Jの帰還




 ――眼鏡だけが残った。

 そう告げたのは一月前に弟子の一人を伴ってローナ峡谷へ出かけた男だった。アカガネとも懇意であり、初めて一人で仕事をする弟子にとっても心強かったことだろう。だが今、アカガネの前に立っているのは彼だけである。弟子は居ない。
 彼の言うところによれば、弟子のジェイはきちんと仕事をこなしたという。古い橋を掛けなおすために行う解体作業。その時に周辺地域へ被害が及ばないように張った障壁はとても頑丈で、ジェイはほんのわずかな塵でさえ漏らさない丁寧な仕事ぶりを見せたらしい。それは師として誇らしいことだ。だが、それなのに弟子の姿が見当たらない。
 ひどく哀しい。そして、ひどく口惜しい。
 どうして仕事はきっちりこなしたのに、此処に居ないのか。どうして一月も経って眼鏡だけで帰ってきたのか。
 帰路の崖で足を滑らせたという弟子の間の抜け方にどうしようもなく口惜しくなる。最後の最後で詰めがあまい。おかげでとっくに一人前の力は持っているくせに、なかなか一人で仕事を任せられなかった。
 今回の仕事はそれだけに賭けていたのだ。少なくともアカガネはそうだった。独り立ち出来ない、心配でかわいい弟子に課した、やさしい第一歩。それがまさか弟子の命を奪うことになるなんて、思ってやしなかった。誰も、……思いやしなかった。
 アカガネは涙をみせなかった。その代わり彼女の傍でジェイの帰宅を待ち望んでいたもう一人の弟子が泣いた。はらはらと止め処なく涙を零して、アカガネの肩を抱いた。
「師匠、あたし、こんなの哀しいです」
 ふるふると頭を振るセンの頬をアカガネはやさしく拭う。姉弟子にあたるセンも哀しんでいるのだ。
「セン……」
「あたし、だってまたジェイと師匠と三人でお茶が出来るって楽しみにしてたんですよ。それなのにこんな姿で帰ってくるなんて、哀しすぎます」
 こんな姿で、とセンは卓の上に置かれた眼鏡を指差した。太い線で囲われたような丸眼鏡はジェイがまるでこの場にいるかのように思わせる。
 いつでも真面目で、だけどどこか詰めがあまくて、憎めない愛しい弟子。センの淹れた紅茶を飲むと大きな黒い瞳をまん丸に開いて、次いで微笑した。その顔がすぐに思い浮かんで、アカガネは眉尻を下げた。
「哀しいが、受け入れなくては」
「師匠ぉ……」
 センの目から滴が溢れていく。
「セン、一週間のはずが、どうしてこんなに報告が遅れたんだと思う? ジェイが落ちた付近をずっと皆は捜してくれていたんだ。その気持ちに感謝をしなくてはいけない」
 嗚咽を漏らしながら、センは小刻みに頭を振った。わかっています、と切れ切れに声が届いた。だが頭でわかっても、心では割り切れるものではない。そんな、簡単に、気持ちは割り切れない。アカガネだとて、どうしてどうしてと駄々っ子のように誰かに問い質したい想いが渦巻いている。
「セン」
 弟子の髪を撫でながらアカガネが名を呼ぶ。
「お茶を淹れて頂戴」
 そっと顔をあげたセンの目は既に腫れて、赤くなっている。どうして今、お茶なんてと言いたげなセンにアカガネは胸が痛む。
「わたしとセンと、ジェイの三人分のお茶。淹れて頂戴」
「……はい」
 痛みを堪える顔で、センは小さく呟いた。


 卓の上に並べられるのは三つのカップ。
 アカガネの前に一つ。センが自分の前に一つ。そして、卓上の畳まれた眼鏡の前に、一つ。
「飲みましょう、セン」
「……はい」
 毎日、おやつ時にはこうやって三人でお菓子を添えて紅茶を飲むのが日課だった。
 ジェイはいつもこの時間になると丸眼鏡の汚れを綺麗に拭きとって、行儀よく椅子に座っていた。そしてセンの笑顔と、アカガネの飲みましょうという掛け声を待っていた。
「ジェイの仕事ぶりを聞いたよ」
 センは俯いてカップに口を付けた。
「丁寧な仕事ぶりだったと褒めていた」
「ジェイは……いつも真面目に練習に取り組んでたもの」
「そうだね」
 ジェイは要領がよいわけではなかったが、それを凌ぐ努力を重ねていた。そのことをアカガネもセンもよく知っていた。
 魔法使いになりたいと言ってアカガネの家の戸を叩いたジェイは、まだ幼かった。大人に手を引かれ、不安そうに周囲を見回していた。上目遣いにアカガネを窺い、そして微笑んだ。
 その笑い顔を見た時からアカガネと、そして先に彼女の弟子になっていたセンは心をがっちり掴まれていた。
「師匠、やっぱり間違いだったんだわ。まだジェイには早かった。やっぱりあたしが行けばよかった」
 仕事の依頼は初め、アカガネかセンにあった。しかしそう難しい仕事ではないこと、ジェイも独り立ち出来る力を身につけていること、なによりジェイが願ったことで実現した。
「了承したのはセンもだよ。今更悔いても意味のないことだ」
「それでも、あたしは……哀しいです」
 カップを置くセン。カチャッと小さな音が大きく響く。
「うん……」
 アカガネだって哀しい。そして口惜しい。
 歯の奥がうずく。暗がりで突然道を失ったような気分だ。アカガネは大きな溜息を吐いた。
「ちわーっす」
 そこへ大きな声が飛び込んできて、アカガネもセンも思わず肩を震わせた。
「二人ともどうしたんだ? なんか暗いねえ」
「……郵便屋。びっくりさせないで欲しいな」
「まーた郵便屋って言ってる。俺のことは名前で呼んでくれよ、アカガネ」
 突如現れた郵便屋にアカガネは眉を顰めるが、彼は気にした様子もない。センもさすがに眉を寄せていた。だが郵便屋は二人の様子など気にした風もなく、仕事を進めようとする。
「それより郵便だよ。仕事の依頼も来てるみたいだぜ。これとこれと、それとこれ。暫く見ないと思ったらジェイの奴は旅に出てたんだな」
「へ?」
 郵便屋がアカガネに手紙を押し付ける。
「へ、じゃない。俺に教えてくれてもよかったじゃないか。ほら、三つ先の町から手紙が来てるぞ」
 押し付けた郵便の一つを指し示す郵便屋に、アカガネとセンは顔を見合わせ、次いでその封を乱暴に破った。
「師匠、何っ、何が書いてあるの?」
「ま、待ちなさい。えっと……」
「はえ? 何か俺地雷踏んだ?」
 事を理解していない郵便屋を無視してアカガネは郵便の内容を検める。
 手紙を読み進め、アカガネは目頭が熱くなる。不覚にも涙が零れ落ちそうになった。顔には自然と喜色が浮かぶ。そしてセンに微笑んだ。
「セン、セン、セン……!」
 それだけでセンにもわかった。郵便があったということ、そして師が微笑んでいる事実。アカガネがセンの手を取ると、センも今にも泣き出しそうな顔になった。
「師匠、生きているんですね。ジェイはやっぱり生きているんですね。嘘じゃないんですよね」
「ああ、怪我をして人の世話になっていたらしい。こちらに向かっていると書いてある」
「えっと、どういうこと?」
 アカガネとセンが郵便屋に満面の笑みを浮かべた。
「帰って来るんだよ、郵便屋!」
「そうですよ。嬉しい、本当に……よかったぁ」
 手を上へ下へと振り喜びを表現する二人に郵便屋はまだ理解が出来ずに訊ねようと口を開く。

 ――ぁ!

 が、その質問はかすかに響く声に阻まれた。
「なんだよ、一体……ん、この声もしかして」
 センが真っ先に立ち上がる。続いてアカガネも駆け出した弟子の背中を追う。最後に未だ理解の追いついていない郵便屋もその後につられて駆ける。

 ――……ょうさまぁ! セーン! ただいま戻りましたぁ!

 こだまする声は明るく、それに呼応するように別の声が空気を賑わわせる。少し前まではなかったものがそこにはあった。暗く陰鬱な空気はもうどこにも見当たらない。その代わり爽やかな風が吹いている。
 そして再び、眼鏡だけが残された。

《了》


前項
作者 / 恵陽