ふと聞こえてきたピアノの音に、相川希有(あいかわきゆ)は顔を上げた。
 ここは音楽高校だったし、ピアノの音が聞こえてくること自体はまったく不思議ではない。しかし、それは何故かはっとするほどの強さで希有の心を捉えたのだ。
 軽やかな跳躍。
 淀みの無いアルペジオ。
 まるで静かな水面に小さな石が投げ込まれたようなひそやかなラヴェルの調べ。
 ふと好奇心がかられ、希有は通いなれた第三音楽室へと足を向けた。扉をゆっくりと開いてみると、零れだす音と共に白いシャツを纏った背中が見えた。短く切りそろえられた襟足、そこから細くて白い項が覗いている。鍵盤の上をすべる長い指と、伸ばされるしなやかな腕。未成熟な蛹から蝶が羽化しているような美しさを覚えて、希有はそれにしばし見とれた。
 はっと希有が我に返ったのは、少年が演奏を終えこちらを振り向いたときだった。少年は扉を開け放したままで突っ立っている希有を目にすると、すっと目を細める。希有はばつの悪さに身をすくませたが、一瞬後に彼が口元を緩ませるとそれは霧散した。
「どうかしましたか」
 声変わりを終えてもなお澄んだテノールが薄い唇から零れだした。それに聞きほれそうになりながら、希有は慌てて口を開く。
「あ、勝手に入ってごめん。凄く綺麗だったからつい」
 取ってつけたようだったが、それは素直な感想だった。あたふたとしている希有の様子がおかしかったのか更に笑みを深め、一年の久我岬(くがみさき)ですと少年は名乗った。その名前を聞いたことは嫌というほどあった。入試を満点で入ってきたと噂されていた新入生だ。これまで希有は顔を見たことはなかったが、美少年だと称していた友人の審美眼はどうやら正しかったらしい。
「私は二年の――」
「知っています。相川希有先輩ですよね」
 自分の名前を言い当てられて希有は目を見張る。まさかどこかで知り合っていたのだろうか? 記憶の中を探ってみても一向に思い当たらない。それに、普通はこんな美少年、一目見たら忘れないはずだ。首をかしげて唸っている希有に少年はあっさりと種明かしをした。
「この間の菱沼門下の発表会、先輩の演奏、とても素敵でした」
「――来てくれてたんだ、ありがとう」
 先週末の発表会で希有はシューベルトのソナタを演奏した。自分でも出来はそこまで悪くなかったとは思っていたが、人に正面を切って褒められれば思わず顔が熱くなる。
「久我君。きみ、いつもここで弾いてるの?」
「ええ、ときどき、ですけど」
 ここのピアノ、弾き心地がいいんです、と岬は言った。ぽーんと叩かれた鍵盤が柔らかな音色を投げかける。
「もしよかったら、またなにか聞かせてくれない?」
 衝動的に口に出していたが、言ってしまってから、少し図々しかったかと希有は後悔した。少年は吃驚したように目を丸くしていたが、次の瞬間には悪戯っぽく首を傾げると一言。
「嫌です」
 まさかここまですげなく断られるとは思ってもみなかった希有は驚く。岬はくすくすと喉を震わせ言葉を続けた。
「でも、僕の願いを叶えてくれるのならいいですよ」
「願い?」
 ええ、と肯定し微笑んだ彼の唇は、希有が見とれるくらい綺麗な弧を描いていた。


 音が溢れる。流されてうつろう。
 時には飛んで、それから跳ねて。
 繰り返されて、ほら、もとどおり。


 希有がつい感嘆のため息を漏らすと、自分のパートを弾いていた少年はちらりと希有に視線をやり苦笑した。そうやって笑うと彼の雰囲気は少しだけ幼くなる。
「これ先輩も弾くんですよ? ため息ついている場合じゃないです」
「やっぱり久我君一人のほうがいいと思うけど。そのままでも十分綺麗だから」
「これは四手の曲ですから、相川先輩と一緒に弾いたほうがもっと綺麗なんです」
 そう言って岬は笑い、希有の手首を軽く握る。その冷たい感触に吃驚して、希有の肩は跳ねたが、そんなものにはまったく気づかぬ様子で岬は希有を引っ張った。並んで腰を下ろした希有はこっそりと少年のほうを伺ってみたものの、少年の視線はすでに楽譜に向けられている。自分が酷く自意識過剰な気がして希有はどっと疲れた。
 あの時、岬が言った願いとは一緒に四手用の曲を弾いてくれないかというものだった。レベルが違いすぎると希有は固辞したが、遊びのようなものだからと、あれよあれよという間に彼に丸め込まれてしまい現在に至る。丁寧な言葉遣いとは裏腹な岬の押しの強さに希有は薄々気づき始めていた――それと自分が押しに弱かったことにも。
「相川先輩?」
 思ったよりも耳元の近くで囁かれ、生暖かい息が耳たぶを掠めた。希有は反射的に耳を押さえて距離をとったが、危うくバランスを崩しひっくり返りそうになる。後頭部を打ち付ける危機から希有を救ったのも岬の腕だ。細いように見えて筋肉はついているらしい。さすがはピアノ弾きと言ったところか。そのまま希有は岬に笑われながら引っ張りあげられた。
「すみません。僕が急に声を掛けたから」
「うん。少しびっくりしただけだから――さ、やろう!」
 恥ずかしさを吹き飛ばすように希有は声を上げた。急にやる気を出した希有に目を見張りながらも、岬は微笑んで『はい、せんぱい』と頷いた。その柔らかさは彼の奏でる音色にとても良く似ていて、それにも希有は聞きほれるのだ。



「……落ちた! ごめん!」
 完璧に曲についていけなくなってしまうのは今日、何度目だろう。ぴたりと滑らせていた指を止め、岬はちょっと休憩しましょうかと言った。こうやって曲をとめてしまうのはいつも希有ばかりで、その度に岬はさりげなく気を使ってくれる。自分のほうが年上なのに、テクニックの差は歴然だったし、少しも嫉妬しなかったといえば嘘になる。しかし、岬の演奏に対する真摯さに触れ、次第にそんな彼と合奏することが希有の楽しみとなっていた。
「久我君、ごめんね。私、足引っ張ってばかり」
「僕のほうが譜読みを始めるのが早かったですし、それに大分形になってきましたよ」
「そうかな?」
「そうです。それに、この曲を相川先輩と長く弾けるのも凄く幸せですから」
 はっきりとそういった岬に希有は間の抜けた声でありがとう、と答えた。岬の言葉は真に受けないが吉ということは何度かの合奏で嫌というほど身にしみている。
 岬は鞄の中から飴を取り出して、希有の掌に握らせる。お礼を言いつつ、希有はそれを口に含んだ。イチゴミルクの甘ったるい味が舌の上に広がる。
「いつも持ってるのこれ?」
 飴を舌の上で遊ばせながら、希有は岬をみつめた。すると岬は珍しく、はにかみながら内緒ですよと笑う。
「実は僕、演奏前にはいつもこれを舐めるんです。縁起担ぎってやつですけど」
 あまりにも可愛いジンクスに希有は思わず笑ってしまった。いつもは落ち着いているがそういうところは年下らしくてほっと安心する。笑い転げている希有に岬は少しむくれていたが、希有が発表会への差し入れを約束するとすぐに機嫌を直したようだった。そんなところも案外子供っぽいらしい。
「それにしてもこの曲、綺麗だけど妙に弾きにくいよね」
 音の跳躍が複雑で、時には岬と希有の手がぶつかり合ったり、交差したりするから弾きにくいことこの上ない。作曲家に対して文句を言っていれば、なんだやっぱり知らなかったのか、と岬が残念そうな感情を滲ませて呟いた。
「え?」
「いえ、なんでもありません」
 どこか含みを持って岬は笑ったが、希有はその大人びた表情に少しイラリとさせられる。なんだか少しバカにされたような気になるのだ。
「どうせ私は年上の癖して物知らずよ」
 拗ねた態度を見せればもっと呆れられてしまうとは知っていながらも口を尖らせる。すると少しだけ慌てたように岬は表情を変えた。
「相川先輩を馬鹿にしたわけではないんです」
「どうだか」
 なぜか意地を張ってしまい希有は冗談にするタイミングを逃してしまった。ざらりと舌の上で飴が解ける。岬の顔が見れなくて、希有が壁にかかったベートーヴェンと目を合わせると、偉大なる作曲家までもが希有の愚かさを咎めている気がした。
 落ちる沈黙の中、ふと空気が動き、希有の肩に長くて細い指が触れる。肩に軽く食い込んだ指は本人の必死さを伝えているかのようだった。吃驚して顔を上げた希有の目の前には、真剣な表情をした岬の顔が迫る。
「信じてください」
 吸い込まれるような黒い瞳に自分が写っていることを自覚して、希有は一瞬息を止めた。そして心の底から願った――ヨハン、ルードヴィッヒ、ヴォルフガング、そして歴代の大作曲様たち、お願いどうか私に力を貸して。
「解った信じる。だから顔を少し離してね」
「あ、どうも失礼しました」
 早鐘を打つ心臓を無視しながら、希有はなるべく冷静な声でそういった。口づけするほど接近していた顔を、岬はいともあっさりと離したが肩から手が外れることはない。かなりの天然なのかもしれないと希有は岬を量りかねていた。
 可愛いけれど変な子だなぁと岬の評価を固めた希有は、今後、どんなことがあっても動じない事にしようとしっかり心を決めた。彼の行動にはたいした意味も無いようだから、動揺したらこっちがバカを見る。拳を握り締めていると、優しくて冷たい手がそれに触れ、ゆるゆると丁寧に指がひとつひとつ解かれる。
「あまり強く握り締めないほうがいいですよ。手に良くないから」
 アドバイスをくれた岬に、無の境地でクールに希有は礼を述べる。自己暗示はなかなか順調なようだ。岬は希有の変化に首を捻っていたが、気を取り直すとふわりと笑った。
「そろそろはじめましょうか先輩」
 頷いて立ち上がった希有の耳元に、あ、そうだと岬は唇を寄せた。
「相川先輩、この曲のエピソードを教えましょうか」
 急にそんなことを言い出した岬にいやな予感を覚えながらも、希有は先を促した。まるで自分の秘めごとをそっと希有に伝えるように、笑いを含ませた声で岬は囁く。
 先輩は手がぶつかるって文句を言ってましたけど、実はね。

 ――これは思いを寄せる女性の手に触れたいが為に書かれた曲なんですよ。ロマンチックだと思いませんか?

 希有の自己暗示がいつまで保たれたかは予想通りである。



天然少年ピアニスト




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