さん、お母さん、お兄ちゃん」

 仁美の朝の儀式だった。

「いけない」
 夢のせいかシャワーの時間が長かったらしく、いつも通りに家を出るには、かなり急がないとならないようだ。慌てて冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出した。バナナと牛乳が仁美の朝ごはん。牛乳で流し込むようにして飲み込み洗面所に向かった。
 歯磨きをしながら今日着ていく服を選んだ。
 暑そうだし、これでいいっか。
 口をすすいでから服を着替え、申し訳程度に化粧をした。そして眼鏡をかける。時代遅れの黒い縁の眼鏡。眼鏡一つでここまで印象が変わるのだろうか。地味目のお嬢さんという風情から一転して、流行遅れの野暮ったい女の子へと変貌していた。仁美は鏡の前で一呼吸付いてから独り言を呟いた。

「今日も頑張ろうね」

 そして写真の前を通り過ぎながらで言った。
「行ってきます。お父さん、お母さん、お兄ちゃん」
 毎日のことだが、その一言を言わないと家を出られなかった。





 会社までは電車で三十分ほどだった。下り方面のためラッシュにも合わないのは幸いだった。
 受付の横を
「おはようございます」
と足早に通り抜けエレベータに乗り込むと最上階の二十七階を押した。

 社長室と書かれたドアの前を右に折れて、少し歩くとオフィスがあった。オフィスと言ってもいるのは仁美だけで、いつも静まり返っていた。
 荷物を机にしまってから代わりに携帯電話を手にした。固定電話の他に社員一人一人に持たされている携帯電話。ポケットがない服だったので首から提げた。そしてトレイと布巾を持って社長室をノックした。
「失礼します」
 そう言っても誰もいないことは確認済みだ。

 デスクの上の書類をなるべく動かさずに、塵やゴミだけを拾い集めた。飲み残しのコーヒーが入ったカップなども回収して給湯室に運ぶ。
 応接セットのソファの位置が微妙にずれていたので元に戻す。華奢な仁美には重労働で額にはうすらと汗が滲んでいた。飾ってあった花の傷んだ花殻を摘むと、花瓶とのバランスが悪くなってしまった。仁美は少し考えてから小さめの花瓶に差し替えた。
「完了」

 頭を下げて部屋を出ると給湯室に向かった。回収したカップ類を洗い終えると足音が聞こえた。社長の黒川 樹(くろかわ いつき)が到着したらしい。タオルで手を拭くと社長室に向かった。

 仁美はノックをしてからドアを開けた。
「おはようございます」
細身のフレームの眼鏡をかけた樹はチラッと顔を向けて、
「おはよう」
と言った。そばにいた西山 和紀(にしやま かずのり)は
「これから外出します。戻りは午後一時です」
と言った。
「分かりました」
 仁美は返事だけして部屋を後にした。

 仁美が樹の秘書になったのは入社五年目、今から二年前だった。総務課からの移動だった。抜擢されたといえば聞こえはいいが、ここでの仕事はほとんどなかった。
 朝、部屋を整えてお茶を淹れる。それがすべてだった。
 社長秘書は実質、和紀が行っていた。異母兄弟と噂のある彼は樹の陰のようにいつも一緒にいた。そして誰も信じられないのか、仁美に仕事を頼むことは一切なかった。機密情報があるとはいえ、コピーも頼まない和紀に、初めは戸惑ったが気にしないことにした。
 会社を辞めようなんて思わない。たとえ退屈であっても、家にいるよりはずっと気が楽だから。

 すぐに出掛けると言っていたので仁美は油断していた。オフィスに入ってきた樹に気づかなかった。
「佐藤さん」
 呼ばれてハッとした。
「はいっ」
 慌てて立ち上がった。
「これ、ワードで清書しといて。それから、これは表にして欲しい」
 仁美は手渡された原稿に捲りながら目を通した。
「はい、承りました。何時までに仕上げればよろしいでしょうか」
「なるべく早く」
「分かりました。お戻りになった時にお渡しできるようにします」
「急で悪いけど」
「いえ、大丈夫です」
 “クールビューティ”。
 仁美が初めて樹と会った第一印象はそれだった。冷たい印象を与えがちな樹だったが、眼鏡の奥の目は時々、ごくたまにだが優しく緩むことを仁美は知っていた。ふとそんなことを思い出し樹の顔をじっと見つめていた。
「佐藤さん、どうかしましたか?」
 樹の声で我に返り慌てた。
「すいません。何でもありません」
 恥ずかしさもあって頭に血が上っていくのが仁美にも分かった。
 どうしよう。絶対顔は真っ赤だ。
 仁美が俯くと樹の目は笑っていた。だが仁美は気づくはずもなかった。
「じゃあ、頼んだよ」
 樹が廊下に出て行ったので仁美は慌てて廊下に出て言った。
「行ってらっしゃいませ」
 深々と頭を下げた。エレベータに乗り込むまでそのままの姿勢で見送った。

 二人が出かけると辺りは静寂に包まれた。仁美は深い息を吐くとオフィスのPCに向かった。没頭できる仕事は好きだった。考える暇は欲しくなかった。細部まで見直しを三回して、ようやくほっと一息ついた。時計を見ると十一時になるところだった。
 今朝は時間がなかったせいでお弁当を作ってこなかった。今なら空いてるし売店で何か買ってこようかな。
 仁美はエレベータで降りた。優柔不断な仁美だったが、今は悩んでいる時間はなかった。好きな卵サンドとクリームパンを手にレジに向かった。そして急いで二十七階のオフィスに戻った。

 給湯室でお茶を淹れる。仁美がここに来て目覚めた趣味みたいなものだった。どうせ淹れるんだったら、誰よりも美味しく淹れようと思った仁美は、カルチャーセンターで講習まで受けた。常にコーヒーも紅茶も緑茶も数種類置くようにした。初めは驚いた顔をしていた樹も、仁美が淹れる飲み物を楽しんでいる節もあった。和紀でさえ時折顔が上手いと言っていた。口に出すことはないので、仁美は気づいても気づかぬ振りをした。
「疲れてるからカモミールにしようかな」
 カップを手に席に戻った。
「ついでにお昼食べちゃおう」
 あっという間に食べ終わってしまった。
 社長の直通電話を取ることはないが、それ以外は仁美のところに掛かってくる。事実上の電話番だった。
『電話番は休憩に当たらないので仕事時間とみなされます。その場合は後で休憩をとるか早く帰ってください』
と和紀に言われたことを思い出した。
 そう言われても帰れるわけいかないけど。
 毎日のことだが、空いた時間をどう消化するのかが課題だった。書類の整理とか部屋の整理とか、やれると思われることは、何度もやったことだった。
 もっと引き伸ばして、チンタラやればよかったかな。
 いつも仁美が思うことだった。

 午後一時少し前に樹が戻ってきた。帰ってくるなり和紀は仁美に告げた。
「一時から会議があります。全部で二十人です。ああ、リストは要りますか」
「え」
 仁美は頭がクラクラするのを感じた。
「はい、ください」
 もっと早く教えてくれたっていいのに。
 仁美は知らず知らずのうちに唇を噛んでいた。
「西山さん、朝にはリストは作ってあったよね」
 樹は和紀を一瞥した。
「ありました。それが何か」
「もっと早く渡してやってもいいんじゃないか。これでは虐めだ」
「この会議は秘密裏ですから、なるべく見せたくありません」
 樹はいつになく強い口調で言った。
「彼女はウチの会社の社員で、名目上であろうと僕の秘書だ。スケジュールを知っていて当然だ。今後はこのようなことのないように、前日には知らせておくんだ。いいね」
 和紀は不承不承だが承諾した。
「分かりました」
 和紀はリストを寄越した。仁美は引っ手繰るようにして受け取ると隣の会議室へ急いだ。

 各席にペットボトル入りのミネラルフォータとグラスを置く。それだけで一時になってしまった。慌てて会議室を出た。リストを見てお茶の準備をする。
 この人はコーヒー、この人は……。
 仁美の頭はいっぱいいっぱいだった。

 全員が揃ったところで、銘々に好きな席に座った。好きな席というには語弊があるが、権力順といおうか探り合って席が決まるようだった。
 これが問題。
 初めから席が決まっていれば、お茶を持っていくのは容易いのだが、決まるのは始まる少し前。なので実質、会議が始まってからでないとお茶を配れないのだった。
 何度しても緊張する。
 会議が始まってから静かにお茶を持って入る。この時はノックはしない。邪魔をしないように気を配りながら、お偉いさんの左側からお茶を置く。たまに、
「ありがとう」
と言ってくれる人もいるのだが、仁美は頭を下げるのが精一杯だった。
 樹のところにコーヒーを置くと、
「朝、頼んだのは出来てる?」
と小声で言った。
「あ。すいません。お渡しするのを忘れてました」
大きくなりそうな声を仁美はこらえた。
「出来てればいい。休憩時間にもらえるかな」
「はい」
 全員に配り終えると、ドアの前で一礼してから退出した。
「失敗しちゃった」
 落ち込みそうになるとき仁美は独り言をよく言った。

 後は休憩時間の間にカップを回収して、もう一度同じように配るだけだった。給湯室の使ったのものを全部片付けて何もない状態にした。

 朝の夢のせいか気持ちがざわついていた。休憩の時間に入ったのに気が付くのも遅れた。
「いけない」
 樹に渡すためのものは、クリアファイルに入れてあった。それを掴むと樹を探した。樹はすぐに見つかったが談話中だった。真剣な表情と声を抑えた様子から、近づかない方がいいと仁美は思った。
「先に、片付けよう」
 会議室に入りカップを回収して回った。ミネラルウォータの補充をすると休憩時間は終わりそうだった。仁美は慌てた。
 どうしよう。また渡せない?
 気が急いて誰かとぶつかってしまった。トレイの上の空のペットボトルが転がった。
「申し訳ございません」
 見上げると樹だった。
「書類。今、持ってきます」
 ペットボトルを拾い上げてトレイに乗せたが、軽すぎるためかまた転がった。
「あ」
 樹は転がったペットボトルを拾い上げて言った。
「慌てなくていい。落ち着ついて」
「すいません」
「それを置いてきてからでいい」
「でも」
「部屋に戻っている」
 樹はそう言って歩き出した。

 仁美は深い溜息を吐いた。それから頭を振ってペットボトルを回収箱に入れた。仁美は席に戻って机の鍵を開け、中からクリアファイルを取り出しまた鍵を閉めた。足早に社長室に向かった。
 社長室のドアをノックする。
「どうぞ」
 返事を待ってからドアを開けた。
「失礼します」
 珍しく和紀はいなかった。クリアファイルを手に樹に歩み寄る仁美を樹はじっと見ていた。
「すいません。遅くなってしまいました」
 クリアファイルを差し出した。樹は差し出されたクリアファイルではなく仁美の腕を掴んだ。
「あ、あの」
 仁美がうろたえていると、樹のもう片方の手が仁美の顔に伸びてきた。仁美は反射的に目を閉じた。
「目も悪くないのに、なぜ眼鏡なんかするの?」
 樹はスルリと仁美の眼鏡を奪っていた。仁美は樹の言葉に目を見開いた。
「どうして、分かったんですか?」
「僕は目が悪いんでね。目が悪いやつには度付きかそうでないか、すぐ分かる」
 樹は微動だにしない仁美の前髪を指ですくった。
 色白の顔で潤んだ黒い瞳は目を引く――と樹は思った。
 樹は手を外すと両手で眼鏡を持ち仁美の顔に掛け直した。
「なるほどね。誰かの入れ知恵か」
「眼鏡、しない方が、いいのでしょうか」
 仁美が困ったような顔をしていた。
「いや、そのまましてればいい。ところで、誰が言ったの? 眼鏡をしろって」
「兄です」
 仁美の答えに樹は納得したような顔をした。
「いつ、なんて言って?」
「――高校に入るときに……行き帰りは眼鏡を掛けろって」
「いい、兄さんだな」
 樹の言葉に仁美の目から一筋の涙が流れた。
「佐藤さん?」
「す、すいません」
 仁美は深く頭を下げると、逃げるように社長室を出て化粧室に駆け込んだ。
「泣いちゃだめ。ダメなんだから……」
 そう言い聞かせても簡単に止まるわけはなかった。それでもギュッと唇を噛んで涙を拭うと、化粧室を後にして給湯室に向かった。カチャカチャと音をさせながらカップを洗った。

 二時間前と同じようにお茶の準備をする。この会社の変わっているところなのだが、会議中に三時のおやつを出す習慣がある。経費削減の叫ばれる中でもなくならなかったは不思議だった。冷蔵庫を開けると厳重にパックされた箱が入っていた。
「今日は何かな?」
 誰が用意しているのか知らないが、それなりに楽しみではあった。
「あ、なるほど」
 季節に合わせて水饅頭だった。涼しげな青と緑。
「じゃあ、今日は緑茶だね」
 湯飲みを人数分出して、湯を冷ますのを兼ねて温めておく。その間に水饅頭をお皿に盛って楊枝を添える。キャスター付きのカートに乗せた。
 それからお茶を淹れる。味が均等になるように何回かに分けて淹れるとそれもカートに乗せた。
 静かに部屋に入り二時間前と同じように配ってゆく。その間、仁美は樹の視線を感じていた。樹も前に置いたとき、何も言わなかった。仁美は無意識にホッと息を吐いた。隣で和紀が怪訝そうに見ていたので、仁美は下を向いたまま、視線を避けるようにして部屋を後にした。

 今日何度目かの給湯室の片付けをした。自分用にお茶を淹れて、オフィスに戻ると、窓際に腰掛けて外を眺めた。
 「今日もようやく終わりが見えてきた」

 思いのほか会議が終わるのは早かった。皆が部屋を出るのを待ってからワゴンを押して行った。
「佐藤さん」
 仁美が振り返ると、優しそうな微笑みを浮かべた埜口(のぐち)が立っていた。
「お疲れ様です。埜口専務」
「本当に疲れたよ。まあ、月一の定例会議だから仕方ないがね」
「そうですか」
「ところで、先月イタリアの息子夫婦を訪ねたんだ。孫にも会ってね」
「皆様お元気でしたか?」
「ああ、変わりなかったよ。それで、いつも佐藤さんには美味しいコーヒー煎れて貰っているから、お礼にね」
 小さな包みを仁美に差し出した。
「私にですか?」
「家内と選んだから、悪くないと思うよ」
「ありがとうございます。開けてもいいですか?」
「もちろん」
 仁美が包装紙を解き箱を開けると、ピアスが入っていた。
「キレイですね」
「ガラス細工らしいが、手が込んでいるだろう」
「頂いてよろしいのですか? お嬢さんとか」
「うちは男ばっかりでね、こう言うモノを選ぶのが夢だったんだ」
「息子さんの奥様とか。喜ばれますよ?」
「佐藤さんにと選んだんだから、素直に貰ってくれると嬉しいんだが」
「ありがとうございます。奥様にもお礼を伝えください」
「ああ、もちろん。良かったよ。喜んでもらえて。じゃあ、また来週木曜日にここで会議だから」
「木曜日ですか。お待ちしております」
 仁美が頭を下げると埜口は手を上げて帰って行った。カップや皿やらをカートに乗せて給湯室に運ぶと片っ端から洗った。ゴミを分別して全ての片付けが終わると既に定時は過ぎていた。

 樹に断ってから退社するのが常だった。社長室のドアをノックした。
「どうぞ」
 返事を待ってからドアを開けた。
「失礼します」
 樹だけでなく和紀もいた。和紀は仁美に近づいてくると数枚の紙を手渡した。
「明日のスケジュールです」
 仁美は渡された紙に視線を落としてから、信じられないっという風に和紀を見上げた。「これからは前日に渡すようにします」
「助かります」
「ところで埜口専務から何を頂いたのです?」
「え」
 仁美は驚いた。
 見ていたのか。
 返事をしない仁美に和紀は吐き捨てるように言った。
「断るべきじゃないですか」
「父から貰ったようで嬉しかった。いけませんか?」
 仁美がいつもより強い口調で言い返すと和紀は驚いた顔をした。
「辞退すべきです」
「今度からは……そう……します」
 樹は仁美の声のトーンが変わったことに気がついた。仁美の顔は悲しそうに歪んでいた。
「お先に失礼します」
 仁美は樹に一礼して部屋を後にした。

「父から貰ったようで嬉しかった?」
 和紀は仁美が言った言葉を反芻した。眉間いにシワをよせながら、PCの前に座るとキーボードを叩いた。人事部のデータベースから仁美の個人情報を呼び出した。画面に映った文字をみて和紀は声を上げた。
「あ」
「何?」
 樹が覗き込むと四年前の日付『両親、長兄交通事故で死去』と記載されていた。
「それでか」
 二年前、樹は総務部長に呼び止められたことを思い出した。
『私が意見をいうのは差し出がましいと思いますが、個人としてお願いしたいのです。佐藤さん以外の人に代えられませんか。やっと落ち着きを取り戻してきました。他の方では駄目でしょうか』

「このことだったんだな」
 樹は上着を掴むとドアに向かった。
「樹、何処へ行く?」
「会社で樹って呼ぶな」
「悪い。おい、樹」

 仁美は歩くのは早くなかったが今日は特に遅かった。ノロノロと駅まで歩き、普段と反対のホームに降りていった。そのお陰で樹は難なく仁美に追いついた。樹はいつ声を掛けようか窺いながら隣のドアから乗り込んだ。仁美は周囲をまったく見ていなかった。ある駅で仁美は電車を降りた。慌てて樹は仁美の後を追った。仁美は改札を抜けて地上に出ると商店街を歩いた。そして幾つ目かの角を曲がると『Blue』と書かれた喫茶店かカフェバーのような店に入っていった。ドアの札は『CLOSED』となっていた。

「すいません。まだ、準――仁美ちゃんか。久しぶり」
 松永 俊一(まつなが しゅんいち)は手招きした。
「ごめんなさい。まだ準備中だよね」
「気にしなくていいよ。どうしたの?」
「俊くん、あのね。家に一緒に行ってくれないかな」
「愛美(あみ)に頼めば?」
 仁美は頭を振った。俊一が言うだろうとは予測していた。山村 愛美(やまむら あみ)は仁美の兄、涼(りょう)の彼女だった。突然の訃報に何もできなかった仁美を助けてくれたのは愛美だった。仁美は落ち着きを取り戻した時に思った。
 愛美ちゃんだって辛かったはずなのに。私が……。
「愛美ちゃんには頼めない」
「愛美は大丈夫だよ」
 うん、知ってるよ。愛美ちゃんが俊くんと付き合うようになったこと。
「お願い、俊くん」
「いいけど、俺、どんなに早くても午後二時過ぎだよ。それでもいい?」
 仁美は頷いた。
「で、命日か?」
 仁美はまた頷いた。
「分かった。せっかく来たんだ。夕飯まだだろう? 作ってやるから食べていきなよ」
「ありがと」
 ドアが開いた。
「すいません。まだ準備中なんですけど」
 入って来た人物の視線は仁美に向いていた。俊一は聞いた。
「仁美ちゃん、知り合い?」
「え?」
 仁美が顔を上げて振り返ると樹がいた。
「社長?」
 仁美は驚いて立ち上がった。俊一は呟いた。
「社長? 酔いよいのジジイを想像してたんだが、こんな若いのか」

「どうかされたんですか?」
「少し話しがしたいんだが」
「話しですか」
 仁美は戸惑いを隠せなかった。
「仁美ちゃん入ってもらったら? カウンターだったら、いいよ。どうぞ」
 どうぞは樹に向かって言った。樹は俊一に頭を下げた。
「すいません」
「別に構いません。俺は仁美ちゃんの兄の友人で松永と言います」
 樹は納得したような顔で
「黒川です」
とだけ告げた。

「さっきはすまなかった。上司の僕が知らなかったでは済まされる事ではないが。申し訳ない」
 深々と頭を下げる樹に仁美は驚いた。
「あの、別に気にしてませんから頭を上げてください」
「傷つけただろう?」
「いえ、朝夢を見たせいで、それでちょっと弱気になってしまってたんで、気になさらないでください」
「夢?」
 仁美は樹の様子に戸惑いながらも、樹と話すのは苦じゃないと思った。
「ええ、六月は夢見が悪くて」
 仁美は恥ずかしそうに下を向いた。
「そう。悪かった。許して欲しい。それだけ言いたかった」
 樹は立ち上がるとドアを開けて出ていた。その後を追って仁美は外に出た。
「社長。あの……」
 呼び止めると樹は仁美が歩み寄ってくるのを待っていた。
「なに?」
 樹の砕けた問いが返ってきた。
「自分が弱いって思いたくなんです。だから知らないでくれるなら、それでいいと思ってました」
「僕は上司だから。知らないでは済まされないんだよ」
「ごめんなさい」
「なんで佐藤さんが謝る必要がある?」
「言わなかったのは私、ですよ?」
「過去のことを言う必要はない」
「そうですけど」
 仁美の今にも泣き出しそうな顔をみて樹は微笑んだ。
「じゃあ、また明日。お疲れ様」
「お疲れ様でした」
 仁美は頭を下げて樹を見送った。

 溜息を吐いて店に戻ると俊一が言った。
「あんまり若いから驚いたよ。仁美ちゃん、一言もそんなこと言ってなかったよな」
「そう? 言わなかったかな。親会社からの出向なんだ。そういうのって一般の社員には関係ないし」
「そうかもな。でも普通に筋の通った人に見えたけど?」
「うん、悪い人じゃないよ」
 俊一は話しながらオムライスを作っていた。
「はい、オムライス。仁美ちゃんの大好物」
「わぁ、ありがとう。嬉しい。いただきます」
 差し出されたスプーンを手に、一口頬ばった。
「美味しいっ。やっぱり俊くんのオムライスは一番だね」
 ハートマークでもつきそうな仁美の言葉に俊一は苦笑した。俊一はサラダと、生のオレンジジュースを仁美の前の置いた。
「それも食べなよ。しっかし、仁美ちゃんは、ほんと変わんないよな。いい加減、子供じゃないんだから、オムライスでそのセリフはないんじゃないか?」
 俊一は窓辺に置いた『CLOSED』の札を裏返して『OPENED』に変えた。
「いいじゃない。好きなものは好きなんだし。それに変わりたくない」
「仁美ちゃん、変えなくてもいいものもあるけど、変わんなきゃいけないものもある」
 俊一の言いたいことは仁美にもよく分かっていた。
「そうだね。そう思うよ。できるか、できないかは別として」
 仁美は黙々と口に運んだ。完食すると「ごちそうさま」と言った。
「じゃあ、俊くんお願いね」
「ああ」
 仁美が財布を出すと俊一は言った。
「仁美ちゃんから金とろうなんて思ってないよ」
 俊一は仁美の眼鏡に手をかけた。
「そろそろ、これも止めないか? いくら涼の言ったことだとしても、仁美ちゃんも恋愛しないと」
「恋愛?」
「そう。避けてちゃ巡り会えないよ」
「いいよ、そういうのは。要らない」
 仁美は俊一を避けるように顔を背けた。
「またね。俊くん。ごちそうさま」
「ああ。
 ――なあ、涼、やっぱり過保護だったんじゃないか?」
 俊一は独り言を呟いていた。

《続》


表紙 / 次項
作者 / 音和 奏