「モグラのモグーの大冒険」
窓に立てかけたスケッチブックには、空が書いてあった。
パステルで丁寧に色付けされた青の中に、細く白い雲が悠然と流れている。だが空は途中で灰色になり、無機質な鉛筆の線となって余白に溶け込むように消えていた。暗くなりかけた現実の空は曇り。スケッチブックに切り取られた四角の青空は浮き上がるように、そこに存在していた。
美空は病室に足を踏み入れると、窓際のベッドへまっすぐ向かった。味気ないクリーム色のカーテンが微風に揺られている。その向こうで人影が身体を起こしているのを見てとって、美空は一瞬足を止めた。心を落ち着けるようスゥと深呼吸をして、彼女はニコと微笑んでみた。まるで予行練習のように。
「ヒロくん。今日も来たよ?」
カーテンの端を掴んで中を覗く。
そこにはベッドに腰掛けて、外をぼんやり眺めているパジャマ姿の少年が一人。最初は窓に立てかけてあるスケッチブックを眺めているのかと思った。しかし違った。彼は外の空をただ眺めていた。じっと。まばたきもせずに。
ヒロくん。もう一度呼びかけると、やっと少年はこちらを向いた。色のなかった瞳にたちまち生気が戻ってきた。美空。少年が口を開いた。
「どうしたの? ぼうっとして」
美空は彼の近くに寄って声を掛ける。少年、秋広は照れたように目を伏せ、答えた。
「ごめんね、鳥が飛んでたから……」
裸足のままの片足をベッドの上に戻し胡坐をかき、美空の方をちらりと見る。以前来たときよりもさらに痩せて見えるのは気のせいだろうか。骨ばった手、こけた頬。彼の明るい瞳が──色素の抜けたような明るい茶色の瞳だけが、以前と変わらずにそこにあった。
美空の視線を感じ、秋広は、ねえ座って。と囁くように椅子を勧めた。彼女は言われる通りにパイプ椅子に腰掛ける。
「今日はちょっと早かったね。掃除当番とか大丈夫なの?」
「うん。友達に代わってもらったの」
「そうか。まっすぐ俺のとこ来てくれたんだ」
美空に向かって、秋広ははにかんだように微笑む。それは彼女の好きな表情の一つだった。
「あ、そうだ。借りてた教科書返すね」
と、彼は思い出したように言うと、脇のテーブルの引き出しから一冊の本を取り出した。
国語の教科書だった。美空は不思議そうにそれを受け取る。
「もういいの? もしもっと勉強するんだったら……」
「やだなあ」
笑う秋広。「勉強なんかのために借りたんじゃないよ」
「あっ」
美空も微笑んだ。「マンガ、描いてくれたのね」
「うん。第8話」
彼は得意そうに続ける。「モグーが、さらわれたイモムシのボブを、いよいよカラスの巣から助け出すまでの話だよ」
「ほんと? じゃあ完結編ね」
喜んだ美空は国語の教科書を開こうとした。すると秋広が慌ててその手を止めた。
「ダメだよ、家でゆっくり見て」
しかたないわね、と美空は目で秋広に問いかけると、自分の右手を握っている彼の手にそっと左手を乗せた。そして俯く。しばらくすると秋広も無言のまま自分の手を重ねてきた。
秋広の手は痩せたけれども、その繊細さは失っていなかった。美空は知っている。彼の手が美麗なイラストや絵画を次々に生みだすことを。
学校で、隣の席になって初めて貸したのも国語の教科書だった。美空は思い出す。ちゃんと読みたいから休み時間終わったら返すよ。と言われ、さほど深く考えずに教科書を貸した。
返してもらった教科書の片隅に、パラパラマンガが描いてあることに気付いたのは、家に帰ってからだった。「モグラのモグーの大冒険」。そうタイトルが書いてあり、ストーリーは土の中に住んでいたモグラのモグーが、悪者カラスのいたずらを止めるため、魔法のサングラスを手にして陽光のもとに飛び出しカラスに立ち向かうといったものだった。
そのマンガは教科書の落書きのレベルを遥かに超えていた。抜群に上手いイラストに、最近流行りのクレイアニメーションさながらのアクションシーンもきちんと描いてあった。感心した美空は何回もそのパラパラマンガを楽しんだ。
翌朝、美空は秋広にマンガの感想を言おうと思った。しかし秋広はそしらぬ振りをしている。彼女が話しかけられずにいると、秋広が今度は生物の教科書を忘れたので、貸してくれと言ってきた。美空は教科書を貸した。渡す時、自分が顔を赤らめていないかどうか気になったが、秋広も彼女と目を合わせないようして受け取った。今思えば、彼もきっと恥ずかしかったのだ。
もちろん、返ってきた生物の教科書には続編が描いてあった。モグーは得意のモグラ殺法を使って、悪者カラスを撃退した。彼の住むモグランドに平和が訪れた。
「モグー、良かったね」
次の日、ようやく美空が言えたのはそれだけだった。授業中の囁き。秋広は、うん、とだけ答えた。気のせいか頬を赤く染めて。
やがて、美空の持つ様々な教科書の四隅がパラパラマンガばかりになったころ、秋広に呼び出された。体育館脇のベンチだ。
現れた美空に、秋広はモグーの話をした。話をしながら彼は変なことを言った。モグーはきっと君のこと好きだよ。言われた美空が不思議そうな顔をすると、彼は慌てて言い直した。そうじゃない、君のことを好きなのは俺なんだ。
美空は驚いたが、彼の明るい茶色の瞳を見つめていて、自分も同じ気持ちだと知った。うなづくと秋広は立ち上がり嬉しそうに飛び回った。まるで子どもみたいに。
「あと三日ぐらいで退院できそうなんだ」
この半年間に思いを馳せていた美空に、秋広が唐突に言った。美空はその内容に驚いて、半ば腰を浮かせて彼の顔を見る。
「退院できるの、ホントに!?」
そう放った声の大きさに自分でも驚く。美空は我に帰り、おずおずとパイプ椅子に座り直した。
秋広の方は穏やかに微笑みながら、うなづいただけだった。本当だよ。本当に本当さ。念を押すように二回も言う。続いて彼は、自宅療養をしながら回復を待つことになったということを丁寧に彼女に説明した。
「退院したら──海に行かない?」
ゆっくりと秋広は言った。
「空がたくさん見えるところに行きたいんだ。美空と一緒に」
美空は混乱しながらも頷いた。
夢のようだった。悪くなる一方に見えた秋広が退院できるなんて。もう一度彼の手に触れながら、美空はこの夢が覚めないことを願った。
願いをこめて目を閉じたとき、思い浮かんだのは祖父の眼鏡のことだった。今日こそは使おう、そう思ってカバンに忍ばせた"おじいちゃんの眼鏡"。嘘を見破ることができるという魔法の眼鏡を、最近の美空は毎日持ち歩いていた。そう、まるでお守りのように。
──おじいちゃんが、ヒロくんを助けてくれたんだ。
懐かしい祖父の顔を思い出しながら、美空はそんなことを思った。自分のことを置いていってしまった祖父が、その罪滅ぼしのために秋広を守ってくれたのではないかと、そう思ったのだ。
子どもっぽい考え方だとは思った。でも、美空は口に出してつぶやいた。おじいちゃんありがとう、と。
不思議そうな顔をする秋広。そんな彼に美空は本心からの微笑みを見せる。もう作り笑いをして秋広を安心させようなんて気を使う必要はないのだ。だから美空は笑った。
そして、おじいちゃんがね……と、彼女は一番大切な人に、祖父のことをゆっくりと話して聞かせたのだった。
海に行く日。車を出してくれたのは秋広の母親だった。美空さん、本当にありがとう。と、運転しながら、彼の母親が見せたのは力無い笑みだけだった。美空と海に行けると、明るくはしゃいでいる秋広とは対照的だ。
看病に疲れているだけなのだろう。美空は悪いことは考えないようにした。カバンの中には祖父の眼鏡がある。これがあれば大丈夫だ、そう思いながら、秋広と会話を楽しむ。彼の様子には変わったところはない。
海のすぐそばの駐車場に車を停めると、秋広の母親は車に残ると言った。二人で少し歩いてらっしゃい、と微笑んで送り出してくれる。気を使ってくれたのだと思い、美空はなんだか気恥ずかしくなった。
秋広はスケッチブックと画材を手に、美空は作ってきたお弁当と小さなカバンを手にして、二人は砂浜へと歩き出した。アスファルトの上には風で飛ばされた白い砂が散乱し、踏み出した靴の底がしゃりしゃりと音を立てた。
天気は、からりと良く晴れていたが、夏が終わりそろそろ冬になろうかという頃だったため、今ではほとんど人の姿はない。海水浴客で賑わっていた光景が嘘のように、砂浜は閑散としていた。歩いているのは犬の散歩をする老夫婦や、ボールを投げ合って遊んでいる子どもたちぐらいだ。
「静かだね」
でも、良かった、と付け足しながら秋広が言う。彼は振り返ると、突然、パッと美空の手からお弁当の包みを取り上げて小走りに走り出した。
「やだ、返してよ、ヒロくん」
「持ってあげてるだけだよ、早く、こっちこっち」
嬉しそうに海の方へと走って行く秋広。美空は履いていたサンダルを手に、冷たい砂の感触を足で感じながら彼のあとを追う。
適当な場所まで来ると、二人は仲良く並んで腰を下ろした。青い海と空がよく見える場所。
「ハァー、やっと来たぞ。海」
秋広は持ってきたスケッチブックを脇に置くと、腕を後ろに着いて空を見上げて言う。「入院してからずっと、美空と海に行きたいなあって思ってたんだ」
「そうなんだ。じゃあこれで一回目ね。また来よう」
言いながら、美空はそっと秋広の手を握った。彼は明るい茶色の瞳を美空に向け、うん、と元気にうなづいた。
「あ、そういえば、ヒロくん。お弁当ね、食べれないものがあったら残していいからね」
「そんなの平気だよ。……だって、鳥の唐揚げ入れてくれたんでしょ? おかずが全部、鳥の唐揚げだっていいぐらいだし」
「やだ、そんなのお弁当じゃないよ」
声を上げて美空は笑う。彼女が笑ったのを見て、秋広は嬉しそうに身を乗り出しながら続けた。
「毎朝、薬ばっかり飲んでてさあ、なんか喉つまりそうなんだよね」
「へえ、じゃあ薬に鳥の唐揚げの味が付いてたら、オッケイじゃない?」
「なんだよそれ。そんなのあり得ないよ!」
彼も声を上げて楽しそうに笑った。
「あっ、そうだ」
そこで何か思いついたように秋広は、スケッチブックを拾い上げた。「ねえねえ、美空。今度、モグーが海に行く話を描こうかと思うんだ。どうかな」
「モグーって泳げるの?」
「泳げるわけないよ。だってモグラだぜ?」
波の音を聞きながら、二人は同時に笑った。
「だから、ああいうのに乗るんだ」
秋広が指差したのは、沖の方に浮くヨットの小さな影だった。色とりどりの帆が遠く揺らめいている。
「ああ、くそ。良く見えない」
さっそくスケッチブックを開いた秋広だったが、悔しそうに舌打ちする。どうしたの、と美空が訪ねると秋広は言った。
「実は俺、あんまり目が良くないんだ。面倒だから眼鏡かけてないけど」
眼鏡、の言葉に美空は思わずドキリとした。眼鏡なら今持っている。祖父の眼鏡だ。もう使わないであろうと思った眼鏡。お守り代わりの大切な祖父の形見。
「眼鏡なら持ってるよ」
何か運命的なものを感じ、美空はカバンから、あの眼鏡ケースを取り出した。秋広は、きょとんとしてそれを見る。
「え、何で? 美空は目、悪くないだろ?」
「うん、そうなんだけど。これ、わたしのおじいちゃんの眼鏡なんだ」
眼鏡ケースを開けて、眼鏡を取り出しながら美空は言う。「おじいちゃんが死んじゃったときに、わたしがもらったの。度数とかぜんぜん合わないかもしれないけど。良かったら使ってみて」
祖父の眼鏡は、黒くて細いフレームを持つ何の変哲もない眼鏡だった。それを秋広に渡しながら美空は思う。おじいちゃんがヒロくんを守ってくれるなら、眼鏡はヒロくんが持っている方がいい。
眼鏡を受け取った秋広は、眼鏡を掛けようとはせずに、そのレンズを覗くようにして周囲のものを見回してみた。
「なんか、すごく高そうな眼鏡だね。美空のお爺さんみたいに昔の人が持ってたやつだから、ちゃんとした造りになってるんだろうな」
ふと、秋広は顔を上げ、美空の顔を見る。
「ねえ美空。ちょっとこれ掛けてみない?」
「えっ?」
美空は胸を突かれたような思いがした。聞き返さずにはおれない。「ど、どうして?」
「そんな大切な眼鏡だったら、俺が掛けるより美空が掛けた方がいいよ」
「だってわたし目、悪くないよ?」
「いいじゃん、美空が眼鏡かけたところ、ちょっと見てみたいなと思って」
秋広は無邪気に眼鏡を彼女に返した。
おじいちゃん、一体どういうつもりなの。美空は心の動揺を隠そうとしながら、眼鏡を受け取った。ニコニコしながら秋広が見ている。
もう駄目だ。彼女は観念して目をつむった。そして弦を持ち、フレームを鼻にかけた。
「あ、似合う似合う」
美空は目を開けた。……何も起こらなかった。拍子抜けするほど、それは普通の眼鏡だった。
彼女がまごまごしていると、秋広は手にしたスケッチブックに鉛筆を走らせ始めた。身体の向きを美空の方に向け、彼女と白い画用紙を代わる代わる見る。
「動かないで、美空。そのまま」
サラサラと鉛筆を走らせる秋広。その目つきは真剣そのものだ。美空は瞬きしながら、彼の様子を見守る。その姿をはっきりと見ることが出来て、彼女は遅れて気が付いた。この眼鏡には全く度数が入っていない。
「ねえ、ヒロくん」
「今度のモグーはさ……」
二人は同時に話を切り出そうとして、口をつぐんだ。ニコと秋広が微笑み、お先にどうぞ、と美空に先を促す。
美空は深く息を吸い込み、心を落ち着かせるようしてから、ゆっくりと言った。
「ヒロくん、もう病気は平気なの?」
秋広の明るい茶色の瞳が、瞬いた。
「うん。もう大丈夫だよ。……どうしたの、急に?」
答えが返ってくるまで時間がかかった。
彼の顔を見ていて、美空は意識が遠くなるような気がした。手が震え、足がガクガクした。喉に何か硬いものが詰まるような感覚。
分かっている。溢れるような感情が一気に喉の奥から押し寄せてきたのだ。でも、悟られてはいけない。絶対に。彼女はそれを無理やり飲み込んだ。
「これからもずっと大丈夫?」
重ねて聞くと、秋広は手を止め無言で美空を見た。一瞬だけ表情から笑顔が消える。だがすぐに彼は頬をゆるめ、鉛筆を置くと、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ直した。真摯な瞳だった。
「うん。本当に大丈夫だよ。何があっても、俺はずっと美空のそばに居る」
彼は言った。ゆっくりと美空に言い聞かせるように。
「ヒロくん……!」
美空の視界が曇る。もう耐えられなかった。彼女は眼鏡を外し、スケッチブックを持ったままの秋広の身体をいきなりギュッと抱きしめた。堪えようと思ったが彼女には無理だった。涙が後から後からこぼれ出し、息が詰まって嗚咽を漏らしてしまう。
「美空」
驚いたように美空を見ていた秋広も、やがて自分の腕をそっと抜くと、声を上げて泣き出してしまった彼女の背中を優しく撫でた。
十分ほどそうしていたのだろうか。秋広は美空の感情が治まるまで待ってから、静かに落ち着いた声で話しかけた。
「美空、聞いてくれるか?」
涙で真っ赤になった目を向けて美空がうなづくと、彼は身体をゆっくり離して彼女の両手を握りながら微笑んだ。
「モグーの最終話なんだけど、彼は地上でステキなハツカネズミのジェーンに出会うんだ。やがて二人は恋に落ちて、一緒に暮らし始める。……でもね、モグーは以前みたいにモグラ殺法を使えなくなっていることに気付く。それだけじゃない。自分の身体がどんどん弱くなっていくことにもね」
美空は片時も視線を外さずに、彼の目を見ている。彼女の視線を受けて、秋広は照れたように目をそらした。
「実は、モグーの身体には日の光は毒だったんだ。魔法のサングラスだけでは、毒をしのぐことは出来なかったんだ。モグーは……彼は、それに気付いて自分の運命を受け入れる」
秋広は握った手に力を込める。
「でも、モグーは後悔なんてしないよ。モグランドに帰れなくたって。後悔なんてしない。絶対に。後悔なんてするもんか──だって、君に会えたから」
ぐらり。
急に秋広の身体が支えを失って倒れこんできた。悲鳴を上げる美空。秋広の身体を受け止め、砂浜に横たえると、額に玉のような汗が浮かんでいるのに気付いた。何で、どうして。辛いのに我慢してたの、と呼びかけても返事はない。
視界の端で、彼の母親が走ってくるのが見えた。彼の脇に座り込んだ美空は、呆然と、ただ彼の手を握ることしか出来なかった。
《続》