サワサワと庭の木々が揺れている。今夜は風が強いみたいだ。
「ただいまー…」
冬になると簡易的な寝床に変身する玄関先で、僕はママさんからもらった少し擦り切れた毛布の上に体を休めながら僕のご主人様でもある美弥ちゃんの声を聴いた。
大好きな美弥ちゃんの声に、僕のピンっと立った耳がピクピクと動く。
「わふっ!」
重い足取りで玄関の扉を開けて入ってきた美弥ちゃんに、僕は千切れんばかりに尻尾を振って『おかえり』の挨拶をする。
僕がそうすれば、美弥ちゃんはいつもにっこり笑って僕の鼻の頭に自分のほっぺたをくっつけてくれるんだ。
「あ、チョコただいま。ちょっとごめんね」
……はずなんだけど。
いつもなら僕の前にしゃがみこんでにっこり微笑んでくれる美弥ちゃんは、今日は疲れた声でそれだけいってさっさと家の中に上がってしまう。
奥から聞こえてくるママさんの声にめんどくさそうに返事しながら。
あれ? しんどいのかなぁ?
「遅かったじゃない。ほら、早くご飯食べちゃいなさい」
「はーい……」
元気の無い美弥ちゃんの声が、リビングのドアが閉まると同時に聴こえなくなる。
僕はこの大崎家のペットだ。基本的には「室外犬」というやつなので、庭にパパさん手作りの僕専用の家が用意されている。
でも、冬になると庭にある僕の家はすごく寒くなるので、大崎家の玄関先に毛布を敷いてもらって僕はここで夜を過ごす。
僕の家は突風だと飛ばされそうになるし夜は凍えそうに寒い。やっぱり人間の家のほうが何かと快適なんだ。
それに、ここにいれば大好きな美弥ちゃんがちょくちょく僕の顔を見に来てくれる。
美弥ちゃんは、ここ大崎家の長女だ。確か今は高校一年生だったかな。
一年前、道端に捨てられていた生まれたばかりの僕を拾ってくれたのが、この美弥ちゃんだ。
だから、僕にとって美弥ちゃんは絶対。一番大好きで、一番大切な女の子なんだ。
「チョコー。お散歩行きましょうね」
美弥ちゃんの少し元気のない様子を気にかけつつうつらうつらとしていた僕は、ママさんのそんな声で目を覚ます。
見上げると、散歩用のリードを手にママさんが僕に笑いかけていた。
あれ? 美弥ちゃんは?
「美弥はちょっとしんどいらしいから、今日はママと一緒に行きましょうね」
にっこり笑って僕の首輪に散歩用のリードを取り付ける。
やっぱり美弥ちゃんは調子が悪いらしい。さっきの様子でもだいぶん疲れた感じだったからなんとなく分かってはいたけれど。
「わんっ」
ママさんに連れられて、僕は外に飛び出す。
きーんっと冷えた冬の空気が、僕の顔にまっすぐぶつかってくる。
「チョコ。寒いわねー」
分厚いふわふわのジャケットを着込んだママさんは、僕にそう言ってから玄関の門扉を閉めてゆっくりと歩き始めた。
毎晩、夜ご飯が終わってから僕は散歩に連れて行ってもらう。その役目はいつも美弥ちゃんだ。
美弥ちゃんとの夜のお散歩は、僕の一日の中で一番ハッピーな時間なんだ。
軽快な足取りで僕の少し後ろを走ってくれる美弥ちゃんは、僕にとってちょうどいい速度っていうのを分かってくれる。
それに、途中の公園で少しだけ僕のリードを外してくれる。
住宅に囲まれた小さな公園は、僕のお気に入りの場所だ。アスファルトじゃない地面は、僕の足の裏に気持ちいい感触を与えてくれる。
でも、ママさんは町内をぐるりと歩いて回るだけで、僕のお気に入りの公園には寄ってくれない。
仕方ないんだけどね。ママさんはもう年だし。
薄い雲の間から白いお月様がチラリチラリと顔を出しているその下で、僕はママさんに連れられてゆっくりと夜の散歩を楽しんでいた。
美弥ちゃん、大丈夫かなぁ。
* * *
その日から三日間。僕は毎晩ママさんと町内を歩くことになった。どうやら美弥ちゃんの調子があんまりよくないらしい。
でも、毎日ちゃんと学校には行っているから病気じゃないみたいなんだよね。
今日だって、ちゃんと朝はいつもと同じように紺色の制服を着て玄関を出て行ったし、帰りもいつもと同じぐらいの時間に普通に帰ってきた。
でも、元気がない。
しんどそうっていうより、なんか悩んでいる感じだ。
いつもなら元気一杯で僕に『ただいまーっ』って言ってくれるのに、それがない。
小さくため息とかついちゃって、なんだか見ているほうも悲しくなってくる。
……美弥ちゃん、どうしたんだろう?
そんなことを考えていた僕の目の前に、散歩用のリードを手に持った美弥ちゃんがやってきた。
「チョコ。お散歩行こっか?」
玄関先でいつもと同じように毛布の上でうとうとしていた僕に、美弥ちゃんは笑顔で話しかけてきてくれた。
いつもみたいな元気はないけど、でも、やっぱり美弥ちゃんの笑顔は僕をハッピーにしてくれる。
「わんわんっ!」
久しぶりの美弥ちゃんの笑顔が嬉しくって、僕はおもいっきり尻尾を振ってそれに答える。
四日ぶりに僕にとって一日で一番ハッピーな時間がやって来た!
靴を履く美弥ちゃんの足元に鼻を押し付けて、僕は嬉しさを表現した。
「どーしたの? チョコったら」
くすくすと笑いながら、美弥ちゃんは僕のリードを持って玄関の扉を開ける。
途端に吹きつける、冷たい突風。
「ひやぁ〜っ。夜になるとほんっとに寒いねーっ」
冬の夜風はほんっとうに冷たい。でも、寒い夜だって美弥ちゃんと一緒に走ればすぐにあったかくなれるはず。
「んじゃ、行こっかーっ」
僕の首輪から伸びているリードを手に持って、美弥ちゃんはいつものお散歩コースを身軽な足取りで走り始める。
うんうん。やっぱり美弥ちゃんの速度は僕にぴったりだ。
もこもこの白いコートにピンク色の手袋をした美弥ちゃんに引っ張られるようにして、僕は夜の住宅街へと飛び出した。
見上げたお空にはぽっかりとまぁるいお月様が白く輝いている。今夜は雲が無いから白いお月様がよく見える。
いつもと同じコースを軽くジョギング程度に走っていた美弥ちゃんは、僕のお気に入りの公園が見えてくると同時に、走っていた足をゆっくりと止める。
あれ?
いつもの公園に行くんじゃないの?
「チョコー…。公園行きたい?」
「わふっ?」
公園を目前に控えた歩道の真ん中で、美弥ちゃんはしゃがみこんで僕の目を見る。
美弥ちゃんどうしたの? 公園に何かあるの?
「……行きたいよね。ママはこんなところに連れてきてくれないもんね」
「わんっ!」
公園には行きたい。だって、もう三日も僕の足の裏は土に触れてないんだもん。
でも……。
ちょっとだけ悲しそうで、でも何かを決意したような顔をしている美弥ちゃんを見ていると、なんだかそう思うことがいけないような気がしてくる。
美弥ちゃん、どうしたんだろう? 公園に何かあったかなぁ。
「だよね。うん。わかった! んじゃ入ろっか」
そういって、美弥ちゃんは勢いよく立ち上がってしっかりと左手で握りこぶしをつくる。
「逃げてばっかりじゃダメだもんね」
逃げる?
美弥ちゃんってば、何言ってるんだろう?
この公園に、何か逃げなきゃだめなものでもあったっけ?
歩き出した美弥ちゃんの少し後ろについて行きながら、僕は頭の中にある記憶をぐるぐると辿ってみた。
うーんと。
いつも公園に入ったら、すぐに美弥ちゃんは僕のリードを外してくれて……。
で、僕はいつも公園の片隅にある芝生の上で寝転がったりして一人遊びをしてたよなぁ。
その間、美弥ちゃんは何をしてたんだっけ?
……あっ!
そういえば、あそこのベンチで美弥ちゃん、誰か男の子と一緒にしゃべってたっけ?!
「大崎―っ!」
公園に入ってからやっと思い出した僕の耳に、一人の男の子の声が聞こえてくる。
美弥ちゃんを呼ぶ、若い男の子の声。
「……みっ……三宅……くん」
顔を上げると、美弥ちゃんと僕の目の前には美弥ちゃんと同じ年ぐらいの男の子が笑顔で立っている。
「最近どーしたんだよっ。ここに来ないからこいつの調子でも悪いのかと思ったぜ」
そういって、男の子は僕のほうを指差す。
なんだよこいつ。僕のことを『こいつ』呼ばわりしやがって偉そうなやつだなー。
……それより、気になったのは美弥ちゃんの態度だ。
このミヤケってやつが現れると同時に、美弥ちゃんのリードを引く力が強くなった。
隣にいる美弥ちゃんの、緊張みたいなものが僕にも伝わってくる。
「う、ううん。チョコは全然元気よ」
「そっかぁ? んじゃ大崎の調子でも悪かったのか? でも学校には普通に来てたよな」
話の流れ的に、どうやらこのミヤケってやつは美弥ちゃんと同じ学校みたいだ。
でも、ただ同じ学校ってだけにしては、すごく親しげだよな。
友達……なのかなぁ。
「うん。大丈夫。……それより、三宅くん?」
「ああ?」
美弥ちゃんのリードを引く力が、また少し強くなった。
声も、いつもより震えている。
「……葉山さんに告白されたんだって?」
「なっ! ……なんで大崎がそのことを知ってんだよっ?!」
ハヤマサン? なんかよくわかんないけど……美弥ちゃんのその言葉にミヤケは思いっきり動揺する。
小さな公園の外灯の明かりじゃちょっとわかりにくいけど、どうやら顔が赤くなってるみたいだ。
でも、口から出た言葉には、嬉しさのニュアンスが含まれていた。
「へへーっ。聞いちゃったもんねーっ。もちろん付き合うんでしょ?」
ミヤケのその表情を見た瞬間、美弥ちゃんは僕のリードを引く力を緩めた。
そして、さっきまでとは一転、いつもの元気な美弥ちゃんの口調でミヤケに話しかける。
「なっ! 大崎には関係ねーだろぉっ」
「そんなことないわよーう。あんたの恋の相談に乗ってやったのは誰だと思ってるワケ?」
「あー…。そうっすねー。大崎さんっすよ。大崎様っす。いやもうほんっと、感謝してますってばっ」
ミヤケはそういって美弥ちゃんに向かって手を合わせる。
冗談っぽく。へらへら笑いながら。
「ふふふ。でも良かったねーっ。おめでとう!」
いつもの元気な声でそういって、美弥ちゃんは僕のリードをもう一度強く引っ張る。
「それじゃ! あたし、この子の散歩の続きがあるからー。んじゃまた明日学校で!」
いつもの美弥ちゃんらしくない強引な引っ張り方で、僕はその場から引きずられるように動く。
元気な、元気な美弥ちゃんの声。
だけど――その声は涙でいっぱいだった。
リードを引っ張る美弥ちゃんの手のひらが、悲しいって言っていた。
「おっ……おいっ! 大崎?!」
突然そういって公園を出て行く美弥ちゃんの後姿に、ミヤケのすこしと惑ったような声が聞こえてくる。
でも、美弥ちゃんはその声を無視して、僕を引っ張って公園を出て行く。
ずんずんずん。
わき目も降らずに歩道を歩く。
最初は引きずられるようについていってた僕だけど、この速度なら全然余裕だ。
だから、僕は美弥ちゃんのそばに寄り添うようにして一緒に歩いた。
キィーンっと冷たい空気が支配する、冬の夜。
空にはまぁるいお月様。
車道には車は一台も走っていなくって、歩道にも人影はいない。
僕と美弥ちゃん、二人きりの世界。
その世界の中に、美弥ちゃんの悲しい気持ちがゆっくりと充満していく。
しばらく歩いて、ふと美弥ちゃんの顔を見上げると……。
「ちょこぉぉ〜。失恋、しちゃったぁ〜」
そこには、涙でぐしゃぐしゃになった美弥ちゃんの顔があった。
足元にまとわりつく僕を抱きしめるように、美弥ちゃんは歩道のど真ん中にしゃがみこむ。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、美弥ちゃんは僕の鼻を自分のおでこにこすりつける。
「大好きだったのにぃっ。三宅くんのこと、あたしのほうが先に好きだったのにぃ……」
かすれた声で、美弥ちゃんは小さく呟く。
すっごく悲しい、心の底からの叫び声。
状況はよくわかんないけど、きっと美弥ちゃんはミヤケに告白したハヤマサンっていう子より先にミヤケが好きだったんだろうな。
でも、ミヤケはハヤマサンっていう子が好きで……。
僕が公園の芝生で遊んでいるあの時間、美弥ちゃんはいつもミヤケの恋の相談を受けてたんだ。
僕にとって一日で一番ハッピーな時間だった美弥ちゃんとの散歩の時間は、美弥ちゃんにとっては辛くて切ない時間だったんだ。
「ーっっっ!!」
声を押し殺して泣き続ける美弥ちゃんの涙のしずくが、一つ、また一つと僕の足に落ちてくる。
美弥ちゃん。泣いていいよ。
大丈夫、今この世界には美弥ちゃんと僕しかいないから。
思いっきり泣いていいよ。
その涙をぬぐう術を僕は持っていないけど。
でも、美弥ちゃんの悲しい気持ちが全て流れ落ちるまで、僕はずぅーっとそばにいるから。
白いお月様の下で、美弥ちゃんは声を押し殺して泣き続けた。
悲しい気持ちが、僕の心に染み込んでくる。
大丈夫。
美弥ちゃんは一人じゃないよ。
何もできない僕だけど、僕は美弥ちゃんが大好きだから。
泣いていても笑っていても怒っていても。
僕はそのままの美弥ちゃんが好きなんだから。
「クゥン……」
美弥ちゃんの耳にむかって、僕は小さく鼻を鳴らした。
大好きだよって気持ちを伝えるために。
今はいっぱい泣いていいよ。
いっぱいいっぱい涙を流して、悲しい気持ちをゆっくりと薄めていってね。
僕はいつまでも一緒にいるから。
僕は、いつまでも美弥ちゃんが大好きだから。
散歩道
蛇足という名の感謝の叫び
「冬と夜と月をテーマにした動物が主人公のお話」という微妙なリクエストがこんなに愛しさのギュッと詰まった小説に。真冬さんに誕生日プレゼントとしていただいてしまいました。小説を書いていただけるだけで光栄なのに、この可愛さ!この胸のトキメキ!さぁ、皆さんで叫びましょうチョコ可愛いー!美弥ちゃん可愛いー!本当に年取って良かった。幸せでございます。真冬さん、誠に有難うございました!
真冬さんのオリジナル小説サイト「君のそばで会おう」はこちら!
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