それはあたかも地獄へ続く扉のようにそびえ立っていた。
その"器具"から溢れ出る淀んだエネルギーの塊はおどろおどろしく、それに染み付いた数多の情念を嫌でも意識させる。頑強そうな古木の枠とその上部に取り付けられた斜めの刃物には長い年月を経てもなお消えなかった黒い染みが怨念のようにこびりついていた。
インテリアとしてはこれ以上に無いくらい最低な選択だった。
どこの世界に処刑道具を嬉々として買ってくる阿呆が存在するのだろうか――否、現に存在してしまったのだからお気の毒様。更にその"阿呆"が師匠だった上に鬼畜だとすれば、そんじょそこらの弟子風情には手に負える筈が無い。
その鬼畜はこの世のものとは思えない美貌を喜色満面にしながらリンに微笑みかけた。
ギロチン。
それは斬首刑の執行具であり、歴史に名を残す革命時には何千何万という貴族や王族達の首を落としてきた処刑道具である。斜めに改良され、おもりのつけられた刃は他の処刑器よりも苦痛を与えないとされている――。
「よろしい」 セルゲイに唐突に遮られ、機械的に説明文を紡いでいたリンは口をつぐむ。
異様な緊張感だった。うっすらと完璧な微笑を称えるセルゲイにリンは問い掛る。 「……師匠。これ、どうしたんですか?」
「手に入れた。お前はこういうものが好きだろう?」
まるで愛しい者に対するような柔らかい手つきで断頭台を撫でながら、セルゲイはリンに流し目を送る。 「はぁ。研究材料としては興味深いですけど」
どちらかといえば、完璧にセルゲイ寄りの趣味だったが、それを口に出してしまうほどリンは馬鹿ではない。セルゲイが何かを企んでいるのが薄々予想できたから、リンは警戒しながらも肯定しておいた。セルゲイは小動物のようにびくついている弟子を前にして優美な笑みを浮かべる。それは胡散臭いほどに善良そのものだ。ただ、爛々と異様な輝きを放つ目は、当時の死刑執行人をまざまざと思い起こさせるほどに、鋭い。疑惑の目を向ける弟子に、セルゲイはその鋭い光を消し、長い睫毛がかかる目をふと伏せた。そうすれば彼の雰囲気は驚くほどに儚くなる。
「――弟子のお前の知的好奇心を満たし、その成長に貢献するのは師匠である私の果たすべき義務だ。これはささやかではあるがその義務を放棄していた償いの証、とでも言えば適切か」
受け取るがいい、とセルゲイは目で語る。 「セルゲイ師匠にはもう沢山の忘れたい思い出とか、非人道的な洗礼とか、その他もろもろ頂いているので別に」
いらないんですけど。
リンが続けようとした言葉は眼光の鋭さに尻尾を巻いて逃げ出す。鬼畜のもとで培われた自己の防衛本能が全く衰えなかったことにリンは呆れ、少しだけ感謝した。実のところ、セルゲイから物を貰うとろくなことがないし、リンは積極的に拒否したかった。しかし、無言の圧力に屈服させられてしまうというのはもはや仕様がないことなのだ。リンは人生経験上、そう諦めきっている。
「私がお前の為に遠路はるばる持ち帰ってきたものを、まさかとは思うが――受け取れぬ――とでも言うまいな?」
死神の鎌でも研いでそうな陰鬱さを垣間見せながらセルゲイはリンの反応を待つ。獰猛さを砂糖コーティングされたような目で射抜かれて、リンはありがたく頂戴いたします、と即答した。それにセルゲイは満足そうに頬を緩める。
「――お前の幸せが私の至上の喜びだ」
美麗な弧を描く口元を見ながら、師匠ってなんで口腐らないんだろうと、本人が聞いたら頭の骨砕きにかかるようなことをリンはぼんやりと思う。それでもセルゲイの完璧な美貌に一筋の傷でもつこうものなら、自分自身がショックを受けることにさえ彼女は気づいていない。しかし、それはただの机上の空論に過ぎなかった。リンの記憶の中でセルゲイが美しくなかった事実など存在しないのだ。そして恐らくこれからも。
リンは断頭台そばにしゃがみ込むと、まじまじとその拷問具を観察した。なるほど、確かに素晴らしいほどに強い負のオーラを纏っている。かなりの年代もののようで、これにより露に消えて言った貴族たちの断末魔が今もなお生々しく聞こえてくるようだ。
呪術系の魔術具として使うのには適しているか。流石は究極のサディストにして至高の黒魔術師。見る目は腐るほどあるらしい。
そんな感想を漏らしていると、がしゃん、という古い金属がぶつかり合う音がリンの耳に届く。そして首筋に背筋が凍るほど冷たい感触を感じた刹那、背中を蹴っ飛ばされてリンは断頭台の上に倒れこんだ。膝小僧を打ち付け、四つん這いになりながらも立ち上がろうとすれば、ずしりと重石のようなものがそれを阻んだ。嫌な予感を胸に、首を少し無理な形で捻りながら見上げれば、案の定、人間離れした美貌に微かな愉悦を滲ませたセルゲイがこちらを見下ろしていた。ぞ
ぞぞとリンの背中を悪寒が駆け抜ける。僅かに滲む額の汗を意識しながら、リンはじっとセルゲイを見返した。 「師匠、これはいったいなんのつもりでしょうか」
胡乱な弟子の視線を心地よい木漏れ日のように受けながらセルゲイは目を細める。
「リン、東洋には百聞は一見にしかず、という諺があるのは知っているな」 「まさか」 「そういうお前の理解の早いところは気に入っている」
セルゲイはすべらかな己の顎をさらりと人差し指で撫ぜると満足そうに笑みを深める。どうやらリンにとって残念なことに、セルゲイは本気のようだった。
「あの師匠。これ十中八九で死に到るような気がしますけど」 「心配するな。少しばかり首が胴体を離れるだけだ」
「ああ、それなら安心……ってできません師匠」
生理的な涙を滲ませながら、リンは己の境遇を儚んだ。何故こう重要なときに自分の代わりに生け贄……もとい主を守るべき存在である使い魔がいないのか。そういえば数日前、懲りずに戦いを挑んでいた黒い烏が簀巻き状態で封印されていたのをリンはうっすらと思い出す。そこから解き放つことも出来なくはなかったが、命に別状はないという判断と自己保身からリンは当然の様に傍観を決め込んだのだ。まぁ、つまりは妥当にリンの自業自得というわけだった。
「それでは我が弟子リンよ――vale」
ぶつりと紐は切られ、解き放たれた刃がリンの華奢な首筋へと襲い掛かる。己の運命を諦めきっていたリンは目をそっと閉じ、その最後の時を投げやりに迎えた。
ばしっ、という何かが弾け飛ぶ音とともに白煙が小屋の中に立ちこめる。激しく咳き込みながらその中から姿を現したのは漆黒を身にまとった少年
――ホンであった。体のいたるところには、茨のようなもので傷つけられたのであろう、痛々しい爪痕が残っている。紅の瞳には押さえがたい怒りが渦巻いていた。
「……どこにいるのさ。腐れ黒魔術師」
体から怒気を発散させながら、ホンは掠れた声で唸る。そうして顔を上げたホンの目に飛び込んで来たのは、誰かの組まれた足だ。ここでいう誰かに該当するのは一人しかいなかった。ホンほどの上級悪魔を手玉に取り、あっさりと魔具に封印した憎むべき相手――セルゲイである。
通常なら外部から魔術師によってかけられた封印など、力づくで破れる代物ではない。しかし、セルゲイがかけた封印には僅かな綻びがあり、それを見逃すようなホンではなかった。セルゲイに対する並外れた執念が、ホンを脱出せしめたのである。
ホンは激情のままに攻撃しようと魔力を練る。前に突き出した片手がその凝縮した力を今にも放たんとしたとき、セルゲイはホンの存在に気づき、その美貌にうっすらと笑みを刻んだ。
「鳥畜生か。随分と遅かったな。大口を叩いておきながら貴様の力、所詮はその程度か」 ホンの掌に集約されていた魔力は霧散する。
その言葉からホンは、セルゲイが故意に封印に綻びを作っていたことを理解した。自分が完璧にセルゲイの掌の上で踊らされていたことに血が沸騰するほどの怒りを覚えたが、攻撃の手を止めたのは別の理由――それは驚愕からだった。
気づいてみれば、椅子にかけているセルゲイの膝の上には誰かが腰掛けていた。そして両手はセルゲイの首の後ろにまわされ、べったりと張り付くような形で抱きついている。セルゲイは抱き返しこそしていなかったが、頬杖をつきながらこちらを見返す表情には愉悦が滲んでいた。
「……マスター?」 なにやってるのさ。
という言葉は続かなかった。ホンの言葉を受けて振り向いたリンは見たことの無いような顔をしていた。ゆるやかに吊り上げられた唇に媚びた笑み。ホンが知るリンという少女には不似合いすぎる蠱惑的な表情。警戒心をむき出しにしながらホンは唸った。
「――誰」 そう問いかけると、セルゲイは面白そうに鼻を鳴らす。 「さすがに愚鈍な使い魔と言えど、気づくか」
「どういうことっ、答えなよ!」
くつくつと笑うセルゲイにホンは噛み付く。そんなホンの様子など意に介さぬ様子で、セルゲイはふっと視線を移す。それを追いかけたホンの目に映るのは拷問具――ギロチンだ。セルゲイは愉快そうな色を隠す様子も無く口を開いた。
「貴様の主人は取り付かれたようだ――悪霊にな」
「お初にお目にかかりますわ。私の名前はマリア。マリア・ドロテア・ファン・ベルニエ=パルマよ。セルゲイ様ってば酷いですわ、わたくしのこと悪霊だなんて」 ふわり、とホンに対してお手本そのままの優雅なお辞儀をすると、リンの姿をしたマリアはセルゲイを振り返り拗ねたような視線を送る。その媚を含んだ態度にホンはどうしようもなく腹がたった。どんな経緯があってリンが悪霊に取り付かれたかホンにはわからなかったが、原因の一端がこの性格破綻黒魔術師にあることだけは明白だ。それにも関わらず、悪霊に取り付かれた弟子を前にして、セルゲイは感情の読み取れない薄ら笑いを浮かべるだけで、リンを助けるどころか心配しているそぶりすら見せない。 そんな二人をねめつけて、ホンは押さえつけたような唸り声を上げる。 「名前なんてどうでもいいよ。それよりとっととその身体から出て行ってくれる?」 「あら、久しぶりに生身の身体を手に入れたんですもの――少し未発達なようですけど。今しばらくは楽しませていただくつもりですわよ。私」 「そんな勝手が通ると思ってるわけ?」 ホンは激昂しマリアに食って掛かるが、見た目は柔和そうな女でも相手は永き時を経て力をつけた悪霊である。ホンの非難を一笑にふせた。 「永遠に居座るなんてこといいまして? 少しの間でいいの。私の気が済むまでの短い時間、この身体をお借りしたいと言っているだけなのに――それさえも許されませんの?」 最後の台詞とともに漆黒の瞳にじわりと涙が浮かぶ。それを目にしたホンはリン本人が泣いているのではないと頭ではわかっていながらも動揺した。たじろぐホンの様子に、マリアは狡猾そうに目を光らせる。 「貴方には私は追い出せないわ。この体は今は私のもの。貴方も諦めて? 私もできればこの子の顔や体に傷をつけたくないの」 明らかに脅しと取れる言葉を吐くマリアを睨みつけ、ホンは感情を押し殺しながら呻いた。 「マスターの身体に傷ひとつでもつけてみなよ――八つ裂きにしてやる」 「ああら、怖い。麗しき主従愛ってところかしら。でもお生憎様」 わざとらしく怯えた振りをしながらマリアはセルゲイにしな垂れがかった。セルゲイは仮面のように端整な顔をぴくりとも動かさない。マリアはことりと首を傾けながら可憐に笑った。 「私は幽霊よ。殺せるものなら殺してごらんなさい? その時はお仲間がお一人増えるだけだわ。とびっきり若いお仲間が、ね」
狭い小屋の中には薫り高い紅茶の香りが充満していた。 外観は変わらず陰気で古びたほったて小屋といった風情だが、中を覗いてみれば、以前とは様変わりしているのが一目瞭然だ。真っ白な絹糸で編み込まれた透かしレースが部屋の至る所に使われ、悪趣味一歩手前の豪奢な雰囲気を作ることに成功している。 椅子の上に上品に腰掛けながらティータイムを楽しむのは一人の少女。彼女が身に纏うのは、その髪の色と同じ漆黒のドレスである。時代錯誤とも思えるほどに締めあげられた腰は細く、そして繊細なレースで縁取られた胸元はその肌の色と相まって危げな魅力を見せる。その人工的な真紅の唇が弧を描く様は蠱惑的で、人ならざる色香を兼ね備えていた。 遠い異国から取り寄せたアンティークのカップを少女が優雅な動作で突き出せば、その命を受けてのろのろと歩み寄ったのは、執事が着るような黒の燕尾服を身につけた少年であった。少年は印象的な赤い瞳をいらだちで歪めながらも、空のカップに視線を落とす。そして銀色のポットから注がれる紅茶を”マリア”は満足そうに見ていた。 ありがとう、とうっすらと微笑んだマリアに少年――ホンは怒りを押し殺した声でうなる。 「ねぇ、いつになったら、マスターの体から出ていくのさ。僕にも我慢の限界ってものがあるから」 「ホンちゃん、あまり怖い声出さないでくださる? 何度も言っているように、私が満足できたら、この体には傷一筋もつけず元の持ち主にお返しするわ」 確かにそういう約束を交わしたのを一言一句覚えているが、自由気ままに振る舞っているマリアを見ていると、このまま出てく気はないのではないか、という疑いが何度も頭を過ぎる。 人型になれといったり、かと思えば、悪趣味な衣装を着せかえ人形のようにとっかえひっかえ着せられて、そろそろホンの堪忍袋の緒は切れかけていた。しかも、諸悪の根元となった人格破綻鬼畜魔術師は煙のように姿を消しており、その無責任さにホンは殺意を覚える。 わかってはいたが、あの男は自分の弟子の窮地に陥っている関わらず、弟子を助ける気は微塵もないらしい。どうにかして自分の主人を救い出したいと思うが、マリアがリンの体に居座っている限り、ホンには手も足もでない。八方塞がりだった。 暗澹たる気持ちになり溜息を吐けば、それをみていたマリアがクスリと笑う。不愉快さを隠さずにホンが睨み付けると、マリアは皮肉げな笑みを浮かべた。 「あなたにとって私って大切な主人の体を奪ったあげく、自分をこき使う酷い女ってとこかしら」 何を今更、と鼻を鳴らしたホンに、少しだけ昔話をしましょうか、とマリアは鬱蒼と笑う。 「私はある裕福な貴族の家に生まれたわ。お父様とお母様とお兄様、絵に描いたような幸せな家庭だった」 そこでマリアは言葉を切って、暗く光る目を向ける。 「……だけどあの日、革命が起こったの。燃えるお屋敷に、聞こえてきた悲鳴は今でも耳に残ってる。お父様はその場で、よってたかって家畜のように串刺しにされたわ。そして。そして、私達は牢獄にとじこめられ、一言の弁解する余地なく首を切られた! あの、おぞましい器具で!」 狂ったように独白を続けるマリアはさながら舞台の上の役者のようで、その鬼気迫った表情は観客の背筋を凍らせるには十分な迫力を帯びていた。苛烈な火を灯したマリアの瞳が涙に歪む。 「私は惨たらしく断罪されて、首を切られるほどの罪を犯したのかしら? あまりにも唐突に命を奪われた私の願いは一つだけよ――ただ、生きたかっただけなの、少しでも長く。そう切望してきたところに与えられた機会を、精一杯楽しもうと思うのが罪になって?」 長閑なこの国に居ると忘れがちだが、遠国では長い歴史の中で幾度となく革命が起こったという。 圧制に苦しめられた農民が、権力争いに破れ落ち延びた王族が、血を血で洗う争いを繰り返す――人間というのは本当に愚かだとホンは思ったものだ。 目の前のマリアもその波に飲み込まれて果てた一人なのだろう。いつものホンならば自分には関係ないことだと片付けていたが、その時は何故か言葉を発することが出来なかった。姿形だけでもリンが泣いているということだけで、ホンはその感情に引き摺られる。 涙で頬を濡らしたマリアを凝視しているホンに、彼女はゆっくりと近づいた。冷たい掌がそっとホンの顔を挟み込み、震える黒い睫が目前に迫る。そのぬばたまに捉えられたホンは、しっとりとした唇が開くのを漫然と見ていた。そしてその唇が触れるか触れないかという時、部屋の中のものを全てなぎ倒すほどの突風が巻き起こる。
薄緑色の霧のようなものに包まれ、現れたのは忽然と姿を消していたセルゲイであった。 ふわりと霧がセルゲイの周りを旋回し、威厳ある老人を形作る。老人――精霊王エルフィーロはマリアに取り付かれたリンを見ると呆れたように首を振って、セルゲイを睨みつけた。その視線を受けてセルゲイは面白そうに頬を吊り上げる。 「精霊王、何か言いたげだな」
《相変わらず、お主の悪趣味さは目に余るな――》 「精霊王直々にお褒めの言葉を賜るとはな。感激の余り、卒倒しそうだ」
《よくもまあ言えたものだ――まぁいい。我はもどるとしよう。あまり弟子を可愛がりすぎるなよ》 御意に、とふざけた口調で答えたセルゲイに、エルフィーロは不愉快そうな表情をしながら消えうせる。身を起こしたホンは体中に走る痛みに顔をゆがめながら、倒れているマスターに駆け寄った。命に別状はなさそうな傷ばかりだと確認してから、ホンはセルゲイに食って掛かる。 「のこのことよく顔を出せたもんだね! 今にしたってマスターが死んだらどうしてくるのさ!」 秀麗な眉をそっと顰めて、セルゲイは喚く小僧から興味なさそうに視線を外す。そして荒れた部屋の内装の俗悪さにさらに不快感を示した。 「くだらないままごとを続けているようだな。鳥畜生」 「っっ……! マスターを救う努力もせずに出てったアンタに言われたくないね!」 「悪霊に誑かされて精気吸い取られるのが、貴様の言う"救う努力"か?」 セルゲイは凍るような声でホンを見下す。そして、激昂し襲い掛かろうとしたホンに掌を向け、握りつぶすように拳を握れば、ホンはセルゲイの魔力に捉えられ床にのた打ち回った。 痛みで呻くホンを詰まらなさそう睥睨して、セルゲイは倒れていた少女に声をかける。 「気がついているのだろう、起きろ」 「セルゲイ様――わたくしのこと、悪霊だって呼ばないで下さる? これで二度目ですわよ?」 人形が唐突に息を吹き返したかのように黒いドレスを纏った体を起こし、マリアは艶然と微笑んだ。セルゲイは謝罪の言葉を口にするでもなく、何を考えているかよくわからない無表情で佇んでいた。そしてマリアは、身を整え跳ねるようにセルゲイに近づくと、優雅に会釈をして見せる。 「おかえりなさいませ。セルゲイ様。旅行は楽しかったかしら。何かおみやげを期待してもよろしくって? セルゲイ様がいらっしゃらなくて、わたくしとても寂しい思いをしていたんですのよ? これからはしばらく一緒にいられると嬉しいのだけれど」 マリアの媚を孕んだ視線を受けて、セルゲイは冷笑した。 そして、厭いた、と端的な言葉を発したセルゲイに、マリアは首をかしげながら純粋無垢といった顔で聞き返す。次の瞬間、青白い手がリンの首を締め上げ、その表情は苦痛に歪んだ。
「愚鈍な輩と口を利くのは億劫極まりないな――茶番は終わりだということだ」
背筋が凍るような声で囁くと、セルゲイはますます手に力を入れる。それでもマリアは無垢な態度を崩すことなく、上目遣いでじいっとセルゲイを見上げる。 「セルゲイ様、まさか私を殺すおつもりじゃないわよね? いたいけな少女の命をふたつも奪うおつもりなのかしら?」 「私がそこの鳥畜生と同じように陳腐な身の上話に同情するとでも思っているのか。悪霊なら、リンに血反吐を吐かせてとり殺すぐらいやるかと思えば――ただ生に執着するなど醜悪、かつ独創性に欠けている。つまり、貴様では私の退屈は到底、紛らわせんということだ」 眉を顰めながら呟いたセルゲイは、落胆を滲ませ深々と溜息を吐いた。そして面倒くさそうに装飾具をマリアの頭にかける。その皮膚が焼けるような感触にマリアは叫び声をあげた。聖別された銀。それは悪しき物にとって致命傷とも成り得るものだ。弟子が悶え苦しんでいる様を目の前にしても、たいして心動かされること無く、セルゲイは首を傾げる。それは幼子が物を尋ねるときのように無垢な空気を纏っていた。しかし、その紺碧の瞳だけは嗜虐的な色を隠しきれていない。 「しかし、解せんな。私がこれの命を奪うことに何の問題がある」 それが至極当然のように呟いて、セルゲイは顔を歪ませるマリアを見下した。 「もとより、これの命も、これの知識も、これの体も、これを形成するもの全ては私のものだと決まっている。絞め殺そうが焼き殺そうがそれは私の自由だ――しかし、貴様はその私の所有物に手を出した。よもや楽に消滅できるとは最初から思うまいな?」 セルゲイが貼り付けた表情は恐怖を湧き上がらせるほど壮絶に美しい。 狂ったような悲鳴が耳をつんざき、リンの体からは紫色の靄のようなものが抜け出す。セルゲイは詰まらなさそうに腕を振り上げ、それはいとも容易く小さな小瓶に吸い込まれていった。 「他愛無い。あれだけ耐久性が低くては使い物にならん」 忌々しそうに舌を鳴らし、セルゲイは至極自然にリンの頬を往復ではり付けた。 そして、薄く目を開けたリンと、その林檎のように膨れた頬に満足げに頷く。その微笑みは宗教画の天使のように清らかだが、行いはどこまでも非道である。 「ようやく起きたか不肖の弟子め。私を退屈させるとは万死に値する」 「師匠。頬がひりひり痛いのですが。それと首が絞殺一歩手前といった具合に締まっています」 「師自らお前を介抱してやったというのに開口一番がそれか? どうやら毛を一本残らず毟る、という起こし方のほうがお気に召すようだな。弟子の趣向を知るのも師の至上の喜びだ。肝に銘じておこう」 唇の端を少しだけ吊り上げて微笑んだ顔は美しいが、薄皮一枚下には死神がいる。 下手なことを口走ればすぐに縊り殺されることは明白で、リンは謝罪と感謝の言葉を呪文のように詠唱した。 「もうよい――お前が無事であったことに、今はただ感謝することにしよう」 その言葉だけを聞けば弟子を心配する師匠という美しい構図ができあがるが、浮かべた表情はまったく不釣合いである。相変わらずリンの首を締め上げているセルゲイは妙に上機嫌な様子で口を開いた。 「さぁ、感動の対面を済ましたところで――言い訳を聞こうか。故意に悪霊に自分の体を明け渡した件についてだ」 「……師匠、一体何のことでしょうか」 「あくまで惚けるか。その厚顔無恥さだけは評価に値するが、学習能力の無さは致命的だな」 首を絞められながら和やかに歓談する師弟は傍から見ると異常だが、それはこの二人にとって日常茶飯事だったことだ。リンも墓穴を掘らないようにぱちりと目を瞬かせたが、セルゲイは舌なめずりをする蛇を思わせる狡猾さで弟子を追い詰める。 「私の弟子たるものが、あの程度の悪霊に取り付かれるような脆弱な精神をしているとすれば、それは甚だ遺憾であるな――まさかとは思うが、師である私を避けるために引き篭もっていたわけではあるまい」 「まさか。ししょうそんなはず、あるわけないじゃないですか」 明らかに腹話術の人形のように言葉を紡ぐリンの目は死んでいる。恐怖で震える肩をセルゲイは片手で酷く優しく抱きなおして、優しげな声色で語りかけた。 「リン、お前の惰弱な精神を鍛えるために、私は協力を惜しまぬつもりだ。こんな事もあろうかと、骨身を削って、古今東西から遙々、お前のためだけにおあつらえ向きなものを調達してきた」 セルゲイが優雅に指を鳴らすと、重たい金属がぶつかる音が聞こえ、床の上には集めてきた拷問具が山をなしていた。セルゲイが居ない間、何をしていたのか明らかになってしまったが、それはリンにとって全く救いになるはずも無い。 セルゲイは、ふわりと陽だまりの様な笑顔を向け、弟子の首をきゅっと優しく絞める。
「始めようかリン――また取り付かれるようなことがあれば、聖水を私自ら飲ませてやろう。ああ、溺死はせぬ程度に留めておくから安心するがいい」
山のように盛り付けられた拷問具よりも何よりも、一番怖いのは。 首と胴体が離れてしまうよりも酷い目に会う勇気がないのならば、口にするべきではない。 ――とリンは後に語る。

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