
重たく澱んでいた空気が動き、冷たいなにかが遠慮がちに触れる。
朔は鈍く痛む額に添えられるものに、暫し心地良さを覚えた。
柔らかい水が注ぎ込まれるように伝わってくるのは、朔を純粋に心配し、労わる気持ちだ。
しかし、その慣れない感触、そして感情は朔にとってどこまでも異質なものだった。
重たい瞼をこじ開け、泥のような体を持ち上げると腕を振り、煩わしいそれを払いのける。濁り、淀んだ眼で辺りを見渡せば、どうやら朔は店の控え室のソファーに寝ていたようだった。どのようにしてここまで辿り着いたのか、その疑問に答えを見出す前に、朔はそこにいた人物に釘付けになる――田辺夏生は驚きに目を広げ、朔を凝視していた。そこにいたのが夏生だったという事実に刹那、朔の体は凍りつく。
倒れる瞬間にみた幻が、血と熱を通わせ手の届く位置に存在している。
それは、己の内なる願望を目の前に突きつけられたようで、その後ろめたさを朔は怒りで誤魔化した。夏生は払い除けられた手を所在なげに彷徨わせ、朔の強い視線に耐え切れずといった風に俯く。余所余所しい沈黙が二人の間には横たわっていたが、夏生は唇を一度だけ強く噛むとそれをそっと解いた。
「……睦月くん、大丈夫?」
か細く、力を欠いた声が夏生の口から零れだす。その掠れ声が空気を振るわせた瞬間、朔の肩は無意識のうちに跳ね、そんな己に対する苛立ちを隠すために朔は低く唸った。
「どうして、あんたがここにいる」
細心の注意を払ったが、殺し損ねた強い動揺が朔の声には滲んでいた。ふるり、と夏生の桜色の唇が震え、その瞳は困惑にゆれる。朔が払い除けたせいなのだろう。青い蛍光灯の元で幽霊のように見える白い手の甲は仄かに赤みがさし、それが朔の目にはいやに鮮烈に映った。
夏生は強い拒絶に驚き、そして傷ついているようだった。強張った肩と噛み締められた唇、先刻までは己の額に添えられていたらしい白いてのひらは硬く結ばれている。そして何よりも、揺れる感情をそっくりそのまま映しこんだ瞳が、朔をじいと見つめていた。
「あの、由紀が届けなきゃいけないものがあるって言ってたから、それで代わりに私が来たの。そうしたら睦月君が倒れたって聞いて――」
直ぐに消えてしまいそうな声で彼女は囁く。朔は未だ霞みがかっている頭を振り、激しい心臓の脈動を押さえ込むかのように自分の胸を掻き毟った。強く握り締めた白のYシャツは己の汗で僅かに湿っている。吹き出る汗を意識しながらも、朔は辛うじて呼吸を整え、そして切れ味のいい視線で夏生を睨みつけた。
「あんたは迷惑だと思ってる奴のお節介を焼くのが趣味なのか? 俺は、はっきりと言ったはずだ。俺の体調が悪かろうがあんたには関係ないと」
妙に早口になり、朔は耐え切れず夏生から顔を背ける。それは彼女が見せる反応を眼にしたくなかったからだが、指し示す意味を朔は無意識に考えないようにした。夏生が負った傷を確認するたび、破裂してしまいそうに胸が痛み、同時に昏い喜びが湧き上がる。直ぐにこの場から消え去ってくれと心の底から願っているのに、五感は嫌と言うほど研ぎ澄まされて、強制的に夏生にひきつけられる。それは肉体と精神が乖離しそうなほどの激しさだった。制御できない衝動を押さえつけるために、朔は唇を噛みつぶす。激しい痛みと共に、口の中には血の味が広がったが、朔は沈黙を保つことが出来た。そうでもしないと、何かを喚き散らして仕舞う、と朔は思った。
場は静寂に満ちたが、ふと、空気が動いた気がして朔は視線を落とす。そして、顔を上げた彼女と視線が合わさった。その瞳に宿った光の美しさに朔は刹那、総毛立つ。細められた眼差しが悲しげに揺れ、堪えきれない感情が茶色の瞳に薄い水の膜をひいた。
「睦月君は――睦月君は自分のこと少しも大事にしないから……私はそれが、つらいの」
朔は困惑すると同時に苛立ちを覚えた。自分のことをどう扱おうが、それは朔の自由だ。なんぴとたりともそれに口を出す権利などない。しかし、そう口に出してしまうのは意味もなく躊躇われた。
彼女は拳を胸の前できつく握りしめる。それは聖職者が祈りを捧げているようにも見えた。
「睦月君が、私のことを疎ましく思っているのは、わかってる。だけど、私が、他でもない私自身が、睦月君に関わっていたいの。こちらを見てくれなくてもいい。声をかけてくれなくてもいい。ただ、少しでも睦月君が、楽に息をしてくれれば――辛くなければいいの」
その囁き声は虫の羽音のように儚いものだった。しかし、夏生はつかえながらも、確固たる意志をもって思いを伝えようとしている。彼女が声を発するたびに、その視線を向けるたび――そして自分に触れるたびに――胸が音を立てて軋み、そして頭痛が酷くなるのは、偽善的な彼女の態度を不快に思っているからだ。それ以外に何か理由があるだろうか?
「またあんたお得意の同情か? 別に自分のことをどうしようが勝手だろう。俺のことは放っておけよ」
「……同情、なんかじゃない! 私はただ、睦月君に――睦月君の、ことが」
彼女の音。その音はいつだって朔の心臓を握りつぶし、堅く閉ざしたこじ開けようとする。凍り付いた何かをどろどろに溶かして蒸発させるのだ。その生温さが気持ち悪くて朔は吐き気に襲われる。そのぬるま湯に浸ってしまえば、朔は赤子のように腑抜けてしまうのではないか。そんな恐怖に駆られた。
こんな感情は知らない。知りたくもない。要らない。自分には必要ない。
そう自分に言い聞かせるが、朔は完全に感情のコントロールを失っていた。目の前が真っ白に塗りつぶされて、自分のテリトリーに踏み込んでくる夏生を、無遠慮に感情を揺さぶる彼女を、朔は心の底から憎んだ。
滅茶苦茶に傷つけてしまいたい。彼女の心を切り裂いて、その瞳が悲哀に染まってしまえばいい。この痛みを共有してなお、そんな偽善者面できる筈がない――その証拠にあのひとは、俺を心から恐れていた。蔑んでいた。
朔は唇をひきつらせながら、皮肉げな微笑みを張り付けた。そして、湧き上がる感情のままに夏生に手を伸ばす。骨ばった掌がゆっくりと夏生へと近づき、彼女は戸惑いの色を浮かべたが、何故か逃げようとはしなかった。その真摯な瞳に一瞬、朔がたじろいだが、それは凶暴な衝動を止めるまでには至らなかった。マグマのように熱く、暗く沸騰する感情が牙を剥く。
拒絶されるぐらいなら、俺から捨ててやる。
夏生の薄く華奢な首に手がかかった瞬間、不自然なほど大きい音を立てて控え室の扉が開いた。
反射的に視線を上げる。ドアの傍らにはシニカルな笑顔を浮かべた航が立っていた。しかし、その瞳には警告するような光が宿り、無言で朔を牽制している。
しっかりしろ、正気を取り戻せ、と音にならない声で確かに航は言った。
煮え立った衝動には冷水が浴びせられ、朔は強張った両手を引っ込める。ふ、と夏生が深い息を吐いたのが朔の耳朶を打った。
「――おっと、朔、気を取り戻したか? 大丈夫か?」
航が場違いなほど明るい声で問いかけてくる。それは恐らく単純に倒れてからのことを聞いているのではなかった。
彼女に危害を加える気は無くなったのか?
航は本当はそう聞きたかったのだろう。朔はそれに気づき、急に狂ったように笑いたい衝動に駆られた。まるで医者のように冷静な瞳で、航は朔と夏生を検分する。そして、取り敢えずは安心しても良さそうだと判断したのか、緊張を解き、おどけた顔をした。
「夏生ちゃん、お前が倒れてから、お前の代わりに店手伝ってくれてたんだからな。しかも、甲斐甲斐しくお前の様子まで見に来てくれてたんだ。しっかりと感謝しろよ」
恥じ入って顔を伏せた夏生が視界の端に引っかかったが、朔は無言を貫いた。航はそれに肩を竦めたが、朔の言いたいことは理解しているのだろう。それ以上は何も口にしない。
航は何か夏生に話しかけていたが、朔は居心地の悪さを振り払うように立ち上がる。しかし、脳の裏側まで照らすような強烈な光に眩暈を覚えた。顔を抑え手で光を遮断すると眩暈は収まったが、胸がむかつくような吐き気は留まっている。心配するように名前を呼ぶ航を、朔はきつく射抜いた。
「……大丈夫だっていっているだろうが」
「到底、大丈夫そうには見えないね。へろへろのバーテンなんて使えないぜ」
「うるさい。自分の状態は一番、自分が解っている――あんたも、もう帰れよ」
疑わしそうに眉を跳ね上げた航を無視して、木偶の坊のように動かない夏生に朔は苛立ちをぶつける。彼女と同じ空間に存在することが苦痛だった。これ以上、感情を乱されることには耐えられそうも無かったのだ。
朔の冷たい一言に、夏生はぐ、と息を呑む。一瞬、彼女は泣くのではないだろうか、と朔は思ったが、返ってきた反応は朔の想像を大きく裏切るものだった。
夏生は大きな空気の塊を飲み込むように喉を鳴らし、そして、きつく握り締めた拳には決意が宿る。吊り上げられた眉さえもが凛々しくて、暫し、朔はそれに見惚れた。
「睦月君は、ぜんっぜん、解ってないっ。だって、自分の状態がちゃんと解ってたら倒れないはずでしょう? 睦月君は……睦月君が勝手にするっていうのなら、私も、私だって勝手にするから! 私が手伝います! 今なら、私、睦月君よりしっかり働けると思いますっ!」
顔を真っ赤に染めながら夏生は一生懸命、怒っていた。全身で怒りをあらわしていた。
その感情は間違いなく朔にぶつけられたものだ。しかし、それは朔が良く知る、暗く淀んだ、うねるような陰鬱な怒りではない。花火のような、ともすれば爽やかさまで感じてしまうようなそんな感情で、朔は戸惑った。
何よりも彼女が――夏生が怒るところなんて想像してなかった。
いつも陰鬱そうに眉を伏せ、自身の感情を押し殺すようにして言葉を紡ぐ夏生。そんな彼女が怒っている。それは、いろんな人間の感情に触れてきた朔にとって、新鮮な驚きだった。呆気にとられている朔を睨みつけると――それも拗ねた子供がやるようなものだった――夏生は、足音荒く控え室を出て行く。
朔の隣に立っていた航も呆然と夏生を見送っていたが、急に耐え切れずといった風に噴出した。その笑いは細波のように航の肩を揺らす。散々笑って気が済んだのだろうか、白けた朔の視線を受けると、目尻に滲んだ涙を掌で拭って、息を整えた。それでも堪えきれない笑いの波を抑えられないのか、引き結んだ航の口角が震えている。
「いやぁ、いいもん見せてもらった。いろんな意味で」
いやいや、と首を振りながらも、航は体を起こす。そして部屋を出ようとした航を、朔は咄嗟に呼び止めた。何故、自分が航を呼び止めていたのか解らなかった。言いたい事がある訳でもなかった。不可解。今の自分の心境を言い表せばこの言葉がしっくりくる。
振り返った航は、朔が浮かべている表情を視線で撫ぜ、ふうん、と鼻を鳴らした。そして嬉しそうに、同時に少し寂しそうに微笑む。
「素直に喜んで良いんだぞ――人が自分の為に怒ってくれたときは」
航の言っている意味も、よく解らなかった。
見返した視線も、そう物語っていた筈だったが、航は頷くと、ひらひらと手を翻して去っていく。そのしたり顔に何故か無性にむしゃくしゃして、朔は衝動的に自分の拳をロッカーに叩きつけた。痺れるような痛みが脳に到達する。その感覚はぼんやりと霞がかった世界から朔を引き上げてくれそうだった。
朔はおそるおそるロッカーに額をくっつける。
その冷たさは少しだけ彼女が触れていたものに似ているような気がした。
読んだよ...(拍手)

|