クロブチの眼鏡




 眼鏡、なのである。
 それも黒縁の。
 黒縁の眼鏡をかけているかどうかで、我々は人間と仲間とを見分けている。
 ある意味“クロブチ”の眼鏡は我々のトレードマークのようなものだった。
 当然のことながら私も今、その眼鏡をかけ人間に姿を変えている。見た目は40代後半、ただの会社員風の男性だ。人間社会の中で目立たないように行動するために、我々は、たびたびこうして姿を変えて活動をしていた。
 今夜は満月の夜だった。
 私は、寺へと続く長い階段の下で、仲間たちが戻ってくるのを待っている。
 「切り通し」と呼ばれる峠道の途中である。ここには、車の行き来もさほどない。何もせずに待つのは、もどかしい気分だった。私はたまに通りかかる車のテールランプを目で追いかけては、嘆息していた。
 あの車というやつは、乗って移動するには便利だが、歩行者には凶器となる。今、我々が探している人物──彼がどこかで事故に逢うなどしてなければよいのだが。
 私は腕時計に目を落とした。21時半だ。遅い。
「兄貴!」
「ショウさん!」
 やがて3人の若者たちが戻ってきた。その中に、意中の人物がいないことに気づき、私は失望する。
「駄目だ。どこにも居ないよ」
「駅前も、小町通りも、段葛も、八幡宮の敷地内もみんな探したけど、見つからないよ」
「あとは由比ヶ浜を見に行ってる連中たちだけだ」
 街の主要な場所を口々に出す彼らを前に、私はしばし黙した。
 我々の住まうこの鎌倉と言う名前の街は、四方を山と海に囲まれている場所だ。古来から天然の要塞として活用されており、外と中とを行き来できる道も限られている。
 この街の中から我々の目をかいくぐって外に出るのは容易なことではない。高齢となった彼の足なら尚更だ。
 これだけ探しても居ないとなると、可能性はかなり限定されてくる。我々が察知できない車や電車などの交通手段を使って街の外へ出たか、もしくは──。
「──事故は?」
 尋ねると、言葉の意味を悟ったのだろう。一瞬、彼らは顔を見合わせ、一斉に首を横に振った。
 私はさらに思案する。
 とすると、彼は徒歩ではなく電車や車を使って他の街へ行ったのだろうか。観光地である鎌倉にはタクシーも多い。捕まえるのは簡単だ。
 しかし今の彼に持ち合わせはないはずだ。彼の奥方も、そう話していた。彼は、着の身着のままで、自分の寺から姿を消したのだ。
 数十分前の話だ。
 奥方は動転した様子で、駆けつけた警察官に詰め寄っていた。──夫は健康でピンピンしてるんですけど、認知症で、一人で家に戻れないんです、早く探して連れ戻してください、と。
 現金を持たない老人が、どうやって一人で街の外へ……?
 私は、様々な可能性を考え──ふと、あることを思い出した。
「そうだ!」
 声をあげると、私の指示を待っていた三人が一斉に姿勢を正した。私は彼らの中から一番年若い、ゴロウに目を留める。
「ゴロウ、今から住職の家に行って納屋にカブがあるかどうか見てこい」
「カブ?」
「二輪バイクのことだ」
「分かりました!」
 ぱっ、とゴロウは身を翻して走り出した。階段を一足飛びに上がっていくが、途中で四つ足の方が早いと判断したのだろう。本来の姿に戻り、そのまま駆け上がり姿を消した。
 誰かに見られるかもしれないものを──。まあ今夜は緊急事態だ。大目に見てやることにしよう。
 私は私で、手近な木から葉を三枚ちぎり、道を行く車の中からタクシーを探し始める。
「お前たちはここに残れ。私が住職を連れてここに戻る」
 残った二人に言いつけていると、すぐだった。
 階段の上にゴロウが顔を出す。彼が前足でバツの形を作ってみせるのを見て。私はうなづき、タクシーを止めるために車道へ乗りだし手を上げた。
 運良くすぐに現れ、止まったタクシーに私は素早く乗り込んだ。
「──江ノ島に向かってくれ」
 今夜は月夜の晩。住職が向かったのは──たぶん、あの思い出の場所だ。


 江ノ島は古くから景勝地とされてきた場所で、海岸から少し海に突き出すようにある緑の小さな島だ。鎌倉からは車で二十分。長い橋が渡されていて、それを通して陸と地続きになっている。
 しかし私がタクシーで来ることができたのは、その橋の袂までだった。夜22時になると橋は閉鎖され島に行くことは出来なくなるのだ。
 ただし、それは通常の一般人の話だ。
 私は難なく橋を越え島に上陸し、迷うことなく、ある場所に向かった。──月がもっともよく見える砂浜で、陸地からは陰になって見えない場所だ。
 やはり。
 道路脇に停められた古いバイク。そして砂浜に、ぽつんと独りで座る彼の姿を見つけ、私は安堵のあまり、ふうと息をついた。

「和尚さん」

 声を掛けると、ひょいと彼は私を振り返った。月明かりの下で、彼は私の姿がよく見えないのか、いぶかしげに眉を寄せる。
「私です。探しましたよ」
「──おお! お前、正太か!」
 私は微笑み、大きくうなづいた。今や、奥方のことさえ誰だか分からなくなるという彼だが、私のことは分かるのだ。
 嬉しそうに、住職は手を上げて私を手招いた。
「そんな格好してるから誰かと思ったぞ」
「貴方を探すのに、都合がいいからです。この姿でならタクシーに乗れますから」
 彼の隣りに、ゆっくりと腰をおろす。
 住職は作務衣しか着ていなかったが、寒そうには見えなかった。彼は大柄で、昔から健康だけが取り柄だと自分でも言っていた。秋の夜風は冷たかったが、彼はそれをほとんど気にした様子もなかった。
「タクシーって、お前、金はどうしたんだ」
「葉っぱですよ」
「古風だなあ」
 私の言葉に苦笑いする住職。
「ここにいると思いましたよ」
 うん、と住職は一つうなづいて目の前の海と空を見つめた。
 辺りは暗かったが、頭上には真円の月が明るく輝き、私たち二人をはっきりと浮かび上がらせていた。砂浜には陰さえ出来ている。
 何度も遊びにきた場所だ。それも夜に。ふと私は昔のことを思い出し、住職に話しかけていた。 
「よく、みんなでここに遊びにきましたよね。貴方の車に乗り込んで」
覚えているだろうか。ゆっくりと、私は住職の横顔を見る。「……一番身体の大きいクラだけが乗れなくて、仕方なしにサーフボードに化けて車の上に乗った」
「そうそう。それで、おれは、仕事もしないで遊んでばかりだなんて陰口叩かれたんだ」
 杞憂だった。彼はちゃんと覚えていた。嬉しそうに額を額を叩いてうなづくと、当然のように続ける。
「や、でも、どっちにしろお前ら誘って江ノ島来て遊んでんだから、何にも変わんねえな。クラのせいじゃねえや」
「ですね」
 私と住職は声を上げて笑った。
 彼の家族は彼を認知症だと言い、物忘れの激しい病気だと決めつけているが、私に言わせればそれは違う。
 彼は、ただ昔に戻っていっているだけだ。
「お巡りさんに見つかりそうになった時は、焦ったよな」
「まさか、ここまで見回りにくるとは思わなかったんですよね」
「そうそう。あんまり急だったんで、人間に化けるのが間に合わない奴もいてさ。ズボンの裾から尻尾がはみ出してた」
「仕方なしに、私が警備員に化けてやり過ごした」
「お前は機転が利くよな」
「まあ、とっさでしたけども」
 ──我々との思い出を、こうしてちゃんと話してくれているではないか。
 彼と楽しかったころの話をしていたかった。ずっと。酒でも酌み交わしながら。だが、私には使命がある。鎌倉に、家に彼を連れて帰らねばならない。
 名残惜しかったが、私は心を決めた。
「和尚さん」
「ん?」
 と、私は彼の方に身体を向けて、じっと彼の目を見ながら言う。
「奥さんや、皆さんが心配してますよ。私と一緒に帰りましょう」
「帰る?」
 おだやかに提案すると、住職はきょとんとして目を瞬かせた。
「もう帰るのか? だって、お前、踊りにきたんじゃないのか」
「踊り?」
「おれらの結婚を、お前たちみんなで祝ってくれるんだろ? ここなら人目を気にしないで騒げるって──」
住職は言いかけ、小声で付け足した。「今日は練習だよな? おれ、木魚持ってくるの忘れちまってさ」
 私はすぐに返答することが出来なかった。
 ようやく気づいた。住職は私に「昔の話」ではなく「今の話」を聞かせてくれていたのだ。
 自分が若かった頃。それも数十年も前の──。
 だが、彼が覚えていても、一緒にいた奥方は、あの夜の饗宴のことをすでに忘れ去っている。──寺に来ていた獣たちが月夜の晩に、結婚を祝って踊ってくれるなんてことはあり得ない。あれは何かの夢だったと思いこんで。
 あの夜、一緒に踊った仲間たちにしてもそうだ。生き残っているのも、私とあと数名しか居ない。
 それほどの月日が過ぎているというのに。

「──ああ、そうでしたね」
 
 私はうなづき、そう答えていた。
「今日は練習の日です。すいません、私しか来ることができなくて」
「いいよ、いいよ気にすんな」
 住職は顔をくしゃくしゃにして笑った。久しぶりに見た、心からの笑顔だった。
「手拍子でいいよな」
「ええ」
 やはり、そうなのだ。
 私は踊るために立ち上がり、住職を見下ろしながら思った。
 彼は物事を忘れていっているのではない。ただ、昔へ。自分の若かった頃へと戻っていっているのだ。
 それを証拠に──この笑顔はどうだ。
 ここ数年、彼がこんなに微笑むことは無かった。若いときはあんなによく笑って、我々と遊んでくれたのに。いつしか、住職はほとんど笑わなくなり、そして我々とも話さなくなった。
 彼は──人は、たぶんこうやってまた無垢で純粋な存在に戻っていくのだ。
「正太?」
「すいません。つい、嬉しくて」
 声を掛けられ、私は苦笑した。拍子をとるのは住職、踊るのは私だ。
 ──こんな唄があるんだが、お前ら踊ったりできるのか? 最初にそう問いかけてきたのも確か住職の方だったな。
 私も少し、昔へ戻ろう。
 もちろん踊りは、まだ覚えている。
 浮かべていた笑みをそのままに、私はそっと黒縁の眼鏡を外した。


  しょ、しょ、しょうじょう寺 
  しょうじょう寺の庭は
  つ、つ、月夜だ
  みんな出て 来い来い来い
  おいらのともだちゃ
  ぽんぽこ ぽんの ぽん

《了》


表紙
作者 / 冬城 カナエ