誰が、何が一番卑怯で間違ってるだなんて、誰にも決めようが無いこと?
 YES OR NOT?


 ◆


 リズミカルに鼻から取り込んだ空気を口から吐き出す。軽やかな足取りでコンクリートを蹴れば、それにつられて紺色のスカートがぴょんぴょんと跳ねた。
 流れていく景色を尻目に、噂の御三家・スリーオーの一人、”オ”バカの小野寺春日(おのでらかすが)は学校へと急いでいた。この程度のジョギング、日ごろこなしている厳しい稽古と比べれば屁の河童だ。
 半世紀以上も営業していると噂の煙草屋のおばあちゃんに春日はへらりと笑顔を送った。そしてちょうどチャイムも聞こえてきたところだったからラストスパートをかける。
 春日がふと顔を正面に向けると、嫌というほど見覚えのある髪型の二人組が目に映った。春日の愛すべき幼馴染殿である。
 閉まり始めた校門に意識を取られながら、春日は通り抜けざまに声を掛けた。
「おはよっ! 時雨ちゃん、静ちゃん! おっくれるよー?」
 時雨と呼ばれた変な頭その一は、すっとさり気なく足を横に出し春日をすっころばせた。ごろごろと豪快に地面を転がったものの、春日は反射的に受身を取っている。制服にくっついてしまった砂を払い、春日は頬を膨らませながら拗ねた目を向けた。
「時雨ちゃん……なにすんのさ!」
「オバカの癖に私の前を歩こうだなんて身の程知らずもいいとこ」
 時雨は色素の薄い長髪をかきあげながら春日を睥睨(へいげい)した。吊り上げられた唇は完璧な美しさを保ち、それは春日を貶すために開かれる場合が多い。幼い顔立ちをした春日に対して、時雨は成熟した妖しい色気を持っていた。
 腕を組みながら優越感たっぷりで笑う時雨に、春日はぼそりと禁句を零す。
「なにさオカマの癖して。美川憲一でもリスペクトしてるつもりなのかな」
「――テンメェ、今、またオカマって抜かしやがったな? 今日という今日は徹底的にシメル!!!」
 長髪に『詰襟』の学生服を纏った”オ”カマの鳳時雨(おおとりしぐれ)は歯軋りしながらファイティングポーズをとった。もはや女言葉は完璧に抜けている。
「なぁんだ時雨ちゃん、遊んで欲しかったのなら素直にそう言ってくれれば良かったのに――おかまだけにカマって欲しかった……なぁんちゃって」
「死ね……っつーかブっ殺す!」
 氷河期ギャグを呟いた春日に、時雨は更に殺気だった。どこまでが本気なのかにこにこしながら、春日は力を抜いた両手をすっと前に構える。
 詰襟を着た女性的な少年とそれに対峙するセーラー服の少女。その脇を生徒達が見向きもせずに足早に通り過ぎていく。この学校の生徒ならばほどほどに見慣れてしまったシュールな光景だ。
 名物・オカマとオバカの仁義なき戦い。
 ひゅるりと風が二人の間を駆け抜ける様は、まるで巌流島の決闘のような緊張感をはらみ――そして刹那、二人の影が動いた。



 ホームルームが終わった教室では形を成さない音たちが雑然と空気中を漂う。
 椅子に腰掛け、ほっそりとした腕で腰をさすりながら、時雨は忌々しそうに舌打ちをした。
「春日のやつ、相変わらず馬鹿力ね。私の珠の肌に傷の一つでもついてたら損害賠償ものよ」
 勝敗はいつもの通りの結果――時雨が鮮やかに投げ飛ばされ、そこを生活指導の教師に捕まって御用となった。耳タコとなってしまったお説教は馬の耳に念仏だったが、遅刻扱いにされたあげく、一方的にやられた時雨の腹の虫は収まるところを知らない。
 春日に対する罵り言葉をこれでもかというほど羅列していた時雨は、もう一人の幼馴染に視線をやった。
「あんたはちゃっかりと遅刻免ちゃって、薄情なやつよね、静」
 静は時雨の話を聞いているのかいないのか、手にした文庫本をぺらりと捲る。読んでいたのは純文学であったが、それが異様に似合ってしまうのも静が静たる所以だろう。
 すっと通った鼻梁だとか、切れ長の黒々とした瞳は彼の物静かな雰囲気と相まってどこか神秘的な印象さえ与える。静は華やかな時雨とは正反対の見るものの背筋を伸ばすような凛とした強さをもっていた。
 詰襟に長髪でオネェ言葉を操る時雨も初対面の人間を当惑させるには十分なインパクトをもっているが、静も決してその意味では負けていない。とりわけ静は高校男児にしては特異な髪形をしていたが、大体が皆、彼らの家業を聞けば、なるほど、と首をかしげながらも頷くのだ。
 無視されるのが嫌いな時雨は、静の手から文庫本を取り上げた。
 静が顔を上げれば、顎の辺りで切りそろえられた艶やかな黒髪が揺れる。スリーオーの最後の一人、”オ”カッパの御徒町静(おかちまちせい)は柳眉をそっと顰めて不快さをあらわにした。
「返せ時雨。下らないことをするな」
「ああら、なにが下らないことなのかしら。私が話してるのに余所見してるなんて失礼にも程があるわよ」
 気持ちの悪い女言葉に添えられたウインク。慣れたことだからかそれに動じる様子も無く、静は時雨の手から文庫本を取り戻した。
「止めてもどうせ無駄だから放っておいただけだ。それに古武術道場の師範代やっているようなやつに喧嘩吹っかけるお前も悪い」
 静の言う事は尤もだった。
 春日の実家は古武術道場を開いており、幼少からそれに親しんできた春日は格闘オタクな父親の血と汗にまみれた英才教育を経て、立派な人間兵器へと成長していた。関節技から投げ技、果てには打撃系まで、純真無垢な外見と相反して、春日は恐ろしい攻撃力を秘めている。本気を出せば大人一人、前後不覚にしてしまうことも容易いだろう。
 しかし、その代償とでも言うべきか、春日の脳みそは筋肉による侵食が進んでしまい、先だっての試験の結果はさんさんたるものだった。他教科の教師から沈痛な面持ちで忠告された担任を絶句させ、これは百点満点のテストだったよな、と思わず確認を取られたというのだからその酷さたるや想像に難くない。
 頭に血が上ってたのよ、と時雨はふんと決まりの悪さを誤魔化すかのように鼻を鳴らした。
「だけどあのオバカが私を挑発したってのは忘れないでよ」
「最初に足引っ掛けたのはお前だろう」
「あいつがいつも私を侮辱するんでしょ? それともあの鳥頭に付いてまわって、三歩歩くごとに忠告しろとでも言うわけ? なによ私ばっかり責めて! 静まで春日の味方? あんたってブルータスなの? ブルータスだったのねぇぇぇ?」
 ヒステリーなカエサルは静の胸倉を掴んで、がくがくと上下左右に揺する。静はため息を零しながらも、人為的な突発型地震が収まるのを辛抱強く待ち続けた。下手にさからえば、更に一オクターブは高くなるだろう超音波に鼓膜が痛めつけられてしまう。
 無駄な労力は極力使わない。
 トラブルメイカーな幼馴染たちと十年以上付き合ってきた静は自然とエネルギー倹約家にならざるをえなかったのだ。
「静ちゃぁん!」
 噂をすれば影。
 静の名を呼び教室に飛び込んできたのは春日である。その小さな両腕には花束を抱え、そしてまだもめていた(というか一方的に時雨が食ってかかっていた)二人の幼馴染を前にして、春日は零れ落ちそうなほど大きく目をみひらく。団栗眼と熟れたさくらんぼのような唇を震わせながら、ぴしりと二人を指差した。当然のことながら、花束はフローリングの床へと落下し、それを目撃した静はむっと口を引き結ぶ。
 しかし、次の瞬間、空気を凍らせたのは春日の素っ頓狂な台詞だった。
「これが母さんが言ってた、噂のチジョウのもつれ! わぁ! 初めて目にしちゃった! 私も混ぜて! 混ぜて!」
 最近の春日の母親のお気に入りは、愛憎どろどろの昼メロらしい。
 混ぜて欲しいのか、というクラスメイトの心のツッコミを他所に、一匹の興奮した猪は二人のほうへ突っ込んできた。
 頭突きをされて悶えている時雨の腕を強引に外し、静は放り出されていた花束を拾い上げる。そして咎めるような視線を春日へと向けた。
「春日、花を粗末に扱うな」
「あ、ごめん! あのねそれ貰ったの! 静ちゃんいつもみたいに活けて!」
 静の父親は華道の家元で、そんな静も免許皆伝の腕前を持っていた。定期的に出品している華道の展覧会では注目の新鋭ともてはやされているのだから腕は確かなのだろう。その奇妙な髪型も凛とした雰囲気を出すのに一役買っているらしく、和服を着た無表情な静が華道雑誌の表紙を飾った時、異様なほど売り上げが伸びたのは事実である。それというのも四十台以上のマダム達が中心となった静のファンクラブが暗躍していたという噂まであるのだから恐ろしい。
 漸く死んだ魚の目状態から復活した時雨は、春日をじろりとねめつけた。
「ちょっとそこのバカ。痴情のもつれって意味わかって使ってる? というか漢字でどう書くか知らないでしょ」
 バカ呼ばわりされた春日はぷっくりと向日葵の種でも詰め込んだように頬を膨らませた。背景に飛び出してきそうな擬音はぷんぷん! である。
「もぉ! 時雨ちゃんってば、私のこと馬鹿にして! それぐらい解ってるわよ!」
 ふふん、と得意げに腰に手を当てて、春日は胸を張った。

「"地"面の"上"でしょ?」

 ある意味正しい、と思うほかありませんでした。


 ◆


 時雨のプライドはエベレスト。
 初めてそう形容されたのはいつのことだったか。時雨は子供の頃から扱いにくい、どこか斜に構えたような性格をしていた。そして子供らしい遊び全てを稽古のために放棄せざるをえなかった時雨は、鼻水垂らして外を駆け回る同年代の子供の幼稚さを見下していた。しかしそれは実のところ、羨望の裏返しであったに過ぎないし、幼い時雨は向けられる奇異の視線に傷ついていたのだ。今よりは格段に薄い仮面が、時雨のちっぽけなプライドを辛うじて守っていた。同じような境遇の二人と出会えたことはは時雨にとって何よりも得がたい僥倖だった。底抜け馬鹿と生気の無いオカッパというとりあわせはお世辞にも友人にしたいタイプではなかったが、そこは時雨にとって初めてみつけた心地の良い場所だった――ずうっと浸っていたいほどの中毒性をともなった空気は時雨の心をゆっくりと腐らせる。



 重箱持参の静、そして美容のためバランスを考えられた色とりどりの時雨のものと比べて、春日の弁当はいたってシンプルで無駄に漢らしい。
 おにぎり×三ヶ。以上である。
 初めて花火玉大のおにぎりがみっつ、ごろんと鞄から出てきたときは流石の時雨も度肝を抜かれた。しかも、それに突き刺さっている状態の手羽先やら豚足などは一種の前衛的な美術品を連想させる。
 見事な米米米肉肉肉のバランス。
 炭水化物とたんぱく質に偏りまくったその弁当は件の父親の間違った愛情の成れの果てだった。なかなか……というかかなり変わった小父さんという印象を時雨は持っていたが、彼は格闘家として名を馳せる息子達と同じように、娘をいかついマッチョにでも仕立て上げ、その集大成として熊殺しの異名を取らせたいのだろうか。それが冗談ですまないあたりが小野寺家の怖いところである。
 その偏食の実態を息子の口から耳にして、幼少の頃から春日を知っている静の母親は不憫に思ったのだろう。いつしか静は重箱を持って登校するのが習慣という奇特な男子高校生になっていた。
 静と春日、そのご相伴に預かることになった時雨。そうして昼食は惰性的に三人で取るようになり、今日のランチタイムが開催されたのは、静が部長を務める華道部部室の畳の上というわけだ。
 もともと小食な静に比べて春日は、その小さい体のどこに入るのかと聞きたくなるぐらい早食いの上に大食いだ。時雨は春日以上に燃費が悪い人間に出会ったことは無い。
 いつも通りに騒がしく時間は過ぎていったが、話題は次の週末に行われる柔道部の練習試合のことになった。
 春日は強豪の柔道部に所属しており、女子部が無いのとその圧倒的な実力から男子部に混じっての稽古を許されていた。因みに部内では「阿修羅」と呼ばれ恐れられているが、同時にその天真爛漫さとのギャップとあいまって何故か人気があると風の噂に聞いたことがある。時雨にとってみれば春日のようなプランクトン馬鹿に懸想するような狂った連中がいると想像するだけで怖気が振るうが、たまに花やらお菓子やら貰ってくるのだから残念ながらそれは事実らしい。
 練習試合の相手である藤城高校は柔道で何度もインターハイ出場をしており、一ヶ月に一度行われる合同稽古の最後に行われるのが団体戦の形式を取った練習試合だ。今回は初めて春日が女だてらに先鋒に選ばれたという事らしかった。実力は十分すぎるほどなのに女子の人数が足りず公式では出場できない彼女を慮っての選出なのだろう。それだけに春日の張り切りようも半端ではなかった。
「でねでね! 私、先鋒だから二人とも遅れないように見に来てね! 頑張るから! 瞬殺だから! 二度と日の目を見れないぐらいにコテンパンに叩き潰してやるから!」
「春日、食べながらしゃべるな」
 興奮の余りぽろぽろと米粒を零している春日を静がたしなめる。文句を言いながらも取り出したハンカチで春日の口を拭ってやっているのだから、静は筋金入りの世話焼きだ。それよりも不穏な台詞をどうにかしてやれ、と時雨は心の中だけで突っ込む。
「断る――と言いたいところだけど、アンタ、うちの母親に電話したらしいわね」
 諦めたような声色で時雨はため息を吐いた。春日はどうやら今回、無い知恵を絞って裏に手を回していたらしい。将を射んと欲すればまず馬を射よ、馬鹿にしてやられたのは激しく屈辱だが、あの母親に時雨が逆らえたためしは無い。
 時雨の母親は気風のいい男役から情感たっぷりの女形もこなす日本舞踊の師範で、時雨が女装するようになった原因も元はといえば彼女にある。昔からもやしっ子で線の細い時雨を初めから女形にさせようという企みがあったのかそれともただの暇つぶしなのか(恐らく後者)、役作りのためと称してむりやり髪をいじったり女装させるのは日常茶飯事だった。初めは抵抗していた時雨も年を重ねるうちに諦めが先にたって、恐ろしいことに女らしい口調や振る舞いが自然に出てしまうようになった。無論、時雨の性癖はノーマルであるし、今の年でスカートを履くことなんてまず無い。
 外で向けられる奇異の視線にはとうに慣れたが、春日の「オカマ」という呼称に甘んじる気はさらさらなかった。というより本人自覚なくともバカにバカにされるという状態には我慢がならない。時雨が春日につい突っかかってしまうのもいわば一つのストレス発散なのだ。
 春日はてかてかと光る頬を嬉しそうに持ち上げた。
「うん! 時雨ちゃんのおばさん絶対に稽古早めに終わらせて応援行かせるって言ってたし、私の勝利祈願に新・土下座白鳳の舞見せてね!」
「誰がするかスカタン! お前なんて負けろ! 負けてしまえ!」
「えぇ、出来ないの? 時雨ちゃん、舞と名のつくものなら踊れないものは無いって偉そうに言ってたじゃない――あぁ、あれはつまらないジンマシンからくる出任せだったのかぁ」
「それはもしかしなくても自尊心か? 無理に頭良さそうな単語を使うな。この新人類」
「それって進化した凄い人類ってことだよね!」
「間違った方向にな」
「だったら時雨ちゃんも新人類じゃん――なんちゃってニューハーフ」
 時雨がぎりぎりと春日の首を絞めれば、絞めかたが甘いと春日が駄目だしをする。そして真剣に指南まで始めるのだからとことん空気を読めないやつだと時雨は憎々しく思った。そうやっていた二人に静が唐突に声を掛ける。
「もうすぐで昼休みも終わるから、じゃれてないで片付けろ」
「はいはいはーい! ね、ね、静ちゃんも来てくれるよね? 応援!」
 尾を振る犬のように春日は静の言葉に反応すると時雨の腕をぐいと捻り上げ、そこからいとも簡単に抜け出す。
 詰め寄られた静は、春日に頼まれ活けたばかりの花器を運ぼうとしていたが、ふと春日に視線をやった。綺麗に切りそろえられた髪がさらりと揺れ、その間から覗く眼差しが僅かに柔らかさを帯びる。しかしそれは瞬きをするあいだに消えうせ、静はいつも通り面倒そうな表情をしながらもしっかりと頷いた。
 呆れのため息をついた時に覗かせる視線の柔らかい瞬間や、春日の髪を触れた後にゆるゆると握られる拳の強さ。
 そんな巧妙に隠された静の感情に気づいたのはいつだったか。
 常時、感情の波を見せない静だったから、傍に居てずっと長い時を一緒に過ごしてきた時雨でなければ絶対に気づかなかっただろう。そう思い返してみれば静はさりげなく春日の為に自分から苦労を買って出るところがあった。あくまでも周りには気づかせないように。
 男としては多少逞しさに欠けた容姿をしているが、時雨の厳しい審美眼から見ても、静はいいやつだった。そんな静が何故よりにもよってあの馬鹿なのかと思うが、蓼食う虫も好き好き、それとも長い年月で情でも移ってしまったのかもしれない。その理由を静本人に問いかけたくなる時もあったが、はぐらかされることは確実だった。そして、それ以上に時雨が静の気持ちに気づいているというのは隠しておきたかったのだ。
 人の好意には敏感な春日は、静が自分を甘やかしてくれる存在だということを本能的に知っていた。しかし、それが思慕の情を伴うものだとは思っていない。十年以上も一緒に居て、春日の口から恋愛のれの字も聞いたことはなかったし、このままでは静が言い出すまで静の気持ちに気づかないかもしれない。時雨はそれを半ば確信していた。
 あえて静に協力する気はさらさら無かった。本人がどうする気なのかもよく解らなかった上に、相手が春日だというのも気に食わなかった――いや、正直に言おう。時雨はなによりもこの心地の良い場所を失いたくなかったのだ。
 それがただの子供じみたエゴだというのは解っている。それに万が一、二人の仲が変化しようとも時雨は一緒にいることを許されるのだろう――許される? 高いプライドがそんなもの御免だと叫ぶ。それでも自分を除け者で笑いあう二人を想像すると、時雨は鉛を飲み込んだような気持ちになった。そうして時雨は後ろめたさを抱えながら口をそっと閉ざすのだ。


 ◆


 春日にとって生きることとは、つまり楽しいことだった。
 毎日がきらきらして嬉しくて面白くて、だから春日はつい笑わずにはいられないのだ。子供の頃から難しいことを考えるのは苦手で本能のままに生きてきた。そりゃあ自分の頭が"すこぉしだけ"悪いのは薄々気づかないでもなかった。春日だって「馬鹿」だと正面きって言われたら少しはむっとするし傷つく。だけど相変わらず静は口うるさいけれど優しいし、時雨は何かと自分を馬鹿にしながらも肝心なときには助けてくれる。それだけで幸せな気持ちになれたし、飛び跳ねたいほど嬉しくなった。
 だから三人はずっと一緒にいるのだと、当たり前に思っていた。自分が女であるとか、静と時雨が男であったということは完璧に意識の外で考えもしなかったのだ。
 あぁ、それとも――意識下で考えないようにしていたのかもしれない。



 春日は手にした柔道着をぶんぶんと振り回しながらスキップをしていた。これから楽しい楽しい部活動である。もう少しで練習試合もあるから気合は十分。調子外れの鼻歌を歌いながらくるりとターンする。丁度、下駄箱のところを通り過ぎる際に見知った人影を目にして、春日は嬉しそうに声を掛けた。
「あっ、時雨ちゃん! 何してるのー?」
「げっ、どこから湧きやがったのかしら。このボウフラ女」
 しっしっと、犬を追い払うように手を振りながら、時雨は秀麗な顔を嫌そうにゆがめる。時雨はもともと愛想のいいタイプではないが、特に春日に対しては辛辣な嫌味ばかりを言う。それが時雨の愛情表現の一種だと理解していながらもちょっと春日は寂しくなる。時雨は笑うととっても可愛いし綺麗なのだ。
 そういえば前は春日に対して満面の笑みを浮かべてくれたときもあったような気がする。あれはいつだったっけ。春日がいつも使わない頭をひっくり返して唸っていると、時雨は気味悪そうな顔をした。
「なによ春日、うんうん唸っちゃって気持ちが悪い――便秘?」
「失礼な! 小野寺家家訓はいつもにこにこ快便生活だよ! だって今日だってねぇ朝から……」
「誰もお前を含め小野寺家の便通事情なんか興味ないわボケが!!!」
「だって時雨ちゃんが聞いたんじゃん」
「黙れ単細胞。少しは空気読め。それかせめて細胞分裂覚えてから出直してこいや」
 時雨は玄関エントランス中に響き渡るような大声を出した。下校するために靴箱にいた生徒達のなまぬるい視線が肌を撫でる。
 春日は、いつも通り時雨ちゃんはエネルギッシュだなと感心しながら、ふと時雨が何か白い封筒のようなものを手にしているのに気がついた。春日がじっとそれを見ていれば、春日の視線を辿った時雨は封筒をひょいと持ち上げた。
「時雨ちゃん、それなに?」
 時雨は軽く肩をすくめて、何でもないことのように言った。
「ん。靴箱に入ってたのよ。たぶんラブレターかなんかじゃないの?」
 突然、姿の見えない透明人間が春日の心臓にローキックをかました。
 どこから来るのかも解らない焦燥感にかられ、春日は時雨の腕にがしりとしがみ付く。
「も、もちろんそれって男から!?」
「なにがもちろんだこのバカ。普通は私がラブレターって言ったら女の子からに決まってるでしょ」
「オカマなのに!?」
「やっぱりいっぺん死んどくかお前」
 一気に殺伐とした雰囲気を纏った時雨に春日はチョークスリーパーを決められたが、それどころではなかった。それにどうせ非力な時雨ごときの絞め技で春日の意識がブラックアウトするはずもないのだ。
 女の子からラブレターということは、告白されて胸キュンキュン、そして二人はフォーエバーラヴ……なんてことになるのだろうかと春日はその貧困な想像力で時雨が誰かといちゃこらしているところを思い描いてみた。すると眉間は自然に深い渓谷を刻む。
 それってとても嫌だなぁ。楽しくないし嬉しくない。それに――なんだかとても悲しいな。
 静にも人気があることは知っていたし、凄いなぁと思ったけれどこんな嫌な気持ちにはならなかったのに。
 まったく反応が無く、そしてピクリとも動かない春日を不審に思ってか、時雨は拘束の腕を解き春日の顔を覗き込んだ。そして春日が知らぬうちに珍獣と入れ替わっていたかのような顔で絶句した。
「アンタ、何難しい顔して……眉間に皺寄ってるわよ」
 眉間の皺を伸ばそうと、時雨の細い指が春日に触れる。いつもはなんとも思わないのに、急にもやもやした気持ちになって、春日は捕まえられていた時雨の腕を軽く押した。春日の拒絶に驚いてか時雨も言葉を失う。むすりとした顔でウーウー唸っている春日に流石におかしいと気づいたのか、時雨は目線を春日に合わせ、口を開いた。
「具合でも悪いわけ?」
 春日は仏頂面で首を横に振る。
「じゃあ何よ」
「……知らない。わかんない」
 時雨はひとつ深いため息をつくと、くしゃりと自分の髪を書きあげた。さらりと流れる髪はいつも手入れが隅々まで行き届いてることがわかる。
「今日は私、稽古もあるから帰るけど、アンタは静と一緒に帰りな。メールしとくから」
 ぴしりと指を突きつけて時雨はそう春日に言い含めた。そして春日が何も言葉を返さないうちに背を向けて行ってしまう。なぜかまたもやもやした気持ちになって、春日は去っていく時雨の背中を恨めしそうに見つめていた。自分の気持ちがさっぱりわからない。馬鹿だアホだと罵られていたときも春日は腹を立てたが、こんな風に心の中が空っぽにはならなかったのに。そしてなぜこんなにも胸がむかむかするのだろうと、考えてみても一向に答えは出ない。そんな不可解な気持ちを抱きながらも、春日は部室へととぼとぼと歩き出した。


 ◆


 よく他人には真面目だとか、一本気だとか言われるのだが、それは恐らくこの特異な髪型にあるのだろうかと静は思う。自分の髪型が少し変わっているというのは年を重ねるうちに気づいたが、特に人の目は気にならなかったから今後、変える予定は無い。逆説的に言えばこの髪型に固執しているわけでもないのだが、一度、変えてみようかと、華道を通じて知り合った目上の女性に漏らしたところ、肩を掴んで考え直すように説得されてからは、自分の髪について口に出すこともやめた――周りの世界はときどき静にとって騒々しすぎる。
 いつだったか時雨に「静は仙人みたいだ」と言われたことがあったが、それほど自分は俗世から遠い存在に見えるのは意外だった。静は感情を荒立て、それに引き摺られることが嫌いだったが、それよりも感情を素直に表現することが苦手であるだけで、人並みに――時には人以上に誰かを羨んだりすることもある。花を活けることはそんな鬱積した感情を浄化する作用もあるのかもしれない。だからこそ正反対の存在に惹かれたのだろうか。



 華道の基本は、天、地、人の三要素をバランス良く表現するところにある。
 広口の平たい花器の前に正座しながら、静は手にした花に視線を注いでいた。
 活ける前に花を見つめることは、静の幼い頃からの儀式のようなものだ。そうしていると、言の葉を持たない花が自分に語りかけてくるような気がする。静が真摯な気持ちで彼らに対すれば、花たちは驚くほど能弁に彼に囁いた。静はただそれに耳を傾ければよかっただけだ。そうして活けられた花は驚くほどに自然で、そしてどこか緊張感を持った、美しい調和を形作っていた。
 最後の一輪を剣山に刺してから静は息を吐く。そんな彼の目の前には見事な躍動感を持った生け花が伸びやかに自分の存在を主張していた。
 日はもう傾き、朱を帯びたそれは鮮やかに色づき始めていた。部員達は既に片づけを終えて帰っていたし、静も時雨からのメールが無ければ早めに切り上げていただろう。そのとき廊下を走る軽やかな足音が聞こえてきたから、静はゆっくりと鞄を持ち立ち上がった。
 乱暴に扉を開け放った人物に静は眉を寄せる。しかし百回口を酸っぱくしていっても無駄だということは解りきっていた。春日はにかっと無邪気な笑みを浮かべる。
「静ちゃん、かぁえりぃましょ!」
 変な節をつけた春日の音痴さに眩暈を覚えながらも、静はゆっくりと頷いた。



「でねでね、私が相手をぐいって掴んだの! それで足元がおるすになってきたからくいっどーんって思いっきり! そしたらばーんってぶっとんでいったんだ! 凄いでしょ! 今の私っていわゆる向かうところ敵なし? 鬼にうまい棒、私に公文式、時雨ちゃんにお化粧ってやつじゃない!?」
「春日、とりあえず落ち着け。それから前を見て歩け」
 静がセーラー服の襟を掴んで方向転換させなければ、春日の鼻は電信柱のせいで一センチほど低くなっていたところだろう。
 春日が落ち着き無いのは今になってはじまったことではないが、時々、自分達が傍にいるから余計に油断しているのではないかと静は思うことがある。それも今となってはもう後の祭りというやつなのだが。
 静はひとつ深いため息をついてから静かな声で名前を呼んだ。春日はきょとんと団栗眼を瞬かせながら静を見返している。それは主人の言葉を待つ従順な犬を連想させた。
「具合が悪いんじゃなかったのか?」
「だれが?」
「――お前が。そう時雨からメールが来たから」
 健康優良児を体現しているような春日だっただけに、様子が変だと聞き、静もそれなりに心配していた。それなのに春日はいつも以上の勢いで今日起こったことを静に語る――それはかすかな違和感を伴っていた。これでも静は伊達に十年以上も春日の面倒を見てきたのではない。
 時雨の名を聞いた春日は小さな肩を落とし、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。そして静から視線を外す。そんな反応をされたのは初めてのことで静は表情に出さないながらも驚いた。もう一度問いかける意味で静は名前を呼ぶ。春日は黙り込み返事をしなかったが、じっと待っていれば、観念したのかゆっくりと唇が開かれた。
「あのね静ちゃん。静ちゃんってラブレターって貰ったことある?」
 そんな話題が春日の口から出てくるとは思っても見なかった。他の女生徒から告白を受けたことはあったが全部断ってきたし、とりだててそれを隠している訳ではなかったが、春日が知っていたことにも動揺する。しかし、すぐに春日が自分の気持ちに気づくはずもないのだと思いなおした。春日が本当に聞きたいことは別のことだ。
「なぜそんな質問をするんだ」
 聞き返した静の視線を避けるように、春日は言いよどみ俯く。そんならしくない態度に何故か静は身を焼かれるような気分になった。
「別に無理に言わなくても良い」
 春日に対する優しさからではなく、続く言葉を聴きたく無くて静はそう付け加える。しかし再び顔を上げた春日の目には決意が宿っていた。

 ――あのね、静ちゃん。今日、初めて時雨ちゃんが"ラブレター"貰ってたの見ちゃった。時雨ちゃんってもてるんだねぇ。まさか時雨ちゃんが女の子にラブレターもらってるなんて知らなくて、すごくビックリしちゃったの。でね、なんだかすっごく胸がぐるぐるして気持ち悪くて、わけがわからなくなっちゃって。静ちゃん、これってなんだと思う?

 そうぽつぽつと紡がれた言葉は静の心に昏い影を落とす。眩しいほどの無邪気さは時に最も強い毒にもなりうることを春日は知らない。
 見ていたから、思いを寄せていたから嫌でも解ってしまうことがある。それは静が春日に目を奪われ始めたころから漠然と持っていた予感だった――春日が静ではなく時雨に惹かれるであろうことは。しかし、いくら結果が予測できていたとしても、実際にその瞬間を受け止められるかどうかは別問題だ。それを必然だからと割り切ってしまえるほど静は達観もしていなければ、見た目ほど大人でもない。
 春日が無邪気に時雨をからかうようなことを言い、放っておけばいいところを時雨が怒りながらも答える。
 いつしか当たり前になってしまったその光景を見て、静が何を感じていたかなど、春日には一生解る筈も無いだろう。静もそれを伝えるつもりはない。

 春日は彼女にしては驚くほど真剣な表情で静の答えを待っていた。静なら必ず答えてくれるだろうという全幅の信頼を込めた視線。いつもなら僅かな心地よさを運んでくるそれも、今はひりつくような嫉妬しか残さない。春日にそんな瞳をさせている人物を思い浮かべながら、静はいつも通りの無表情を装う。そして俺は春日ではないからそれが正しいかどうかは解らないと、前置きを置いた。
「春日――熊の縫いぐるみ覚えているか」
「えっと、あの夏兄ちゃんに取られて壊れちゃったやつ?」
 なぜ唐突にそんな昔の話が出てきたのかと、春日は面食らっていた。静は落ち着いた音で言葉を紡ぐ。それは恋愛感情だなんて親切に教えてやるつもりはなかった。
「いつも傍に在ったものが無くなったとき寂しさを感じるのは当たり前のことだ――だけど時雨は縫いぐるみではないから居なくはならない」
 そして時雨はいつものように告白を断ったのだろう――ずっと三人でいたいがために。
 それは真実のように響く巧妙な嘘だった。
 静の心は罪悪感で軋む。負った傷は春日の所為であり、己自身の業のせいだった。それが積み重なるごとに、静はさらに春日を憎み同時に愛しく思うのだ。永遠を信じるほど子供ではなかったが、それでも静は愚かにも願ってしまうし望んでしまう。たとえそれがその場凌ぎだとしても。
 春日は体から力を抜き、ふにゃけた泣きそうな表情でそっかぁと何度も呟いた。やっぱり静ちゃんに相談してよかったなぁと笑顔を向けられたときには静は酸欠のような息苦しさを覚える。しかし、何も言わずに春日の頭を撫でることでなんとか自分の感情を殺した。
 無防備な顔をして春日は静の手を握る。朱色に染められた表情は昔よりも更に鮮やかさを帯びて静を惹きつけた。静の手を握るそれに力を込めながら、春日は屈託なく笑う。
「――静ちゃん、練習試合の応援、来てくれるかな?」
「わかってる」
「駄目だなぁ。そこは『いいとも!』でしょ? まったく静ちゃんはわかってない!」
「時雨と一緒に行く。その代わり頑張れ」
 春日の文句はさっくりと無視して静は言葉を重ねた。すると春日はにっこりと満足そうな笑みを浮かべる。

「うん、静ちゃん大好き! ――ついでに時雨ちゃんも!」

 なんとも空虚に響いた言葉に静はつい自嘲の笑みを浮かべてしまった。春日はぶんぶんと静の手を振り回しながら歩き出す。
 そんな二人の背を染める太陽は、じくじくと膿んだ誰かの心のように紅かった。





 ――さてはて。
 ここにあらせられましたのは一つのいびつなトライアングル。

 一番卑怯で間違っているのは、変化を恐れ無言で傍観するあの子?
 それとも、無邪気さを理由に自分からは気づこうともしないあの子?
 はたまた、総てを知りながらもその場凌ぎの嘘を吐くあの子?

 まだ答えが見つからなければ、そう、今はとりあえず、



無言で無邪気に嘘を吐こう






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