マスターの様子がおかしい。
ホンはその類まれなる観察力でもって、リンの異変に気がついた。まともに睡眠が取れていないのか目の下のクマは日増しに濃くなっていくようだし食欲も激減している。ふとした物音にビクビクとしたり、ぶつぶつと明後日の方向を見ながらの独り言が増えた。時には急に荷物をまとめて「旅に出る!」とか言い出すこともあったし、それもすぐに「駄目だ。地の果てでも追ってくる」と自己完結して諦める始末だ。
原因は明白である。
三ヶ月ほど前から届くようになった黒い封筒のせいだろう。
黒魔術師だなんて因果な職業をしていると、呪いのかかった手紙を貰う事も少なくは無い。そんなものに一々動じるほどリンは柔ではなかったし、いつものことかとホンもそう思った。
目には目を。
どこかの法典がポリシーのリンは呪詛返しでもしてやろうと、その時も何気なく手紙を手に取った。しかし、注意深く封筒を調べていたリンの表情が次第に訝しげなものになり、手紙を広げたところで凍りつく。
顔面蒼白。その手紙に魅入られてしまったように、漆黒の瞳がまんまるに開かれた。不審に思ったホンが声を掛けてみると、リンは持っていた手紙を反射的にぐしゃりと握り潰す。そして一秒後には我に返り飛び上がると、必死の形相で手紙の皺を伸ばそうとした。気でも違ってしまったのかとホンは仰天する。
「ちょっとマスター? 一体どうしたのさ」
「ななな、なんでもない! なんでもないの!」
なんでもなくはないだろう、とホンは見え透いた嘘をつく主を冷めた目で見やったが、リンは手紙を背中に隠すと脱兎のごとく寝室に逃げ込んでしまった。リンに隠し事をされたホンは少し傷つき、それを大いに不満に思ったが、追求するにはエベレスト並みに高いプライドが邪魔をしたのだ。
その日を境にぽつぽつと黒い手紙が届くようになった。
ある時には野生の狼が、そしてある時には鷹が手紙を運んでくる。気づけば玄関先にそっと置かれていた事もあった。そして、その度にリンは目に見えて憔悴していった。
本人が言いたくないなら仕方ないでしょ、と始めは変な意地を張っていたホンも次第に心配になってくる。まさか変な呪いをかけられたわけではないと思うが、今もこうして部屋の中を幽鬼のような形相でほっつきまわっているリンを目にするのは自分の精神衛生上宜しくない。もう我慢の限界だとリンを問い詰めたのが手紙が届いてから三ヶ月ほどたった、この日だったのだ。
「マスター、あの手紙はいったいなんなのさ?」
ホンがそう問いかけると、リンは引き攣った笑いを張り付かせながら弾かれたように振り返った。
「や、やだなホン。なにを不審に思ってるのか知らないけど、あれはただの手紙!」
「あのね、何年使い魔やってると思ってるの。いい加減にしないと僕も本気で怒るよ?」
誤魔化しは許さないとホンがねめつけると、リンはむっとして頬を膨らませる。
「何、怒るって! ホンは私の言葉が信じられないわけ?」
「じゃあ、獣みたいに歩き回るのやめてくれる? 見苦しいから」
「言ったわね! 何よ! 私の気持ちも知らないくせに! どんなものが帰ってくるって知ったらホンだってうろたえるに決まってるんだから!」
思わず吐き出した言葉が召還呪文であったかのように、リンはぱちんと口に手で蓋をする。そんな挙動不審な主人の言葉をホンは思わず聞き返した。
「……帰ってくる?」
誰が?
目で問いかけてみたが、リンは答えず恨めしそうな視線でホンを睨みつけた。
「絶対、口に出したくなかったのに。ホンのバカ。スカタン」
「だから、誰が帰ってくるわけ?」
程度の低い悪口を並べ立てるリンにムッとしながらも、ホンはさらに追求した。リンは耳を塞ぎながらいやいやと首を振る。
「言わせないで。現れるから」
「そんなわけないでしょ……」
まるでオバケを恐れる子供である。呆れ、馬鹿にしたようなホンにリンは顔を近づけると声を潜め、聞こえるか聞こえないかぐらいの大きさで囁いた。
「あんたねぇ、舐めてると痛い目にあうわよ。だって帰ってくるのは――悪魔なんだから」
「まさかあの間抜けな悪魔じゃないだろうね」
リンに体よく厄介払いされた哀れな悪魔が頭を過ぎった。しかし、それは見当外れだったらしく、リンは笑い飛ばすように鼻を鳴らした。
「まっさか。あんなのが帰ってくるからって私が恐れると思う? 返り討ちよ」
とことん哀れだ、とホンはラフィに同情した。リンは興奮しながら続ける。
「その悪魔は旅行中でね。道すがら手紙を書いてよこしてくるのよ! 『今はここだ、あと二ヶ月ほどで帰るから、背後に気をつけろ』とか『もうランカスタに到着した。あと少しで会えると思うと、小刀を研ぐ手に力が入る』とかね! 怖いでしょ? 怖いわよ!」
「それって本当に悪魔なの?」
一人でヒートアップしているリンとの温度差を感じながら、ホンが冷静に聞き返すとリンはこっくりと頷く。
そして据わった目をしながら、諭すようにとつとつと語りだした。
「――ねぇ、ホン、最後の手段だけど。マスターである私の命を救うんだと思って私に変化してくれない? その間、私は人生の長い旅に出てくるから。まぁ、そうね。ちょこーっとだけ痛い目に合うと思うけど死ぬことはないと思うわ。たぶ、ん……?」
そこでリンは言葉を切った。それはホンの不機嫌そうな顔に怯んだからではない。
ほっそりとした白く長い指が、リンの頭をがっしりと鷲掴みにしていたからだ。
悪魔であるホンでさえも気づかなかった。それは音もなく現れ、さも当たり前のようにそこに存在していたのだ。
――天使。
それを一目見、ホンが抱いた感想はそれだった。人形めいた顔は恐ろしいほどに整っており、それはいささか酷薄な印象を与えていた。腰まで伸ばされた銀糸のような髪。透けるような白い肌。顔に埋め込まれた碧眼は、静謐な湖を思わされる。身に纏うのが黒いローブでなければ、宗教画に描かれていてもおかしくは無いほどその存在は美しかった。
その"天使"は、ゆっくりと薄い唇を開くと、赤い舌を覗かせながら微笑む。
「はて、どこの誰だかが旅に出ると聞こえたような気がするが。私が帰ってきたというのに薄情な奴がいるものだな。そうは思わないかリン」
低く美しい声に名前を呼ばれたリンは、びくりと体を震わせると、冷や汗をかきながら顔を上げる。
「セルゲイ、師匠」
怯えるリンを見つめながらセルゲイは何を思ったか、リンをいとも軽々と持ち上げると体を反転させ抱きすくめた。
それは師弟が再開した感動の抱擁に見えなくは無かった――みしみしと全身の骨が軋む音さえ聞こえてこなければ。頬ずりされてるリンの顔面からはざりざり、がりがりとその行為には到底相応しくない音がする。
「師匠っ! 鮫肌は痛い! 痛すぎです! いだだだだ!」
じたばたと両手両足を動かし、ごめんなさい! もうしません! と泣き叫ぶリンにようやくセルゲイは両腕の力を緩めたようだった。地獄の責め苦から解放されたリンの顔面は真っ赤に腫れており、黒い目からは涙が数滴こぼれている。ふん、とセルゲイは鼻を鳴らすと、その場にぽいとリンを投げ捨てた。リンは受身も取れずに、ぺしゃん! と蛙が伸びるような音を立てて地面に叩きつけられる。セルゲイは興味が失せたかのように背を向けたが、その瞬間を待っていたのだろう、地面に這い蹲っていたリンの瞳が怪しく光った。リンはセルゲイに気づかれないように手を掲げると、口の中で呪文を唱える。そして最後のスペルを言い切るかというところで、自分の異変に気がついた。
声が出ない。舌が無い? いや、正しく言えば、口があるべきところに黄色く硬いものがくっついている。
触ってみれば、それは見事な鶏の嘴。そして触っている自分の手からも次第に白い羽が生えてくる。むず痒さを訴える頭には、恐らく真っ赤なトサカが乗っかっているだろう。
椅子に腰掛けたセルゲイは長い足を組むと、鑑賞に堪えうる優雅さで顎に手をやり、それからリンへと視線を落とした。そして憂鬱を滲ませたため息を零す。
「――猫は三日で恩を忘れ、鳥は三歩で物事を忘れると言うが、それが長旅を終えて帰ってきた師に対する態度か。しばらく見ないうちに態度だけは大きく成長したとみえる」
そうして嘆かわしいと言いたげにセルゲイが手を振れば、どこからか現れた鳥篭にリンは閉じ込められた。叫ぶリンの言葉は鶏がわめいているようにしか聞こえず、バサバサと飛び跳ねる体からは白い羽が抜け落ちる。セルゲイは顔を上げ、いささか芝居がかった動作で聞き返した。
「何だ、リン。『恩を忘れてはいない』? ――それなら一生その姿のまま私のために卵を産み落としてもらおうか」
「コケーッ! コケコケコケッ!」
リンが必死に抗議すると、ひらひらと手を泳がせながらセルゲイは安心させるように唇の端を緩める。
「あぁ、心配には及ばん。餌も確りと三日に一度は与えてやろう。それとも手っ取り早く食卓に並ぶか?」
「コケェー……コケッコッコ……」
がくりと頭をたれ、鶏は元気が無くなった。セルゲイは、それを確認するとひらりと掌を返す。瞬きをせぬ間にそこに立っていたのは半べそをかいたリンである。セルゲイが立ち上がり、弟子の頬をひとなですれば、傷は幻であったように消えうせた。
「リン。今、帰った」
「……師匠が帰ってきたことは嫌ってくらい実感してます」
「嬉しいだろう」
「涙が出るぐらいには」
泣きっ面にぶすくれた表情でリンは答えていたが、セルゲイの機嫌はすこぶる良い。掴みどころの無い微笑はけっして崩れる事はないが、次はどうやってリンを苛めてやろう、泣かしてやろうという策略が綺麗につりあがった唇の端に現れている。
あまりにも衝撃的な師弟の再会に呆気にとられていたホンは、不意に向けられた視線で我に返った。蒼い双眸はホンの上を通り過ぎ、再び椅子に腰掛けたセルゲイはリンの名を呼ぶ。
「私の留守中に、見慣れぬ鳥畜生が住み着いたようだが」
「あれは使い魔のホンで――」
「興味は無い。しかし、私に消される様なことがあるとしたら、それはお前の躾が悪かったのだと肝に銘じておけ」
畜生呼ばわりされた時点でホンの沸点は振り切れていた。存在を無視された上に、簡単に「消す」などと喧嘩を売られて、黙ってられるほど安いプライドは持っていない。
「それってどういう意味なのさ?」
怒り狂うホンを前にセルゲイはつまらなさそうな表情で頬杖をつくと、リンに夕食の支度を申し付けた。ホンなどまるで眼中にないとの意思表示である。
怒り心頭のホンは電光石火のスピードでセルゲイに飛び掛った。
ざくりと鋭い鉤爪が肉を裂く感触。呆気ないほどの手ごたえに、ホンは拍子抜ける。すると、ギャーと絹を裂くような悲鳴が聞こえ、はっと聞き覚えのある声にホンが意識を戻すと、妙に華奢な肩が裂けそこからは真っ赤な血が滴っていた。いつのまに入れ替わったのか、ホンが攻撃を仕掛けたのはリンだったのだ。
「痛いぃぃぃっっ! 師匠、これはなんでも酷いですっ!」
「それはお前の鳥畜生に言うがいい。眼球をくりぬかれなくて良かったな」
泣きながら抗議するリンに、セルゲイはくつくつと喉を鳴らしこの上もなく愉快そうに笑う。
「しかし――お前を傷つけるとは許せんな。そんな不届きものには私が仕置きをくれてやろう」
自分が身代わりにしたことは棚上げして、セルゲイは指でくるくると螺旋を描いた。すると締め付けるような圧迫感と共にホンは体の自由を奪われ、地に伏せる。そして、その場には金属で出来た棺のようなものが現れた。口を開いたそこには隙間なく鋭い針が生え揃っている。それは獲物を今か今かと舌なめずりをしながら待ち望んでいるようだった。
「……師匠、これは」
「見ての通り拷問具だ。早速使う機会が訪れるとは少し無理をしてでも手に入れた甲斐があったな」
何に、というより誰に使うつもりだったのか。
常日頃の経験から学んでいたリンは賢く沈黙を選んだ。一瞬、見なかったふりをしようかという考えが頭を過ぎったが、見捨てたら見捨てたで後が面倒だ。師匠に楯突くのは危険だが、ここでホンを見捨てたらこれからの身代わり――いわく生贄は居なくなってしまう。あぁ、こんなことならラフィちゃんを追い払うんじゃなかった。
そんな所まで考えてから、リンはホンを庇うことにした。とりあえず打算的に。
咳払いをしてから、リンはセルゲイの腕に取り付き、ちょんちょんと裾をひいた。喋るときはなんとなく上目遣いで、瞬きを多めで涙を見せ、庇護欲と情に訴える作戦だ。
「師匠、私、そんなに痛くなかったので大丈夫です」
セルゲイは待ち構えていたように穏やかな微笑を弟子へと返す。
「ほう。お前は私の気遣いが無駄だと、そう言いたいのか?」
「え、あぁ、いいえ。そういう感じでもないのですけど」
矛先が自分に向きそうになるのをリンは曖昧な言葉で交わす。否、交わしきれていない。もう絡め捕られていた。
セルゲイは沈痛な面持ちで胸をひっそりと押さえた。
「リン。お前がお前の鳥畜生を大切に思う気持ちは評価してやろう。が、今、お前に踏みにじられた私の心痛はどうなる」
「え、まぁ。それは申し訳なく思ってるような気もします」
真綿でじわじわと首を絞められていく感覚。それをリンは懐かしささえ感じながらありありと思い出した。そして、その後に来るものはいつも決まっていた。そう――泣き出したなるような恐怖。
セルゲイは罠にかかった哀れな獲物を慈愛の眼差しで見つめた。
「それなら示すがいい。自己犠牲、そして償い。その両方を己自身の行動でな」
そうして彼が弾けんばかりの笑顔で指差したのは、ぱっくりと口を開ける拷問具。
欧州の道から帰ってきたのは、悪魔なんかよりも百万倍恐ろしい――師匠でした。

|