十八話 / ワッツ・アップ?
青々とした山は遥か遠くまで続いている。前方を走る成田家の車は陽光を反射し黒々と輝いていた。
開いた車の窓からは、爽やかな風が吹きこんでいる。軽快に走る車に背中を預けながら、千夜理は膝の上でお利口にしているチロルの頭を撫でていた。運転席に居る父親と助手席の母親は和やかな会話を交わしていたが、千夜理はそこに加ることもせず、不機嫌にぶすくれていた。唯一、すさんだ心を慰めるのは可憐かつ純粋なチロルの曇りなき眼だけである。
みっしり。
車内の後部座席はその一言に収束される。
隣にはルーファウスが体を強張らせながら座っていた。理子に言われてから覚悟はしていたから、そこまでは千夜理にも異論はない。しかし、一番腑に落ちないことは、何故、千夜理を挟んで左側に秀が当たり前のように収まっているのだろうか。
千夜理の手のかかる幼馴染、秀は長い脚を窮屈そうに折り曲げ、縦にも横にも場所を取っている。手の中にある何袋目かとも知れない熊ちゃんグミを延々と食べ続けており、見ているだけで胸焼けがしてきそうだ。車内には人工的な甘い香りが漂っており、次の袋に手が伸びるときは、流石にストップをかけようと千夜理は決心していた。
なぜ今回に限って、秀は金城家の車に乗り込んできたのかが、千夜理には解せなかった。幼い頃は「ちよといっしょにいたい」というたわけた理由から、後部座席で一緒に座って旅行に連れていかれていた記憶もある。しかし、何時だっただろうか、千夜理がきっぱりと拒否したのだ――旅行中もべったりなのに移動時間まで子守してたまるか、というのがその理由である。その時、散々ごねられたことは言うに及ばないだろう。
しかし、今年はどうしたことか、秀は初めからそれが当たり前だったかのように、金城家の車に乗り込んでいた。千夜理が文句を言っても縦板に水。主体性が無いように見える秀だが、こうと決めた時の頑固さを知っていた千夜理は、その巨体を引き摺りだすわけにもいかず、早々に諦めたのだった。
一体、どういうつもりなのか。秀の事だから、気まぐれってこともあり得るけど、それにしては、様子が変な気もする。まぁ、二人ってのも気まずかったから助かったとも言えなくもないが。
もそもそと、どこか小動物のような動きで咀嚼していた秀は、千夜理の不審げな視線に気づけば、にこりと嬉しそうに頬を緩めた。
「チヨ、食べる?」
鼻先に突き出されたグミに千夜理が首を振ると、秀は引き下がらず、眉間に皺を寄せる。
機嫌が悪いのか、めんどくさいな。
幼馴染のむくれた気分を感じ取ると、千夜理は嘆息して、はい、と口を開けた。すぐに破顔した秀は、首をことりと傾けて、嬉しそうに千夜理の口の中にグミを運ぶ。ひな鳥に餌でも運んでる気分なのだろうか――こんな頼りない親鳥、絶対に嫌だ。
「チヨ、あーん」
「……」
「美味しい? もっといる?」
「もういい。秀もあんまり食べ過ぎると夕飯、食べれなくなるよ」
「うん、わかった」
すぐに機嫌を直す単純さに、お前は幼稚園児か、と千夜理は毒づいた。
その時、横顔に突き刺さるような視線を感じて、千夜理は振りむいた。じっとりとした赤い瞳が物言いたげに、千夜理を見つめている。千夜理はたじろぎながらも、何、と問うた。
ルーファウスは口を開きかけたが、思い直したように唇を固く噛みしめる。
「――何でも、ありません」
きりきり、と怨念でもこもっているかのような雰囲気に、千夜理はルーファウスの嘘を確信したが、それにしてもこっちはこっちで不審である。いつもならば、猛然とした勢いで捲し立てているだろうに。
もちろん、あの時の仲違いが原因とも考えられるが、千夜理が話しかければ、無条件に嬉しそうな反応が返ってくると思っていた。それに千夜理はちくりとした胸の痛みを感じる。
誤魔化すように、千夜理は腕の中のチロルを抱きしめると、それを見咎めた秀が、心配そうに顔を覗きこんできた。
「チヨ、お腹痛いの?」
「は? いや、別に平気だから」
「ちょっと見せてみて」
「馬鹿、医者でもないのに見たからって分かるか。あんたね、それ普通にセクハラだから気をつけなよ」
腹部に伸びてくる右手を掴んで、千夜理は呆れたように言い含める。秀に一般常識を説いても無駄だとは思っているが、出来れば後ろに手が回るような言動は今のうちに矯正しておくべきだ。隣のおばさんを悲しませるのは千夜理も本意ではない。
うん、わかった。という素直な返事で秀は引き下がったが、千夜理が手を放そうとすると、逆に細くて長い指が絡みついてきた。千夜理は思い切り眉を顰めた。
「……なに」
「手、繋ぎたい」
「なんで」
「繋ぎたいから」
「理由になってないんだよこのすっとこが! 小学生の国語からやりなおしてこい!」
うっとうしいから放せ、と左手をぶんぶん振りはらおうとしていると、自由だった右手が急に鷲捕まれた。そのぞっとするほど冷たい手に、千夜理は嫌な予感がする。ぎぎぎ、ときしむ首を回転させれば、自分の右手は、秀のものではない左手と繋がっていた――おまえもか、ルーファウス。
「……あんたね。いや、あんたたち、いったいどういう」
意味不明な事態に困惑した千夜理がルーファウスに問いただそうとすれば、ルーファウスは千夜理の声が聞こえていないかのように、秀を睨み付けていた。その血のように赤い眼には、鬱蒼とした昏い憎しみを燃やしている。
「その手を離せ、下衆が」
「やだ」
「貴様ッ! 付け上がるのもいい加減にせぬかッ!」
みしり、という音を立てて、右手が握り締められ、千夜理は呻き声をあげる。殺気を漂わせていたルーファウスは、それに反応してはっと我に返った。
「兄上っ! 大丈夫ですかッ!」
千夜理の掌を食い入るように見つめ、怪我がないことを確認してか、ルーファウスはほっと安堵の息を吐く。意味もわからず手の骨を砕かれかかった千夜理は憤懣冷めやらぬ心地だったが、苦情を言う前に、聴いたこともないほど冷たい秀の声が耳朶を打った。
「自分こそ放すべきだ。チヨに怪我させる前に」
ルーファウスは唇を悔しそうに噛み締めたが、秀の言葉に従う気はさらさらないらしい。千夜理の掌を再び――さっきより用心深く――包み込んだ。
これ、いったいなんの大岡越前よ。
力加減によっては、手の骨が複雑骨折どころか消滅しても可笑しくはない。想像したらぞっとした。
前から決して仲が良いとは思ってなかったが、それはルーファウスが一方的に敵意を燃やしていただけであって、秀は相手にしてなかったようだから問題なんて起こらないと思っていたのに。己のあずかり知らぬところで、いつの間に火種が燃え上がっていたのだろうか。
前を行き来する、険悪な視線に千夜理は当惑しどうしだったが、ここで何があったかと問いただせる空気では到底なかった。それにこの雰囲気では強情な二人が理由を話すとも思えない。空気の読めない(もしくは読まない)人間の典型である母親が振り返り、手を繋いでいる三人を前に、微笑ましそうに目を細めた。
「あら、千夜理ちゃん。もてもてね。両手に花じゃない」
その魂の強靭さがいっそ羨ましいわ。
これから始まる旅行が暗雲立ち込めるものになろうことを、千夜理は予感したのであった。
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読んだよ!(拍手)
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