視線フィルター




 ――強面の顔を更に顰めていた。

 桜庭の話である。彼は普段から愛想というものが欠けている。どこかに愛想を落としてしまったに違いない。普段からその愛想のなさが女の子たちには不人気で、恐れられている。何をしていなくても、傍に立たれ彼の黒々とした瞳で見られるだけで威圧を感じてしまうのだ。実際には天然ボケをかましてくれるような奴なのだが、それはなかなか他人に伝わらない。
 私にはそれが残念で、……少しだけ嬉しくもある。だが今、改善策としてせめて顔を顰める癖を何とかしようと思っている。
「ぅあいたっ!」
 目前の硝子に思い切り顔を衝突させる桜庭に器用な男だと思う。硝子にぶつけてますます彼の表情は険しくなる。そうしていると喧嘩を売っているか、いちゃもんをつけているかにしか見えない。けれど本当はそのどちらでもないことを私は知っている。
「桜庭、気に入ったのがあった?」
 傍に歩み寄ると桜庭が顔を上げた。その顔はどう見ても凄んでいるように見える。だが私にはもう見慣れたものだ。こんなことで一々びくついていては桜庭の友人とは言えない。
「いや。決めかねている」
「いくつか試しに掛けてみたらどうだ」
 首肯して桜庭は再び硝子の向こうに視線を巡らせた。
 顔を顰めるのは、視力が悪いからだ。目を眇めて物を見ようとしてしまう。しかもそれが長年の癖になっているから性質が悪い。それに前述した愛想のなさも相まって印象が悪い。最悪だ。
「久我山が選んでくれよ。そのために頼んだんだ」
 眼鏡を作ったらどうだ、と提案したのは私だった。その責任もあって、私は彼に付き合って眼鏡屋に足を運んでいる。責任などなくても、きっと桜庭は私を誘っただろうけれど。何しろ彼には友人といえる友人が私しか居ない。皆はどうも桜庭がただ其処にいるだけで恐縮してしまうらしい。こんな無害な男は他に居ないのに、――勿体無い。
 私なら、誘われたら即座に頷いてやるのに。
「この赤いフレームの眼鏡はどうかな」
 目に留まった眼鏡を掲げるとあからさまに桜庭の顔が歪んだ。お気に召さなかったようだ。
「かわいいし、印象が変わると思うんだけどな」
「かわいさは必要ない。派手なのは嫌だ」
 赤い縁の眼鏡は明るく活発な印象を与えてくれるというのに、桜庭はどうしても嫌らしい。近づけると睨まれた。真面目に選べ、と目が語っている。私としてはかなり真面目だ。
「じゃあ、無難に黒縁眼鏡? でもこれだと暗く見えないかな。凄み増しそう」
 赤縁の眼鏡の隣に黒縁の眼鏡が並べられていた。今度はなんなく桜庭の手へ渡った。数瞬、品定めするように目を眇め、そして鏡に向かって耳に掛ける。桜庭は首を捻り、そして私を振り返った。首は傾げられたままで。
「悪くはない。真面目そう」
「そうか」
 素直に印象を述べるとやや口許を緩めた。だが私は更に続ける。
「でも、やっぱり凄みが増す。眼光の鋭さが緩和された気がしないよ」
 桜庭は残念そうに黒縁眼鏡を外すと、私に返してきた。もしかして自分でもいいと思ったのかもしれない。だが、凄みが増したら意味がない。眼鏡を掛けることでやわらかく見えるのが目的なのだ。
「他は?」
「縁なしとかどう?」
 桜庭は素直に鏡に向かう。この男の無愛想を緩和するものなんてあるんだろうか。いっそのこと、星型とかハート型とか、派手な縞々模様の縁取りのものでも選んだらどうかとさえ思う。それくらい難しい注文なのだ。
「……やっぱり根本的に眼鏡じゃ解決しないのかな。その印象の悪さは」
「かもな」
 溜息を吐きつつ桜庭が縁なし眼鏡を元の場所に戻した。
 人の印象を変えるのはそう難しくないことだと思っていたが、桜庭に限っては容易にはすまないことのようだ。中身はともかく外側の印象だけなのだ。どうすればいいだろう。
 私はじっと桜庭を見つめた。
 顔はそこそこ整っていると思う。だから余計に目つきの鋭さが凄みを増し、恐いと思われる。眉間に皺を刻み、目を向けられたならそれは睨まれているのと同じに見える。だが、実際は見えないから、見ようと目を眇めているだけ。私はその目が――その目で見られるのが嫌いではない。底の窺えない黒い瞳に私が映るのが嫌いではなかった。
 そういえば、桜庭は私の顔がちゃんと見えているのだろうか。ふと疑問がわいた。
「桜庭、どのくらいまで近付けば私の顔もはっきり見えるんだ?」
 桜庭がつと、私に黒々とした瞳を向ける。その手には白縁の眼鏡を掴んでいた。
「はっきり……」
 桜庭は呟くと、私に顔を寄せる。
 初めは数歩の距離があった。だがどんどん遠慮なく近寄ってきて、私は思わず顔を逸らしたくなった。それなのに桜庭は似合わぬやさしい手つきで、私の頬を固定するとわずかに微笑んだ。
「このくらい」
 鼻が擦れてしまいそうだと考えた瞬間、全身から汗が噴出した。
「久我山? 顔が赤いが?」
「――っ! なんでもない!」
「だが」
「なんでもないって! ちょっと熱かっただけ」
 そのまま額をくっつけようとしている桜庭に気付き慌てて彼の胸板を押し返した。私の顔を固定していた手が離れると、即座に顔を背ける。
 ……全身が沸騰するかと思った。
「そうか。……久我山、この眼鏡はどうだ」
 そっと横目で窺うと、桜庭は先ほど手にしていた白縁の眼鏡をかけて私を見た。控えめな印象を与えるそれは、黒よりかは雰囲気をやわらげるのに適しているように見えた。私は息を整えると、桜庭に笑みを浮かべる。
「ああ。それは似合うね」
 桜庭は安堵するように頷いて、店員に声を掛けた。その様子を目で追いながら、私は静かに溜息を吐く。
 さっきの態度で気付かれなければいいと思った。いきなりだったものだから、心の準備も何も出来なかった。私は桜庭の友人なのだ。友人として見られないなどあってはいけない。そうでなくては傍になんていられない。
「久我山」
 会計を終えたらしい桜庭は、店員に一週間後に取りに来ますと頭を下げ、私の傍まで戻って来た。
「よかった。久我山に来てもらって」
「そう? 役に立ったなら私もよかった」
 とても自然な会話だ。さっきの出来事は桜庭の中では大した意味はないのだろう。
「けど、あれでよかったのか。まだ他にもあったし、見て回ればよかったのに」
「いいや。あれでよかったよ。久我山が似合うって言ってくれたじゃないか」
「ま、まあ、言ったけどね」
 何気ない言葉でもじんわり胸の奥が熱くなる。確かに似合ったが、もう少し見て回ればよかったのにと思う。他の眼鏡を掛けた姿も見てみたかった。
「ああ、でも本当久我山が勧めてくれてよかった」
 伸びをしながら、桜庭が並んで歩き出す。自動ドアが音を立てずに私たちの道を開いた。
「ああ、眼鏡があるの、いいね。一週間後が楽しみだ」
「そうだな」
 私も素直に頷く。
「――がよく見える」
「ん?」
 何か呟いたように思って見上げると桜庭はどうした、と言いたげに顔を顰めて首をもたげた。
「何か言ったか?」
「ああ、うん。言ったね」
 片眉が大きく跳ね上がり、そしてゆっくり微笑の形に表情が変化した。
「久我山の顔がよく見える」
 黒々とした瞳が真っ直ぐに私を射抜いていた。引いたはずの熱さが戻ってくる。

 ――ああ。頼むから、私を直視しないで欲しい。
 一刻も早く、眼鏡を彼にください。

《了》


前項
作者 / 恵陽