五十九話 / 捕食者との邂逅、貞操危機一髪!


 眠たげに俯いていた太陽が柔らかい大地に今にも顔を埋めようとしている。
 そんな刻、暗くなりかけた住宅街でひとり佇む青年がいた。正確に描写すれば人様の家の前でうんこ座りをしていた。
 長い足を折り曲げた状態で屈みこみ、しなやかな体躯の上に乗った端正な顔は気難しげに顰められている。一点をじいっと見つめ、微動だにしないその様子は、一歩間違えば不審者認定されようものだが、恵まれた美貌というのは、人々の警戒を軽減させる効果があるらしい。
 数十分前、高らかに吠えた宣言通り、愛しい少女の顔を拝んで、あわよくば存分に弄り倒そうと全力疾走でやってきた青年――健気という言葉とは無縁な――桂木拓巳はその額に僅かに汗を滲ませながらも、その息一つ上がってはいなかった。しかし、目当ての人物の姿が見えないところに、拓巳の機嫌は株価よろしく右肩下がりに暴落する。寄せられた眉にひん曲がった唇。両腕を不遜に組み、体全体で不満を露わしていた青年の視線が、ふいに地面に縫い止められたのだ。
 その薄緑の瞳が向かう先は、コンクリートの上に遺された何の変哲もない携帯電話。彼にとっては見覚えがあるというどころの話ではなかった。
 拓巳は素早くしゃがみ込むと、地面に転がった遺留品をまじまじと観察していた。そして、現場保存の法則など守るつもりもなく、片手の親指と人差指でそれをつまみあげる。目線よりも上に持ち上げた証拠品を、上から、下から、左右からぐるりと見渡すと、今度はすんすんと鼻を寄せた――微かに少女の匂いがしたが、それは拓巳の嗅覚が優れていうということではなく、ただ単にそのような気がしただけである。そんな汗が染み込んだような携帯電話あってたまるものか。
 気分はすっかり名探偵になった拓巳は、ふむ、と顎に当てていた手を外し、携帯電話を尻ポケットに収めた。そして美しいかんばせをめいっぱい歪ませ、渋面を作りながら呟く。

「まったく、動くなって言っただろうが……バーロー」

 どうせそれ言いたかっただけでしょうよ! という幻のツッコミは本人不在のため期待できなかった。それは拓巳にとっても彼女にとっても不幸なことである。
 そうして、すっくと立ち上がった拓巳は、彼女の家のインターホンを押す。三秒ほど待ったが、ギネス級に短気な拓巳は追い打ちをかけるようにボタンを連打し始めた。がたがた、と玄関の扉の向こうで焦ったような音が聞こえて、飛び出すように出てきたのは、拓巳が期待していた少女の姿――ではなく少女の面影を残した青年の姿だった。二度ほど面識があったが、それは少女の兄で、門のところに突っ立っていた拓巳を確認すると、アニ(と拓巳は呼んでいる)は呆れたように息を吐いた。出会い頭に怒鳴りつける様子も無いのは、拓巳の性格を正しく把握しているからだろう。無駄にエネルギーを消費しない達観した性格は少女の行く末を感じさせる。
 アニは突っ掛けサンダルを履き、緩やかな足取りで拓巳の方に近寄ってきた。ジーンズにTシャツというラフな格好で、寛ぎの休日を、少女曰く、歩く人災に邪魔されたのだ。
 アニは少し迷惑そうにしていたが、そこで気を使って遠慮できるようならば傍若無人男などと不名誉な呼ばれ方をすることもない。堂々と仁王立ちしている拓巳の前で歩を止め、アニは自分の頭に手をやった。
「はぁ、やっぱり桂木クンか。人様の家のインターホンはあまり連打しない方がいいと思うぞ」
「アニ! 久しぶりだな! 別に会いたくもなかったぞ! 辛気臭いツラひっさげて里帰りか。ご苦労なことだな!」
「あぁ、やっぱり話は聴かない子なんだな。出会い頭にその無礼さ、いっそ感心するね。相変わらず俺の妹を振りまわしてくれてるみたいで、礼を言わせてくれ」
「気にするな! 礼ならいつでも受け取ってやる。お前の妹を形に貰ってやってもいいぞ!」
「皮肉が通じないってことはよく解かった……ってちょっと待て。貰ってやってもいいってなんだ、うちの妹は在庫処分か! 見切り品か!」
 眉を吊り上げるアニに拓巳は破顔した。返ってくる反応は少女を思わせるもので、少しだけ楽しい気分になる。からかわれたことに気付いたのだろう、アニは咳払いをすると、気を取り直して拓巳をまじまじと見た。
「そういえば、妹を……送ってきてくれた訳じゃないのか。朝に死にそうな顔して出陣していったから、桂木クンか、峰藤クンにひったてられたんじゃないかと踏んでたんだが」
 投げかけられたアニの質問を、拓巳は笑みを浮かべて黙殺する。鋭い読みであったが、お陰で必要な情報を得ることはできた。少女はやはり家には帰っていないらしい。匂い立つ事件の予感に不謹慎にも拓巳は高揚感を感じて胸を膨らませた。そうなればこんな所に用はない。運命の暴走機関車は既に動き始めているのだ。
 急に背を向けて歩きだした拓巳を、アニは困惑しながらも呼びとめた。拓巳は立ち止まり振り返ったが、その背景に薔薇でも散りばめられてそうな笑顔にアニは怯んで後ずさる。拓巳はびくつくアニの様子に白い歯をこぼし、手を上げた。
「シャッツの貸出延長だ! そのうち返すから心配するなっ!」
 それだけを言い残して拓巳は再び歩き出す。その背中に、俺の妹はレンタルDVDじゃあないぞ! という言葉が掛けられていたようだったが、それはもはや拓巳の気にするところではない。
 そうしてめい探偵(迷惑な探偵の略)、桂木拓巳は悠々とした足取りで現場を後にしたのだった。
 ただしスキップで。切迫感などこの男に求める方が無謀なのである。



 頭痛が――頭痛が痛い。
 その断続的な鈍い痛みは、私のスズメの涙並みの脳味噌全体を侵食し、言語中枢まで破壊せしめんとしていた。
 どっきんこどっきんこと、こめかみで規則的に刻まれるビートを感じながら、私は重たい頭を起こした。ぼんやりと滲んだ視界は何度か瞬きをしていれば、次第にその輪郭を鮮明にしていく。痛みを訴える頭は霞がかっており、全身には子なき爺がびっしりと貼りついていても可笑しくはない。
 更には骨を引っこ抜かれたように力が入らない両手を床につき、なんとか身体を起こせば、額に乗せられていた白い物体が落ちた。ぼてり、と音をたてたそれは、どうやら湿ったお絞りのようだった。
 誰かが看病をしてくれたらしい。それを拾おうと手を伸ばすと、ぐわんと目の前がぶれて、眩暈に襲われる。空飛ぶ絨毯に十回連続で乗せられて、その後にジャイアントスイングかけられたぐらい三半規管がへたばっている。耳の中のかたつむりはすでにナメクジレベルまで退化してるかもしれない。
 それでも、良い匂いのする緑の畳の上にゲゲゲする度胸はなかった。必死にお口にウィルソンをかけていれば、脂汗とか、涙とか、様々な体液が滲んでくる。ここでリンシャンカイホウ! スパーキング! してしまいたという誘惑もなきにしもあらずだが、それには人間の尊厳とか、なにやらいろんなものを捨てなければならない。
 頭にネクタイ巻いた酔っ払いの親父ならいざ知らず、流石にまだ恥じらいというものも持ち合わせていた私はぐしゃりと潰れるように地に臥せった。じっと目を閉じて屍のように動かずにいれば、酷い目眩は徐々におさまってくる。
 私は峰藤副会長と家の前で別れた後。
 桂木会長と電話して、どうやらだれかに拉致されたらしい。
 ほわい? なにゆえ? うぇいしゃんま? 私なんて捕まえても二束三文にも……いや二束三文ぐらいにはなって欲しいところですが。
 誘拐される危険性なんか普段、ちらとも考える必要もないごくごく普通の女子高生。じゅっぱひとからげ。刺身でいえば大根のツマ。二時間ドラマでも被害者どころか、通行人程度の存在――こうやって自分で例えた癖に少しへこむぐらい、普通の心臓を持つ一般市民なのである。
 それにこの中途半端な現状も私を困惑させる。目を覚ましてみれば、イリュージョンマジックみたく縄で椅子に縛りあげられているわけでもなく、ナイフをべろんと舐めながら「ぐえっへへへ、お前は人質だ」とほくそ笑む誘拐犯が居るわけでもなく。どうしようもない倦怠感と頭痛さえなかったら、夢でも見てるんじゃないかと思ったところだ。
 とりあえず大切なことは冷静に現状を把握することである。
 腕や足を苦労しながらも持ち上げてみればどうやら五体満足。ようやく定まった視点で部屋を見渡してみれば、そこは和風な六畳一間で、どこか昭和のノスタルジーが感じられる。化粧台に並べられた色とりどりの化粧品や、ベランダに掛けられた派手なキャミソールワンピースから推測するに、どうやら女の人の住まいらしい。ますます謎は深まるばかりである。
 私の知っている人で、私を拉致するようなアバンギャルドウーマンがいただろうか?
 私がうんうん唸りながら首を捻っていれば、す、とふすまが開くような音がした。
 びくりと体を震わせた私は、そこから突如登場した思いがけない人物に、あんぐりと口を開けた。

「あらぁ、目が覚めた? ひさしぶりね、たっくんの彼女ちゃん。まだ処女守ってるぅ?」

 その勘違いまみれの形容詞よりも何よりも、挨拶がわりにさらっと性体験の有無を聞くのは愛の狩人の文化とかしきたりとか礼儀とかそういう義務的なものですか。
 そんな赤裸々な部族とは金輪際、関わりたくもないわ! あばよ! クワヘリ!
 短いスカートから伸びるすらりとした美脚だとか、神棚に飾って拝みたくなるほど立派な胸だとか、ポテチを一袋食べたあとか思うぐらい艶やかな唇からこぼれるお色気満載な言葉は、強烈なインパクト――トラウマと言い換えても遜色はない――を私に刻みつけていた。
 忘れたくても忘れようがない彼女の名前は。

「ひとみ、さん?」

 愛の狩人、西条瞳。その人だったのだ。



 瞳さんは私の驚愕の表情をちらりと面白そうに一瞥したが、溢れ出る疑問に答えてはくれなかった。唇に笑みを刻みながらも颯爽と近づき、私の枕元に膝を付くと、床に放置されていた手ぬぐいを拾い上げる。そして、緩やかな笑みを浮かべた瞳さんはごく自然な流れで私の胸を、鷲掴んだ、のだ。
 むにむにと胸部でうごめく遠慮のない感触に頭がフリーズする。
「はぁ? はぁああああああ? なななな、なにをすんですかッッッ!」
 直接的すぎるセクハラに激震が走ったが、本能でその手を払いのけると、私は胸の前で腕を交差させた。顔は火が出そうなぐらい赤くなっているのが分かる。だって会って二回目の赤の他人に胸を揉まれて平静でいられる哺乳類はホルスタインぐらいのものだろう。まさか乳牛をリスペクトする日が来ようとは想像もつかなかった――ついてたまるかばか!
 極限の警戒態勢で身構えた私に、瞳さんはまったく悪びれない。私の胸を無遠慮に触っていた手に視線を移すと、わきわきとそれを動かしてから、不満そうに唇を尖らせた。はぁ、と漏らしたのは、がっかりと形容するに相応しい深い溜息である。
「やぁねぇ、まったく育ってないじゃないの。まったく、何やっているのかしらたっくんたらぁ」
「ああああのですね! 誤解が無いように言っておきますけど! 桂木会長とは瞳さんが考えてるような間柄に陥った覚えはこれっぽっちもありませんから!」
 ほんとに最近はこんな弁解ばかりしているような気がする。いい年こいた大人が皆揃って恋愛脳っていったいどういうこと。しかも瞳さんはまったくと言っていいほど人の話を聞いていない。どうして私の周りには、桂木拓巳を筆頭に普通の意志疎通さえも 難しい人間ばかりが存在しているのでしょうか。つまるところみんな地球外生命体なのか。そうなのか。
「あら、だってたっくんはあなたを愛しちゃってるんでしょ」
 必死に弁解している私をばっさりと切り捨て、瞳さんはさらりと述べる。
 公然の事実のように繰り出されたパンチは私の喉をぐっと詰まらせた。さっきとは違った意味で頬が火照る。まさか桂木から恋愛相談を受けていたのだろうか、という想像さえ浮かんできたが、それは思った以上にリリカルかつ、ぞっとしない絵面だ。疑いの眼で見返せば、瞳さんは肉厚な唇に人差し指を当て、片目をつぶる。
「誤解しないで? たっくんとの関係は綺麗にさっぱり切れてるから。誰だって気付くでしょお? だってたっくん、あの時、発情期前の獣の目してたしぃ」
「おぉぉぉぉおおおい、嘘つくな! つか生々しい発言しないでください! そんな目、誰もしてませんでしたけどっっ!?」
「愛の狩人に解らないことは、な、い、の! ねっ!」
 瞳さんはちちち、と指を振りながら電波なことを言い出した。まずい! もういっぱい! レベルに胡散臭く、かつ無駄にエロ臭い。
 終には、どこまでいったの? 誰にも言わないからこっそり教えて? とか言い始める始末。私が死んだ魚の目になっても仕方がないってもんである。
 生気をごっそりと抜かれた私に瞳さんは何かを得心したようだ。驚きに目を見開いてから、嘆かわしいと言いたげに首を振った。
「あらぁ、なんて悠長なことやってるのかしらたっくんは……とっととひん剥いて体に聞けばいいのにぃ」
「ちょっとぉおお! それ犯罪ですからっ! さらっと推奨しないでくださいよっ!」
「でも、目の前に獲物がいて手を出さないなんて、たっくんってインポなのぉ?」
「もう……ほんと……勘弁して、下さ、い」
 完璧にアウトな暴言の数々。精神をメメタァ! された私は涙目で地面に平伏し、今一度の許しを乞うた。げに恐ろしきは、羞 恥心を超越した愛の狩人である。
 私は精神的にも肉体的にもどっと疲れ果てた。人の事をこう表現するのも失礼だが、この人は青少年の健やかな育成にすこぶる有害じゃないのか。超越したエロス的な意味で。
 瞳さんはぐったりと萎びている私を見下ろしてきゃらきゃらと笑った。基本的にヒーハーな躁状態を保ち続けている彼女に私がついていける筈もない。いやむしろついていきたくない。積極的に放置していただきたい。
「やぁね、大げさな。ちょっとからかってみただけじゃない」
 軽く遊ばれただけでこの疲労感。全力で嬲られたら、確実にリングの隅っこに腰掛けたまっ白なボクサー状態になってしまうだろう。廃人コース一択である。
 恐ろしさにぞぞっと鳥肌が立った腕を擦りながら、私はご機嫌な瞳さんへと目を向けた。
「――あの、ところで瞳さん。私はなぜここに?」
 驚愕の邂逅と、愛の狩人式のヘビーすぎるじゃれあいに気を取られていたが、私はようやく冷静に現実に目を向けられるようになっていた。瞳さんは私の真っ当すぎる問いに首を傾げたが、何かを思い出したかのように、手をぽんと打った。
「あ、そうそう。あっくんから言われて、あなたの身柄、一時的に預かってるの」
「あっくん? 確か……瞳さんの付き合っている方、でしたか? その人が、なんで私を?」
「んー? 詳しくは知らないけど、あなた、あっくんの大事な人を弄んだ挙句、二股かけてるんですって? 処女のくせに悪女だなんて、会わない間に随分と、やり手に、なっ、ちゃ、って! このこのぉ!」
 ぱぱぱぱぱぱ、ぱーどん、みー??? あれぇ? 人を弄んだり、二股をかけることって、やるじゃん! と見直されるべき行為なのでしょうか――というかそもそもそんな人聞きの悪いことやった覚えないですから! ものっそ濡れ衣!
 満面の笑顔で瞳さんは私の頬をぐりぐり突付きまわした。虐待慣れ(なんと涙を誘う言葉)している私にとっては、それは痛みのうちにも入らなかったが、それよりもなによりも、私は瞳さんの言う"あっくん"の誤解に血の気が凍る心地がした。
 あっくん。
 あつし? あきら? あきひこ? あらはばき? あらごぐ? ありじごく? あばっきお?
 私の周りにそんな名前と不釣り合いなバイオレンスな男が……容易に思い浮かんでしまいそうなところが怖い。酷く気が進まなかったが、私は一大決心をし、ごきゅりと喉を鳴らす。
「瞳さん、その、あっくんさんの名前をお伺いしても?」
 鬼太郎の毛がハリセンボン状態になるぐらいビシビシ嫌な予感がしていた。しかし、瞳さんは何の含みも持たず、あっさりと口を開く。

「あっくんの名前? あっくんの名前はねぇ、赤司。赤司龍之介――瀧川組の若頭なの。すごいでしょ?」



 へーほー、それはすごい。はははは。
 あの人、龍之介っていうのか。あっくんって苗字だったのか。普通、名前から取りません? 龍ちゃんじゃなく、なぜにあっくん。そんな可愛いもんじゃないでしょうよ。
 とかなんとか。脳内で渦巻く文句や喉からとめどなく流れる乾いた笑いやら。
 胸を張って彼氏自慢を始めた瞳さんを前に、私はもはや特技へと昇華された現実逃避に走っていた。そして薄々、自分がここに連れられてきた意味を察し始める。
 あっくん……赤司の言葉を借りれば、くそアマが調子こいてんじゃねぇ、東京湾に沈めてやろうか、アアン? っていう感じなんだ。ぜったい。
 それにしても赤司のファンタジー妄想イコール恐ろしい誤解はどこから沸いて出たのか。家の庭から石油が湧き出たレベルで突飛過ぎる。私は眼鏡を弄んでもいないし、二股をかけた記憶も無いったら無いのだ。何度訂正しても、主観のみで一般人を拉致ってどうなんだろう! 若頭として! というかそもそも人間として!
 なんとなく精神的にがっくりと来てしまった。万人に好かれるようとは思ってないけれど、それでも誤解を解く機会ぐらい与えてくれても罰は当たらないと思う。私は嘆息してから、瞳さんに向き直った。
「ええと、それで赤司さんは、これから私をどうするつもりなんですか?」
「さぁ? 私はちょっとの間、預かれって言われてただけだからぁ。寝てる間に性的な悪戯しろとか、マグロ漁船に乗せろとも言われて無いわよぉ」
 はい、ここは精神衛生上、華麗にスルーさせて頂きます。
 身代金を要求しようにも私の家に莫大な資産があるわけでもなく、私自身が何かの取引材料を差し出せるとも思えない。順当にいくと峰藤関連であることは間違いないだろう。もちろんあまり喜ばしい状況ではないものの、瞳さんの答えを聞くに、とりあえ ず今現在、命まではとられることはなさそうだ。目覚めたら簀巻きリバーとか、マグロ漁船とかいう絶望的な状況じゃなくてほんうによかった。私が安堵のあまり涙目になっていると、瞳さんはちらりと時計に目をやった。
「あら、そろそろ出勤時間だわぁ。そうね。あなたをここに置いとくのもあれだから、一緒に行くぅ?」
 私も釣られるように時計と窓の外を見てみたが、普通の人なら仕事を終えてから家に帰ってくるような時間帯である。
「瞳さんの職場へですか?」
「そうよ。託児コーナーは無いけど、みんな面倒見いいから大丈夫よぉ」
 すみません、その何の根拠もない大丈夫が一番不安を煽ります。化粧こってりな上に、露出過剰な服装からみても、確実に未成年が出入りするべき場所でないことは見てとれる。遠慮します、と丁重にお断り申し上げれば、瞳さんはあっさりとかぶりを振った。
「でもねぇ。あっくんには、くれぐれも目を離さないようにって言われてるからぁ。彼女ちゃんには悪いけど、ついてきてもらえないと私が怒られちゃうの――ここだけの話、あっくん、ああ見えて、けっこう怖いのよ?」
 意外性の欠片もねぇわ。見た目どおり、そっくりそのまま怖い人です。瞳さんには赤司がテディベアかなんかにでも見えているのだろうか。そんなふわっふわのファンシーさなんぞ微塵もねぇよ。
 瞳さんに対しての少しの罪悪感はあるものの、拉致軟禁を目論む赤司に立てる義理はまったくない。瞳さんが出かけている間に、こっそり逃げよう、と思っていた私は身振り手振り、言葉を尽くして必死に説得しようとした。
 そんな私の様子を見つめていた瞳さんは腕を伸ばし、つい、と私の唇に指を当てる。
 柔らかな感触に驚き、私が動きを止めると、瞳さんは艶やかな唇を歪め、くすりと笑った。そしてあくまでも朗らかに、語尾に星でも散りばめられているかのような軽さで私の頬に手を添える。

「い、い、か、ら! 私についてきて! 逃げようなんて思わないことよぉ? そうねぇ、もし万が一、そんなことになったら――揉みしだいてお嫁にいけない体にしちゃうんだからっ!」

 たすけて。ままん。
 貞操の危機です。



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