子供の頃、秀が読んだ童話よると。
王子は攫われたお姫様の為に、身を粉にして戦わねばならない、というのが物語の様式美だった。
王子って大変。俺には到底無理だろうな、と秀は幼心に思っていたのだが、コンクリートジャングルもとい現代社会に生きていれば、竜と戦ったり、悪い魔女をやっつけたり、などという事柄にぶち当たる訳も無い。
――けど、幼馴染は助けを待つお姫様よりもヒーローに成りたいって言っていたっけ。
胸倉を捕まれ、背中をブロック塀に叩きつけられながら、秀はぼんやりとそんなことを思い出していた。
目線を下にやれば、無い眉毛を思い切り顰め、こちらを睨みつける学ラン姿の男とかち合う。その目に宿る憎しみを確認して、あと五発ぐらいは殴られるだろうな、できれば痛いのは嫌だな、と秀は淡々と未来を思い浮かべる。
この男は、もしかしなくても秀を嫌っているらしい。
女を寝取られたうんぬんかんぬん、と理由を述べていたが、秀の身に覚えはない。脳味噌をひっくり返してみれば、心当たりが無いわけでもなかったのだが、"取った"という感覚がどうもピンとこなかったのだ。
あくまでもポーカーフェイスを崩さない(というより表情筋が未発達で崩せない)秀に、男は怒りを煽られたようで、秀の頬に拳を叩きつけた。ぶつかりあった骨が、ごり、と鈍い音を立てる。
痛い、というより熱い、と感じた頬に手をやると、トマトの汁のような赤が指先に付着した。
切れた、と無感動に認識し、秀は袖で口元を拭う。シャツの白を汚していく色に、秀は初めて顔を歪め、思わず声が漏れた。
「しまった。服を汚すとチヨに叱られる」
特にそれが血痕だった日には、脳天を突き刺す勢いでがみがみ言われることは想像に難くない。最悪の場合、口も聞いてもらえないかもしれない。秀が絶望を漂わせながら言葉を零すと、男はますます激昂して、掴みかかってきた。
秀は、目の前の男が少し情緒不安定なんじゃないかと心配になる。
振りかぶられた拳を諦めと共に見つめていると、それが降ってくる前に、凛とした声が空気を裂いた。
「秀、やっとみつけたわ! あんたたち、なにやってんの!」
あ、このシチュエーション、懐かしいかも。
そんなデジャヴを感じたのも束の間。颯爽と現れたのは、秀の幼なじみ、金城千夜理である。頬に絆創膏を貼った千夜理は片手に持った金属バットにもたれながら、荒い息を吐いていた。帰り際に拉致された秀を探しに来てくれたんだろう、というのは決して秀のうぬぼれではない筈だ。
千夜理は、秀をねじあげている男を睨みつけ、持っていた金属バットを勇ましく持ち上げる。
「そこのアンタが怒っている原因が、秀にあるってことはわかってるけど、秀を一方的に殴るってのは違うんじゃない?」
「うるせぇな! てめぇはすっこんでろよ! てめぇも痛い目にあいたいのか!?」
激昂している男が千夜理を威嚇したが、同じように頭に血が上っている千夜理は無鉄砲そのものである。
「冗談、あいたいわけないでしょ! 何回痛い目にあっても学習しない秀じゃないんだから!」
さらりと嫌味を言った千夜理は秀のほうに向き直った。
「ねぇ、秀もなんでこの人が怒ってるかわかってるんでしょ? しっかりちゃんと謝った?」
急に問いかけられ、秀が首を横に振ると、千夜理に鋭い視線で睨まれる。
プライド? なにそれ、チヨに関係するもの? な秀にとって謝罪の言葉を述べるのに一切抵抗はない。そこに全力で気持ちをこめろと言われたら当惑してしまうが。
あっさりと謝った秀だったが、男は憤懣冷めやらぬ面持ちで、秀を胸倉を更に締め上げる。
これ以上、どうすればいんだろう、と千夜理に視線で助けを求めたが、呆れたように見返された。
「……気持ちはわかるけど、とりあえず、本人謝ったし、それなりに痛い目にもあったから許してくれない?」
「こんなんで俺の怒りが収まるわけねぇだろ!? 馬鹿にしてんのかっ!」
「それ以上、秀を殴るってんなら私が黙ってないから」
金属バットを構えて、目を尖らせた千夜理が男に向かって言い放つ。
そんな一種即発の空気の中、男の持っていた携帯電話が着信を知らせた。舌打ちをしながら、通話を始めた男は、困惑したような表情から、徐々に怒りが解けてきたようだった。そして、通話が終わってボタンを切った男は、乱暴な動作で秀を開放する。
「チッ、これからは人のもんに手ぇ出すんじゃねぇぞっ! クソが!」
秀はそんな捨て台詞を残して踵を返した男を見送った。やっぱり情緒不安定だな、と思っていると、駆け寄ってきた千夜理に肩を掴まれる。
「秀、大丈夫? 殴られた以外に、怪我はないでしょうねっ!?」
必死な顔の千夜理に、掌を掴まれてひっくり返されたり、腕を折り曲げられたり、顔を掴まれて検分されたり。
自分が人造人間にでもなったみたいで、秀は少し可笑しくなる。くすり、と笑った秀の様子に無事であることを確信したのか、千夜理は心配からか垂れ下がっていた目を、みるみると釣り上げた。
あ、鬼チヨだ。
幼稚園の頃の呼び名がふと浮かんできた。
「あんたね、ほんっとうに馬鹿? 馬鹿なの? 馬鹿なんじゃないのっ!? のこのことこんなところまでついてきて、仲良く二人でお話でもする気だったの!? 私がこなかったら、その顔、アンパンマンレベルどころじゃなくて腫れてたんだからね! 一発で済んだなんて奇跡よ! 奇跡!」
顔を真赤にしながらお説教をする千夜理を目の前にして、彼女の世話焼きぶりに秀は感動すら覚える。もとより、普段から千夜理の説教は馬耳東風である。
幼なじみだとしても、ずっと面倒を見る義理も責任も無いのに。千夜理は本当に自分の母親の言葉や、近所に生まれたというちっぽけな偶然ひとつで、ここまで世話を焼いてくれるのだろうか。そうだとしたら、とんだお人良しであるし、そんな情に極端に厚い千夜理のほうが危なっかしいと秀は思う。
「でも、チヨは探しに来てくれた」
妙に幸せな気分になって自然と表情筋が笑みの形を作れば、千夜理は毒気を抜かれたように深い溜息を吐いた。
「ほんっっとうに、あんた、反省してる? あんたいつか、ずぇえっったいに刺されるんだから」
千夜理は怒りが収まらない様子だったが、ふと、秀は千夜理の頬に貼られた絆創膏に手を添えた。傷は新しいのか、千夜理は触れられたことに顔をしかめる。
「この傷、どうしたの?」
「ああ、これ。件の彼女に、秀にも非はあるだろうけど、だからって秀一人に責任を押し付けるつもりなのか! って詰め寄った時の……ほんとに電話かけてくれるかわからなかったけど、間に合ってよかったわ」
一応、闘う覚悟はしてきてたけどね、と胸を張って言い切った千夜理に秀は思わず吹き出した。
なにわらってんの! と憤慨する千夜理に心のこもらない謝罪をしてから、秀はあたたかい気持ちに突き動かされるように千夜理を抱きしめる。
殴られて痛かったし、怖かったから、少しだけ抱きしめさせて。
半分以上が嘘っぱちの理由を並べると、アホか自業自得だろう、と説教交じりに頭を小突かれる。それでも、少しの間じっとしてくれるところが、千夜理の甘っちょろいところである。
秀のために身を粉にして戦ってくれるお姫様。
そんな呼び方をすれば、また怒られるのは目に見えているが、秀は想像の中で、千夜理の頭の上に金色に輝く王冠をそっとかぶせたのだった。
世界で一番王子様!
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御礼&蛇足という名の後書き
ゆうきさんに頂いてしまった、弟! の千夜理のイラスト! 制服に金属バットという組み合わせに噴いた(笑)勝気そうな表情とか、すっごくらしくて、もりもりと想像力が膨らみました。王冠だけ色を変えてあるところも小技がきいててにくい。
ゆうきさん、すごく素敵なイラストをどうもありがとうございました!