特別な関係の僕ら
「ただいま」
彼女の声で我に返った。手元のデジタル時計に表示されているのはいつもより早めの時刻――十六時。窓辺のスクリーンを少し上げ、隙間から外の景色を眺める。
朱色に染められたモノクロの街。高低差のあるビルが墓標のように、いや、二一世紀の墓標と化しどこまでも続いている。
「またネット? 迎えにくらい出てきなさい」
言葉ほど不機嫌そうな声色ではない彼女が戸口に立つ気配。振り向けばそこに黒のパンツスーツに腰まで届きそうな長いワッフルヘア。この間まで黄緑色をしていた髪は、いつの間にやら赤紫に近い色へと変色していた。
「その髪――」
「ワインレッド」
ピシャリと言われ、僕はその通りとばかり重くうなづく。「紫キャベツみたいな色」なんて発言する暇も与えられなかったのはどちらにとっても幸いだった。以前、彼女の髪を「チリチリパーマ」と称した時は三白眼で「頭良いんだから、ソバージュって単語くらい知っておいて」と数日に渡ってネチネチ言われたものだ。
彼女はやたら流行と若く見られることを気にする性質だし、僕はその正反対。結婚する直前、彼女に無理やり連れて行かれた美容院で染められた深緑色はすでに無く、斬新なカットの名残も無い。一ヶ月もしないうちに近所の床屋で坊主頭になったのが彼女にはお気に召さなかったらしく、最近は僕の髪型に何の口出しもしなくなった。おかげで、僕は伸ばしっぱなし。そろそろ切ったほうが良いと思いつつも、そのままだ。
「それ、今、流行ってんの?」
くるくる髪の色を変える彼女に尋ねる。四季ごとに、とまではいかないまでも彼女の髪の色は、年に二回は最低変わる。
「似合わない?」
「似合ってる」
ふふ、と彼女は嬉しげな笑みを見せる。年齢よりも実際若く見えるのだが、彼女は大体気難しそうな顔をしているほうが自分にはあっていると思い込んでいるらしく、表情を崩すことはまず無い。
「仕事は?」
「今日は休日よ」
「ごめん」
とりあえず謝っておく。彼女の前ではいつも謝ってばかりだ。
彼女は深々とため息をつき――僕が謝った後、彼女はいつも疲れたような顔を見せ、優しく微笑む。だが、仕方ないわねという母性的な表情は一瞬だけで、再び現れるのは怒っているようにしか見えない顔。
「ご飯はきちんと食べた? 水やりは? 出る前に頼んだ廊下の掃除、してくれた?」
質問攻めにされるのはいつものこと。
ご飯の内容を答える代わりに、片付け忘れていたサラダボールを指差す。それだけで彼女には伝わる。僕が最近良く食べるサラダの内容はいつも同じなのだから。
自家製栽培のほうれん草と水菜、トマト、パセリに有機栽培のカイワレダイコンとジャコ、ゴマ、アスパラなんかを一緒に混ぜて、この街で一番有名なホテルのシーザーサラダ用ドレッシングをかけたやつだ。
「またサラダだけ? 冷蔵庫に何でも入ってたでしょうに」
「食欲無い」
「そんなことじゃ大きくなれないわよ」
それを言われると辛い。実際、僕は高くも無い彼女の背を追い越せないでいるのだ。
「でも、水はやったよ。掃除は忘れてた」
「――でしょうね」
「ごめん」
「別にいいわよ」
一瞬寂しそうな表情を浮かべたものの、彼女はさっと部屋に引き上げていく。
さて、ここらで僕らの紹介をしておこう。僕は阿部新之助《あべしんのすけ》。あと二週間で十二歳になる。今は春休みで、来月から僕は中学生――ではなく大学院入る。飛び級というやつだ。
彼女は阿部愛理《あべあいり》。二十六歳。バリバリのキャリアウーマンらしい。僕の母さんの後輩だった。
そして。
僕らは仮面夫婦だ。
*
二十二世紀を目前とした現在。二十一世紀以前から問題となっていた少子高齢化は、社会問題なんて言葉でかたづけられないところまできていた。崖っぷちなんて生易しい現状じゃなく、崖に指一本で何とかしがみついてるって感じ。這い上がるより、落ちる方が簡単で、手っ取り早い。
問題の先送りを繰り返していた政府は十数年前からようやく結婚可能年齢の大幅な引き下げや、成人年齢の引き下げなど斬新過ぎる革新を次々と行ったけれど……効果がありそうな時期を逃したものだから、何ら解決の糸口にさえならず――ようやく家が全焼しているのに気づき、それからバケツリレーをはじめるがごとく、馬鹿げた法案がそれから十年に渡って乱立した。
その中の一つ。一年ほど前から施行されたのは二十五歳以上の未婚者を新たな課税対象と定めたもの。おかげで一昨年の結婚件数は近年類を見ない増加と、離婚率の異常な減少がみられたらしい。
出生率の低下と人口減少に歯止めを掛けたと当時の内閣は息巻いていた、が。問題はまるで解決していなかった。なぜなら。結果、増えたのは仮面夫婦ばかりだったからだ。
僕は物心つく前から彼女に養育してもらっている。僕の生みの母は彼女の友人で――若くして僕を生んだあの人は、悪戦苦闘して僕を育てようとしたものの……あの人には無理だったのだ。若すぎたからだ、とみんな片付けてしまうがそうじゃない。
母と暮らしていた幼い日々。無駄に記憶力の良い僕はいまだに忘れられないでいる、黒くて、暗い歳月。幼い僕にとって世界のすべては母だった。なのに、あの人はその世界を壊そうとばかりしていた。僕と母の間には深い溝があったのだけれど、幼い僕にはそんなことを理解する能力なんて無く、世界は母だけじゃないって事さえ理解できないでいた。
ある日、母を訪ねてきた彼女は僕を見つけ、強引に保護した。当初、何も理解できない僕には、彼女は僕の世界を壊した酷い人でしかなかったが、やがて僕も母の世界の異常さを理解した。若い彼女は周囲の反対を説き伏せ、母を入院させ、幼いが聡い僕と何時間でも話し合いを繰り返した――だから。彼女にはいくら感謝しても足りない。
あの人は”母親”というものに向いていなかったのだと理解したのは彼女と暮らすようになってから。そう。あの人には最初から無理だったのだ。
そして去年。彼女にとっては無駄な浪費者でしかない僕は、節税対策の為に結婚を申し込んだ。働くことに生きがいを見出している彼女には相手がいないこともわかっていたし、何より、彼女は結婚相手を見つけられるタイプではない。
ジーパンに若草色のセーターを着た彼女が姿を見せた。髪は後ろで一つに束ね、黒のシンプルなエプロンで、忙しそうに家事をこなしていく。
僕ならば一時間以上かかかりそうな仕事を彼女は素早く、的確にこなして行く。服を大量に抱えて目の前を通り過ぎたかと思うと、次は掃除機を抱えている。しばらく掃除機の音がしていたが、次はガチャガチャと食器の音。
彼女が帰ってくると部屋に音が満ちる。うるさい音ではあるけれど、一人でいた時間とのギャップに僕は嬉しくなる。
「手伝おうか?」
「いいわよ、私一人でやったほうが早いから」
「ごめん」
「謝るんなら、私がいないときにきちんと言っといた用事を片付けて」
「ごめん」
会話の間も音は新たに生まれ、消滅し、移り変わる。テキパキって言葉は彼女の為にあるのだと思う。
しばらく彼女を眺めていたが、
「邪魔」
キッと睨まれる。視線の鋭さほど、彼女はイラついてはいない。僕は知っているが、会社の同僚などは知らないだろう。怖いと評判らしいから。
「ごめん」
「他にやることあるでしょ?」
「無いよ」
一時間ほどで夕食の準備が整ったと彼女が告げる。掃除をしていたはずなのに、いつの間に夕食まで作っていたんだろうといつも不思議に思う。
僕らはリビングの小さなテーブルに付く。
「またうどん?」
「文句あるんなら、新之助が夕食作りなさいな」
食べながら僕らは今日あったことや見た事なんてどうでも良い話を始める。母子の会話――じゃなくて僕らの場合は夫婦の会話か。
今日は休みの日だけれど、彼女は仕事があったらしい。たまっていた仕事を少し片付けて、町をぶらぶらしていたと僕に話してくれた。
「あ、映画、新之助の好きそうなのやってたわよ」
「何?」
「えぇっと……タイトル忘れちゃった」
彼女は自分の興味の無いものは大抵覚えてない。でも、僕が興味ありそうなものは気に止めておけるらしい。もうちょっと具体的に覚えていてくれれば良いのだけれど。
「あとで調べるよ。愛理さんも一緒に見に行く?」
「いい、私はアニメ専門だもの」
小難しいものは嫌だと彼女は言う。娯楽でまで頭を使いたくない、と。
「で、新之助は何やってたの?」
「アインシュタインについて調べてた」
今度書く論文の為もあり、資料を片っ端から検索していたのだ。主要な文献はほとんどオンライン上で公開されていたから大体落とせた。あとは読むだけだ。
「……聞いたことあるけど……それ、誰?」
彼女は手を止め、僕の顔をじっと見る。
「すっごく有名な物理学者だよ。百年くらい前の。教科書に出てこなかった?」
「知らない」
「愛理さん、頼むから――」
「家で難しい話は禁止。私のいるときに勉強の話も無し。新之助、自分の年齢わかってる?」
「わかってるよ」
「そう。じゃ、今日が何の日かもわかってる?」
何の日? 普通の休日でしかないが、何かの日だったのだろうか。
「はい、これ」
包みを渡される。細く長くて薄い箱。振るとカタカタ音がする。
「何?」
「誕生日プレゼント」
「……僕? 誕生日だっけ?」
「いいじゃない、今年中には誕生日あるんだし」
あまり余裕の無い家計だから、誕生日以外にプレゼントは贈らないよう僕らは話し合って決めた。だから、誕生日でもない日に贈り物をしたくなったら、彼女は勝手に誕生日を主張する。プレゼントされてしまえば返すこともできない。
一般的に女性は金銭感覚が鋭いと聞くのに、何で彼女はこんなに大雑把なんだろう。
「さ、開けてみて」
丁寧に包装を取る。入っていたのは深い緑色の眼鏡ケースだった。
「これ?」
「そう。新之助、絶対視力悪いわよ」
「そんなこと無いよ、半年前の視力検査で両目とも一、五あったんだから」
言いつつも眼鏡を掛ける。黒い、太いフレームの眼鏡。慣れない視界に軽く目眩。世界が奇妙に揺らめき、やがて整然と形づくられる。
「私の顔、よく見えるでしょ?」
勝ち誇ったような声。
「うん」
確かの僕の視力は悪くなっていたらしい。本人がわかっていなかったのに、どうして彼女は気づけたんだろう。
「これ――」
普通の眼鏡じゃない。
「それ、レンズじゃなくてモニターらしいのね。よくわからないけど、掛けた人の視力に合わせて自動的に度を調整して……」
よくわかっていないらしく、彼女は難しそうな顔をして顔をしかめていたが、やがて一人納得したようにうなづくと、
「電池が持つ限り半永久的に使えるそうよ」
「高かったでしょ?」
「知らないわよ。眼鏡の一般的な価格なんて」
「……値札見た?」
「見たわよ。見なきゃ買わないわよ」
言いつつも、目は泳ぐ。絶対、値札なんて見てない。たぶん何年かのローンを組んで買っているはずだ。一ヶ月の払いが安いからあまり考えてないんだろう。
仕事をしているときの彼女と、プライベートの彼女にはものすごく差がある。どうして頭の回転まで悪くなってしまうのかが僕には不思議でならないが。
「あ、そうそう」
彼女は食べるのが早い。僕の椀にはまだ三分の一も残っているのに。僕がプレゼントした、魚の漢字で列挙された大きな湯飲み茶碗で彼女は熱い緑茶をすすりつつ、
「離婚しない?」
突然の話。
「え?」
「用紙貰ってきた。もう私の欄は書いてるわ。あとは新之助が書いて、提出するだけ」
本来なら、僕に聞かなくてもいい。結婚相手が未成年者の場合、相手の了承なんてたいした問題にはならないのだから。
「勘違いしないでね。今まで通り、私はあなたの保護者よ――」
慌てた様子で言葉を付け足す。
「仮面夫婦を辞めるだけで、私はあなたの養育権は放棄しないの」
「じゃあ、どうして? 余計な税金かかるだけだよ」
「頭のいい子って嫌よね」
「え?」
「ほら、泣きそうな顔しない。そういう意味じゃないの。私ね、子供生もうと思って」
「子供……愛理さんの赤ちゃん?」
「そう」
彼女はうなずく。人口子宮で――彼女の話は続くが、僕はそれを聞いてはいられなかった。
僕らは仮面夫婦で。
彼女は僕の養育者で、母親で。
でも。
僕らは、普通の関係じゃない。
赤ちゃんって。
愛理さんの赤ちゃんって。
「そんな顔しないの」
彼女は僕の頭をコツリ、痛みのないゲンコツで触れる。
「新之助の将来の為にも、離婚して子供産んだほうが良いでしょ?」
「僕の、将来のため?」
「そうよ。このまま結婚してると私の赤ちゃん、新之助が父親になっちゃうでしょ?」
彼女はさらりと言葉を続ける。
そうか。そう言われればそうだ。
普通、夫婦の間に生まれた赤ん坊の父親は夫、つまり、愛理さんの赤ちゃんは僕の子になる。
「流れ的に言うとそうだね……」
あまりに不可解で、あり得ない事だけれど、僕は頷く。重要なのは真実ではなく、書面上の記載なのだから。
「知りたい?」
「え?」
「相手。教えて欲しそうな顔してる」
そんな顔はしてないはずだ。
両手で顔を隠す。前髪の間からちらりと彼女を見やると、彼女はいたづらを思いついた子供のような顔で微笑む。こんな顔をした彼女の台詞はいつも決まっている。
「フフフ、教えてあげない」
《続》