俺には少し年の離れた妹がいる。
 まぁ、幼い時は喧嘩もしたものだが、俺はすでに成人したし、家を離れた今では、それなりに仲良くできているはずだ。
 妹は俺の目から見ても特に特徴がない――っていうとアレだが、性格は単純で素直だし、容姿に華やかさはないが、見ていて気が抜ける、ほっと息がつけるような柔い雰囲気をしていると身内の贔屓目ながらも、そう思う。
 昔からなにをしでかすかわからない、危なっかしいやつだったから、悪い奴にひっかからないかと、俺は密かに心配していたのだが、当の本人はどこ吹く風でまったく色気の"い"の字も見せることはない――と、この間まではそう思ってたんだけどな。
 

 俺は、目の前で鍋焼きうどんをすする妹の顔をしげしげと眺めた。
 一見すれば、いつもどおり頼りなさそうな妹だが、俺はあの夜の妹の顔を今でも忘れることが出来ない。
 文化祭の翌日、妹は泣き腫らした顔をして帰ってきた。
 男との無断外泊疑惑で立腹していた両親はそれを反省の表れ、だとしてそれ以上追求することはやめたが、俺は、妹は多分失恋したんじゃないかと、その時、ふと思った。悲しむ妹の中に、なぜか今まで見たことのない、女の顔を見たような気がしたからだ――ま、俺の勘も当てにならないし、今の妹からは、その片鱗なんてまったく見えないのだが。
 俺が見つめていることに気づいたのか、つるんとうどんを飲み込みながら、妹は眉を顰める。
「……お兄ちゃん。うどん食べたいの?」
「いや、別に」
 じゃあ、じろじろ見ないでよ、と妹はふくれっつらで呟き、うどんを箸でつついた。あまり行儀のいいことではないので注意しようとした瞬間、妹の携帯が震えだす。
 この不吉な着メロは……シューベルトの魔王か?
 どんだけ辛気臭い音に設定してるんだよ、と突っ込もうと思ったが、ざっと音が聞こえるほど青ざめた妹に、俺は言葉に詰まった。
 ぶるぶる、ぶるぶる、と振動する携帯と連動して、バイブレーション機能でも入ってるんじゃないかという勢いで、妹が縦横無尽に震えている。その恐怖に引き攣る顔に、俺は呆気にとられたが、とりあえずは落ち着かせようと妹の肩に手を置いた。
「どうした、大丈夫か?」
「だ、大丈夫だと思う、けど」
 そう言いながらも、妹の視線は震える携帯電話に注がれている。俺は悟った。妹は、電話の向こうの相手に怯えているのだ。
 いつになっても電話に出ようとしない妹の代わりに、俺は携帯電話に手を伸ばした。妹が驚く気配が伝わってきたが、気にしていられない。ちらりと視線をディスプレイには、『魔王』と表示してあった――マジで誰だよ、電話掛けてきたやつ。人間か?


『――あれだけ早く出ろと言った筈ですが』

 受話器のむこうから聞こえてきた魔王の声は、思ったよりも低い声だった。妹の怯えぶりからいっても、妹は苛められでもしているのかと俺は危惧していたが、まさか、以前の無断外泊疑惑の相手はこいつじゃないだろうな。

「それは悪かったな」

 妹以外の誰かが出ることはまるっきり予想外だったのか、魔王がはっと息を呑むのが聞こえた。そして、長い沈黙をはさんで発せられたのは、とげとげしく警戒を露わにした剣呑な声だ。

『貴方は――誰です。彼女はどこですか』
「自分から名乗れ、と言いたい所だけど面倒だからな。俺はこの携帯の持ち主の兄だけど、君こそ誰だ」
『……初めまして、貴方の妹さんと同じ高校の副会長を務めています峰藤浩輝と申しますが、妹さんは』

 魔王の意外すぎる礼儀正しさに少し面食らったが、妹に視線を移すとぶるぶると首を振って拒否反応を示している。やっぱり、厄介な相手らしい。まぁ、魔王という名前で登録している時点で普通ではないだろうが。

「ちょっと、ね。席外してたみたいだから」
『……貴方がた兄弟は、お互いの携帯に出るほど仲がよろしいんですか』
「まーね。君のところはそうじゃないの?」
『――申し訳ありませんが、こちらも火急の用ですので妹さんをお願いできますか』

 慇懃無礼ここに極まれりってやつだな。
 きつい声色や、その態度からいっても、到底、妹が親しみを持つようなタイプには思えなかった。文化祭のときの無断外泊は、俺の当初の予想通り、なにかの間違いだったに違いない。
 魔王――改め峰藤はこちらの態度に苛立っていたようだったが、俺に電話を代わる気が無いと悟ると、鋭い舌打ちをした……マジで賞賛したくなるほど感じ悪いな。

『どちらにしても結果は同じなので、別に構いませんが、気が向いたら彼女にお伝えください――今から桂木が行く、と』

 それでは、と唐突に切られた電話に俺は首を傾げる。そして、胸の前で腕を組み、きらきらとした賞賛の眼差しで見上げる妹に気づき、俺は呆気にとられた。
「お兄ちゃん……! ほんっとうにありがとう! たぶん、私の寿命はこれで数年は確実に延びたんだと思う……!」
「まぁ、感謝してくれるのは構わないが、妹よ。あの感じ悪い峰藤クンにお前は苛められてるのか? 兄ちゃんはとても心配なんだが」
 しごく普通のことを聞いたはずなのに、妹は顔を強張らせると、まるでそこら中に魔王が聞き耳をたてているかのごとく、周りを見渡した。
「ええと、たぶん、苛められてはいないと思うし、いつも不可抗力でお世話になってるんだけど。めちゃくちゃ陰険――っていうか、威圧的でもないけど、存在が黒いっていうか。まぁ、たぶん、温泉の源泉的な意味ではいい人なのかもしれないんだけど、とどのつまり、顔も態度も性格も、恐怖の代名詞的な人なんだ」
「すまんが、それまったくのフォローになってないぞ」

 とりあえず、妹が苦手にしているらしいということだけはわかったが、顔も見たくないほど大嫌いという訳ではないらしい。なかなか変わった関係みたいだが、俺には複雑すぎてわからない。
「あぁ、言い忘れてたけど、その峰藤クンからの伝言があるんだが、聞きたいか?」
「……き、聞きたくない、けど。絶対に祟られたり、呪われるから聞く。十秒数えてから、小さな声でゆっくり言って!」

 っていうか、マジで峰藤クンは人間なのか?
 そう聞きたい衝動を堪えながら、怯える妹のリクエストどおりに俺は伝言を伝えた――そういえば桂木って何者だ。
 その伝言を聞いた妹は、こんどはぴん! と硬直して立ち上がった。そして、うろうろと熊のように家の中をほっつきまわって、頭を抱えて唸っている。俺は本当に妹の頭の具合が心配になった。その腕を掴んで動きを止めると、どうしようどうしよう、と唇はエンドレスに音を紡いでいる。

「だから、落ち着け。桂木って誰だよ? 峰藤クンが魔王なら、今度は鬼か悪魔か?」
「あ、あああ、当たらずとも遠からずというか……!」

 落ち着きのない妹の説明では、まったく埒があかない。俺が溜息をついたとき、ぴんぽーんとインターホンが鳴った。それに妹は、体を大きく振るわせる。

「マイシャッツ! お前の俺が迎えに来てやったぞ! せいぜい光栄に思え! とっとと姿を見せないと突入するぞ!」

 まるでオペラ歌手のような美声がはっきりと聞こえてきたが、ぴんぽんぴんぽんと連続でなるインターホンからするに、外にいるのは相当に常識外れの人物らしい。戦に赴く武士のような顔つきをしながら妹は玄関へと足を向け、もちろん俺はその悲壮感に溢れる背中に遅れをとらないように追いかけた。
 がちゃりと重々しい音を立てて開いたドアの向こうに、俺は煌く光を見たような気がしたが、はっと気づけば、妹は誰かにすっぽりと抱きすくめられていた。
 すっぽり、というには少し語弊があったかもしれない。ぎしぎしと音が聞こえてくるほどに強く抱きしめられた妹は明らかに拒否を示す悲鳴を上げており、抱きしめた人物はあろうことか頬擦りまでしているのだ。
 呆気にとられている俺の存在なんてまったく気にする様子もなく、しかし、その頬擦りが怪しい位置までさしかかろうかというところで、二人は誰かに引き離された。

「桂木、調子に乗るのもいい加減にしてください」
「……む、なんだ藤。羨ましいのならお前もやったらいいだろう」
「もし貴方が猿から進化した人類だとするならば、少しぐらい周りの目ぐらい気にしたらいかがですか」

 その声には聞き覚えがあった。さっき直接話したばかりだから間違える筈もない。魔王――峰藤クンだ。
 峰藤クンは細身で静かな雰囲気を持つ青年だったが、さっきの電話といい今の言い草といい、かなり辛辣で一筋縄ではいかない性格をしているのだろう。鋭い眼差しやしゃんと伸びた背筋から、芯が強そうで凛とした印象を受けたが、確かにびびりの妹は苦手に思うのも納得かもしれない。
 しかし、俺が度肝を抜かれたのはもう一人の人物だ――めちゃくちゃイケメンじゃねぇか。
 こちらが桂木と呼ばれる人物なのだろう。明るい髪色にくっきりとした目鼻立ち。纏う華やかな雰囲気は、性別、年齢を問わず、目を奪うほどに強い吸引力をもっている。
 そのイケメンは、峰藤クンの言葉を受けて、ようやく俺の存在に気づいたらしい。こちらにくるんと向けられた緑色の瞳の輝きっぷりに、俺は少したじろいだ。
「おお、これがお前の兄か! ようく見ても似てないな! 心底、がっかりしたぞ!」
 ぐっしゃぐしゃと、妹の頭をかき回しながら、イケメンが台詞にはそぐわない高笑いをする。誰からみても明らかに上機嫌だ。戸惑っている俺にイケメンは完璧な微笑みを浮かべた。

「俺の名は桂木拓巳だ! アニ! 別に覚えなくていいぞ! 俺も覚えるつもりはないからな!」

 もしかしなくても、アニというのは俺のことなのだろうか……そして、ここまで傍若無人な振る舞いをされてしまうと、いっそ清々しい気分になるということを、俺は初めて知った。

「……桂木クンは妹の彼氏――ではないだろうな」

 首をぶんぶんと横に振る妹と、嫌そうに歪む峰藤クンの表情を見ていれば、それは違うと理解できたが、妹を含め、いったいこの三人の関係はなんなんだ?
 その完全否定が気に食わなかったのだろう。秀麗な眉を不満そうに曲げながら、桂木クンが鼻を鳴らした。

「お前の小生意気な態度は気に入らないが、今、俺は気分がいいから許してやろう――そうだな、おい、アニ!」

 唐突に名前――というかあだ名か――を呼ばれて俺の視線は桂木クンの瞳に吸い込まれる。

「俺はさっき覚えなくていいと言ったが、いずれお前の弟になるかもしれないからな! とりあえずはこの顔だけは覚えておいて損はないぞ!」

 まぁ、そうやすやすと忘れられないインパクトを持つかんばせではあるが……なんと、驚くべきことに、このイケメン桂木クンは、妹に惚れているらしい。
 桂木クンにおそるおそる確認してみると、あの無断外泊の相手であったことも認めたし俺は更に愕然とした。いつのまにこんなイケメンの心を射止めたんだ妹よ。しかも、俺の勘違いで無いとすれば――さっきから苛立たしげに殺気を発している魔王ももしかしたら、といった感じであるし。
 しかし、当の妹といえば、死んだ魚の目をしながら、もう自分の人生を諦めきっている様子だ。
 妹の態度からいっても、文化祭のときに妹がこの二人のどちらかに失恋をしたようには思えない――変わったものを磁石のように惹きつけてしまっている妹に俺は心底同情した。
 そして、一日借りていくぞ、と妹を拉致しかけた桂木クンを何とか引きとめながら俺は嘆息する――どうやら、まだまだ妹からは、目が離せないらしい。


アニ様!ヘルプミー!


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