誰知る奴ぞ




 晩夏来る暑さもひかぬその外気 加わる熱気に我消沈


 などと頭の中に句が浮かぶのは、仕方のないことじゃないだろうか。
 夏休みが終わり、後期講座の為に学校へ出向けば嫌な事実を突き付けられた。手をつないで、照れくさそうに微笑んで、久我山さんが奴の名を嬉しそうに呼ぶのだ。それはもう幸せそうな顔で。対する奴は大して顔色も変えずに返している。
 少しは嬉しそうにすればいいのに眉間に縦皺を刻んでいる。眼鏡を掛けたから久我山さんにオーケーをもらったわけではないだろうが、口惜しさが募る。
 だって僕も眼鏡だもの。
 そうじゃなくたって、あんな無愛想な奴よりよほど社交的だし、交友関係も広い。もちろん久我山さんとだって親しく話すさ。だけど彼女はいつも奴を優先するんだ。口惜しいったらないよ。
 僕の方が奴より全然爽やかで、お洒落で、笑顔もとっても素敵なのに。何がそんなにいいんだか。僕にはまったく奴のよさがわからない。そもそも話しかけづらいから、さしもの僕だって奴には近付けない。じゃない、近付かない。あんな万年仏頂面男といて何が面白いのか、そこだけは久我山さんを理解出来ない。
 だけど理解できなくても久我山さんが僕にとって魅力的なのは間違いがないことだ。ピンと張った背筋、あの凛とした佇まい。今時、あんな大和撫子はそうそう見つからない。きっと着物が似合うだろう。浴衣を着た久我山さんと花火でも見れたら最高だ。想像だけで顔がにやにやと笑ってしまう。
 その為には奴は邪魔で仕方ないのだ。これまでは奴にそんな素振りが見えなかったし、久我山さんは哀れみで接しているのかと思っていた。それが違うというのなら、僕は何とかして奴に久我山さんを振ってもらわなくてはならない。そして傷心の彼女を僕がなぐさめるのだ。
 そう、久我山さんが奴の卑しさに気付いた時が僕のチャンスだ。
 ……チャンス、なのだがその為には僕も奴に近付かなくてはならない。正直、奴と話すのは苦手だ。目を向けられるだけで竦みそうになる。眼鏡を掛けたってあの眼光は緩和されるかよ。
 しかしまあ、これも僕が幸せに導かれる為のプロセスの一つと思えば頑張れる。……多分。


 そして僕の幸せ未来計画の第一歩を踏み出す日は早々にやって来た。同じ講義を取っていたらしく、午後一の講義で僕の斜め前に奴が座っていた。見た目の割に授業は真面目に受けるのが奴のスタンスらしい。
 僕は講義が終わるとノートを片付けている奴の背中に目を向ける。
「おい」
 我ながら情けない声が出た。裏返るとは自分でも予想しなかった。それだけ奴に対して苦手意識があるらしい。だが奴は不思議そうに首を巡らせて僕に視線を定めた。白フレームの眼鏡が一瞬別人のようにも思えたが、その奥に潜む鋭い眼光は紛れもなく奴だ。
 しかし奴は首を傾げてすぐに顔を戻そうとする。お前を呼んでいるんだよ!
「おい、桜庭」
 奴の視線が再び僕へ戻って来た。そしてまた首を傾げられる。
「お前だ、お前。眉間に皺を刻むな。訊きたいことがあるんだよ」
「何だ」
 奴の声は平坦で、その抑揚のなさが気持ち悪い。僕は怯まないように息を吸い込んでなるべく奴の目を見ないように問うた。
「久我山さんと付き合いはじめたって本当か?」
 唾を飲んだ音は僕と奴とどっちから発せられたんだろう。緊張しすぎてわからない。奴も何故か無言で、僕はじっと答えを待った。だが待てども待てども奴は眉間の皺が再び増えていくだけだ。だから皺をやめい!
「お……」
「本当だ」
 おい、と呼びかけようとしたら僕に奴の言葉がかぶさった。しかも本当だ、とのたまってくれやがった。
「本当だ。それが、何か悪いのか」
 わざわざ確認するように言った奴に、僕は顔を顰める。
 悪くはない。それを久我山さんが納得しているのなら悪いことはない。だが、すっごい不愉快だ。
「いつからだ」
 幾分ささくれだった気持ちで僕が突っ込むと、奴は変わらぬ仏頂面で答えやがる。
「……二週間くらい前?」
「なんで?」
「……なん、で?」
「なんでお前が久我山さんと付き合うんだよ! なんでだ? お前、が付き合おうって、好きだって言ったのか?」
 照れもせずに仏頂面で言われるのが腹立たしくて、僕の声がつい鋭くなる。すごく、すごく口惜しくなる。僕が惨めに思える。
「……言ったが、言ってない」
「はあ?」
 なんだそれは。言ったが言ってないって、どういうことだよ。
「付き合わないかとは言った」
「好きだって言ってないのか? お前、久我山さんと遊びで付き合うつもりなのか?」
 ふざけてるのか。僕の頭がカッとなる。さっきまで話しかけるのも恐いと思ったが、そんなこと今はもう微塵もない。あるのはただ奴への怒りだ。
「もし久我山さんと遊びで付き合おうなんてふざけたこと言うんなら、僕が許さない。僕だって久我山さんが好きなんだから、中途半端な気持ちなら僕に譲れ」
 立ち上がり、手を差し出すと奴は僕を見上げた。じっと僕を見る。その視線に、こんなふざけた奴にたじろいでたまるか。
「なんとか言え」
 身を乗り出して僕から睨みつけると、わずかに視線を外して奴は呟いた。
「お前も久我山を?」
「ああ、そうだよ!」
 はっきり言ってやると、奴の目が一瞬光ったように見えた。思わずびくつく僕の手を奴が叩いた。
「そうか」
 やっぱり光ってる。僕に戻って来た視線に冷や汗が出そうだ。しかも奴も立ち上がりやがった。やるつもりなのか、暴力に訴えるつもりか。
 僕は構えたが、奴は真っ直ぐに睨みつけてくるだけのようだった。
「だが、譲ってはやれん。生半な気持ちで付き合うつもりはないし、そもそも彼女は物じゃない。お前の言い方のほうが失礼だな、佐田」
「う……」
 妙に落ち着いて言い放つ奴に僕は惨めさが増す。なんで僕がこんな惨めな気分にならなくちゃならないんだ。
 だけど確かに久我山さんは物じゃない。口惜しいけれど、奴が正しい。それよりも真剣に思っているなら何故言わないんだ。僕にとってはそれが不快だ。しかも僕の名前を知っていたことに驚いた。
「なら、ちゃんと言ってやれよ。そうじゃないと久我山さんがかわいそうじゃないか」
「……それは、わかっている」
「だったら何を躊躇ってんだ。僕に伝えたって意味がないだろ」
「わかっている」
「わかってても言わないと意味ないんだよ!」
「………」
 なんで僕はこんなに必死になっているんだ。でもなんか、あれ……えーっと、あ、わ、おおおっ!

「耳、赤っ!」

 つい叫ぶと、奴の顔が物凄い勢いで染まっていく。耳の赤さがちっとも目立たなくなるくらいに。
 ……うっわあ。
 すごいもの見てる気がする。
「……お前、もしかして単に恥ずかしい、とか?」
 僕の言葉に奴の目が泳ぐ。
 散々恐がっといてなんだけど、こいつ、実はそんな恐いやつじゃない、とか。
「お前には関係ないだろう」
 サッと顔を背ける桜庭に僕はにやっと口の端が持ち上げた。その顔を覗きこむと更に顔の向きを変えられる。それを何度も繰り返す。何だかちょっと楽しいぞ。
「お前、まだ顔が赤いぞ」
「……うるさい」
「あはは、桜庭って実は全然恐いやつじゃないんだな」
 今の姿を見てしまったら、眼光なんて大したことじゃないように思えてきた。見慣れてしまえばどうってこともない。
 ニヤニヤと笑ってやると桜庭がまだ若干顔を赤くしたまま、ちらと僕に視線を寄越した。少しだけ、本当に少し、桜庭の口許が緩んでいるように見える。
「本気なんだな、久我山さんのこと」
「ああ……」
 笑いを収めて訊ねれば即座に声が返ってきた。
「そっかぁ。じゃ、……僕は振られたわけだ」
「すまん」
 謝る桜庭がおかしくて、僕は苦笑を浮かべる。まさか桜庭に謝られる日がくるなんて思いもしなかった。
「謝るなよ。それより、眼鏡掛け始めたのも久我山さんの影響か?」
「目を眇める癖を何とかした方がいいと言われたんだ」
 素直に答える桜庭に僕の負けだな、と思う。話してみると全然恐くない。話しにくいこともない。ただ、目が鋭すぎるんだ。だから僕も近寄れなかった。
「視力が悪かったのか」
 僕は眼鏡を外し桜庭に空いた手を差し出した。桜庭は僕の言わんとすることがわかっていなかったようだが、手でちょいちょいと眼鏡を指すと理解したようだ。白フレームの桜庭の眼鏡、レンズを通すと僕には少しぼやけて見える。軽く掛けて桜庭に笑ってやる。
「どうだ。似合うか」
 ごく自然に桜庭は頷き、今度ははっきりと頬を緩めた。
「似合うな」
 本当はこんなに穏やかに笑う奴だったんだな。
 桜庭に僕の眼鏡を差し向けると躊躇いながらも僕と同じように眼鏡を掛けた。店頭で一目惚れした僕のノンフレームの眼鏡。度がきついんだろう、桜庭は掛けるなり盛大に顔を顰めた。
「あはは、やっぱ桜庭にはこっちの白フレームの方がいいみたいだな。顔が強張ってるぞ」
「そうだな。俺にはやっぱりそっちの眼鏡がいい」
 互いに自分の眼鏡を手に取る。掛けなおせばはっきりと笑みを浮かべる桜庭の顔が見えた。
「あ、桜庭! ……と、佐田くん?」
 そこに久我山さんがやってきた。桜庭に用事だったんだろう。
「珍しい。佐田くんが桜庭と話してるなんて。どうかしたの?」
 不思議そうにしながらも、笑顔をみせる久我山さんに僕も自然と微笑む。ちらりと視線を動かせば、桜庭も口許が緩んでいるようだ。
「ちょっと桜庭に用があったんだ」
「桜庭に?」
 目を丸くする久我山さんの前で、僕は桜庭の肩に手を置いた。びっくりしたような顔で桜庭が僕の方へ顔を向けた。
「そ。悪いけど桜庭を借りていいかな」
「構わないけど、私も一緒じゃ駄目なの?」
「え?」
 何故、と言いたそうな桜庭に僕は一瞬だけ片目をとじてみせる。
「ちょっと友情を深めに、な」
 にやりと口の端を歪めてやると、久我山さんはかわいらしい笑い声を漏らし、桜庭はなんともいえない表情を作った。哀しがっているのか、はたまた喜んでいるのか、僕には見分けがつかない。
 幸せ計画はまた練り直しだが、この新たな友人に僕は興味が湧いた。そうだな、今もしも句を詠めと言われたらきっとこう詠む。


 失恋の痛手は変わるお前へと だから教えろその中身


 ……なんてな。

《了》


前項
作者 / 恵陽