吸い込まれるような感覚から覚めたホンの目の前には真っ黒な格好の人間が居た。
どうやら黒魔術師だろうと予想を付け、しかしそれが思いのほか若い女――少女と呼んでもいいぐらいだったから、ホンのプライドは少し傷つけられた。
ホンは下級魔族数人程度なら触れずとも捻り潰せるくらいの魔力をもった上級魔族で、その身にまとう漆黒が、闇の眷属だという事と力の強さを示していた。燃えるようなルビーの瞳も、強い力を持った悪魔の印だ。歳すら他の魔族に比べれば若いものの、ホンは周りのものを威圧するような雰囲気を持った立派な悪魔だった。震えるような冷たい美貌は、その機嫌の悪さでも損なわれる事は無かった。
こんなのに呼び出されるとは、僕も焼きが回ったのかな。
はぁ、とため息とともに吐いた言葉は、どうやら聞こえていたらしく、ぼんやりしていた少女は、魔方陣の中で怒ったように鼻を膨らませた。
「それはこっちの台詞よ。私は喚起したつもりなのに、なんで出てくるの? ……あなたほんとに上級魔族?」
疑うような視線を向けられて、ホンの機嫌は一気に低下した。
普通、喚起とは自分より下位の存在を呼び出すときの儀式で、間違っても上級魔族であるホンが呼び出される事なんて無い。召還でもめったな事がなければ応じないホンが無理矢理引っ張り込まれた上に、相手は自分より何百歳も若い人間だ。不機嫌になるなといわれるほうが無理だ。
喚起だって? じゃあ僕はこいつより下位な訳?
少女はこいつ呼ばわりされた事に相手も腹を立てたのか、むすり、と唇を引き結んだ。
「もっと可愛い悪魔を呼び出す予定だったのに。……あなた可愛くないし、口うるさそうだから嫌。帰っていいわよ」
「勝手に呼び出しておいて何それ? 僕より下級魔物ほうが優れてるって言いたいわけ?」
ホンを中心に部屋の中で激しい風が巻き起こった。低級な人間ごときにここまで侮辱されたのは初めてだったから、ホンは殺意を抱いた。しかし少女の張った魔方陣は完璧で、少女の髪の毛一本揺らす事はできない。彼女が魔方陣の中に居る限りは、こちらからは手出しをする事は出来ないのだ。少女は、少し何かを考えた後で、棒読みで言った。
「あーじゃあ。帰ってください。お願いします」
「……言い方を変えればいいってもんでもないでしょ? 知ってると思うけど、呼び出された悪魔は何か、例えば願いを叶えるとかしなきゃ、帰れないんだけど」
「あ、そっか」
握りこぶしをぽん、と手に打ち付けて、少女は納得したようだった。
その程度の事も忘れるような相手に呼び出されたのがいよいよ屈辱で、情けなさの余り脱力しかけたが、これ以上一緒に居たくも無かったから、ホンは気を取り直して話を持ちかけた。
「で、何か願い事はあるわけ?」
「んー特に無いなぁ……あなたに帰って欲しいってのは?」
「それ以外で!」
普通の魔術師ならかしずいて崇めたてるような魔物であるホンをここまで邪険に扱うのもこの少女くらいだろう。イライラしながらも辛抱強く待っていると「あ、そうだ」と何か思いついたようだ。それを視線で促すと、願い事を考え付いたのが嬉しかったのか、弾む声で少女は言った。
「使い魔を紹介してくれるってのはどう? ふわふわですっごい可愛い、動物系の魔物とか」
自分を呼び出しておきながら、自分以外の魔物をしきりに使い魔にしたがる少女に、ひくりと眉がつり上がった。もちろん、使役される立場である使い魔になるのは真っ平御免だったが、それでも上級魔族である自分より下級魔族に執心している少女の言い方がなんとなく不満だった。折角、叶えるには簡単すぎる願いを口にした少女に、無意識に断らせるような言葉を返していた。
「あのね、願い事を叶える代わりに、君は僕に魂を売り渡さなきゃだめなんだけど? その程度の願い事――下級魔族なんかのために、君の魂は永遠の闇に囚われ続けるわけ。本当にいいの?」
「別に平気だけど」
「――そんなに使い魔が欲しいなら、もう一度喚起でもすれば?」
「そうだけど。あなた一応、上級魔族みたいだし、顔は広いでしょ? またあなたみたいな可愛くない魔物が出てきても困るだろうし。今現在、手っ取り早く使い魔が必要なの」
何を言っても平然として、暴言を吐きまくる彼女に、ホンは次第に腹が立て、つい叫んでしまった。
「それなら、いっそのこと僕を使い魔にすればいいでしょ?」
はっとして口を押さえると、「えー」と不満そうに顔を歪ませる少女が目に入った。それに余計に頭に血が上って、なぜか自分を売り込むような台詞が飛び出す。
「何が不満なわけ? 魔力だって下級魔族の何百倍とあるし、容姿だって人間の価値観から言ったら悪くないはずでしょ?」
「私が欲しかったの、可愛い動物系使い魔だから」
ぶち、とどこかで音がした。
人型を取っていたホンは、一瞬でその姿を烏へと変えた。しかし少女の反応もいまひとつで、うーんと首をかしげている。
「動物っていう条件は完璧だけど、可愛いかって言うとなぁ。――まぁいいか。あなた結構面白かったし」
これ以上我侭を言ったら、何が何でも殺してしまおう。とホンが思っていたところで、ようやく少女は妥協したらしい。不本意そうに、彼女はこくりと、頭を縦に振った。
ホンは最終的には自分で望んだ事とはいえ心中複雑だったが、今更口にしたことを撤回する事もできなかったから、烏の姿のままで頷いた。
「で、僕との契約だけど。悪魔とは、肉体関係を結ぶのが一応、本契約なんだけど」
どうする、という風に問いかけると、少女はおずおずと言った。
「あの、私は異性愛者だから、遠慮しとくわ」
「僕が”男”だって解らないわけ? 僕もつつしんで遠慮させて頂くよ!」
最後の最後まで、腹立たしい少女である。仮契約は接吻のみだったから、少女もあっさりとそれを了承した。言霊による契約には真名が必要だったから、お互いに名乗りあうと、少女は軽く咳払いをしてから口を開く。
「我、リンシアは、汝、ホンレヴィアスを使役する事を望む、その代償に信頼と秘密と魂を分け与える事を誓う」
「我、ホンレヴィアスは、汝、リンシアを主と認め、使役される事を望む。その代償に奉仕と服従と魔力を捧げる事を誓う」
少女――リンはホンが言い切ってから、クチバシに接吻、もといぶつかった。そういえば何百年生きてきて使役されるのは初めてだった、とこの時になってからホンは気付いた。なんとなく、処女を失ったような気分だ。
唇とクチバシが触れ合った瞬間、体の中にぶわりと魔力が流れ込んできた。
ダムの水が堰をきってあふれ出るように、その勢いはとまらず全身に力が満ちていくのが解る。
悪くない魔力だと、軽く驚きをもって改めてリンを見てみると、その顔は血だらけだった。勢いにまかせたので、とがったホンのクチバシが見事に刺さったらしい。「痛い」と言った涙目のリンを見て、ホンは「血の契約だね」と面白くも無い冗談を言って、少しだけ笑った。
「よろしくね、マスター」
どうせ一時的だろうと思っていた仮契約が、まさかこれほど長く続くとはこの時のホンには想像もつかなかった。
それは、少し昔の出会いの話。

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