※ この作品はRosmeralda.様のイラスト「猫とワルツを。」の設定を元にしています。



 美しい月が浮かんでいた。
 濃藍の夜空の中心で、それは冷たい白銀の光を放っている。
 夜会が催されているテラスから眺める月は格別に美しく、まるで自分がその類稀なる宝石の所有者になったような満足感を与えるのだ。
 しかし、この景色を眺めるのも今夜が最後になるだろう、とルチアは確信していた。
 先日、ルチアは男爵である夫を亡くし、その大半の資産は年若きルチアへと相続された。
 二十歳を過ぎたばかりのルチアと男爵との年齢差は三十歳以上。財産が目当ての結婚だと誰もがそう思っていた。そうでもなければ、村で一番の美人だったルチアが、親子ほど年齢差がある老人に嫁ぐ訳が無い――事実、結婚前にルチアは男爵にもはっきりと言った。あたしはお金のために貴方と結婚する、と。
 ルチアは喪中にも関わらず、今夜は赤いドレスを着ていた。常識があれば夜会に出てくるのでさえ不謹慎だったが、ルチアは娼婦のようなスリットの深いドレスを身に付け、顎を引き、不敵さまで感じさせるほど堂々と馬車から降りた。ルチアの振る舞いに眉を顰めた婦人達の囁きが聞こえたがルチアは無視をする。陰口を叩くしか能の無い貴族など、ルチアにとっては何の脅威にもならなかった。本当に恐ろしいのは一方的かつ絶対的な肉体への暴力だ。人間の尊厳を蹂躙する圧倒的な痛みだ。それを知らずのうのうと生きている貴族達を、ルチアは心の底から軽蔑していた。

 テラスのテーブルに腰掛けていたルチアは、真っ赤な洋酒が入ったグラスを傾ける。そして、心ゆくまで月光浴を楽しんでいたルチアの目の前に、不意に陰が出来た。
 それは幽霊のように音も立てず、ルチアの傍に立っていた。
 しなやかな肢体に闇のように艶やかなタキシードを纏った紳士。しかし、彼が他と一線を画すのは首から上だ。すべらかな白い毛皮に、尖った三角の耳。小振りな鼻の横には透明の髭が生えており、硝子のように澄んだ瞳は暗闇の中できらきらと輝く。
 猫公爵――その人はそう呼ばれていた。
 その存在は夜会に参加する婦人達の間でまこと密やかに語られていたが、彼が何者か知るものは誰一人としていない。
 ヒトなのか猫なのか、それとも全く別のものなのか。
 そんな彼の素性を詮索するものは少なくはなかったが、婦人達にとって彼の正体は取るに足りないことだ。彼女達はまるで大切な宝石をみつめるかのように、口を閉ざし感嘆の溜息を吐く。いつか、猫公爵に手をとられ踊る自分を夢見て。
 ルチアも何度か夜会で彼の姿を見かけたことがあった。ある時は恋に破れた若い令嬢、そしてある時は、ルチアのように夫に先立たれた未亡人の傍らに。猫公爵は夜会のときだけひっそりと姿を現し、傷ついた女性を癒していく幻の存在だと言われていたが、ルチアはその他の貴族の女性のように、彼を想った事は無かった。
 "傷ついた女性"。
 その単語を思い浮かべて、ルチアは唇を歪ませる。

「月が綺麗な夜ですね」

 彼はビロードを思わせる、なめらかなバリトンで呟いた。
 それはまるで独り言の様でもあり、親密な友人がそっと囁きかける様でもあった。ルチアが視線をやると、彼の造りもののように美しい瞳とぶつかる。わずかに細められた目に魅入っていれば、猫公爵は軽く首を傾げた。
 座っても?
 その仕草は洗練されていたが、表情はどこか幼い。ルチアは咄嗟に断ることができず、その隙間に滑り込むように、猫公爵は腰を落ち着けた。
「――如何なる憂いも貴方の美しさを損ねることはありませんが、その胸に秘められた、物思いの種をお聞きしてもよろしいか?」
「あなたが……猫公爵が今、あたしの傍に居るからよ」
 そっけなく答えれば、猫公爵は面白そうに眉を跳ね上げる。ルチアは肩を竦めた。
「失礼なこと言ってるのは認めるわ。別に貴方が嫌いってわけじゃないの。ただ、猫公爵がそばに居るってことは、自分が傷ついてますっていうことを大きな声で宣伝して回るみたいなものじゃない」
「ふむ、それは事実ではない、と」
「みんな、言ってるわ。男爵の財産目当てで結婚した女が、まんまと夫を棺桶に追いやってほくそ笑んでる。猫公爵はなんであんなあばずれの傍にいるんだろうって。あら、口汚い言葉でごめんなさい。生憎、うまれが下賤なの」
 ルチアは心こもらない謝罪の言葉を口にしたが、相手の気分を害する意思をもって吐いた言葉は、静謐な瞳の中に吸い込まれていった。他者のどんな中傷にも超然としていたルチアは、妙に収まりが悪くなり目を伏せる。そして、じわじわと首筋から這い上がってくる感情は、羞恥だった。猫公爵はルチアを、まるで思い通りにならなくて拗ねている幼子を見守るかのようにみつめる。これまで自分に向けられていたのは、嫌悪、嫉妬、といった悪意が常で、そんな暖かい慈愛の瞳でルチアを見た人間を彼女は知らなかった――いや、一人だけいたが。
 ぐ、と胸にせりあがってきた塊を飲み込んで、ルチアは顔をあげる。かろうじて平静を装い、咳払いをすると、少し無理をして乾いた笑い声をあげた。
「あたしのことはどうでもいいじゃない。それよりも貴方のことを聞きたいわ。失意の王妃様をお救いして爵位を賜ったってのはほんとの話なの?」
「おや、貴方が私に興味を持って下さるなんて光栄だな」
 猫公爵は悪戯っぽく瞳を瞬かせる。是とも否とも取れる反応にルチアは焦れた。
「はぐらかすつもりね」
「女性の密事は洩らさぬのが礼儀ではないかな。お答えできることは、私が貴方を含め傷ついた女性の味方だということだけだ」
 どこまでも紳士然とした対応にルチアは興を削がれ、鼻を鳴らす。
「ふうん。じゃあ、お優しい猫公爵様は、どうやって、傷ついてもいないあたしを癒してくれるの?」
 きつくねめつけたルチアの視線を受け取ると、猫公爵はお手上げだという風に肩をすくめる。
「傷ついていない女性を癒すことは、流石の私も不可能だ」
「へぇ、認めるのね」
「だが、傷ついていない"ふり"をした女性を癒すことはできると、自負しているがね」
 あくまでも柔らかい声色だが、それはルチアの心臓をぎくりとさせる。ふいに突き付けられた剣先に、握り締めた拳が戦慄いた。ルチアはこちらを正視する猫公爵を強く見返す。
「男爵と貴方は、大層、仲睦まじかったと聞いたが」
「表面的に取り繕うことなんて、誰にだってできるわ」
「しかし、十分な遺産を残したのは、ひとり遺してしまう貴方の為を思ってでは?」
「それが、あの人と交わした約束だったから。あんな、はした金であたしが満足するとでも思ったのかしら」
 猫公爵の言葉をルチアは一蹴する。唇に嘲笑を刻むルチアを、猫公爵は真っ直ぐに見詰めた。
「それでは、貴方は何故、謂われない誹りを受けてまで夜会に? ――私には貴方が、必死に孤独を耐えているように見える」
 無遠慮に心の中を覗きこまれているようで、ルチアは震える唇を引き結んだ。
「あたしが、孤独に耐えている、ですって? ……押し付けがましくて、頑固で、あんな、あんな、退屈な年寄り。死んで、清々したわ」
 吐いた棘は、同時にルチアの胸を突き刺した。
 感じる痛みに胸を抑え、猫公爵の穏やかな眼差しから逃げるようにルチアは視線を逸らす。
 これ以上、口を開けば、余計なことまで口走ってしまう。
 どうしてこの人は、あたしを一人にしてくれないのだろう。
 どうしてあの人は、あたしを一人にしたのだろう。
 思わず眉を顰めるようなルチアの言葉にも、猫公爵は嫌悪の色を微塵も見せず、ふむ、と小さく唸り黙り込んだ。
 落ちた沈黙は冴え冴えとしており、月がさらにそれを冷やしてゆく。
 猫公爵は感情の見えない表情で、口を開いた。
「なるほど、男爵は人格者だったと、聞き及んでいたが――貴方によるとそれは間違いだったようだ」
 それは憐れみという名の毒を孕んだ声だった。
 獣の剥製を感じさせる目に捕らえられたルチアは凍りつき、息を止める。それは到底、数多の婦人が褒めそやす男の眼差しには見えなかった。
 猫公爵は優雅に腕を組みながら髭を弄る。
「男爵は若く美しい貴方を屋敷に閉じ込め自由を奪い、貴方の人生を台無しにしたのだね」
 静かに、そして淡々と、猫公爵は故人を否定していく。
 死者を踏みにじるような言葉に、ルチアは猛烈な喉の渇きを覚えた。声帯には、よじ登ってくる呻き声が張り付き、息苦しさは増す。その視線は非力な鼠をいたぶる猫そのもので、魅力的だとさえ思った低いバリトンでさえ、今は悪魔の囁きに聞こえてならない。
「恐らく、死は神が与えたもうた罰だったのだろう。貴方を卑劣な男から自由にするための」
「……違う」
「いまさら、なぜ弁解を? 先ほど、男爵を非難していたのは貴方だ」
「それはっ」
「貴方も、男爵の歪んだ愛を疎ましく思っていたのでは?」
 刹那、噴出した怒りが炎となって、ルチアの胸をなぶった。轟々と耳の血管を駆け抜ける憤りがルチアの体を震わせて、踏みしめた地面が不安定に揺れる。しかし、それは激情からくるただの錯覚で世界は少しも変化していない。万が一にも、あの人が生き返ってくるなんてことは永遠にないのだ。
 あなたに、なにが、わかるの。
 ルチアは血を吐くように叫ぶ。
「うるさい……うるさい、うるさいっ! うるさいっ! あなたに何がわかるのっ!? あなたにあの人のなにがっ!? あの人とあたしのなにが、いったいわかるっていうのよ! あの人を悪く言えるのは、この、あたしだけなんだからっ! それ以上、あの人のことを侮辱するなら、あたしは、あなたを、あなたを殺すわっっ!」 

 愛してなんかいない。愛されてなんかいなかった。
 あの人が死んでから延々と、自分を戒めるように繰り返していた言葉。ルチアはそう思っていた。そう思い込もうとしていた。そうしないと、ルチアはあの人が居なくなってしまったことに絶えられそうも無かった。
 愛。優しさ。なんて馬鹿馬鹿しい言葉。それは自分以外の人のもので、永遠に手にすることのできない、どんなに乞うても手の届かない、月のようなものだと幼いルチアは信じて疑わなかった――あの人に会うまでは。
 あの人はルチアを暴力から助け出し、もう大丈夫だ、と微笑んでくれた。暖かいスープとパンを与え、そして大きな腕でルチアの心を暖めてくれた。虐げられることに慣れ、自分に価値を見いだせなかったルチアに、自分を大切にするよう、口を酸っぱくして言い続けたのだ。
 いつしか、あの人はルチアにとっての"特別"になり、ルチアがあの人の"特別"になりたいと思うのも当然のことだった。それでも頑固なあの人は、ルチアには噴飯ものの理由を盾に(歳の差がありすぎるとか、君を置いていけない等と屁理屈をこねて)ルチアの求愛を堅く拒んだ。
 涙ながらに懇願しても、誘惑してみても、あの人はルチアを跳ね付けたから、ルチアはやけっぱちになって最後には怒りのままに押し倒したのだ。
 いいわ。こうしましょう。私は"お金"の為に貴方と結婚するの! だから、貴方が先に死んだって悲しまないし、愛してくれなんて、わがままは言わないわ! ただ、傍に、貴方の傍に居たいだけなのっ! こんなささやかでつつましい要求さえも拒むなんて、紳士の風上にもおけないわっ!
 あの人は驚きで目を丸くしたが、次の瞬間、それはもう、憎らしくなるぐらい柔らかく破顔した。
 とんだ悪女に育ったものだね、と我が子を慈しむような眼でルチアを見つめる。その瞬間、ルチアはあの人の傍に居る権利をもぎ取ったことを知った。
 しかし、それは言葉通りの意味に過ぎなかったのだ。
 燻る怒りは萎え、それは胸を押しつぶす悲しみへと変わる。

「――あたしが"特別"になることは無かったわ。ただ傍に居るのを許されていただけ。だって、あの人は、一言も愛してるなんて、口にすることはなかったもの」
 猫公爵を睨み、ルチアは独白する。
「わかってる。あの人は、ただ、約束を守っていただけ。だけど、あたしはあの人に愛されたかった。愛してるって、言って、欲しかった……結局、あたしは月を欲しがって泣く子供だったのよ」
 手に入りそうで入らないものなら、最初から知らないほうがよかったと、ルチアは自分の頭を抱え込み目を瞑る。
 ずっと沈黙を湛えていた猫公爵は、口を開き、歌うようにゆったりとルチアに問いかけた。
「それでは、貴方は、彼と共に過ごした時間すべてを否定してしまうのか? 彼との思い出が全部、まやかしだと、何の価値も無い物だと、本当にそう信じているのかい?」
 ルチアは答えに詰まり、唇を噛む。猫公爵は、ルチアに向かって微笑んだ。
「貴方は、彼の名誉を守ろうと、怒ったじゃないか。謂れの無い中傷を許さなかった――それが何よりの答えではないだろうか。無理に気持ちに蓋をする必要は無い。貴方は悲しんでも、彼を想って泣いても良いんだ」
 柔らかい何かが心の何処かに触れた気がした。頑なに封をして守っていたところが破られ、ルチアは這い上がってきた嗚咽を漏らす。そして、堰を切ったように溢れた涙が、ルチアの頬の上を滑り落ちた。それは、あの人が居なくなってから初めて流した涙で、ルチアの意地であり、けじめだった。泣いてしまったらあの人との約束を破ってしまいそうだったから。
 そうして、ルチアの胸に残ったのは僅かな寂寥感だったが、泣きたくなるほどの深い悲しみは消えていた。差し出された猫公爵の手からハンカチを受け取ると、ルチアはいささか乱暴に頬を拭って顔を上げる。
「――あたしが想うように、あの人があたしを想ってくれてたかはわからない。だけど、あの人がくれた、この胸に残る暖かさは信じられる。それだけは嘘じゃないって、思うわ」
 強く言葉を切ったルチアに、猫公爵はそっと目を細める。
「言葉というのは、他者に対して大きな影響力を持つが、時にどうしようもなく無力だ――だけれど、案外、人は手に入れていても気づけないだけなのかもしれない。特に形の無いものはね」
 猫公爵の綺麗な硝子玉がテーブルの上を走る。それに、釣られるように、ルチアは置かれたグラスを覗き込んだ。
 揺れる赤い水面に映るのは、ゆらゆらと弛みながらも完璧な円を描く月。思わずルチアが見返せば、猫公爵は満足そうに髭を弄るばかりで、無言を貫いていた。
 ルチアは暫くの間、じっとその月を見つめていたが、唐突にグラスに手を伸ばすと、光るその月を一気に飲み干す。それは、食道を通り、すとんとルチアの腹の中へと収まった。ルチアは、目を瞬かせている猫公爵に溜飲を下げ、挑発的に笑う。すると、猫公爵も苦笑し、すっと気品のある動作で立ち上がった。

「――マダム、一曲、お相手願えますか?」

 真っ白な手袋を嵌めた右手が、ルチアの目の前へと差し出される。その嫌味なほどに優雅な仕草に、ルチアは一瞬、片眉を吊り上げたが、にこりと微笑むとそれに左手を重ねた。
 立ち上がり、猫公爵と向かい合い、軽く視線を交わす。聞こえてくるのは御あつらえ向きに、あの人が好きだったワルツだ。すべるような足捌きと、自然なリードに身を委ねてしまえば、それは雲の上で踊っているような不思議な感覚。悔しいような気もするが、ルチアは他の貴族の女性がなぜこれほどまでに彼と踊りたがるのか、理由がわかったような気がした。

 あたしは、もう、月が欲しいと泣いたりはしない。

 ルチアはその揺らぎの中で、飲み込んだ月が揺れているのを想像する。
 それに満足したルチアは、ひっそりと寂しさを含んだ微笑を浮かべたのだった。


cry for the moon




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