そして、陰謀の香り




 夜間撮影したビデオカメラの灰色の画面には教室が映っている。もちろんこんな時間に生徒など居ようはずもない。しかし、画面を横切るように現れたのは一人の女子生徒の姿だ。彼女はあたりを見回しながら、一つ一つ机の中を覗いている。やがて彼女は何かを机の中に見つけ、それを取り出した。月の光に掲げてみる。
 それは眼鏡だった。
 しばらく掲げた後、彼女は残念そうに首をふると、その眼鏡をまた机の中に戻した。そしてまた机の中を覗き……。
 
 プツッ。とモニターの電源を落としたのは太い腕から伸びる生白い手。その手の持ち主は深緑色のスーツを着た太った男だ。年齢はざっと50代後半、教室にいるところからおそらく教師の一人であると思われた。神経質そうに小さな目を動かしテレビの横に立っている。
「これは3日前の隠しカメラの映像だ」
彼は小さな声でゆっくり言った。「彼女は2年E組の遠坂千尋だ。何をしていたか分かるかね?」
「眼鏡を探していたように見えたけど?」
答えたのは、机に寄りかかるように腰掛けた小柄な少年だった。少し赤めに染めた髪はウルフヘアにセットされており、前髪の間から覗かせている眼鏡はレンズの下だけに赤いフレームが付いている。洒落っ気のある男子生徒だ。……もっとも、その眼光には洒落っ気など微塵も存在していなかったが。
「その通りだ。君に話したいのはこのことだ」
薄暗くなりかけた教室には大小二つの影のみ。教師は、咳払いをしてから、回りに視線を巡らせて他に人が居ないことを再度確認した。
「この画像に加え、もう一つ無視できない事実がある。先日の中間テストで、遠坂千尋は苦手科目であったはずの化学と生物で高得点を取っているんだ」
教師はそう言って、じっと相手の顔を見下ろした。
「つまり? 彼女が、例の眼鏡を中間テストの時に活用したんじゃないかと、そう言いたいわけだ。センセェは」
「中川、あの眼鏡はどうしたんだ?」
「持ってるよ」
真剣な顔をしている男に、投げやりな態度で少年は答えた。
「あの眼鏡は、肌身離さず持ち歩いてるよ。盗まれてなんかいない」
「じゃあどうして?」
「僕が知りたいね」
男子生徒は眼鏡を直しながら、ニヤと笑った。「彼女、けっこうカワイイね。僕、好みかも」
「中川、真面目に話を──」
「ま、もう一つ眼鏡があるなら、それはコピーってことだね」
「コピーだって?」
「ありえない話じゃないよ、センセェ。僕は、近藤先輩の書いた設計書や研究レポートを全部回収したつもりだけど、漏れがあるかもしれない。アレをつくる時に使った薬品だってどっかに残ってるかもしれない。要は、酸性の液体で書かれた文字を見えるようにするだけの代物なんだから」
少年は机に深く腰掛けて片膝を引き寄せると、その上に自分の顎をちょんと乗せた。
「あの事故のせいで計画はストップしてるけど。もともとは模試シーズンに合わせて眼鏡を量産しようって言ってたでしょ。作ること自体はそんなに難しくないんだ。あの眼鏡は。あとはレモン汁でも用意して、どこかに前もって回答を書いておくだけさ」
どちらにしろ、と前置いて男子生徒は続けた。「千尋ちゃんには協力者がいるんじゃない? テストを乗り切ったのに眼鏡を探し続けているのは変だよ。その協力者が僕の持ってるオリジナルを欲しがってると見るべきだね。あの眼鏡は僕たちのやっていることの“証拠”になり得るものだから」
 小太りの男はみるみるうちに青ざめた。
「どうするんだ、中川。私はだからこんな計画には最初から……」
「待ってよ、教頭センセェ。あんたはこの学園の偏差値を上げたいって言ってたよね?」
大声を張り上げようとした相手に、少年は強い言葉を返した。
「ウチのガッコの偏差値が59に落ちて悔しい。屈辱だって言ってたよね? だから僕たちの話に乗ったんじゃなかったっけ?」
 ──彼は死んだけど、あれは事故だった。そうでしょ?
 秘密を話すように、囁くように彼は言い、笑った。
 教師も負けじと少年を睨みつけた。少年は視線を揺るがせず、まっすぐに相手を見上げている。
 一瞬の間のあと、教師は気分を落ち着けるように、フゥーと長い息をついた。
顎に手をやり言葉を選ぶような素振りを見せると、ゆっくりと言い放つ。
「中川。お前は異常だ」
「ハッ、何言っちゃってんの? センセェ。共犯のくせにさ」
少年は声を上げて笑う。「今さら“研究費用”は返さないよ。女の子とのデート代に使っちゃったからね」
「ここは学校だぞ!」
「だから?」
 教師と生徒は黙り込んで、お互いに強い視線を向け合った。ふいにおとずれた静寂。遠くで野球部らしき少年たちの、オーライオーライという声が小さく聞こえてきた。日が落ちていく中、微動だにしない二つの影。
 先に身じろぎしたのは、今度は少年の方だった。
「……分かったよ」
 教師から目をそらし、足を解いて机から立ち上がった彼は、ポケットから出した携帯電話のフリップを開きながら言った。
「彼女のことは僕に任せて、センセェ。自分のケツぐらい自分で拭けるさ」


「ね、あのさ、コグレさ」
 夜も更け、他の女子高生たちが月9ドラマを見ている頃。千尋は学園校舎の外側に着けられた螺旋型の非常階段を登っていた。季節はそろそろ秋も深まろうという10月に入ったところ。少し肌寒い風を受けながら、彼女は動きやすいジャージ上下に運動靴といった出で立ちで、軽快に足を運んでいる。街頭の明かりのおかげで、しばらくは懐中電灯を使わずに済みそうだった。
 カンカンと登っていく彼女の後ろには、背の高い少年がのろのろと続いている。制服を着たその姿は、よく見ると少し透けていた。彼は通称コグレ。一週間前に千尋の前に突然現れた、れっきとした“幽霊”だ。
「あんた成仏しちゃったらさ、その、やっぱ天国行っちゃうワケ?」
『当たり前だろ、ボケ。何で美女のいないところに留まらなきゃならんのだ、この俺が』
……美女が気の毒だろう、と続けるコグレ。千尋はとりあえずその最後の部分を無視した。
「だよね〜。眼鏡を見つけるのはいいとしてもさ、どうしよう次のテスト。あんたが隣にいなかったら私、また元の落第スレスレの点数に逆戻りしちゃうよ」
『知るか。お前が頭悪いのが問題なわけで、俺には全く関係ない』
「何それ」
足を止めて振り返りつつ、千尋はコグレを睨みつける。
「全部じゃないでしょ、私、国語とか日本史とかはちゃんと点取れるもん。ちょっと苦手科目があるだけじゃないのよ」
『ちょっと? ちょっとだけか? お前の苦手科目』
「うるさいな、もう!」
自分が大きな声を上げてしまったため、ハッと口を押さえる千尋。辺りをキョロキョロと見回してから、また視線をコグレに戻す。
「ふん。自分が死んだ場所に怖くて一度も戻れないようなヘタレ幽霊に、ああだのこうだの言われたかないわ。それ以上、ムカつくこと言うと、今日はもう帰っちゃうわよ」
『ぐ……』
「帰って、月9見よっかな〜」
腕組みをしてふんぞり返るようにして言う千尋。コグレは心底悔しそうな顔をした。
『分かった、お前の成績のことをとやかく言うのはやめてやる。だから早く階段を登れ』
「はいはい」
勝った。と千尋は心の中でほくそ笑みながら、また螺旋階段を登り始めた。

 この一週間。ちょうど中間テストと重なっていたため、眼鏡探しはほとんど出来なかった。コグレが死んだときの事故のことも調べたかったのだが、分かったのはその時期がちょうど二年前の今頃──10月の初旬だったということだけであった。
 千尋自身はまだ中学生だったため、話は担任教師の臼井から聞いた。彼女は事故のことをそれなりに覚えていた。しかし肝心のことを覚えてはいなかった。
 ──うっかり屋上から落ちて死んじゃった男の子でしょ。ええ、そうよ。学校の怠慢だって随分問題になったの。確か三年生で……。え、名前? なんて名前だったかしら?
 新聞記事などで調べたかったのだが、学校の図書館では見つからず、もちろんインターネットにも載っていなかった。これはもっと古くからいる教師たちに聞くしかないなと思っていたのだが、そこに中間テストがやってきた。
 千尋は大いに焦った。眼鏡探しに精を出すあまり、テストのことをすっかり忘れていたのだった。焦るあまり、彼女はコグレに八つ当たりした。あんたの眼鏡探してるせいで勉強してるヒマなかったわよ、どうしてくれんのよ、と。すると意外にも幽霊の少年は、真昼間の教室にまで着いてきて、試験の最中、隣で回答をペラペラと喋ってくれた。
 科目は化学と生物と、数学を少しだけであったが、他の科目は自力で何とかしたため、千尋は無事中間テストを乗り切ることが出来た。
 本当のところ千尋は彼に感謝していた。口ではギブ・アンド・テイクよ、とは言っていたものの、本気で眼鏡を探してやろうという気になった。──彼が眼鏡をかけた時の姿を思い浮かべ、妄想も一段と逞しくしながら。

「さて、着いたわよ」
千尋は螺旋階段の柵をうまく乗り越えて、屋上に降り立った。人の気配をしないことを確認すると、ポケットに入れていた小さな懐中電灯のスイッチを入れて、冷たいコンクリートの地面をサッと照らす。
 広い長方形の空間にはしっかりと鉄製のフェンスが張り巡らされている。ちょうど中央部にポコンと突き出た非常口があった。校舎の中からはここから屋上に出ることができるのだ。
 ──その三年のコがうっかり落ちちゃってから、屋上は危ないっていうんで非常口には鍵が掛けられるようになって、生徒は勝手に屋上に行けなくなっちゃったのよ。臼井がそんな風に言っていたことを千尋は思い出した。
「で、あんたはどこで昼寝してたの?」
 後ろにコグレの気配を感じながら、歯切れ良く千尋は尋ねた。
『うう、待て。そう急くなよ。……お前と違って俺の80%はデリカシーで出来てるんだ』
「ウソでしょ。“罵詈雑言”の間違いじゃないの?」
『お前、アホのくせに難しい言葉知ってるじゃないか』
「国語力ならあんたに負けないわよ」
無駄口を叩きながら、千尋はフェンスの傍を辿るように歩き始めた。コグレもおずおずとその後を着いていく。
「そうだ、確か屋上口から見えないようにって裏側に回ったような……」
コグレがそう言うので、千尋は方向を変えて校舎の裏手の方に向かった。
 歩きながらもチラとコグレの顔を見やると、思慮深げに眉を潜めている。彼は自分自身のことや自分が死んだときのことをあまり思い出せないと言っていた。
人間はあまりにも嫌なことや辛いことがあると、それを強制的に忘れるように出来ていると聞いたことがある。これは千尋の勝手な推測だが、幽霊になってもそれは同じなのではないか。
 コグレが辛い思いをすることがなければ良いが。そう思いつつも、千尋は彼の横顔に眼鏡を当てはめてみる。うん、銀縁もいいけどふち無しも似合いそう。いやいや、やっぱり明るい色のセルフレームも捨てがたいじゃない? 華の乙女の妄想はどんどん膨らんでいく……。

「ねえ、何してるの?」
 その時、誰かの声が千尋の後ろから聞こえた。

「ひャっ!」
 千尋は驚いてカエルが潰れたような変な声を上げた。慌てて口を押さえて、懐中電灯の電気を消し身体を縮ませるように自分を抱きしめた。後ろから、別の懐中電灯の光を当てられた。コグレではない。誰か別の人物が後ろにいる!
「何してるの? そこで」
 聞いたことのない少年の声だった。教師でないことに気付いて、千尋は少しだけ胸をなでおろしつつも懐中電灯をグッと握り締めた。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう、仕方ない。もしヤバイ相手だったらこれでボカッと……。
 少々物騒なことを考えながら、千尋はバッと振り返った。
 そこに立っていたのは小柄な赤毛の男子生徒。見たことのある顔だった。話したことはなかったが何度か見かけた──というよりじっくり観察したことが数回ある。なぜなら彼が赤いフレームの眼鏡をかけていたから。千尋の眼鏡少年を見つける眼力は、彼をしっかり捉えていたのだ。
 化学部の部長で、三年生。名前は中川圭史郎といったはずだ。千尋は自分の心にしまってある“眼鏡男子データベース”から一瞬にしてその情報を引き出していた。
「あ……、えーと」
 とはいえ、思わぬ眼鏡男子の登場に動揺しないはずがない。千尋は“武器”を持った手をだらんと下げてしまった。
「ごめんね、ビックリさせちゃって。僕、中川。中川圭史郎。化学部の実験で残ってたら、屋上で明かりがチラついてるのが見えたから」
そう言って、彼はにっこり微笑んだ。千尋の点数付けで言うなら80点。背が低めなところを除けば、彼も素敵眼鏡男子である。
「え、ええと、私、遠坂です。遠坂千尋です。二年です」
息せき切ったように千尋は口を開き、身振り手振りしながら続けた。
「あの、私別にここであの、何でもないんですけど。あっ、そうそう。星! 星が好きなんです。乙女的に星が好きなんですぅ。だからついダイハードみたいに螺旋階段登っちゃって。ほんとはお淑やかなんですけど。私」
「へえ、そうなんだ」
少年、圭史郎は、ゆっくりと千尋に近づいてきた。
「今日、曇ってるから星、見えなくて残念だね」
「へっ!? あ、ホントだ。うっかり〜」
千尋がボケても、圭史郎は微笑んだままでツッコんではくれなかった。
 彼を廊下で見かけるときは、いつも数人の女の子たちと一緒にいて笑ったり、はしゃいだりしている。だが、今はどうだろう? 千尋はようやく異変に気付いた。圭史郎は普段こんな笑い方をしていない。
 そもそも、どうやって屋上口の鍵を開けた?
 あれっ、そういえばコグレは?
 見回すと、幽霊の姿はどこにもなかった。つい先ほどまで傍にいたのに。これは一体──。
「誰かと一緒にいたの?」
 いつの間にか圭史郎はすぐ前に立っていた。違うと言おうとしたら、そっと右手を握られた。懐中電灯を持ったままの千尋の手を包み込むようにして持ち、自分の右腕を彼女の肩に回してくる。
 その大胆な行動に、千尋はビクッと身体を強張らせた。いくら何でもいきなり接近し過ぎではないか。
「あの、な、何するんですか、先輩」
「こんなところに一人でいちゃ危ないよ」
小柄な彼は、千尋と目線がほとんど同じ高さになる。彼女はその目を見ていて寒気を感じた。何か言わなくてはと口を開いたが、声が出ない。ぱくぱくと池の鯉のように口を動かしただけに終わってしまう。
「遠坂さん、僕とゴハン食べに行かない? 奢ってあげるから」
男にしておくには勿体無いほどの艶やかな流し目を送りながら、圭史郎は囁くように言った。

「ゴハン食べながらさ……二人でゆっくりと、“近藤さん”の話でもしようよ」

「──は?」
千尋は圭史郎から身体を離し、きょとんと相手を見た。
「誰のことですか、それ?」
「え?」
彼女の反応に、思わず手を離してしまう圭史郎。
「近藤さん、近藤さんだよ。僕の前に化学部の部長やってた、近藤さん」
「??? 誰ですか? 私ゼンゼン知りませんけど」
「ホントに? 本当に知らないの? 傲慢で、女ったらしで、他人をコケにするために生まれてきたような、あの近藤だよ?」
「知らないです。そんな変な人」
千尋はきっぱり答えつつ、圭史郎がなぜそんな話を持ち出したのかと思った。傲慢で、女好きで……。そんな人間は、コグレ一人で十分だ。
 ……って、え?

『あっ!』
二人は同時に声を上げた。

《続》


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作者/冬城カナエ