雨が降りはじめた。
私は段々と濃い灰色に浸食されていくアスファルトを眺めていた。雨は嫌いじゃない。どちらかというと雪のほうが好きだけれど、一定のリズムを叩く音や、記憶を呼び覚ます独特の匂いは好ましいものだ。
私は結城さんの喫茶店の前で雨宿りをしていた。
ふらりと喫茶店を訪れてはみたものの、扉にはクローズの看板がかかっていたのだ。運悪くお休みで落胆していたところへ雨が降り始め、帰るに帰れなくなってしまったのには参った。天気予報は警告してくれていたが、うっかり傘を忘れてしまうなんて、とことんついていない。
私が深いため息を吐き空を見上げると、淀んだ雲は涙のように大量の雨水を製造している。この雨はどこまで続くのだろうか、と詮の無いことを考えながら、私はぼうっと立ち尽くしていた。
ぱしゃん、と水が跳ねる音がする。
気づけば、よく見知った人物が目の前に立っていた。
刹那、ひゅっと吸い込んだ息が、止まる。
不意をつかれたというのもあったが、何よりも、その人――桂木拓巳が、一瞬、まるで知らない別人のように見えたからだ。
桂木は表情がいっさい失われた能面のような顔で、冷たい雨の中、立ちすくんでいた。白いカッターシャツと黒いネクタイ、そして黒のスラックスを纏っていたが、それは肌にはりつき、衣服本来の役目を果たしていない。感情を廃したことで、桂木の人間らしさのない美貌が際だっていたが、青白い陶器ような肌を滑る雨水が、まるで涙のようで私は狼狽した。桂木だって曲がりなりにも人間だから悲しければ泣くとは思うが、こんなに静かで人形のような彼をはじめて眼にする。
湿度は高いはずなのに、からからに渇いた喉を鳴らして、私はおそるおそる桂木に声をかけた。
「あの……桂木会長、大丈夫ですか?」
桂木はゆっくりと首を動かして、その視線は私を捕らえた。彼はそこで初めて私の存在に気づいたらしい。
Warum bist du hier...?
桂木が何か呟いた気がした。しかし、それはか細く、雨音に紛れてしまうほど弱いものだ――異常だ。異常すぎる。
私はその様子を危惧し、雨の中に飛び出して、一歩も動こうとしない桂木の腕をとった。案の定、触れた桂木の体は冷えきっており、降り注ぐ雨は容赦なく体温を奪っていく。
「会長! こんなところにいたら風邪引きます! ぼうっとするのは自由ですけど、せめて雨のあたらないところでやってください!」
ぐいぐいと引っ張れば、とりあえず抵抗する気はなかったらしく、桂木は驚くほど従順に動いてくれた。喫茶店の庇の下に引きりこんで、私は鞄からハンドタオルを取り出し、桂木に差し出す。桂木はじい、と何を考えているかわからない瞳でそれを見つめているだけで、動こうともしない。
何の反応も示さない桂木に業を煮やして、私はハンドタオルで桂木の頭をごしごしと拭き始めた。焼石に水な気もするが、何もやらないよりはましだ。
「会長! しっかりしてくださいよ! いったいどうしたんですか? 熱でもあるんじゃないですか? 鍵! 喫茶店か、家の鍵は持ってないんですか?」
――ポケット。
手を伸ばし、額に張り付く髪の毛の上に手を当ててみるが、とりあえず熱はないようだ。それにほっと息をつくと、私は断ってから桂木の後ろポケットから鍵を取り出す。締め切られた喫茶店の鍵を開ければ、紅茶の残り香が鼻をくすぐった。断り無くお邪魔することを結城さんに詫びてから、私は記憶を頼りに、何かタオルのようなものを探す。
やっとのことで大きめのタオルを発見し、後ろを振り向けば、私は今度こそ心臓が止まるかと思った。
ドアに手をやった桂木が、こちらを見つめていたからだ。
翡翠のような瞳が、まじろぎもせず私を捕らえる。軽く噛み締められた唇は微かに震えているようだった。色素の薄い髪から滴り落ちる雫を眼にして、私ははっと我にかえる。
ほうけている場合じゃないと私は立ち上がり、桂木の胸にタオルを押し付けた。それでもやっぱり受け取ろうとしない彼に、本気で具合が悪いのかと心配になってくる。
何か言葉をかけなければ、と口を開こうとした瞬間、触れていた胸板が振動し、私は濡れた体に抱きすくめられていた。冷たいシャツから生暖かい体温が伝わってくる。
「――抱きしめてもいいか」
低い声が、ふ、と耳元でさざめく。
っていうかもう抱きしめてるじゃないですか、といつもなら当たり前のように返していた言葉は喉でつっかえた。本当に桂木が――そんなことある筈が無いのに――泣いているのではないかと思って。
動揺している私の様子を感じ取った桂木は、嫌なら離す、とまた愁傷な様子で囁く。いつもは問答無用で、自分のしたいように振舞っているくせに、いったいぜんたいどうしてしまったのか。まるで生まれたばかりの子供のように体を震わせている桂木に、私は困惑仕切りだった。しかし、弱っている人間を、冷たく突き放すなんてこと、できるはずもない。
普通ではない桂木の様子に私はぎゅっと腹をくくった。これはただの生暖かい丸太だ、という暗示を何度も掛けながら、私はこわごわと桂木の背中に手を回す。自分で爆破できそうなほどの羞恥を覚えたが、くっついた胸板からは、生きている証である鼓動がとくとくと聞こえてきて、私は少しだけほっとした。
「あの、元気になるまでこうしてますから――だから、早く元気になってください」
顔なんか見ることが出来るわけも無く、横を向いていた私の頭の上で、桂木が笑ったような気がした。
ありがとう、と呟かれた言葉は私の空耳だったのかもしれない。
ただ唯一私ができたことといったら、桂木に抱きしめられているだけで、彼の悲しみとか苦しみを理解できたわけではなかったけれど――それでも、最後に掛けた言葉だけは、まごうことなく本心から出た言葉だったのだ。
桂木の頬は濡れることは無かったが、空は依然として大粒の涙を流し続け、彼の悲しみを慰めているようだった。
雨の抱擁
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御礼&蛇足という名の後書き
余々さんに頂いた、桂木拓巳イラスト! この漂うエロスの濃密さは一体なにごとなんでしょう! けしからんすぎる! とても素敵にシリアスなイラストだったので、+αもシリアスな妄想でした。なんというか、こういう桂木って珍しいので、書くのもとても新鮮で楽しかったです。でも、弱っている桂木書くの最初で最後だろうな。理由もあるんですけど解ったらすごい。それにしても美しい……眼福でした。本当に素敵なイラストをありがとうございました!