僕のマスターは生物学上、女に分類されている。
こんな事を改めて言うまでもなく、見た目は女とはまだいえないものの、一応は少女とわかる容姿をしている。
髪と瞳は真っ黒、僕の羽といい勝負。
それも黒魔術師という職業には重要な事らしく「私がもし金髪碧眼だったら、禍々しさも半分だったわ」と嬉しそうに言っていたけど、黒魔術師に禍々しさがそこまで必要かというと疑わしい。
マスターの一日は、ビーカー一杯のトマトジュースで始まる。
ちゅんちゅん、と小鳥達もさえずる爽やかな朝の到来。
机の上でうつぶせになっていたマスターは、手でビーカーを探り当てトマトジュースを勢いよく飲み干し、ぷっは。と女性にはあるまじき息を吐いた。昨晩、途中まで書き上げていた錬金術の公式が涎の海で台無しになっていた。それに冷めた視線を送ると「さって、何食べようかなぁ」と話題を唐突に変えて誤魔化した。マスターが良く使うこすい手である。
「ちゃんと今日中に、仕上げなよ?」
「解ってる」
煩いなぁとマスターは小声でぶちぶち文句を言っていたが、僕はこれでも日々言いたい事を30%ほどはカットしているのだ。いつも立派なマスターで居てほしい、というのが密かな僕の願い。だけど、そんな僕の思考を無常にも邪魔したのは、ぼりぼり、というマスターが何かを詰め込む音だった。
「マスター、一体、何食べてるの?」
「……ふ? フラッハーだへど?」
「口の中のもの飲み込んでから喋りなよ」
そういうと、もごもご言いながらも必死で飲み下し「クラッカー」と簡潔に述べた。僕は驚いて部屋の隅に置いてあるクラッカーの木箱とマスターを見比べた。
「――あのクラッカー、僕用のだけど」
別に自分の食べ物をとられたから唖然としたのではない。
マスターが口にしたのは僕用。つまりは鳥用のクラッカーだったはずだ。あの勘違い馬鹿男が「鳥まっしぐら」という歌い文句に騙されて、大量にプレゼントしたいわくつきのクラッカー。一応、僕は使い魔として鳥の形態を取っているが、味覚までは鳥になるわけが無いのに。
悪魔である僕の主食は「魂」だけれど、契約を結んでいるマスターとは魔力をシェアするだけで、自然とエネルギーを供給することが出来るから、本来食べると言う行為は必要ない。あとはただの趣向によるものだったり、マスターが本当に時々、一緒に食べない? と誘ってくれる時に何となく取る必要も無いものを口に入れてみたりするだけだ。
「あぁ、ごめん、美味しそうに見えたからつい。ね」
「実際、美味しかったわけ?」
「んー、微妙。パサパサしてるね」
そりゃあ鳥用なのだから、人間にの味覚にはあわないのが普通である。一応はまともな舌を持っていることにホンはひとまず安心して、今日中にクラッカーを処分する事を決心した。
巷で評判の黒魔術師様が鳥用クラッカーを齧ってたなんて変な噂を立てられたら困る。――それは紛れも無い事実だが、僕に言わせれば、それもイメージの問題だ。
とにかく、マスターは僕よりもはるかに強靭な胃袋を持っていることは確かなのだ。
――昼からは、めくるめくお仕事の時間だ。
研究に集中している時のマスターは、はっきり言って別人だ。いつものやる気の無さは取り払われて、好奇心に瞳を輝かせながら、計算されつくした図形を完璧に描いたり、凄いスピードで本を読んだりしている。新しい魔術の構成法則を見つけては、僕に興奮しながら話してくれる。
正直に言えば、悪魔の僕にとって魔法そのものは重要であっても、その仕組みにはさして興味はないのだが、マスターが楽しそうに話すから耳を傾ける事にしているし、一言「へぇ、凄いね」と褒めてあげるだけで、ご満悦になってもっと頑張るみたいだから、それは使い魔の僕としても大事な様式美だと思っている。豚もおだてりゃ、というやつだ。
一つだけの難点は、あることに集中すると、マスターは食べる事も寝ることも忘れるという事で、だんだんこけていく頬とか血走る眼とかは視覚的にも精神衛生的にもよろしくないから、そんなときはこっそりと僕は自分の魔力を余分に流し込んだりしている。けど気力はもっても肉体的な空腹は補えるわけ無いので、いつも研究をやめるのはぶっ倒れる直前である。
そんなめちゃくちゃな仕事ぶりだけど、僕はマスターが魔術に関わっている時が嫌いではない。もうちょっと、私生活の節制などにもその活力をまわしてくれると大変よろしいんだけど。
――昼下がりには、あの馬鹿が来襲する。
最近毎日のように顔を出すあの男には、流石に僕もマスターもうんざりしている。もともと短気だけれど打たれ強いマスターを超越した、人間砂袋。常軌を逸した無神経である。それくらい図太くないと王なんて者はやってられないのかもしれないが、下につく人間は大変だろうな。と同情する。――僕も人事ではないし。
一応、あの男はマスターの顧客であり、丁重に扱うべき所なのだろうけど、用事も無いのにここを訪れるのは、はっきり言って邪魔以外の何者でもない。十中八九の確立で出会い頭に「呪い」を掛けるのが日常茶飯事である。
しかも何をトチ狂ったのか、悪魔である僕に好意を抱いているとのたまうのだから頭が痛い。マスターが鳥類に対する愛の賛歌を人事だと思ってからかうが、そこからは漏れなく喧嘩――というよりは僕が一方的に無視するのが殆どだけど――に発展する。つまりは僕とマスターの小さな喧嘩も日常茶飯事であるという事だ。
毎日邪険に扱われても懲りずにあの男はやってくるので、まさか極度のマゾか、呪いを掛けられるのが病みつきになったわけじゃないだろうね? と密かに怖気を奮ったりもしているのだが、真相を確かめる気にもならない。変態の変態振りなど、知っても得するわけでもないし。
今日も、御馴染みのように扉をはねつけて入ってきたダルメシアンを、めんどくさそうに呪文で固めてから、マスターは深いため息を付いた。扉の開いた音に驚いた所為で、羊皮紙に書いていたアルファベットに長い尻尾が生えていた。
「ほんとに毎日うざったいなぁ。アレが王様だって、この国大丈夫なのかしら」
硬直したダルメシアンを小脇に抱えながら、マスターの台詞にお付の男がちらりとこちらに視線を向けたが、マスターにはその意味が伝わらなかったみたいだ。男が出て行くのを確認してから、僕は口を開く。
「マスター。一応、あんなのでもこの国の王なんだから、仮にそう思っていたとしても人前で貶すの控えたほうがいいんじゃない? 不敬罪で逮捕されるかもね」
自分の態度と台詞は棚上げにしといて、本当に一応。といった感じで僕はマスターを嗜めた。
「ホンを生贄として差し出したら、余裕で釈放じゃない?」
「……本気で言ってるわけじゃないよね?」
僕の怒りを押し殺した声にも、冗談よと、しれっとした顔で言った。悪気がなさそうに見えて、確信犯だということははっきりしていて、僕がイライラを隠さず羽をばたつかせていると、視界の端にマスターが口を引き結んで、笑いを堪えてるのが写った。
――時々、本気で小憎らしくなる主である。
怒っている事の意思表示としてそれからマスターが話しかけてきても、頑なに無視をした。第何次になるのか、数えるのも馬鹿らしい冷戦の勃発である。
――太陽が姿を隠しきった後も、マスターの仕事は終わらない。
夜には闇に属するものが活発になる。
それは僕も例外ではなく、闇が溶け出したような漆黒の翼を広げて夜の散歩を楽しんでいた。眼下に広がる森はその闇を吸い込み静かな眠りについているようだ。時々、森に巣くう魔の物の声が森の静寂を破り木々を揺らしていたが、それすらも僕には心地よい音楽に聞こえる。くるり、と空中で旋回しながらも高度を落とす。自分たちの家が見えたからだ。
僕は光が漏れ出している窓から、すんなりと家の中に飛び込むと、止まり木の上で翼をしまった。普通の家なら夜中に窓が開いていたら物騒だと思うかもしれないが、魔術師であるマスターの家に盗みに入ろうとする愚か者は今だかつていない。侵入したとたん、それを後悔する間もなく黒焦げになる術がかけてあるとは誰も知らない筈だが、実に懸命な判断だろう。
「マスター?」
姿が見えなかったから訝しげに声を掛けてみたが、口を利かないようにしていたのを思い出し、僕はしまったと口を閉じた。それでも言葉は返ってこない。ふわりと再び飛び上がり机の上に着地すると、そこには朝、台無しになっていた錬金術の公式が確りと完成された形で積み上げられていた。それに満足そうに頷きかけて、仕事をやるのは当たり前じゃないか。と思い直しわざと渋い顔を作った。
そしてふと顔を上げた所に、見覚えのあるクラッカーがおいてあるのに気がついて目を剥く。そこには木苺ジャムがふんだんにのっかっていた。
《お腹が一杯になったら、しゃべってくれる気にもなるでしょ?》
羊皮紙の切れ端に走り書きのメッセージが書いてある。クラッカーの上にのっている木苺ジャムは、いつの日かホンがお愛想で「美味しいよ」と言っていたのを覚えていただろう、婉曲すぎる仲直りの意思表示らしかった。
しかしそれを口にしてみると、案の定、クラッカーはパサパサしていたし、木苺のジャムはいつもの薬鍋で作ったのだろう、微かに苦い薬草の味がした。一気に気持ちが萎えた。小さな喧嘩は何時もの事だったし、別に一生口を利きたくないほど怒っていたわけでもない。マスターが食べ物でご機嫌をとろうとするのも何時もどおりだった。それより一体、いつになったら悪魔は食物を摂取しないのだと思いだしてくれるのだろう。
くしゅん。
くしゃみが聞こえてきて、微かに開いていた書庫のドアをすり抜けると、マスターが書架にもたれ掛かり、床に座ったままうつらうつらしている。手元には複雑そうな魔道書を開きっぱなしにしたままだ。
「マスター。こんな所で居眠りするなんて風邪を引くよ?」
「んー、そーね」
声を掛けてみても、眠気に屈服しているマスターからはうつろな返事が返ってくるだけだ。続けてくしゃみを漏らした主に、やれやれと首を振ってからホンは浮遊呪文で寝室まで運んだ。靴を脱がしてベッドの上にゆっくりと下ろすと、むにゃむにゃと幸せそうな笑みを浮かべて呪文を呟いていた。その黒い髪の毛には埃をくっつけている。
間抜けなほど幸せそうな顔に益々脱力した僕は、毛布をかけながらも、明日は水浴びさせようと決心していた。一応は、年頃の女性がこれでいいのだろうか、と疑問が湧き上がっていたからだ。毛布を整えた僕は火の灯っていたランプを吹き消して、飛び上がろうとした。
「……ありがと」
本当に寝ぼけていたのか、寝ぼけた振りをしていたのか解らない。礼を言ったマスターに僕は一瞬びっくりしたが、すぐに寝息を立てはじめたマスターの寝顔を一瞥した後、何も無かったように夜の闇に飛び込んだ。
はるかに強靭な胃袋を持っているところも、ぶっ倒れるまで仕事をやめないほど知的好奇心が旺盛な所も、僕をからかって遊ぶような小憎らしい所も「弱さ」とは対極にあって「守りがいのあるマスター」とは到底言えないけれど。
――彼女が僕の「守るべきマスター」であることは間違いが無いのだ。
夜の森の上に影を落としながら漆黒を羽ばたかせるホンは無意識に、彼女には見せる事のない柔らかな微笑を浮かべていた。

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