レンズ越しの視界




 あやこちゃまへ
 めがねは最悪です
 友達にへんだねぇって言われて、ワタシ、悲しくって……むかついたので、絶交してやろうと思います


 俺は後ろからその小さな丸い文字を見て苦笑いをしてしまった。これは眼鏡が必要になるはずだ。年配の婦人にあてるには、あまりにも優しさはないが、その内容は砂糖を降ったかのように甘ったるい文章に思わず噴出しそうになると、彼女が眼鏡から顔をあげて俺を睨んできた。何か悪態でもつくのだうかと俺ははらはらしたが、そうではない。
「あやちゃんは、眼鏡に苦戦しているようね」
「みたいですね」
「あの子、似合わないのよね。眼鏡」
 あなたほどに眼鏡が似合う女性がいたら、それこそお会いしてみたいと俺は言いかけてやめた。歯の浮くような言葉なんてあやさんには必要ないからだ。似合う人に、それが似合うなんて失礼な台詞だ。
 あやさんの眼鏡は少し、特殊だ。
 手で持つタイプなのだ。金色の一本の棒の先に小さな小さなレンズが二つ。そこを覗き込む。あやの手紙を読むときは、ファンシーな便箋を手に大切そうに持ち、背筋をぴんとして読む彼女は今年で還暦を迎えたとはさすがに誰も思わないだろう。女性に年齢の話をするのはタブーだ。
「あの子、人をうまく嫌いになれないみたい」
「心配ですか?」
「そりゃあ、孫だもの。わたくしの名前をもっているわけですしね」
 おやさんは実に優雅に眼鏡から顔をあげて俺に深い皺を刻んで微笑む。
 そんな顔が出来るのは今まで多く幸せだったという証だ。
「人を嫌いになるのって、けっこう難しいと思いますよ、俺は」
 彼女の座る年代ものの肘掛椅子の前に、小さな丸る椅子を引き寄せて俺は腰掛けると、先ほど淹れてもらった紅茶のカップに手を伸ばす。
 猫足のテーブル、落ち着いた色合いのソファ――まるでアナログな世界。
 あやさんは昔、イギリスのほうに留学したことがあるそうだ。そのとき、彼女はイギリスの雰囲気を大層気に入り、友人をいっぱい作った。そして、日本に戻る際は、気に入った家具を持ち帰り、所有する山のなかに洋館を建てて家具と共に暮らしている。彼女はあまり外に出ないが孤独というわけではない。車は運転するし、今でもイギリスの友人たちとは文通をしていて、年に一度はそちらへと顔を出す。ただ今の日本のようなデジタルが合わないのだという。そんな変わり者のあやこさんは夫が亡くなるとますます屋敷の中に引き込んでしまった。今では屋敷に訪れるのは俺とあやちゃんだけだ。
 あやちゃんいわく、ここは別世界。
 俺にしてみれば、癒し。
 この屋敷で最も古くて価値があるものは、たぶん、この女性だろう。そして、彼女は、その片手にある眼鏡だという。亡くなった夫がロンドンで探し出して結婚するときにプレゼントしてくれたのだそうだ。この眼鏡が似合う女性になってください――恐ろしく洒落のきいたプロポーズ。そのままあやこさんはこの金の眼鏡の似合う女性になった。
「シュウちゃんみたいな無感情な人間がこの世にごろごろしていると思わないでちょうだい」
「あやこさん、それはひどいですよ」
「何がひどいものですか。わたくしは、あなたに継いで欲しい仕事がありましたのに、あなたときたら、パソコンがいいからって、そっちのほうのお仕事をしてしまって」
「それは、まぁ、すいません」
「そのうえ、孫娘に手を出すなんて、不届きな」
「いや、もう、すいません」
 俺は頭をさげた。
 これで近くにステッキでもあれば頭を殴られかねない。
「まったく」
 幸いステッキは傍にはなかったので殴られはしなかった。
「人をね、嫌いになるなんて、とても簡単なことよ」
「あやこさんは嫌いな人います?」
「いっぱいね。けど、顔も見たくないほどに嫌いな人はまぁ少ないほうよ」
 あやこさんは肩を竦めて笑う。
「今の一番って旦那さんでしょう?」
「あたり。あんなやつ顔も見たくないわ……わたくしを置いていって」
 顔も見たくないほどに嫌いな人。
 それは、それだけ相手を愛している人がなれる特別なものなのだとあやこさんは俺に教えてくれた。
「わたくしの返事、持っていってね」
「はい……なんて書くんですか」
「そんな子とは絶交しなくてもいいんじゃないって」
「外見を言われたくらいだから?」
 俺の問いにあやこさんは軽く首を傾げてみせる。
「まぁね。わたくしも眼鏡を自分で必要とするまでは眼鏡かけてるの変だっなんて口にしたことあるのよ。ふふ……本当に好きなら、とことん嫌いになりなさいって言うけど。そうじゃないなら、別にいいでしょって返事するわ」
 それは絶交よりも残酷じゃないんだろうか。
 あやこさんは、とても残酷だ。
「俺、あなたの、顔も見たくないほどに嫌いなやつになりたいです」
「……ばかね」
 少しだけ目を見開いて、あやこさんは笑った。

 両親が相次いで死んで親戚の中で行き場をなくした俺を引き取って、愛人にしてくれたあやこさん。――いま思うと愛人っていうのは、あやこさんとしてのしゃれなんだろう。ただ引き取られるときに愛人なんて言われて俺としては唖然としたが。
 そのまま居ついて様々な掃除や洗濯をして楽しい日々だった。はじめは文句ばかり言う俺をあやこさんは困ったように見ていた。俺は可愛くない子供だったから。
 愛人なんてなんだって言うんだって思っていた。
俺の仕事とかそういう面倒も見てくれて。愛人というよりは息子のように接してくれた彼女に、俺は恋焦がれて、ここにいる。今ではすっかり、孫娘のいい恋人のシュウちゃん。一度たりとも、そういうものとして俺は見られたことがないわけだ。あやこさんが俺を傍に置いているのがなによりも証じゃない。

 レンズ越しにあなたを見て切実に思う

 俺は、あなたの顔も見たくないほどに嫌いな相手になりたい。

《了》


前項
作者 / カホリ